第二章 旅立ち
週が明け、変わらない研究室生活が輪廻のように繰り返される。彼女は何事もなかった様子で、いつも通りの時間に研究室へやってきた。林五郎が挨拶をした時も、一寸も変わらぬトーンであり、なんだか拍子抜けしてしまった。午前中にやってくるのは、林五郎と優、そして理央くらいのものである。
今朝、研究室に来る前に多崎研の同級生に会ってきた。聞くところによると、あの林檎はやはりトルコでしか手に入らないようだ。多崎研究室の中では、こないだ衣浦氏から多崎教授宛に直接届いたということになっていた。実際は、衣浦氏から衣浦農園(涼川さんの実家?)へ送られ、多崎教授の下へ届いている。いずれにせよ、彼女にあの林檎を渡すためにはトルコまで行く必要があり、それは不可能なことであった。
聞くところによると衣浦氏は、多崎研究室を卒業後、すぐにトルコの地に渡った伝説の人であり、10年以上経った今でも語り継がれていた。多崎教授とは喧嘩が絶えなかったらしいが、その知識と洞察力は素晴らしいものがあり、表面上から見るよりもはるかに多崎教授との絆は深かったらしい。今年で40歳。引き続きトルコの地で1人気ままに暮らしているという。
恐る恐る、富山にある衣浦農園のことを聞いてみたが、何それ? と言われて会話は全く弾まなかった。衣浦農園とは、アマス改15を生み出すための実験農園だったことは、衣浦氏の論文を読むことで判明したが、いつまでこの農園が使われていたのかは分からずにいた。
あの農園が本当に彼女の実家なのかも判明していない。現在、空き地になっている理由もよくわかっていない。ここら辺は、本人に聞くしかなさそうだ。決して、聞くことは出来ないだろうけど。
多崎研の同級生は、衣浦氏の飛び切りの噂話について教えてやると言うが、林五郎は、その話をきっかけに、今までの断片的な情報が、真実という一本の線に繋がってしまうことに強く怯えていた。興味がないと嘘をつき、足早にその場から立ち去った。それでも、真実を知りたい想いもある。林五郎の心は大きく揺れ動いていた。
彼の現段階の仮説はこうだ。まず、涼川家は衣浦氏に農園を貸していた。そうでもしないとうまく説明がつかない。衣浦氏と彼女は昔から面識があったと考えるが自然だ。
林檎好きの彼女は、憧れの衣浦氏を追うようにこの大学に入り、もちろん在席していた多崎研に入りたかった。しかし、成績上位者10名までしか入れない多崎研からは弾かれてしまった(涼川さんはそれほど成績優秀でなかったと聞いたことがある)。それでも、多崎教授との関係は継続しており、定期的に訪問していたのだろう。
そして、ついにトルコに渡ってまで続けていた研究が実を結び、奇跡の林檎は完成した。1つ譲って貰えて心を躍らせていたが、あの超絶バカのアフロ野郎に、プロレスラーのモノマネとか言って、無残にも潰されてしまった。もう、日本では手に入らない。彼女は、銘柄ごとに購入するほどの林檎マニアだ。どうしても奇跡の林檎を口にしたかっただろう。これには、泣きたくもなる。
林五郎は、椅子に深く座り直し、思わずうーんと唸った。この仮説の場合は、「泣く」ではなく、「怒る」ではないだろうか。女の子が泣くとしたら、何だろう? やはり恋なのだろうか。林五郎は考えたくない、もう一つの推論を頭の中で組み立てていた。
しかし、衣浦氏がトルコに渡る直前、つまり、彼が大学に在籍していた時は、計算してみると涼川さんはまだ中学3年生なのである。15歳の女の子が、ちょうど一回り違う27歳の男に、恋をするのだろうか。それに、涼川さんが高校生になった時から、衣浦氏はずっとトルコに住んでいる。そこに彼女の一方的な片思いは成立しても、それ以上のことはないように思える。そう考えると、林五郎は少しほっとしてきた。過去に何があったかは知らないが、彼を特段ライバル視する必要はないかもしれない。
しばらくすると、理央が研究室にやってきた。林五郎は、ここまでの経緯と仮説を説明するため、彼女を研究室の外に呼び出した。最初は衣浦氏と彼女との関係を危惧したものの、取り立てて大きな問題ではなさそうなことに、一定の満足感を抱いていた。その林五郎の話を聞きながら、理央の表情は著しく険しくなり、ずっと黙ったままであった。
「何黙っているんだよ」
「ていうか、林五郎さん、マジキモイわ」
「はあ? なんでそうなんだよ」
「何しているんですか? 優先輩には内緒でコソコソと水面下で、わざわざ富山や京都まで行った? なんのために?」
「なんでって、涼川さんのためだよ。だって、涙を流していたじゃないか。喜んで欲しかったんだよ。あの林檎を渡してあげたかったんだよ」
「本当にそう思っているなら、そんな影でコソコソ動いていないで、直接、本人に聞けばよかったじゃないですか。あーやだやだ。ストーカーとやってること一緒だよ。もう、最低!」
理央は怒りながら、研究室へと戻ってしまった。
夕方になり、学部生は次々に帰っていく。いつも通り、夕方以降は、林五郎と涼川優だけであり、広い部屋に二人きりとなった。この状況が付き合っていると噂される所以なのだが、彼らに殆ど会話はなかった。
林五郎は、今朝、理央に言われた言葉に深く落ち込んでいた。確かに途中から、彼女を助けたいという想いよりも、過去を知りたいという衝動で行動していた自覚があったのだ。そのため、本人から聞かなければいけないことまで知ってしまったという実感は確かに林五郎の中に存在しており、その想いが粘り気を持って心の中で疼いていた。
理央の言う通りだ。
林五郎は、突然、立ち上がった。林檎の透き影を追った理由は、林檎を食べるため? 彼女の過去を知るため? 違うだろう。一番の理由は、彼女にあの林檎をプレゼントしたかった。つまり、彼女の喜んで欲しかったからだ。そして、更に仲良くなって、いずれは……。
林五郎は、生まれてこの方、好きな女の子に告白などしたことはなかった。したくても、顔が真っ赤になってしまい、出来なかったのだ。チャレンジすらしたことがなかった。そこで彼は、3段階に分けて、彼女に愛の告白をすることを今年最大の目標と定めていた。最初の2回でトレーニングを行い、来るべき最終章に備えるという、なんとも理系的な発想であった。ただ、未だその第1ステップにも進めていなかった。
林五郎は今日、第1ステップである自分の実家は青森県の林檎農園だということを告白することを決意した。二人とも林檎農園の子供だったことになる。これは、大いに歩み寄れるチャンスであるように思えた。林五郎は震える足で彼女に近づき、そして不自然さを漲らせ、大きな声をあげた。
「あの、涼川さん!」
驚いた優はパソコンから目を離し、林五郎の方を見上げた。声には発しないが、なに? と言っているのが分かる。
「一つどうしてもお伝えしたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか!!」
語尾が上ずる。顔は高揚する。彼女は少し間を置いてから、いいよと言った。見つめ合う格好になる。顔は更に高揚する。
あ、あの、と言ったきり、彼は完全にフリーズした。林五郎は、どうしてこうなった? と混乱していた。もっと、自然な会話の中で伝えればいいじゃないか。突然、林檎農園の息子ですと告白して、だから? と言われたら、いや別に。としか言えないじゃないか。
とはいえ、自然の中で告白したら、トレーニングにならないような気もする。これはこれで、正解か。いや、そもそも三段階で告白するとか、意味が分からないだろ。でも、初詣で神様に誓ってきてしまった。ああ、どうしよう。
オロオロしてその場に立ち尽くしている林五郎を見上げて、彼女はくすりと笑った。
「私も一つ話があるんだけど、先にいい?」
「え? なんですか?」
「一緒に、トルコに行かない?」
林五郎は、空いた口が塞がらなかった。
○
「え?」
林五郎は、目を点にして彼女の眼を見つめた。
「もう一度、言ってもらえませんか?」
「どうして? もう一度言わないとダメ?」
二人は向かい合った状態で、長い沈黙が訪れた。
「トルコって、あのトルコですよね?」
そう、あのトルコよと、彼女は小さく頷いた。
「いつ頃、行くんですか? 夏休み終わっちゃいましたよ?」
優は黙ったままだ。
「まさか、来週からとか、そんなことを言うんじゃないでしょうね」
「今日」
「え?」
林五郎は、再び目が点になる。
「私は今日の夜の便で、トルコに向かうの。一週間ほどいる予定よ。林五郎くんには、明後日までには出発してほしいな」
そういうと、彼女はメモらしき紙を渡してきた。そこには、待ち合わせ場所と日時、連絡先が書いてある。
「研究室はなんて言って休めばいいんですか? そんなこと、急に出来るわけがないじゃないですか!」
まあ、そりゃそうよね。彼女は林五郎の返事にそう答え、飛行機が出ちゃうからといい。帰って行った。林五郎は、1人残された研究室で、茫然としていた。
○
林五郎は夕飯を買いに研究室の外へ出た。秋が近づいており、この時間帯にもなると、少し肌寒くも感じる。林五郎は歩きながら、どうすればいいか考えていた。しかし、考えても答えなど出るはずがない。
本来は、喜ぶべきことなのかもしれない。
例えばだ、バイト先の友人に、好きな女の子から海外旅行に誘われたと話をしたら、どういう反応が返ってくるだろうか。さぞかし驚かれるだろう、とは思う。付き合う前に旅行に二人で行くこと自体、常識的にはあまり普通とは言えない、それがましてや海外である。
しかし、と友人は言うだろう。「チャンスだ! 海外の地で想いを伝えるんだ! というか既に付き合っているようなものだ、おめでとう!」と。
ただ、林五郎には、心のときめきもなければ、輝く未来への期待もなかった。あるのは、混沌とした現実である。
優さんが、布浦氏に会いに行くのは、ほぼ間違いがない。一足先にトルコに行って布浦氏に会い、遅れて空港に着いた時に、彼氏ですなんて、紹介されるのだろうか。どうして後輩を、そんな旅行に誘うのだろうか。本当に恋をしているのか、それすらよく分からなくなってくる。
林五郎は、歩きながら優から渡されたメモに再び目をやった。そこには、成田空港発トルコ行の便について書かれていた。待ち合わせ場所は、トルコにあるアタトュルク空港のマクドナルドと書かれていた。どうして、マクドナルドがあると知っているのか。普通あるのか、違うだろう。きっと、何度かトルコに行ったことがあるんじゃないか。林五郎は大きくため息をついた。
林五郎は、再度メモに目をやる。風で飛ばされないように、しっかりとつかみ直し、その字に目をやる。可愛らしい、彼女の筆跡だ。丁寧に書かれている。殴り書きで、急いで書いた字ではない。
プラスに解釈すれば、好意を持って誘ってくれた可能性もゼロではないのだろうか。衣浦氏とどういう関係があるのは知らない。それはどこまで行っても、推測でしかない。であれば、この目の前にある事実を信じて、トルコに行ってみるのも手なのだろうか。
突如、大きなクラクションが鳴り響く。林五郎は驚き慌てふためき、足を止めた。目の前を、車が通過し、そして急停車する。
「大馬鹿野郎!! 殺されたいのか!!!」
林五郎は前を見ると、信号が赤であることに気付いた。捨て台詞を吐いて、その車は消えていった。冷や汗が流れ落ち、心拍数が急激に上がる。彼は何度か深呼吸をして、呼吸を整えた。すると、緊張の糸が切れてしまった感覚がやってきた。
やはり、突然トルコに行くなんて、馬鹿げていないか? そうだよ。それを実行したら大馬鹿野郎だ。彼は振り返り、来た道を戻り始めた。もう、家に帰ろう。考えるのは、やめよう。しかし……。林五郎は、ゴールのない迷宮に入り込んでいた。
○
「どこ行ってたんですか」
研究室に戻ると、そこには理央の姿があった。林五郎は大きなため息をつき、自分の椅子に深く座った。
「なんですか。また優先輩の話ですか」
理央の口調は、どこか棘があり、イライラを隠せずにいた。
「なあ。今日は俺の話を聞いてくれよ。理央さ。したことの後悔よりも、しなかったことの後悔の方が大きいって意味の格言、多いじゃないか。例えば、「やったことは、例え失敗しても、20年後には、笑い話に出来る。しかし、やらなかったことは、20年後には、後悔するだけだ」確か、そんな作家の格言があったはずだ」
「で? 林五郎さんは何を言いたいんですか?」
「理央は、どっちが後悔すると思う?」
「まあ、正直言いまして、私はなんでもすればいいってもんじゃないと思っていますけどね。あの時、こんなことをしなければよかったっていうこと、割に多いですよ。おごってもらえたとはいえ、あんな時間にオムライスを食べたことは後悔だし、調子に乗ってイチゴのパフェなんて食べちゃったから、今月のダイエット目標は滅茶苦茶でしたよ。ああ、後悔!」
「そういう小さな話をしているんじゃなくてさ、もっと大きな、今後の人生にも関わってくることだよ。ひょっとしたら、人生で一番傷つくかもしれない。一方で、人生最高の日になるかもしれない。その決断をする際は、人は傷つくのを恐れて、やることから逃避してしまいたくなる。でも、自ら可能性をゼロにしてしまう選択をしたら、一生後悔することになってしまうかもしれないんだ」
「私にとっては、ダイエットは小さい話じゃないんですけど。食べた分、そのまま体重に加算されましたよ。たくさん食べちゃうと、食べるのが癖になっちゃうんですよ。結局、今月は完全にリバウンド。林五郎さんも、最近お腹出てきてない? これからの季節、たくさん着込んで隠せちゃうから、ますます増加の一途を辿っちゃうかもよ」
「だから、そういうことじゃなくてさあ」
「じゃあ、どういうことなのよ!」
「なんでそんなにイライラしているんだよ!」
理央は、眉間にしわを寄せて、横を向いて見せた。
「私は、行かないほうがいいと思いますけどね」
林五郎は、心に大きなやりが突き刺さる想いがした。
「なんだと、まさか、聞いてたのか!」
聞いてたんじゃなくて、聞こえちゃったのよと、理央は言い捨てた。あの現場を見られていたと思うと、林五郎は恥ずかし過ぎて死にたくなった。
「私は週末にさ、ちゃんと学校に来るか心配だったから、優先輩に電話したんだよ。そしたら、こないだの出来事のこと、ちゃんと教えてくれたよ。その時に衣浦さんの話も聞いた。でも、それをここで説明するのは野暮だから、そんなことはしないわ。まさか、直接聞かずに、自力で突きとめてくるほど粘着だとは思わなかったけどね」
お前は、林檎を巡る冒険だとか言って、心ときめかせていたじゃないか。林五郎は釈然としなかった。
「それは置いといて、発言をさせてもらうね。林五郎さんが今週トルコに行ったら、この研究室はどうなるの? 明日から金曜日まで、3年生の研究室選びのために、研究室を開放するんだよ? 優先輩は、家庭の事情とかいうよくわかんない理由で、教授に1週間の休暇届を出したんだよ。それって、超自己中心的じゃない? 私はこの研究室で優先輩と二人しか女子がいないから、とても仲良くしている。マイペースなところだって、嫌いじゃない。あそこまで林檎を愛していることだって、簡単には真似出来ないことだと思うし、地道に確実に研究と向き合っているところは尊敬している。でもさ、いくらなんでも、マイペースの度が過ぎてない? 人にかかる迷惑は、考えないわけ?」
「その前に、衣浦氏とのつながりを教えてくれ。ていうか、ひょっとして以前から知ってんじゃないのか? だったらオムライス代返せよ!」
理央は机を叩き、そして林五郎を睨み付けた。
「私は! 私は今その話をしているんじゃなくて、研究室の話をしているんだよ! 林五郎さんは、この研究室をよくしたいんでしょ? 違うの?」
林五郎は、何も声に出すことが出来なかった。理央は、今にも泣きだしそうだった。
「悪かった。でもな、今回の話は、涼川さんのことだけでなく、自分にけじめをつける部分もあるんだよ」
「はあ、何それ? よくわかんないよ。じゃあ、もう勝手にすればいいじゃん!」
理央はそう叫び、手荒く鞄をつかみ、研究室から出ていった。廊下では、彼女のハイヒールの音が強く響き渡っていた。
○
林五郎はその日、家にも帰らず準備を行った。完成間近だったポスターを完成させ、アンケート用紙を修正し、実験の下準備を行った。研究室紹介を行うわけだから、枯れ木も山の賑わいである、やる気のない学部生にも参加してもらう必要があった。林五郎は、彼らにメールを送り、日が明けてから携帯電話に電話をし、留守番電話に必ず学校に来るようにメッセージを入れた。彼は作業をしながら、いろんなことを考えた。彼女のこと。そして、自分のことを。
「帰らなかったの?」
理央は、普段よりも2時間早く研究室に来た。大学の門が開く、8時ちょうどにやってきた。きっと、作りかけのポスターを完成させようと思ったのだろう。林五郎は、明け方にかけて行った作業内容を説明した後、今日から4日間の段取りが書き込まれたレジュメを渡した。そのスケジュールには、最終日まで林五郎が研究室に張り付く予定が書かれていた。
「そっか。トルコ、行くの辞めたんですね」
理央のその言葉には反応することはなく、林五郎は2時間だけ仮眠すると、研究室の奥にある布団の中に潜り込んだ。
研究室公開は、滞りなく進められていった。ときどき、様子を見に教授が研究室にやってくることはあったが、他の学部生は姿を見せず、結局、林五郎と理央の二人でほとんどの対応をすることになった。理央は、積極的に生徒たちに話し掛けて、研究の魅力を伝えていた。最終日の夕方、ポスターを片付けようとしていると、研究室メンバーがやってきた。彼らは入るなり、林五郎はどこにいるかと聞いてきた。理央は研究室公開に参加しなかったことを非難したが、彼らは聞く耳を持たず、実験室にいる林五郎のもとへと向かった。
「林五郎さん。昨日の留守番電話聞きましたよ。何、勝手に俺たちの名前で学会に申し込みしているんすか。それ、おかしくないっすか?」
林五郎は振り返りもせず、実験室の片付けをしている。
「おい、こっち向けよ!」
アフロ野郎は大柄である。林五郎の肩を引っ張り無理やり対面させた。林五郎は、冷たい目で、アフロ野郎の眼を真っ直ぐに見た。
「何の文句があるんだ?」
「ありますよ。俺たち、ちゃんと教授に確認しに行ったじゃないですか。学部生たちは、別に学会発表なんてしなくていいって、言ってましたよ? 暑気払いの時の話なんて、勝手に理央とあんたが盛り上がって決めただけじゃねーか。何、この研究室の長ぶってるんですか?俺たちは、別にあんたに指導されているわけじゃない。俺たちのトップは教授ですよ? その教授が出さなくていいって言ってるんだ。研究室だって、週1回参加してりゃいいって、そう言ってたじゃないか。別に真面目にやるのは結構なことだが、俺たちを巻き込むんじゃねーよ」
「何か、理由があるのか」
「あ?」
アフロ野郎は、どすの利いた声で、林五郎に対峙する。
「そこまで学会発表をさぼりたい理由があるのかって聞いているんだよ。どうせ、卒業間近の学会は、卒業旅行だとか言って、絶対に参加しないだろ。だとすれば、今回の11月で参加する以外、チャンスはないじゃないか。腐っても理系だろ。俺だって、講義はそれほど楽しくはなかったよ。受け身だからな。でも、研究は違う。過去の研究者に敬意を示し、それまでの歴史を学ぶ。そして、今自分に何が出来るのか、考えるんだ。学問に真剣に向き合う時間があってもいいんじゃないのか。お前たちは、来年の4月から社会人なんだぞ。そんな状態で、どうやって社会でやっていくつもりだ!」
「なんなんだよ、こいつ。超余計なお世話だよ!」
アフロ野郎の影に隠れていた、言葉数少ない1人が、林五郎に呼びかけた。
「林五郎さんだって知ってますよね? 俺たちがバンド組んでるの。命かけてやってるんですよ。林五郎さんが研究に対してやっていることと同じこと、やってるんすよ。学会発表の日、俺たちのワンマンライブの日ですよ。どう考えたって、無理ですって。俺たちの人生に研究とか、もう、いらないんですよ。だから迷惑かけないように、楽な研究室入ったんじゃないですか。林五郎さんだって、もっとちゃんと研究したいなら、多崎研でも入ればよかったじゃないですか」
「俺はこの研究がしたかったから、この大学に入ったんだよ」
「まあ、じゃあそれは結構なことですけど、自分の考えを俺たちに押し付けるのはやめてくださいよ」
「だったら、この研究室来るのをやめてしまえ。そんなに遊びたいのならば、ここに二度とくるな!」
「ちょっと待ってくださいよ。俺たちは遊びで音楽やっているわけじゃない!」
「もういいよ。こいつに何言っても通じねえよ。大体、なんでこいつに辞めろとか言われないといけないんだよ」
アフロ野郎たちは、ぶつぶつ文句を言いながら、研究室を出ていった。一部始終を見ていた理央は、黙って実験室の片付けを手伝い始めた。
「いいよ、ここは。俺が片付けるからさ」
「やだ、手伝う」
理央はそう言うと、てきぱきと片付けを始めた。一通り作業が終わり、二人は教授に完了の旨を伝えて、いつもより早くに研究室を後にした。
「ほら、あいつらには全く林五郎さんの言葉は通じてないけど、ここに、ちゃんと言葉が通じたやつもいるんだからさ」
「そういえば、理央も最初はさぼりまくっていたもんな」
「そうそう、唯一の弟子だよ。私は感謝しているよ。だからさ、まあいいじゃんよ。今日はさ、ぱーっと打ち上げしましょ!来てくれた子たち、結構興味持ってくれてたし、嬉しかったなあ!」
「あ、理央さ、本当に申し訳ないんだけど、今日は無理なんだよ」
「え? そうなんですか? 何か用があるとか?」
「実は今から、実家に帰らないと行けなくて」
「実家って言うと、青森に? 今から帰るんですか?」
林五郎は、歩きながら腕時計を見る。
「東京駅からの夜行バスに乗れば明日の朝には着けるんだ。何度か話しているけど、愛猫のミーチャがいるって言ったじゃん? 今週末、予定日なんだ。子供、生まれそうなんだ」
「え? そんな理由で実家帰るの?」
理央は、口を押えながら、今にも吹き出しそうだった。
「俺のミーチャ溺愛ぶりを忘れたのか! 生まれた瞬間の写真を送ってあげるからさ!」
「わかりましたよ。じゃあ。打ち上げは来週にしましょ」
「そうだな。悪いね」
そういうと、理央は手を振って、地下鉄の駅に消えていった。
俺は、やらない後悔より、やる後悔を選ぶ。
彼はそう一言つぶやき、自転車に乗り込み、大急ぎで1人暮らしの家を目指した。
○
成田空港に着くと、既に出発の60分前であった。なんとか間に合ったことに、林五郎は安堵の表情を浮かべた。荷物はほとんどない。優との約束の日は2日間遅れたが、それでも一日半日くらいはトルコに滞在出来そうだった。飛行機に乗っている時間と滞在時間は殆ど同じくらいだが、文句を言っても始まらない。林五郎はあの一睡もしないで研究室に泊まった夜、優にもメールを送っていた。2日間遅れるが、それでもいいかという内容と、林五郎が乗る予定の便の到着時間を記載した。待ち合わせ場所は、変わらずアタトュルク空港のマクドナルドだ。
結局、この3日間待っても優からは返事は来なかった。優は1週間トルコにいる予定だと書いていたので、すれ違いということはないだろう。会えるかどうかは一か八かだが、もう既に空港チケットも予約している。後戻りは出来ない。
林五郎は出発手続きを済ませて、トルコ航空T068便の到着ゲートに向かった。すると、館内放送が流れた。いつもの常套句である枕詞の後に、信じられない台詞がくっついてきた。T068便は、エンジントラブルのため、出発時間が遅れるという連絡であった。そして、その目途は立たないという、絶望的な内容であった。
林五郎は、近くの椅子に大きな音を立てながら、深く座った。そして、天井を見上げながら、大きくため息をついた。携帯の電源を入れ直し、メールを確認する。しかし、相変わらず優からの返信はない。実家からは、ミーチャの子供が無事生まれた感激のメールと可愛らしい八子の写真が送られて来ていた。
結局、トルコ空港T068便が出発したのは、定刻より6時間後となった。現地の到着予定時間は、午前5時30分だった。遅延のせいでトルコの滞在時間は更に短くなってしまった。
しかし、林五郎は心に決めていた目的があった。たとえ彼女に会えなくても、無駄にはならないはずだ。寝不足にも関わらず、フライト中殆ど眠ることが出来なかった。13時間のフライトを終え、彼はトルコの地に足を踏み入れた。