赤信号の向こう側
赤信号は、止まれの合図か。それとも、向こう側からの誘いか。
盲学校の前の大通りは、昼夜を問わず車の喧騒が響き、交差点の信号は絶えず赤と青を繰り返す。
その喧騒を抜けた先、路地裏にひっそりと佇む小さな横断歩道がある。
道幅は狭く、車の往来も少ない。
それなのに、そこには信号機と横断歩道が、まるで必要以上に厳格に設置されているかのように存在している。
近隣で最も事故の多い場所だとされ、奇妙な噂が付きまとっていた。
信号の基部には、いつも誰かが供えた花が揺れ、道の向かいの街路樹の根元には小さな地蔵が、苔むした姿で静かに佇んでいる。
地蔵の目は、どこか遠くを見つめているようで、通りすがる者を試すようにじっと見据えている。
不気味な話がある。
この横断歩道で、赤信号のときに少女が現れるという。
地蔵の立つ場所から、ひらひらと白い手を振って「おいで、おいで」と誘うのだ。
その手招きに導かれるように、歩行者は無意識に足を踏み出し、疾走する車に飲み込まれる。
多くの者がそうやって命を落としたと、囁かれている。
私はこの街に引っ越してきて二年、好奇心に駆られ、この横断歩道をあえて使うようになった。
少し遠回りになるが、霊的な現象を一度でも目撃したいという、どこか無謀な衝動に突き動かされていた。
だが、これまで何も起こらなかった。
少女の姿も、手招きの影も見えず、ただ花の萎れる匂いと地蔵の無言の視線だけが、私を迎えた。
その夜も、いつものように横断歩道に差し掛かった。
秋の夜風が冷たく、街灯の光がアスファルトに淡い影を落としている。
信号は赤。
足を止め、ぼんやりと対岸の地蔵を見つめていると、突然、聞き慣れたメロディが耳に飛び込んできた。
「とうりゃんせ、とうりゃんせ――」横断歩道の音声案内だ。
だが、どこか妙だった。
音は機械的な硬さを持たず、まるで誰かが口ずさむような、柔らかく、しかし不自然に伸びる音色。
反射的に足が動きそうになった瞬間、けたたましいエンジン音が空気を切り裂いた。
トラックが猛スピードで横断歩道を通過していく。
信号は、確かに赤だ。私は凍りついた。
だが、背後で「とうりゃんせ」は止まることなく続いている。
音は、まるで私の背中を這うように、すぐ近くから聞こえてくる。
ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、小学生くらいの男の子だった。
ランドセルを背負い、くすんだ色の制服に身を包んだ少年が、リコーダーを手に持っている。
その指が、ぎこちなく、しかし執拗にメロディを奏でていた。
「とうりゃんせ」。
音は、機械のそれではなく、どこか湿った、喉の奥から絞り出すような響きだった。
少年の顔が、街灯の光に照らされる。
目が合った瞬間、彼の唇がゆっくりと吊り上がった。
ニタリと、まるで私の心の奥底を見透かすような笑み。
ぞくりと背筋が冷えた。
次の瞬間、少年はリコーダーを下げ、くるりと身を翻して路地の闇に駆け込んでいった。
私は立ち尽くした。
信号はまだ赤。
背後からは、もう「とうりゃんせ」の音は聞こえない。
だが、少年の笑顔が、網膜に焼き付いて離れなかった。
あの目は、何を知っていたのだろう。
なぜ、私を誘うように笑ったのだろう。
その夜から、私はあの横断歩道を避けるようになった。
だが、時折、遠くから「とうりゃんせ」のメロディが聞こえてくる気がする。
風の音に紛れて、あるいは夢の中で。
地蔵の視線が、どこまでも私を追いかけてくるような、そんな錯覚に囚われるのだ。
読んで頂き有り難う御座います。




