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失恋覚悟で騎士様の恋敵を訪ねたら、七日分の滋養菓子を持たされました

作者: 七尾 いと
掲載日:2026/08/20

みぞおちが、きゅう、と縮んだ。


 空腹のせいである。断じて、扉の隙間から見えるレオン様とゲルトルートの距離が、麦粒ひとつ分しかないせいではない。


「灯油は四缶追加で」


「卵は三十。毛布は二枚。これで足りる?」


「足りなければ、また増やす」


 夜の執務室で、ゲルトルートの指が月次注文書の端を押さえている。レオン様はその肩越しに紙をのぞき込み、ただでさえ少ない言葉を、彼女の耳元へ納品していた。


 恋敵の密会を数える趣味はない。今夜で十一回目だが、これは灯油の使用量を確認しただけである。


 卵、毛布、灯油。


 どれも先月より増えている。誰が食べ、誰が使い、誰と誰が暖まるのか。


 やめよう。在庫係が用途の記載されていない品目を気にするのは当然だが、毛布の使用者を想像して胃を痛めるのは職務外だ。しかも、私の胃には痛むだけの中身が入っていない。損である。


 レオン様が顔を上げた。目の下に薄い影がある。


 私は扉から身を引いた。


 見つかれば、立ち聞きの理由を説明しなければならない。灯油の確認ですと言えば済むが、十一夜続けて灯油を確認する女は、たぶん火事より怖い。


 翌朝、家族用食堂を横切ると、長卓の中央、レオン様の隣に一脚分だけ空いた場所があった。屋敷へ来た当初から、客分の私に空けられた席だ。


 私は見なかったことにして、食料庫脇の小卓へ向かった。


「食べな」


 ヨゼフィーネが薄いスープと卵を置く。


「倉庫番が夜通し棚卸しをしていました。こちらを」


「人の腹へ押しつけるんじゃないよ」


「適正在庫の配分です」


 私は皿を倉庫番の前へ滑らせた。卵までつける。太っ腹。胃は空っぽ。


 ヨゼフィーネのため息で、鍋の蓋が震えそうだった。


「昼まで置いとくからね」


「腐ります」


「だったら、その前に食べな」


 彼女は皿へ蓋をかぶせた。私は食料庫の帳簿を抱え、仮眠室へ逃げた。


 寝台は壁際に押し込んだ薄いものだ。毛布は一枚。窓枠から忍び込む冷気は無制限。これほど気前のよい納品業者も珍しい。


 袖をまくると、手首のところで布が余った。仕立てが悪い。きっとそうだ。私が痩せたわけではない。服が勝手に育ったのだ。


 その日の帳簿には、冬麦十二袋、灯油二缶、未着。


 私は余白へ書き込んだ。


「未納です」


    *    *    *


「鍵をお預かりしましょう」


 フリードリヒの手が、ゲルトルートの腰の鍵束へ伸びた。


 私はその手首と鍵の間へ、帳簿を差し入れた。


「まだ早いです」


「ユリア。これは倉庫主任である私の責任だ」


 ゲルトルートと二人きりのときは「鍵を渡せ」と命じた声が、レオン様の前では上質な布で包まれている。見事な包装だった。中身まで良品とは限らない。


 ゲルトルートは鍵へ置いた手を動かさなかった。


 冬麦と灯油の不足が見つかり、月次注文書には彼女の筆跡に似た追記があった。受領数を多く見せ、差を抜いた。そういう筋書きが、朝のうちに完成していた。


「追記の確認が先です」


「確認なら済んでいる。管理人の筆跡でしょう」


「似ています」


「本人も否定できないそうですよ」


「私は、こんな窮屈な数字を書かない」


 ゲルトルートは結論から投げつけた。礼儀は後便らしい。


 フリードリヒが私だけに聞こえる声で鼻を鳴らした。


「恋敵を庇えば、ご立派に見えるとでも?」


 胸の奥へ針が入った。抜いている暇はない。目の前では別の品が盗まれかけている。


「私がゲルトルートを嫌うかどうかと、この鍵を奪ってよいかは別勘定です」


「嫌っていることは否定しないんだな」


「今は鍵の話です。横道へ商品を増やさないでください」


 フリードリヒの口元がゆがみ、若い倉庫係二人が目を伏せた。彼がゲルトルートの鍵を受け取れば、彼女は屋敷を出される。本人も、その結末をよく知っている顔だった。


 レオン様が私の帳簿へ目を落とした。


「何日かかる」


「収穫晩餐までに」


「三日だぞ」


「数字は逃げません。人は逃げるかもしれませんが」


 フリードリヒが顔を上げた。


 あら。該当品が自分から棚を揺らした。


「ゲルトルートの鍵はそのまま。倉庫の出入りは、ユリアと二人で記録しろ」


 レオン様の命令に、フリードリヒの丁寧な声が少し痩せた。


「しかし、領主様」


「三日だ」


 ゲルトルートが鍵束を握り直す。金属が小さく鳴った。


「調べましょう、ユリア」


「ええ」


「私を嫌いながら?」


「麦十二袋分くらいには」


「ずいぶん重いわね」


 笑うところではない。ゲルトルートは笑った。


 腹立たしい。しかも笑った顔が快活で、たいへん品がよい。恋敵の品質検査まで合格させてどうする、私。


    *    *    *


 最初の麦袋を持ち上げた瞬間、腕が覚えていた重さと一致した。


 二袋目は軽い。


 三袋目も軽い。


 同じ五十斤と札がついているのに、右手の袋だけが先に床を離れた。


「待って」


 ゲルトルートが私の袖をつかんだ。


「指が白い。下ろして」


「袋のほうが怪しいです」


「あなたの手も相当に怪しいわよ。生きている人間の色じゃない」


「冬季仕様です」


「便利な言葉を覚えたわね」


 私は袋を下ろした。袖口がずり落ち、荒れた指まで隠れる。


 ゲルトルートは何も言わず、棚の向こうから一番小さな灯油缶を持ってきた。私に持たせず、自分で運ぶ。恋敵のくせに。そこは私へ重いものを押しつけて、腰でも痛めさせる場面ではないのか。職業倫理が恋路を侵食している。


 袋の封印紐を調べると、結び目の尾が逆を向いていた。


「ゲルトルートは右手で紐を引くので、尾が左へ落ちます」


「よく見てるわね」


「一度見れば忘れません」


「レオン様のことも?」


「今、袋の話をしています」


「はいはい」


 ゲルトルートは正しい重さの袋へ印をつけた。それから炊事場へ行き、残っていた麦を先に使用人用へ回すよう手配した。


「ご自分の疑いを晴らすほうが先では」


「疑いが晴れても、今夜のパンは膨らまないでしょう」


 正しい重さの麦袋を作る人を嫌うのは難しい。しかもパンを優先する。私の恋路へ、なぜ秤と発酵が口を出してくるのか。


 注文書の追記も妙だった。ゲルトルートの文字に似ているが、数字の払いが左へ流れている。


 その日の夕方、フリードリヒは私たちだけになると腕を組んだ。


「余計な袋を開けるな。女二人で倉庫を荒らすつもりか」


 直後、レオン様が入ってきた。


「何をしている」


「お二人の調査が滞らぬよう、注意点を申し上げておりました」


 包装の早業! 収穫晩餐に出せば、拍手がもらえそうだ。


 レオン様は返事をせず、私の袖口を見た。ずり落ちた布の奥へ視線を止め、暖炉へ薪を二本足す。


「ここで続けろ」


「帳簿が乾きます」


「おまえの指のほうが先だ」


 命令口調である。人を薪と同じ分類に入れないでほしい。


 ゲルトルートが私とレオン様を交互に見た。口元が何か言いたそうに動く。


「何です」


「いいえ。今は袋の話をしましょう」


 絶対に袋の話ではない顔だった。


    *    *    *


 収穫晩餐の大皿が運ばれる前に、フリードリヒは立ち上がった。


「皆様へお知らせすべきことがございます」


 丁寧すぎる声は、だいたい碌でもない品を納める。


 使用人たちの手が止まった。ゲルトルートは鍵束を膝へ置き、レオン様は杯から口を離した。


「冬麦と灯油の不足は、ゲルトルートの虚偽記載によるものです。ところがユリアは調査を私情でゆがめ、証拠を隠そうとしております」


「隠していません」


「あなたがゲルトルートを恋敵と思っていたことは、皆が知っている」


 ざわめきが走った。


 私の胃が、今度は空腹ではない縮み方をした。たいへん迷惑である。胃袋には一種類ずつ処理してほしい。


「レオン様に近づくゲルトルートを妬みながら、潔白な自分を演じるために彼女を庇った。そんな証言に価値があるでしょうか」


 若い倉庫係たちは目を伏せた。ゲルトルートの横で、配膳係の手が皿を持ったまま固まっている。


 フリードリヒは私へ向けていた太い声を、レオン様へ向き直ると細く整えた。


「領主様、管理のできない女の言い訳に、これ以上お時間を割かれる必要はございません。自分の朝食すら管理できない者です」


 ヨゼフィーネが鍋杓子を握った。殴るには少し遠い。私が先に片づけよう。


「ええ、嫉妬しています」


 使用人たちが、一斉に顔を上げた。


 ゲルトルートもこちらを見る。


 口に出すと、胸へ刺さっていた針が一本、床へ落ちた。残りは在庫過多だが、後で数える。


「レオン様とゲルトルートが夜ごと注文書を囲んでいるのを見ました。近いです。近すぎます。紙はもっと広い机でも読めます。私はゲルトルートが羨ましいし、できれば一度くらい椅子を遠ざけたいと思っています」


「ユリア」


 レオン様が低く呼んだ。今はそちらの顔色を検品している場合ではない。


「それで秤の針が傾くなら、先に私を載せてください」


 私は卓の脇へ置いておいた二袋へ手をかけた。


 左手に、封印の正しい麦袋。


 右手に、同じ五十斤の札がついた袋。


 持ち上げる。


 右だけが先に浮いた。


 杯の触れ合う音まで消えた。


「同じ重さではありません」


「袋ごとの乾燥差だ」


 フリードリヒが言う。女性二人へ命じるときの太い声ではなくなっていた。


「では、中身を確かめます」


「封印を切るな!」


 彼の手が伸びた。


 袋ではなく、逆向きの結び目を隠すように覆った。


 レオン様の視線がその手に落ちる。


 私は紐を切った。


 麦の中から、軽い燕麦と殻が流れ出す。床板を跳ね、フリードリヒの靴先まで転がった。


「正しい袋は、ゲルトルートが右手で締めた結び目です。詰め替えられた袋は逆。追記の数字も左へ払われています」


「そんなものは誰でも真似できる」


「そうですね」


 私はもう一袋をフリードリヒの前へ転がした。


「なら、なぜ封印紐へ手を伸ばしたのです? 中身を知らないなら、札を確認するはずです」


 フリードリヒの左手が、まだ宙にあった。


 ああ、よい眺め。空腹のまま三日働いた報酬としては軽いが、前菜にはなる。


 ゲルトルートが注文書を開いた。


「不足を私の追記に見せかけたのね。私が追放されれば、あなたが倉庫記録をまとめ直せる」


「違う」


「誰が代わりに追放されると思っていた」


 レオン様の問いに、フリードリヒの口が閉じた。


 答えは床に散っている。燕麦、殻、ゲルトルートの職、十二袋分。


「鍵を」


 レオン様が片手を出す。


「領主様、長くお仕えした私へ、弁明の機会を」


「今、与えた」


 フリードリヒは動かない。


 レオン様がもう一度、手を差し出す。


 とうとう倉庫の鍵が外された。卓へ置かれた鍵束は、重い音を立てた。


「倉庫主任の職も返してもらう。今夜中に帳簿と私室を改め、明朝、屋敷を出ろ」


 フリードリヒの顔から、丁寧さも命令口調もなくなった。


 護衛が両脇に立つ。彼は散った麦を踏み、晩餐の席から連れ出された。


 ヨゼフィーネが無言で私の前へスープを置いた。


「私を庇いながらレオン様を睨むの、器用ね」


 ゲルトルートが囁く。


「近すぎたので」


「まだ言う?」


「別勘定です」


 ゲルトルートの杯が私の杯へ当たった。


    *    *    *


「違ったの?」


 晩餐後、ゲルトルートは三度そう言い、三度とも腹を抱えた。


「何がです」


「私とレオン様が、恋仲だと」


「声が大きいです」


「夜ごとの密会! 肩を寄せて! 紙は広い机でも読めます!」


「一字一句再演しないでください!」


 私は彼女の前から菓子の大皿を押し返した。笑いすぎた人間に砂糖を納品する必要はない。


 ゲルトルートは大皿を引き戻した。


「返して。これは使用人用」


「私も使用人です」


「朝食を横流しする人は別枠よ」


 ぐっ。どこから仕入れた、その情報。


 レオン様は笑っていなかった。注文書を卓へ広げ、不足した品目を指で押さえる。


「領民へ回した分を、屋敷の余剰と来月分で補う相談をしていた」


「夜ごと?」


「昼はフリードリヒが記録を見ていたから」


 ゲルトルートが頷く。


「私が横領したなら、領民の配給を削って数字を合わせると思わせたかったの。だから削らずに越冬する方法を探していた。灯油、麦、根菜。レオン様は領主邸の分を減らすと言い張るし、私は使用人を凍えさせる気はないし」


「卵と毛布は?」


「別口」


 ゲルトルートが即答し、レオン様が彼女を見る。


 何だ、その目配せは。


 恋ではないと分かったばかりなのに、今度は別口という名の不審在庫が出た。私の心臓は忙しい。棚卸し期間には動悸も順番待ちをしてほしい。


「とにかく、私とレオン様の間には何もないわ」


「そうですか」


「その顔で『そうですか』だけ?」


「では、菓子を返してください」


「安堵を砂糖で補給しないで」


 大皿を奪い合う私たちの間へ、レオン様の手が入った。皿を私の側へ寄せる。


「食べろ」


「ゲルトルートの分です」


「半分ずつでいいでしょう。まったく」


 ゲルトルートは菓子を一つ取り、私を見てにやにやした。


 私は二つ取った。勝利である。


「笑わないでください」


「無理。だってあなた、私を追い出したかったのに、先に私の濡れ衣を追い出したんでしょう」


「秤が正しかっただけです」


「そういうことにしておく」


 正しい重さの袋を作る人間は、菓子の分け方も正しい。一個多く取った私を見逃した点だけ、少々検品が甘い。


    *    *    *


 翌朝、ゲルトルートが月次注文書を裏返した。


「ここから先は、あなたの在庫よ」


 表は冬越しの補填計画。裏には別の品目と、日付と、短い指示が並んでいた。


 卵、一日一個追加。


 薄味のスープ、一人分。


 毛布、二枚。


 食料庫脇の灯油、四缶。


 どれもゲルトルートが屋敷へ来る前の日付だった。


「これは」


「レオン様の指示。あなたが朝食を倉庫番へ回した日から、卵を増やした。夜も食料庫へ戻ると聞いて、毛布と灯油を増やした。ところが増やしても増やしても、誰かさんが他人へ配るのよ」


「余剰品だと思いました」


「あなた用と書く案は?」


 ゲルトルートがレオン様を見る。


「本人が拒むと思った」


「正解です」


「そこで即答しないで」


 私は注文書を取り上げた。紙が鳴る。


 レオン様の目の下に、夜の執務室で見た影がまだ残っている。彼は私の空の皿を見るたび眉間を押さえ、食料庫へ来れば暖炉の薪を増やしていた。


 全部、命令だった。


 食べろ。戻れ。火を絶やすな。


 どうして今まで、理由だけ未記入だったのか。


「ゲルトルートが取り持ってくださったのですね」


「何を?」


「私があなたを庇ったので、レオン様が最近になって……その、評価を改めたのかと」


 ゲルトルートが額を押さえた。


「この日付を見なさい」


「見ています」


「私が来る前」


「見ています!」


 レオン様は注文書ではなく、私の手を見ていた。


 袖がまた落ちる。


 痩せた手首。古い霜傷の跡。私は布を引き上げて隠しかけた。


 レオン様の顔から言葉が消えた。


 そこで手を止めた。


 隠すのも、隠されるのも、もう数量が合わない。


 私は袖を離した。


 レオン様が指先へ触れる。ひどく慎重で、壊れ物の受領検査みたいだった。


「いつから、ここまで」


「冬支度が終われば戻ります」


「毎年そう言う」


 知っていたのか。


 ゲルトルートが椅子を引いた。


「私は倉庫を見てくるわ」


「今ですか」


「今よ。恋敵ではないので、気を利かせる義務があるの」


 扉が閉まる。


 レオン様の手は、私の手首を強く握らない。ただ、離れなかった。


「おまえが食べない日は、同じスープを飲んだ」


「なぜです」


「味が悪ければ、そのせいだと思えるからだ」


「薄いだけです」


「知っている」


「卵も?」


「毎朝、残っていないか確認した」


「残っていたら?」


「ヨゼフィーネに叱られた」


 領主が料理人に叱られながら、私の空の皿を数えていた。


 胸の内側が、急に静かになった。軽口を挟める隙間がない。


「ユリア」


 私の名が、低く落ちる。


「私の妻になってくれ」


 告白より先に朝食を納品してほしい。


 そう言うはずだったのに、声がすぐには出なかった。指先だけが、彼の手の中で少し曲がる。


 返事を渡せば、すべてが済んだことにされそうだった。


 済んでいない。


 私の皿は空で、寝台は冷たく、毛布は誰かの棚に積まれている。甘い言葉だけ受領しても、生活の帳尻は合わない。


「朝食三十回」


「何?」


「暖炉。寝台。未納が三件あります」


 レオン様が瞬いた。


「求婚への返事は」


「告白はまだ検品中です」


「三十日も?」


「耐久試験です。領主様なら数字を尊重してください」


「三十日、朝食を食べればいいのか」


「私が食べます。レオン様は同席してください。私の皿だけ監視するのは禁止です。ご自分も同じだけ食べること」


「暖炉と寝台は」


「食料庫脇から、暖かい部屋へ戻します。毛布も実際に使います」


「わかった」


 即答だった。


「まだ条件があります。仕事中に勝手に薪を増やさないでください。暑いです」


「指が冷たい」


「室温の決定権まで求婚に含めないでください」


「検討する」


「そこは即答ではないのですか!」


 レオン様の口元が、ほんの少し上がった。


 悔しい。


 しかも、その顔をもっと見たいと思ってしまった。検品係として重大な私情である。


    *    *    *


 一日目、ヨゼフィーネは薄いスープと卵を二つ並べた。


 レオン様は私の向かいに座り、私が匙を持つまで自分も持たなかった。


「監視は禁止です」


「見ていない」


「私の卵を見ています」


「焼き加減を見ている」


「同じ鍋です」


 三日目、私は皿を半分残した。


 仕事へ戻ろうとすると、ヨゼフィーネが扉を塞いだ。


「座りな」


「麦の検品が」


「麦は逃げない。あんたは逃げる」


 レオン様が無言で私の椅子を引き直した。領主と料理人の共同戦線。たいへん卑怯である。


 七日目、空の皿を見たレオン様が眉間を押さえた。


「完食しましたが」


「だから困っている」


「なぜです」


「次に何を心配すればいい」


「仕事をしてください」


 十日目、暖炉の火が夜まで残った。食料庫脇ではなく、屋敷の南側に用意された部屋で眠る。


 寝台が柔らかすぎて、最初の夜はかえって眠れなかった。


 二晩目は、目を閉じた次の瞬間に朝だった。


 十四日目、ヨゼフィーネがスープの塩を少し増やした。私が何も言わず飲み干すと、彼女は大きなため息をつき、空の皿へ蓋をした。もう昼まで残すものはないのに。


 二十日目、袖口が手首で止まった。


 ゲルトルートがつまんで確認する。


「少し戻った」


「服が縮みました」


「便利な布ね。今度紹介して」


 二十四日目、レオン様が朝食へ遅れた。


 二分である。


「納品遅延です」


「厩舎で馬が柵を壊した」


「理由欄へ記載しておきます」


「一回と数えるか」


「卵が温かいうちに食べたら」


 彼は立ったまま卵を半分口へ入れ、ヨゼフィーネに「座りな」と叱られた。


 二十八日目、鏡の中の頬から、骨ばった影が少し薄くなった。


 二十九日目、暖炉の前で帳簿を閉じたあと、そのまま朝まで眠った。寝台の上で。毛布を二枚とも使って。


 そして三十日目。


 家族用食堂へ入ると、ヨゼフィーネが二人分の皿を長卓へ並べていた。


 無言である。


 ただし、卵は焼きたて、スープは湯気が立ち、パンには蜂蜜まで添えてある。言葉の代わりに品数が多い。料理人の圧は重さで測るべきだ。


 レオン様の隣には、あの日から空いたままの場所があった。


 私は廊下へ戻り、食料庫脇の小卓に置かれていた自分の椅子を持ち上げた。


「何をしている」


「備品の移動です」


「人を呼べ」


「自分で置きたいので」


 椅子の脚が扉の縁へぶつかった。格好がつかない。もう一度向きを変え、今度こそ家族用食堂へ運び込む。


 長卓の端ではない。


 レオン様の隣へ置いた。


 彼が椅子の背へ手を添えた。手伝うのか奪うのか判別できず、私は反対側を握ったまま睨む。


「離してください」


「どちらへ三寸動かすか迷っている」


「ここです」


「近すぎないか」


「紙を読むには適正距離です」


 墓穴。三十日前の私が掘った穴へ、自分からきれいに納品された。


 レオン様の口元が上がる。


「何です」


「いや」


「笑っています」


「笑っていない」


「では、その口元は不良品です」


 ヨゼフィーネが私たちの前へ皿を押し出した。


「冷めるよ」


 二人で座る。


 同じスープ。同じパン。同じ焼き卵。


 レオン様は私の皿ではなく、自分の皿へ匙を入れた。私も食べる。


 薄くない。


 温かい。


 卵の黄身をパンですくい、最後まで食べた。レオン様の皿も空になった。


 ヨゼフィーネが二枚を重ね、何も言わず炊事場へ戻っていく。扉の向こうで、鼻をすするような音と「玉葱だよ!」という怒鳴り声がした。誰も聞いていないのに。


 レオン様が卓上の日付票を裏返した。


「三十回だ」


「ええ」


「暖炉は毎晩」


「ええ」


「寝台は」


「使用しました」


「では、返事を」


「まだ仕事があります」


 私は新しい月次注文書を広げた。


 レオン様が私の指先を追う。もう青白くはない。ペンを持つ手も震えない。


「冬麦、規定数。灯油、南の部屋に二缶。毛布は現状維持」


「卵は?」


 私は一人分の欄へ数字を書きかけ、止めた。


 椅子はもう隣にある。


 明日の朝も、この席で食べる。明後日も。その次も。


 だから一日二個。三十日で六十個。


「翌月分、二人分を注文します」


 レオン様が息を止めた。


 それから、笑った。


「承諾だな」


「違います」


「私の隣で、二人分の朝食を毎日取る」


「卵を余らせない話です」


「私と食べるのだろう」


「在庫管理上、最も効率がよいので」


「結婚後も?」


「話に未発注の品目を混ぜないでください」


「求婚への返事は三十日後と言った」


「告白を検品すると言いました。求婚とは言っていません」


「同じだ」


「違います。告白は感情、求婚は契約です。分類棚が違います」


「では、検品結果は」


 私は注文書を裏返し、卵六十個の数字を彼へ見せた。


「未納はありません」


 レオン様の笑みが深くなる。


 しまった。今のはたぶん、数量以外のものまで受領した顔だ。


「では一生、余らせないようにしよう」


「話が大きいです! 卵は月次注文です!」


「毎月更新すればいい」


「領主権限で自動更新しないでください!」


「解約の予定は?」


「今それを聞くのは規約違反です!」


 レオン様が声を立てて笑った。


 私も注文書でその肩を叩きながら、笑った。

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