第二話:棍棒と逆さアワビ
なし
戸越の夜は、江戸のそれとは違う。灯火の届かぬ竹藪の奥から、絶えず「何か」が這いずる音が聞こえる。
名主屋敷の裏手。そこには本来、乾いているはずの戸越の土をわざわざ掘り起こし、井戸水を注ぎ込んで作られた**「人造の泥溜め」**がある。名主に逆らった者、あるいは年貢を納めきれぬ者が、人としての尊厳を泥に溶かすための処刑場だ。
祝言の場から逃げ出したはずの伝次とお花は、一刻も経たぬうちに藪の中で権蔵たちに捕らえられた。
「……源三郎様が返してくれたんだ! 役人の命令に逆らうのか!」
泥まみれで組み伏せられた伝次が叫ぶ。だが、山割の権蔵はその顔を無造作に踏みつけた。
「役人? あんな死に損ない、江戸のゴミ捨て場から流れてきたただの不純物だ。この村の理屈(掟)は、あの差金じゃ測れねえんだよ」
逆さアワビの儀式
泥溜めの上に張り出した太い木の枝。そこから、お花は両足首を荒縄で括られ、逆さまに吊るし上げられていた。
貸し与えられた白装束が、重力に従って捲れ上がる。血液が頭に昇り、お花の顔は熟しすぎた果実のようにどす黒く充血していた。意識が朦朧とする中で、彼女の鼻孔を突くのは、足元に広がる腐った泥の臭いだけだ。
「さあ、始めようか。アワビは逆さに吊るして叩くのが、一番身が柔らかくなる」
権蔵が、愛用の太い棍棒を手に取る。だが、彼はそれを振り下ろさない。
棍棒の先端を、逆さまに揺れるお花の、汗と涙で濡れた柔らかな腹になすりつけた。
「伝次、よく見ておけ。お前のアワビが、俺の『山割り』でどう開くか。お前が口にできるのは、この泥水だけだ」
帳付の佐兵衛が、泥溜めに這いつくばった伝次の後頭部を掴み、強制的に顔を上げさせる。産婆のお兼が、吊るされたお花の髪を掴み、その耳元で獣のような声を漏らした。
「可哀想に。逆さまになれば、女の『理屈』も全部ひっくり返るんだよ。ほら、お前の綺麗な白装束が、泥の色に染まっていくねぇ……」
泥の浸食
権蔵の棍棒が、お花の股の間に滑り込む。打撃ではない。それは「擦り潰す」ような、執拗な蹂躙だった。
お花が絶叫を上げるたび、その口からは唾液がこぼれ、真下の泥溜めに落ちる。
「……汚ねえな」
塀の上。月明かりを背負い、源三郎が腰を下ろしていた。
彼は助けようともせず、ただ腰の**「差金」**を抜き、その鋭い角で己の爪を掃除している。
「源三郎様……! 助けて……助けてくれ!」
伝次が泥を吐きながら叫ぶ。だが、源三郎の目は死人のように冷ややかだった。
「言ったはずだ。二度と俺の前で泣き言を言うなと。……お前が今飲んでいるのは、自分の女から溢れた絶望だろ? 案外、戸越の酒よりはマシな味がするんじゃねえか」
源三郎は、三尊が行う凄惨な「見せしめ」を、検地の調査でもするかのように凝視した。
「名主。……このアワビ、逆さまに吊るすと随分と『石高(値打ち)』が上がるようだな。俺の帳面には、どう記しておけばいい? 『戸越の土は、女の蜜を吸って肥える』とでも書くか?」
名主・徳右衛門が、暗がりの奥で不気味に笑った。
「左様。源三郎様も、一口いかがですかな。この泥溜めは、村の『理屈』を固めるための肥溜めなのですから」
絶望の果て
夜が明けるまで、お花の悲鳴は止まなかった。
白装束はもはや茶褐色に汚れ、逆さまに吊るされた彼女の瞳からは、光が完全に消え失せていた。
伝次は、ただただ泥を舐め続け、その心は粉々に砕け散った。
源三郎は立ち上がり、汚れた差金を腰に戻した。
「……不味いな。どいつもこいつも、生臭くてかなわねえ」
彼は背を向け、自らの長屋へと歩き出す。
だが、その歩みは少しだけ、泥濘を避けるように慎重だった。
彼の脳裏には、泥にまみれながらも、自分を呪うように見つめてきたお花の「死んだ目」が焼き付いていた。
なし




