甘夏ジャムと水槽の音
「危ないよ。そんなの、スーパーで買えばいいのに」
白川疏水沿いの遊歩道。足早に駅へと向かっていた男は、水面へ大きくせり出した木に向かって、今にも落ちそうなほど身を乗り出している女を見て、思わずそう呟いた。
狙いは、枝の先で黄色く色づいた甘夏らしき果実だ。数百円を出せば安全に買えるもののために、なぜあそこまで必死になれるのか、男の合理的な思考ではまったく理解できなかった。
通り過ぎようとした、その瞬間だった。
女が橋の欄干に手を伸ばしたまま、ふっと体の重心を失った。時間がゆっくりと歪むように見えた。
「危ない!」
男は条件反射で駆け寄ったが、まったく間に合わない。女の姿が視界からすっと抜け落ちる。
バシャァッ! と、水面を叩く音が遅れて響いた。
欄干から身を乗り出して下を覗き込む。四メートル近い深さの、冷たく暗い水の中で、彼女はきょとんとした顔のまま浮かび上がっていた。片手には、もいだばかりの甘夏をしっかり握ったまま。
幸い深場だったため大きな怪我はなさそうだが、石積みの護岸は高く、ここから自力で上がるのは到底無理だった。
「ちょっと、待ってて! すぐ戻るから!」
男はため息をつきつつ近所の民家に駆け込み、事情を話して古いアルミ製のハシゴを借りてきた。
甘夏を握ったまま、片足を痛めた状態では上がれるはずもない。仕方なく、男もハシゴを降りて水際まで向かう。靴もズボンも容赦なく濡れていく。
「はい、これ持ってて」
差し出されたのは――まさかの甘夏だった。
「……なんだこの女は」
痛む足をかばいながら、彼女は片足と片手を使ってなんとかハシゴを登ろうとする。男は下から支えながら、呆れと心配が入り混じったため息をついた。
「救急車、呼びますか」
「ううん、大丈夫。ちょっと足をくじいただけだから」
女は頑なに拒否したが、ハシゴを登りきった後の足取りはどう見ても不自然だった。放っておくわけにもいかず、男は呆れながらも彼女に肩を貸し、近くにあるというアパートまで送り届けることになった。
「お邪魔します……って、なにこれ?」
部屋の扉を開けた瞬間、男は目を丸くした。
少し薄暗い部屋の壁沿いに、複数のガラス水槽がずらりと並び、それぞれから「ブーン」という低いモーター音が響き続けていた。水槽の中を覗き込むと、黄色地に黒い斑点のある丸っこい魚たちが、短いヒレをヘリコプターのように回してホバリングしている。
「全部フグなんです。可愛いでしょう」
「ふぐ……好きなんだ?」
「はい」
濡れた髪をタオルで拭きながら、女が笑った。
結局、女の足はただの捻挫ではなく、立派な骨折だった。
そして、この複数の水槽の「水換え」という重労働は、松葉杖の人間には到底不可能な作業だった。
かくして、男の「通い飼育員」としての奇妙な日々が始まった。
仕事帰り、スーパーで自分の弁当を買うついでに彼女の部屋へ寄り、重いポリタンクに水を汲んでは水槽のメンテナンスを手伝う。カルキを抜き、水温を合わせてから慎重に注ぐという、自分のこれまでの生活にはなかった繊細な時間がそこにはあった。
男が水換えをしているあいだ、彼女は松葉杖をつきながら台所に立っていた。
甘夏の皮をむき、果肉を刻み、スパイスと一緒に鍋で静かに煮詰めていく。やがて部屋中に、甘くて少しほろ苦い柑橘の香りが満ちていった。モーター音の低い唸りと混ざり合い、どこか現実離れした空気になる。
その香りは、男の鼻腔に深く染みついた。忘れようとしても、ふとした拍子に蘇ってしまうような匂いだった。
「スーパーで買えば、怪我をしなくて済んだのに」
男がぼやきながら重いバケツを運んでいると、台所の彼女は木べらで鍋をかき混ぜながら振り返った。
「無農薬なんだよ! それに、この手間が美味しいんだよ」
そう言って笑うと、また鍋に向き直る。部屋いっぱいに広がる甘い香りが、男の作業着にまで染み込んでいくようだった。
最初は面倒でしかなかった水換えも、慣れてくると不思議と苦にならなくなった。
水槽の前に立つたびに、フグたちが小さなヒレを回して寄ってくる。ガラス越しに指先をじっと見つめてくる姿が愛嬌に溢れ、命の確かな重みを感じさせた。
そして何より、台所で甘夏を煮詰める彼女のゆったりした気配が、男のささくれ立った神経を少しずつ解きほぐしていった。自分の中のどこか固くなっていた部分が、ゆっくりと緩んでいくのを感じていた。
しかし、その日々にも終わりが来る。
「今日で、フグたちともお別れね。本当に助かった、ありがとう」
骨折が完治した日、女はあっさりとそう告げた。
男は「そうですか」とだけ返したが、胸の奥がわずかに沈むのを誤魔化せなかった。
別れが惜しい理由は、フグだけではない。けれど、それを言葉にする理由も資格も、自分にはない。ただ、いつものように水槽の中でフグがゆったりと泳ぐ部屋で、彼女の声を聞くのが、思っていた以上に心地よかった。
「あ、そうだ。私、来月引っ越すんです。だからここに来ても、もう会えませんよ」
玄関で靴を履く男の背中に向けて、彼女はまるで天気の話でもするような調子で言った。
「これ、迷惑かけたお詫び。甘夏ジャム、よかったら」
水換えの合間に、台所でコトコト煮ていたあのジャムだ。
瓶を受け取るとき、指先がかすかに触れた。その一瞬だけ、彼女の体温が指に残った。
男は少しだけ苦笑してそれを受け取り、「元気で」とだけ言って扉を閉めた。
元の合理的で静かな生活に戻った。
無駄な時間はなくなり、仕事の効率は上がった。しかし、男の部屋はあまりに静かすぎた。あの無機質で温かいモーター音が響かない空間は、どこか空洞のように感じられた。
朝食のトーストに、もらったマーマレードを塗って食べる。甘酸っぱくて、少しだけほろ苦い味がした。それを食べる数分間だけ、彼女の部屋の匂いや、ホバリングするフグの丸い姿を思い出すことができた。
数週間が過ぎ、とうとう瓶の底をスプーンが引っ掻くようになった。
ジャムはなくなった。もう食べられない。
その瞬間、彼女とのつながりが完全に絶たれたように感じた。朝の食卓に残っていた彼女の気配も、甘い香りの記憶も、瓶の底と一緒に静かに途切れていく。
胸の奥が、ひどく空っぽになった。
その日の夕方、男は気づけば白川疏水沿いの道を歩いていた。
理由はなかった。ただ、足が勝手にそちらへ向いていた。
水面へせり出した、あの甘夏の木を見上げる。あれほどたわわに実っていた果実は、いまは一番高い枝の先に、ぽつんと一つ残るだけになっていた。
男はそれに吸い寄せられるように欄干へ身を乗り出し、最後の一個に向けて無防備に手を伸ばした。
伸ばした手の先に、あの甘夏の香りの記憶がかすかに重なった。
届くはずもない。自分が何をしているのかも分からない。ただ、そうせずにはいられなかった。
その瞬間、足元のバランスを崩し、水面へ向かって体が傾く――。
ぐいっ。
後ろから、突然ズボンのベルトを力強く引っ張られた。
「危ないよ。スーパーで買えばいいのに」
振り返ると、そこにはかつて自分が放ったセリフをそのまま口にして、おかしそうに笑う彼女が立っていた。
「え……引っ越したんじゃ?」
「引っ越したよ。疏水の少し下流にね。ここ、毎日の散歩コースだから」
彼女は悪戯っぽく笑って、呆然とする男の顔を覗き込んだ。
「もしかして、私の甘夏ジャム、また食べたくなった?」
「……ああ」
男は観念したように大きく息を吐き、素直に白状した。
「それに、水槽の音がないから、全然落ち着かなくて」
その言葉を聞いた彼女は、心底嬉しそうに目を細めた。
「うち、甘夏も、フグもいるよ」




