第一章 出生
新聞紙から林檎が顔を出した。
ひんやりとした、手に収まる小粒な林檎だ。しばらく林檎と見つめていると、心臓がとくんと反応し、顔は少し高揚する。林檎は優しい赤色で彩られ、ほのかに甘い香りが漂う。古賀林五郎は再びその林檎を見つめ、少しの間、立ち尽くしていた。
しばらくすると、林五郎は慌ててその林檎を包み直し、紙袋に入れて、冷蔵庫の野菜室を閉じた。その後も大学の研究室メンバー共用である冷蔵庫を物色したが、めぼしいものは何一つない。先月の暑気払いの際に、あらかた食料はなくなってしまったようだ。仕方がないので、林五郎は自分の机に戻り、鞄から財布を取り出し、研究室の外へと出た。
廊下に出ると、前方から男たちが歩いてきた。真夜中、街を闊歩する若者のように騒がしい。そして、彼らは見慣れた顔であった。研究室をさぼってばかりいる学部生たちだ。林五郎は高揚し、頬が赤くなる。彼らは、その表情を見て、急激に大人しくなる。
「夏休みの間、何をしていたんだ」
「サーセン」
「すみません、だろ!」
そのうち1人が、舌打ちをしたのが聞こえた。
「学会発表にエントリーするための要旨、昨日までに出せって言ったよな。たったの250文字だぞ。どうして約束を守らないんだよ」
彼らは黙ったまま、それぞれ眉をしかめた顔をしている。しかし、返事はない。
「なんだよ? 何が不満なんだよ」
「林五郎さんは大学院生だから、データも豊富にあっていいでしょうけど、俺たち、何も研究成果ないっすよ? 何を発表するんですか?」
「暑気払いの時に、全員で学会にエントリーしようって決まったじゃないか。発表は11月なんだから、あと2か月もあるんだぞ」
彼らは不満そうな表情を浮かべ、研究室の中へ入っていった。林五郎からは大きなため息が漏れる。彼らと別れた後、歩いて10分ほどかかる生協まで足を運んだ。生協は研究室から遠い距離であるが、午後からは、実験演習B――三年生の必修科目だ――のアシスタント業務をするため、なんとしてもお腹の中に何かを入れておきたかった。空腹のイライラと相まって、林五郎の足取りは荒い。
「まただよ……」
目の前には、閑散としたおにぎりコーナーが待ち受けていた。梅干しのおにぎりが二つだけあった。林五郎は躊躇した。あまり梅干しは好きではないのだ。しかし、と考えているうちに、それを若い女学生がハゲタカのように、颯爽と奪い去っていった。
がらんどうとなったおにぎりコーナーに立ち竦む。そして、ふつふつと怒りが込み上げてきた。どうして、いつもこうなんだろう。今日から後期が始まったのだから、おにぎりが大量消費されることはわかっていたはずだ。生協で買い物するのはほとんど学生なんだから、入荷する数量なんて大体予想がつくだろうが。どうして、ちゃんと仕事をしないんだ。学部生のあいつらも、どうして研究しないんだ。俺はそんなにおかしなことを言っているのか。
林五郎は、仕方がないので、菓子パンの陳列してあるコーナーに足を運んだ。すると、カレーパン、クリームパン、かにぱん、チョコレートパンと、実に豊富な品揃えであった。かにぱんは、置ききれずに、段ボールに入ったまま溢れかえっていた。なんだこれは。我が大学は、パン派よりも米派が席巻しているのか。それとも、米派よりもパン派が席巻していて、その襲撃に備えて在庫を積み増しているのか。
その段ボールに目をやると、発注ミス・返品のメモ書きを見つけた。
適当過ぎるんだよ、ここは。
彼はそのまま素通りして学食に行こうと考えたが、彼らの姿が脳裏をかすめた。林五郎は2回目のため息をつき、カレーパンとコロッケパンを掴み取り、眉間にしわを寄せながらレジへと向かった。その足で研究室に戻ると、ドアが開いており、喧噪から離れた静かな空間が一変していた。
「おい、何をしているんだ!」
林五郎がそう叫ぶと、先ほどの学部生のリーダー(鳥の巣のような髪型であり、林五郎は彼にアフロ野郎というあだ名をつけていた、もちろん口に出したことはない)が、林五郎の方に向き返った。彼は、先ほどの林檎を手に持っていた。
「あ、これ林五郎さんのものでした?」
「俺は何をしているんだと聞いているんだ!」
「別に、林五郎さんにイラついて、林檎を潰そうなんてことしてるわけじゃねーっす」
おいおい、答えを言うなよと、微かな笑い声が聞こえる。
林五郎はまた高揚する。
「お前ら、学会エントリーの要旨はどうなったんだよ!」
「さっきと同じこと言わないで下さいよ。それより、見ててください。俺、林檎を片手で潰せるんすよ。プロレスラーのモノマネしてるお笑いタレントが、こないだやってたやつです。林五郎さんは真面目だからバラエティー番組なんて見ないかな? それでも絶対に歓声あげますから!」
「おお! やれやれ!」
おい。それは俺の林檎じゃないぞ、という林五郎の声はアフロ野郎に届かない。
「おりゃーーーーー!」
アフロ野郎の雄たけびが響き渡った。大柄の彼は、足を大げさにひろげ前屈みになりながら、すべての力を右手に集中させている。あたりはしんとする。じゅじゅっと音を立てて、少しずつ指が食い込み、そこから林檎の血液たる果汁が零れていく。まるで水を含んだスポンジのようだ。すると突然、圧力に耐えかねた林檎は、四方八方に飛び散った。
「みてください! やりました! 潰してやりましたよ! ということで、学会発表はなかったことにしてくれませんかね?」
「それ、潰したって言うか、爆発だよ。爆発!」
彼らは手を叩いてバカ騒ぎをする。他の学部生メンバーは、白い眼でその姿を見て見ぬふりをしている。いったい、こいつらは何を考えているんだ。林五郎は、言葉を失った。しかし、失っていても状況は改善しない。
「食べものを粗末にするなよ!」
「また、そういう真面目なことを。食べますって」
そう言ってアフロ野郎は、手に残った林檎を口にすると、途端に真剣な表情へと変化した。
「なにこれ、めっちゃうまいな。確かに、あれだけ果汁が出てくるなんて普通ないよな。あ、林五郎さんも食べてみます? 譲ってあげますから、その代わりに学会発表はなしの方向で!」
「ああもう、うるさいなあ。廊下まで響き渡ってるわよ。今度はいったい何で林五郎さんの怒りを買ってるのよ!」
彼らと同学年である石川理央が研究室に戻ってきた。
「あ、その林檎!」
「なんだよ、この林檎は理央のか。悪いね」
「違うわよ!」
理央の横には、この研究室の最年長である涼川優の姿があった。優はこれ以上ないくらい悲しそうな顔をしていた。しばらくすると瞳に涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。
「え?」
研究室メンバー一同、時が止まったように固まる。全ての視線が優に向けられた後、いくつかの怒りに満ちた視線は、アフロ野郎に注がれた。彼は一瞬たじろいだが、すぐに持ち直し、困った顔を林五郎に向けながら語りだした。
「林五郎さんがですよ、研究室メンバー全員で学会発表しようってなったのに、研究成果のない俺たちには発表させないって、突然言いだしたんですよ。俺はどうしても発表したいって懇願したら、この林檎を片手で潰せたら、学会発表することを許可してやるとか、無茶振りしてくるんですよ。この研究室にある林檎ってことは、そりゃあ涼川さんの林檎だろうってなんとなく分かるじゃないですか。俺にも良心がありますから、そんなことは出来ないですって言ったんですけど、そしたら林五郎さん、にやりとしましてね。そう、つまり俺には涼川さんの林檎を粗末に出来ないってことを分かってて、この話を持ち掛けてきたんです。俺、すごく悔しくて、そういうの許せなくて」
「そうなんですよ。ひどい話です」
「はあ?何それ? 林五郎さん、いったい何考えているんですか!」
「そんなわけないだろ!」
しばらくすると優は下を向いて、研究室から出て行ってしまった。
「あ、優先輩ちょっと!」
理央が追いかける。林五郎は動くことが出来なかった。優が出ていった後、アフロ野郎が大げさな表情を作る。
「いくら林檎が好きだからって、林檎食われただけで泣くなよなあ。涼川さんこそ、林檎に異様な情熱を発揮している場合じゃないっしょ。研究しないと、今年もまた卒業出来なくなっちゃうよ。ねえ林五郎さん?」
「お前ら、涼川さんの林檎と知ってて、さっきのやったのか!」
「いや、知りませんでしたよ。でも、涼川さんの林檎オタクぶりは有名じゃないですか。ていうか、林五郎さん、追わなくていいんですか?」
お前らが原因だろうが。心の中が怒りで溢れかえる。壁にかかっている時計に目をやると、もう授業開始まで10分もなかった。林五郎はしかたなく、足早に教室へと向う。
○
アシスタント業務が終わり、慌てた足取りで研究室に戻ると、アフロ野郎たちは帰宅しており、そして涼川優の姿もなかった。残りのメンバーに聞くと、彼女は一度も研究室には戻ってきていないらしい。博士後期課程――いわゆるドクターコースと言われる大学最高峰の舞台だ――に進学している彼女の机は長らく指定席になっており、一番奥の窓側にある。彼女の机の回りを見渡しても、いつも肩にかけている黒の鞄は見当たらない。
結局、彼らも学会のエントリー要旨を出さずに帰ってしまったようだ。怒りと不安の感情が林五郎の身体を駆け巡る。彼は自分のデスクに座り、作成中の論文ファイルを開いた。研究に向き合い没頭して気を紛らせる。夕方になり、残りの研究室メンバーが帰宅し始めても、林五郎はパソコンの前から動こうとはしなかった。思考の隙間が出来ると、涼川優の先ほどの表情が介入し、林五郎を悩ました。繰り返し、ため息をする。
「ちょっと、林五郎さん。ため息多過ぎですよ」
理央が缶コーヒーを両手に持ち、話しかけてきた。1つを林五郎の目の前にそっと置く。まだ帰ってなかったんだね、と言うと、彼女から屈託のない笑顔が返ってきた。
花柄のトップスにデニムのショートパンツという派手な格好からは想像もつかないが、理央は学部生のリーダーで、唯一研究に打ち込んでおり、林五郎としては最も信頼している存在だった。
「そりゃあね。だってあいつら、結局書かないで帰ったんだぜ。もうなんて怒ればいいのか分からないよ」
「まあ、彼らやる気ないですからね。ていうか、それ彼らの要旨ですか?」
缶コーヒーを開ける音と共に、理央は彼のパソコンを覗き込む。林五郎は、5人分の要旨を作成して、エントリーを済ませようとしているところだった。ああと、林五郎は憮然と答える。
「それって、全く意味なくないですか?」
「だって仕方がないだろう? 奴ら書かないんだから、俺が書いて応募するしかないじゃないか」
「ほっとけばいいじゃないですか。大体、全員で学会発表なんて無茶だったんですよ。突拍子もない優先輩の発案なんだし。本当、優先輩って、脈絡なく突然なんだよなあ。きっと、彼女の中では、機が熟したから出てきた案なんだろうけどさ。ほらほら、もう諦めてくださいよ。うちの研究室はそういう研究室なんですから」
「俺はそれが嫌なんだよ!」
林五郎は顔を赤くして、右手を勢いよく自分の膝に打ち付けた。
「俺だって知ってるよ。この研究室は、一番楽な研究室として有名なんだろ。週1回だけ研究室にくればOKで、学会発表もしなくていい。だから、やる気のない奴らの巣窟になっている。俺は、ここの研究テーマが好きで入って来ているのに、いったいなんなんだよ。目障りだろうが、あのアフロ野郎どもが!」
「アフロ野郎って……。そうやって敵対するから、林檎ほっぺの林五郎とか言われちゃうんですよ」
「あいつらそんなこと言ってるのか!」
林五郎の顔は再び高揚する。
「林五郎さん、私はね、彼らの言い分も聞いてあげることから始めないとダメだと思いますよ」
「言い分もくそもあるか! どう考えたって、間違っているのはあいつらだろ!」
理央は目を瞑り、ゆっくりと左右に二度首を振り、小さくため息をついた。
「ま、今日はもう帰りましょ。既に22時を回ってますよ」
「俺は、あいつらのエントリーを済ませてから帰る!」
「ああ、そうですか。じゃあ、私は先に帰りますからね」
そう言って扉に向かう理央に向かって、林五郎は思わず立ち上がり、呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あと15分で終わるから」
理央ははっとした表情を作った後、すぐににやりと笑みを浮かべた。
二人は大学から出ると、あたりは真っ暗であった。林五郎は自転車から降りて、理央の歩くスピードに合わせて最寄り駅の方へと向かった。ハイヒールを履いている彼女は、林五郎の身長を軽く超えてしまう。男性の平均身長に届かない背丈にジーパン、ロックバンドのプリントTシャツという格好の林五郎は、理央とうまく釣り合いが取れていないが、理央も林五郎自身も、そのアンバランスさをあまり気にしてはいないようだった。
情報提供してもらう代わりに、夕飯を奢ることになった。お店に向かう間、会話は少なかった。林五郎は何を聞けばいいのか、思いあぐねていた。彼女の要望で、様々なオムライスを出してくれる洋食屋に入ることになった。
「なんでも頼んでいいですよね? そして、何品でも!」
「こんな時間からたくさん食べてもいいわけ?」
「む。私はこれでも素晴らしいスタイルを維持していると思っているんですけど。ほら、この美脚を見よ! あ、注文お願いしまーす!」
理央は元気よく手を挙げて、ウエイトレスを呼び寄せた。彼女はホウレンソウのオムライスだけでなく食後にイチゴのパフェとアイスティーを、林五郎はビーフシチューのオムレツを注文した。
「で、優先輩のことでしょ。聞きたいことって」
ああと、林五郎の顔は赤くなる。怒っても恥ずかしがっても、彼の顔は秋の紅葉のようになってしまう。
「まだ付き合ってはいないんでしたっけ?」
「そんな噂、いったい、誰が流しているんだよ。全然、違うよ!」
「全然ってことはないでしょ? 林五郎さんは、優さんに恋しているんだから」
「な、何言ってるんだよ! そんなわけが、ないだろう!」
林五郎は狼狽している。理央は思わずにやける。
「聞きたいことって、今日のお昼の時の話ですよね? 追いついたんですけど、優先輩、何も話してくれなかったんですよ。ごめんね、大丈夫だから、としか言ってくれなくて。普段は、私になんでも話してくれるんだけどな」
林五郎は彼女の言葉を聞いて、落胆の表情を見せた。彼女はその姿を見て、更に言葉を続ける。
「あ、でもあの林檎の出処、心当たりならありますよ」
「おお、それだけでもいい。なんとしても、弁償しないといけないと思っていたからさ」
「今日の朝、優先輩と駅でたまたま会ったんで、そこから一緒に学校来たんですけど、校内に入った後、用があるって途中で別れたんですよね。何処かに寄る用事があったみたい。しばらくして研究室に来たら、朝は持っていなかった紙袋を冷蔵庫の野菜室に入れるもんだから、なんですかそれって聞いたら、林檎だって。まあ、それしか聞かなかったから、その林檎がどういったものなのかまでは全然知らないですけどね」
「涼川さんは、何処に寄ってきたんだろう?」
「方角的には2号館でしたよ。教授棟。たぶん、多崎教授じゃないかな?」
多崎教授の研究室は、トップの実績を誇る研究室だ。林五郎たちの所属している研究室とは異なり最も厳しい研究室であり、国際学会も活発に参加していた。毎年国から研究費が落ちてきて、予算も潤沢であった。林五郎は多崎研に尊敬と嫉妬の念を抱いていた。その目の敵である多崎教授と涼川さんに、いったい何の関係があるというのか。しかし、理央から答えを聞く前に、林五郎の頭の中に答えが浮かび上がった。
「あぁ、林檎か」
「そうです。多崎研究室は、別名林檎研究室ですからねえ。そういえば、時々だけど多崎教授のところに行くって、優先輩も言っていましたよ。とにかく、明日多崎教授を訪ねてみればいいんじゃないですか?」
「しかし、訪問するネタがないなあ。ストレートにこの状況を説明するのも恥ずかしいし。なんと言って多崎教授を訪ねればいいかな?」
「それくらい自分で考えてくださいよ。それよりも」
「それよりも?」
「優さんはどうして泣いていたんですかね? 追いかけた時に、何か特別な林檎だったんですか?って聞いたけど、なんでもないの、としか言ってくれなかったし。林五郎さんは心当たりないんですか?」
林五郎は首を傾げて見せる。
「愛する林檎を粗末にされて涙したとか? いや、いくらなんでもそんな理由で泣かないか。でもまあ、涼川さんに限っては、あり得そうな気もするけど。先月の暑気払いの時も、無人島に何か一つ持っていくとしたらという質問で、彼女は林檎って答えていたもんな」
「みんな反応に困っていましたよね」
「なんでそんなに林檎が好きなんだろう」
そういえば聞いたことないですねと、理央はぽつりと答えた。
「林五郎さん、よく一緒にいるじゃないですか。最近何か変わったこととか、なかったんですか?」
「あればわざわざオムライスをおごったりしないよ」
本当に林五郎には心当たりがなかった。確かに、付き合っていると噂されるくらい、最近は一緒に出掛けることが多い。しかし、出掛けるといっても研究に関することだけだ。必要な実験道具を買いに行ったり、教授のアシスタント業務を手伝うなど、いわゆる雑用業務を一緒にやっているだけだった。現在は、彼女が発案した全員で学会発表という案を実行すべく尽力しているが、だからと言って何か見返りがあるわけでもない。彼女は一緒にいても言葉数は少なく、実際のところ、林五郎は彼女のことを何も知らないに等しかった。そんな彼をよそに、理央の瞳は輝き始めていた。
「きっと、あの林檎に何か特別の意味があるのよ! 林檎を巡る冒険の始まりですね! なんか面白そう!」
「冒険って、随分と大げさだな。そんなに首を突っ込む気はないよ。明日多崎教授のところに行って、残っている林檎をもらって、それでお終いにするよ」
そういうと、林五郎は大きくため息をついた。
「なんですか、その表情は」
「この件、あまり乗り気しないな」
「えー、なんでですか? 好きな女の子をこっちに振り向かせるチャンスじゃない? 禍を転じて福となす、ですよ。ピンチはいつもチャンスと一緒にやってくるんですよ!」
「確かにそうなんだけどさ、」
そこまで言いかけて、林五郎は口を濁した。
俺は林檎が大嫌いだから。
理由を説明するのが面倒で、林五郎はそのまま黙ったままでいた。しかし、実際のところ、彼は林檎に嫌悪感を抱いているにも関わらず、あの林檎には興味を示していた。手に持った感触が、彼の身体からいまも離れずにいた。
ウエイトレスは、ようやくオムライスを持ってきて、それから彼らはもくもくと食事をとった。食事を済ませた後、理央とは地下鉄の駅で別れ、いつもよりもゆっくりとしたスピードで1人暮らしの家を目指した。
○
林五郎は多崎研究室の入り口近くのトイレで、かれこれ15分ほど閉じこもっていた。多崎研究室はトップである多崎教授を筆頭に、客演教授が1人、助教が2人、ポスドクが2人、留学生が5人いて、博士課程――つまり涼川さんと同じコースだ――まで進んでいる人が4人いる。林五郎の研究室は修士課程に進んでいる学生すら彼1人だが、この研究室はほぼ全員が大学院に進学するため、林五郎の同級生も10人近くいた。仮に林五郎の研究室と多崎研究室が対決するならば、囲碁・将棋部が、野球で甲子園常連の野球部と戦うくらい大きな力の差がある。
しかし、エリート気質が抜けない雰囲気が好きになれず、林五郎はこの研究室を敬遠していた。
林五郎はトイレの水を流し、意を決して多崎研究室の入り口まで足を運んだ。この研究室への訪問を更に億劫にさせる理由は、学生のいる研究室に何故か教授の机もあり、しかも多崎教授は常にそこにいるところだった。つまり、訪問者の会話は全て学生たちに筒抜けになってしまう。林五郎は右手を叩く形にしたが、扉に向けることが出来ず、そのまま固まっていた。すると聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おいおい、林五郎。こんなところで何やってんだ? 偵察か?」
後ろを振り向くと、同級生の一人が立っていた。学部生時代、一緒に講義を受けていた同級生だ。彼からは、背の高さ以上に威圧感を感じる。
「ちょっと、多崎教授に用があってね」
「あ、そうなの? 今日は多崎教授、珍しく自分の部屋にいるよ」
林五郎の眼は見開かれる。これはラッキーだ。そうであれば、ストレートに涼川さんの名前を出して聞くことだって出来る。チャンスは今日しかない。礼を言ってその場を立ち去ろうとするが、久しぶりに話をしようと、彼はなかなか解放してくれない。
「林五郎、お前は進路、どうするんだよ。秋から就職活動だろ? ほら、うちの研究室は全員教授推薦で内定貰えるから、就職活動とは無縁で己の研究に没頭してればいいんだけど、お前のところはそうはいかないんだろう?」
多崎研特有のエリート気質が彼にもまとわりついており、林五郎は顔を顰める。
「俺は、就職活動をするつもりないな」
「え?じゃあどうするんだよ。あれ、お前の家って自営業だったっけ?」
「おれは、ドクターコースに進もうと思っているから」
同級生は驚いた顔を見せた後、くっくっくっと、下を向いて笑い始めた。
「おいおい。大丈夫かよ。いや、林五郎は成績優秀だったし、お前の素養からすれば大丈夫なのかもしれないけどさ」
「なんだよ。何が言いたいんだよ」
「だって、あの研究室だろ? ドクターなんて育成出来ないって。週1回からOKだなんて、そんな条件、アルバイトだってないぜ。お前だけが孤軍奮闘している研究室で何が出来るんだよ。あ、そういえば1人ドクターコースに進んでいる先輩がいるんだっけねえ。博士後期課程4年目だっけ? 既に留年してんじゃん。本当に博士号取れるのかよ? まだ査読の論文を1本しか書いてないって噂だけど、あれ本当なんだろ? マイペースにもほどがあるぞ。お前、あの人にまつわる面白い噂話を知ってるか? 最高傑作だぞ!」
林五郎の顔は高揚する。
「知らねえよ。大体、お前が涼川さんの何を知っているって言うんだよ。彼女だって、一生懸命研究しているんだ」
「一生懸命研究したって、結果が出なければ意味がないだろう。結果は気にしないなんて、結果を出したことのない敗者の言う台詞だ。ああ、なるほどそうか。お前は今の研究室に嫌気がさして、多崎教授に進学について相談に行くんだな? 俺は大歓迎だぞ! お前ならうちの研究室でも活躍出来るから来いって!」
なるほど、その手があったか! 林五郎は同級生に別れを告げ、足早に多崎教授に会いに行くことにした。
多崎教授の部屋をノックすると、それに答える声が返ってきた。その声は、来客を歓迎しているものであり、林檎五郎は少し安堵する。彼は頭を下げながら教授室の中に入った。
「おお。古賀くんじゃないか。そこに座りたまえ」
林五郎は再び小さく会釈をしながら、来客用の椅子に座った。
「名前を覚えてくれていて光栄です」
「そりゃあ、忘れるわけがないじゃないか。君は北沢研のエースだからな。孤軍奮闘で研究室を引っ張っていると聞いているぞ。君の研究範囲も面白い。真剣に研究に取り組んでくれる生徒がいて、俺は大変頼もしいと思っているんだぞ」
やたらと褒められているが、なんだか釈然としない。
「孤軍奮闘ではないですよ。涼川さんと一緒に、頑張っています」
「おお、悪かったな。そうだな。涼川君も頑張っているよな」
多崎教授はそう言うと、備え付けの小さな冷蔵庫から、お皿を出してきた。透明のラップを取ると、そこには一口サイズに切られた林檎が綺麗に並んでいた。
「さっき来客があってね。切ったんだ。食べていかないか?」
「ありがとうございます。ところで、切る前の林檎、見せてもらうことは出来ますか?」
「なんだ、興味があるのか。いいぞ、ちょっと待っててくれな」
そう言って多崎教授が出してくれたのは、例の林檎とは全く別の林檎であった。煌めくような濃紅色であり、あの林檎よりもはるかに大きかった。
「これはね、富山県の林檎なんだよ」
「富山県?」
富山県と言われても、林五郎には全く林檎のイメージが湧かなかった。
「珍しいだろう? これはね、「とやま名月」という大変貴重な林檎なんだ。シャキシャキ感も感じることが出来る上品な果肉、そしてこの圧倒的な甘さ、まぎれもなく超一級品だね」
「富山県って、林檎の名産地だったんですか?」
「まあ、名産地って言えるほどではないけどね。全国で年間生産量第10位だったかな?」
そういうと、彼は力説し始めた。林檎の歴史――明治時代に導入されたくだりから近年の品種改良まで、そして、その変遷に対する多崎研究室の貢献度について――を語り出したら、もう止めようがなかった。多崎教授は決して悪い人ではないのだが、とにかく自分の自慢話が好きなのだ。暴走機関車と言われる所以だ。林五郎は相槌を打ちながらも、何度かその流れを止めようとした。すると、多崎教授の顔色が変わった。
「なんだよ。俺の話を聞きにきたんじゃないのか?俺はてっきり、君がうちの研究室に興味があるのかと思ったんだが。君は博士課程に進むことを視野に入れているんだろう? うちの研究室は、林檎の研究室としては、世界トップクラスと言ってもいいんじゃないかな。台木開発のためのアポミクシス性交配実生の雑種判定から、収穫前落果防止剤の有効利用法まで、幅広くカバーしているぞ。国からも研究費がつく。確かに今の君の研究テーマも興味深いかもしれないが、うちではさらに満足いく研究が出来ると思うけどね」
「いやあ、ちょっと、林檎というところがですね」
林五郎は本音を言うと、多崎教授の眼が変わった。
「君は俺たちの研究をバカにするのかね?」
「いえ、そういうことではないです」
「では、さっきから気になっているんだが、どうして林檎を食べないんだ。この「とやま名月」は、我が研究室で品質改良した最も素晴らしい林檎の一つだ。これを食べれば、瞬く間に気が変わるはずだ!」
林五郎は、大げさに深刻な表情を浮かべて見せた。そして、告白した。
「本当に申し訳ないのですが、僕は、林檎アレルギーなんですよ」
多崎教授は、顔を顰めた。まずい。林檎アレルギーなんてないのかもしれない。林五郎は恐る恐る彼の顔を覗き込む。すると、彼の顔は少し緩んだ。
「そうか、そうなら仕方ないな」
そんなものあったのか! 心でつぶやく。すみませんと、再び律儀に頭を下げた。
「しかし、林檎が食べれないなんて、本当に不幸だな。人生を半分ドブに捨てているぞ。こんなに美味しいのに!」
「あ!」
林五郎は、思わず声を出した。あの林檎が、多崎教授の手に握られていたのだ。
「ん? ああ。この林檎か? これは手に収まりきる可愛らしい林檎だろう」
そういうと、多崎教授は皮ごとかじりついた。満足そうな表情を浮かべる。
「先ほど紹介した「とやま名月」も美味しいが、これはさらに格別だな。淡いピンクがかった外観もいいだろう? 皮ごと食べても全く問題ないからそのままかじりつくことが出来る。柔らかい果肉からあふれる蜜のような甘味が特徴だが、決して甘ったるいわけではない。酸味とのバランスが本当に素晴らしい。10年以上の品種改良を経て、ようやく完成したんだ。巷では今季世界最高の林檎と言われているが、言い得て妙だよ」
「そ、それ、1つもらえませんか?」
「何?」
多崎教授は予期しなかった提案に、不思議な顔をする。
「だって、君は林檎アレルギーなんだろう? 食べれないじゃないか」
林五郎は、一度唾を飲み込んでから、多崎教授の眼を見つめた。
「多崎教授がそれだけ力説されるので、どうしても食べたくなってきてしまいました。しかし、僕は食べることが出来ません。残念です。でも、僕には妹がいるんですが、これが大の林檎好きなんです。林檎の第一人者がそこまで推薦される林檎、是非とも食べさせたいと思いまして」
その林五郎の言葉に、多崎教授は大変満足そうな表情を浮かべた。
「そうかそうか! この林檎はね、将来、世界を席巻するかもしれないぞ。このタイミングでこの味を知っておくことは、そうだなあ、メジャーデビュー間違いない才能溢れたシンガーソングライターを、無名の路上ミュージシャン時代から応援するようなものだな!」
しかし、といい。彼の表情は突然曇った。
「残念ながら、いまので最後の1個だった。ごめんな」
ほらと言いながら、林檎の入っていた段ボールを見せてくれた。確かに、1つも入っていない。
「では、その林檎はどこに行けば手に入りますか?」
うーんと、多崎教授は台詞を溢しながら腕を組んだ。そして、その返答は返ってこなかった。
「まあ、残念だけど、ちょっと難しいかな。そうだよ、とやま名月ならまだいくつかある。これを持って行きたまえ。妹さんも絶対に喜ぶぞ!」
そう多崎教授は言い、袋にとやま名月を3つ詰めてお土産にしてくれた。林五郎は、お礼をして部屋を後にした。
彼の心には、苦い後味が残った。林五郎は1人っ子であった。この林檎は愛猫――メス猫なので嘘はついていないと思う――であるミーチャのために実家へ郵送すればいいだろう。何とかヒントは得ることが出来たため、気持ちは随分と高まっていた。林五郎は早めに研究を片づけて、街へ出ることにした。
○
スーパーの果物コーナーに行くと、色も形も様々な林檎が置いてあることに驚いた。「ふじ」があり、次いで「つがる」、「王林」、「ジョナゴールド」が置いてあった。殆どが青森県産や長野県産であり、富山のとの字も見つけることが出来なかった。売り場に陳列されているどの林檎を触っても、あの林檎を手に取った時の不思議な感覚がやってくることはなく、足早に次の目的地であるデパートに向かった。
お中元の時期を過ぎ、お歳暮はだいぶ先であるため、贈り物用である果物の品揃えは豊富とはいえなかった。もちろん、生協のおにぎりコーナーよりは大分ましではあったが。
店員に富山県の林檎がないか聞いたところ、鞄の中にも入っている「とやま名月」が姿を現した。10個で3000円だった。林檎の相場はよくわからないが、おそらく高価な部類に入るのだろう。例の林檎の特徴を説明したが、やはりここには置いていないようだった。林五郎は、多崎教授の部屋から出て後、すぐにメモをとっていた。その紙をポケットの中から取り出し、内容を確認する。
富山県南砺市、衣浦農園。
多崎教授があの林檎の入った段ボールを見せてくれた時に、まだ剥がされていなかった送り状の記載内容を必死に暗記したのだ。あの林檎の送付者が住んでいる住所だろう。差出名の衣浦農園は、この林檎を栽培しているところに違いない。週末に足を運びたいところではあるが、本当に行くのであれば、もう少し勝率を高めてから実行したい。
林五郎は、夕飯を近くの牛丼屋で済ませ「とやま名月」をコンビニから実家へ送付した後、自宅に戻り早速パソコンを立ち上げた。調べてみると、確かに布浦農園は存在していた。しかし、住所が示されるのみであった。画像検索しても、例の林檎を確認することは出来なかった。せめて林檎の名前を聞いておくべきだったと後悔したが、多崎教授のところへ出戻る気にもなれなかった。
次に多崎教授の研究室のホームページを検索した。しかし、例の林檎の写真を見つけることは出来ず、サイト内で衣浦農園の名前もヒットすることはなかった。多崎教授があれだけ絶賛しているのに、どうして写真がないのだろう。自慢好きな多崎教授が、自分自身と関係ない林檎をあそこまで褒めるとは考えにくい。共同研究ならば、写真くらい出ていてもいいように思うが。
唯一気になったのは、衣浦誠という人物がこの研究室で博士号を取っていることだった。10年以上前の卒業生だが、何か関係があるかもしれない。しかし、インターネットでは彼の論文の内容を確認することは出来なかった。
博士論文のタイトルは「リンゴ中生種アマス15改の温暖湿潤気候への適用とその可能性」というタイトルであったが、品質改良に関する研究だろうというところまでは分かるものの、内容については公開されていなかった。林檎、アマスと検索しても何も出てこないし、衣浦誠、論文と検索しても、目立った論文は少しも見つけることが出来なかった。
やはり、現場に行くしかないのかな。林五郎はパソコンの電源を切り、ベッドに横になりながら、代わり映えしない天井を見上げた。わざわざ林檎1つのために他県まで行くなんて、どれだけ馬鹿らしいことか。なに1つ成果なく、徒労に終わる可能性だってある。それに、仮にあの林檎が手に入ったとして、彼女になんと説明して手渡せばいいのだろうか。
わざわざ富山まで取りに行きましたなんて、なんだか大げさ過ぎないか。好きですと言ってるようなものではないか。もしこれがきっかけで気まずくなったりしたら、これからの学生生活、どうやって過ごしていけばいいのだろうか。
それとは別に、自分では否定したい気持ちも湧いてきていた。彼女を悲しみから救いたいというよりも、彼女のことをもっと知りたい、という粘り気のある欲求だ。あの林檎の透き影を追うことで、ひょっとしたら涼川さんの奥深い部分を知れるかもしれない。謎に包まれた彼女の秘密を知ることは、正直に告白してしまえば、とても心躍ることだった。
そのまま、目を瞑っていると、あの林檎の輪郭が朧気ながら甦ってきた。個人的にも、あの林檎には不思議な力があるような気がしている。忌み嫌っている林檎にも関わらず、あの林檎を手にした時、心には安らぎに近い感情が支配した。しかし、一瞬で通り過ぎ去ったため、あの時の感覚を再び思い出すのは難しくなってきている。やはり、もう一度触れてみたい。
「そうだよ、それも一つの理由だよな」
林五郎は自分にそう言い聞かせ、明日に備えて早めに就寝することにした。
次の日、彼は愛車の日産サニーに乗り、山を越えて衣浦農園を目指した。週末のため研究室は休みである。それに、車を使えば金額的にも時間的にも無謀な場所ではない。実行するにあたって、特に弊害はなかった。しかし、理央が命名した「林檎を巡る冒険」と呼べるような輝きは殆どなく、実態は、カーナビに衣浦農園の住所を入力して、ただひたすらその場所を目指して北上するだけの、なんとも味気ないドライブであった。
南砺市に入り、いよいよ衣浦農園に近づいてくると、さすがに林五郎の心は高ぶってきていた。あたりは田園風景であり、少し遠くを見渡せば、一面に広がる山々が連なっていた。ところどころに林檎園、さくらんぼ園などが点在しており、農家の集落もある。
高速道路を下りてから道なりに進んでいると、次の信号を右ですと、不愛想なナビが林五郎に話かけた。愛想のいいナビが販売されたら売れるんじゃないかと考えたが、一瞬でその想いは消え去った。そういえば、男性の声のナビも聞いたことがない。
どうでもいいことを考えていると、到着と音声案内を終了する音声が車内に響き渡った。林五郎はハザードランプを押し、邪魔にならないところに一時停止をした。
車から降りた林五郎は、辺りを見渡した。林五郎は身体を大きく伸ばし、頭をゆっくりと回す。近頃は残暑に苦しんでいたが、この地域は既に秋の香りに包まれており、心地よい風が吹いていた。
なんて心地いいのだろうか。あたりには何一つ邪魔なものはない。サニーは交通の邪魔になるはずもない。林五郎は呆然とするしかなかった。
衣浦農園を示す場所は、広大な空き地となっていた。
林五郎は車の中にある飲みかけのペットボトルをサニーのボンネットに置き、改めて辺りを見渡した。大きな白い雲が秋を告げる風に乗り、気持ちよさそうに空を泳いでいる。どうしたものかなあと独り言を発しても、もちろん状況が全く変わることはない。県道から一本入った道のため、人っ子一人見当たらない。
ジーンズのポケットからメモを取り出し、走り書きの文字を読み直す。地名のみで、番地まで控えることは出来ていない。しかし、布浦農園をネット上で検索出来たのだから、昔ここに林檎農園があったのは間違いないのだろう。それに、場所は特定出来ないが、ここから見える範囲の家からあの林檎は発送された可能性は高いのではないか? あたりを見渡すと、両手で数えきれてしまう数しか民家はなかった。一軒一軒回るか? 犯人(送り主のことだ)はこの中にいる!
林五郎は、ペットボトルを片手に、残りのお茶を飲みながら、衣浦という表札を探し始めた。1軒、また1軒と探しているうちに、高まった心が一気に気持ちが萎んでいくのがありありと分かった。
俺はいったい、何をやっているんだ?
仮に衣浦という表札を見つけたとして、どうするつもりなのだ。どうすることも出来ないじゃないか。あくまで衣浦農園の方には、身元がばれてしまってはいけない。第一、ばれてしまったら、多崎教授に何を言われるか分かったものではない。
もう、これ以上は無理だ。彼は、右折した角に自動販売機があったことを思い出し、お茶を買って帰宅することに決めた。自動販売機に向かう途中、住民らしき老夫婦に会ったが、林五郎は会釈をするだけで通り過ぎた。林檎に対する興味は完全に消え始めていた。自動販売機の前にはひときわ大きな家があった。缶コーヒーを購入し、そのコーヒーを取り出そうと前屈みになる。そういえば、自動販売機にはそれぞれオーナーがいると聞いたことがある。この大きな日本住宅の家主が、自動販売機の家主なのであろうか、それとも、隣の乾物屋のものなのであろうか。
視線を上げた林五郎は、立ったままその場から動けなくなった。表札から目を反らすことが出来ない。
その家の表札には、「涼川」と、達筆な字で書かれていた。
○
愛車を止めた場所まで早歩きで戻る林五郎は、明らかに挙動不審であった。衣浦農園の跡地には、この土地が空き地であることを知らせる看板が立っており、近づいて確認してみると、そこには管理者・涼川の文字があった。林五郎は慌てて車に乗り込み、カーナビに行き先をセットせず、とにかくこの場から立ち去った。涼川という苗字は珍しい。100%と言い切れないが、これは涼川さんの実家だと、林五郎の心は断定していた。
そして、彼は頭を抱えた。現在、優は実家から通っていることになっていた。そしてその実家は、富山県ではない。実家が林檎農園という話も出たことはない。少なくとも表向きは、そうなっている。何か触ってはいけない部分まで触れてしまった想いが渦巻き、林五郎は狼狽していた。
しかし、狼狽する心だけでなく、彼女の過去に触れてみたいという欲求が、波のように交互に襲ってきていた。ここまで来たら、最後まで調べてしまいたい。林五郎はハンドルを強く握りながら、次の作戦を練っていた。
彼は、衣浦氏の博士論文を読めば、さらに真相に近づけるだろうと考えていた。博士論文は、インターネットで見ることは出来ないが、一般公開されているのだ。衣浦氏の学位論文は、京都府にある国立国会図書館関西館にある。今からだと、閉館時間にはギリギリ間に合うだろう。冷静に考えてみると、あの大きな家は、涼川さんの父親の実家なのかもしれない。実家が林檎農園であったならば、あの涼川さんの林檎好きもある程度説明がつくように思える。ただ、直接彼女のところに林檎が届けられていない理由が分からない。そもそも農園は存在しないのならば林檎がどこで作られたのかも分からず、謎は残ったままであった。
林五郎は閉館1時間前に国会図書館に到着し、衣浦氏の学位論文の閲覧手続きを行った。彼は、貪るように衣浦氏の論文に目を通した。やはり答えは、衣浦氏の学位論文に記載されていた。林五郎が期待した通り、衣浦氏は、衣浦農園に関係していた。
衣浦氏の論文には、あの林檎が映っていた。彼は、この林檎を日本で完璧に育てることは出来ないと結論づけていた。トルコでしか作れないし、更なる改良が可能であると期待感が述べられ、衣浦氏はこの学位論文を書き上げた後、トルコにわたり研究を継続すると明記していた。
林檎の名前の由来は、トルコの林檎の名産地であるアマスティアから取っていた。林五郎は一研究者としては、納得いかなかった。なんだよ、林檎、完成していないじゃないか。それなのに学位を与えていいのかよ。
それと同時に、完全にお手上げであるこの状況に絶望するしかなかった。
林五郎の身体には、堰き止めていた疲れが雪崩のように襲い掛かった。思えば、殆ど一日中、休憩なしで運転していた。疲れても当然であった。しかも、これだけ飛び回ったのに、あの林檎を手にすることは出来そうもない。
それに、衣浦氏はいったい何者なんだろうか? 彼女は、衣浦氏の林檎を潰されて、涙を流したのだ。誰がどう考えても、涼川さんと衣浦氏の関係は深そうじゃないか。こんなこと知りたくなかった。こんなことしなければよかった。林五郎の目の前は真っ白になった。