あの頁、開きましたか?
「あの頁、開きましたか?」
目の前に座る男が微笑みながら私にそう問いかけてきた。
あまりに突然だったので、私は片していた書類の束を床に落としてしまった。
彼は私と同じ会社の同僚である。部署は違うが業務を共にすることが多く、頻繫に打ち合わせを行っている。今日も二人で小さな会議室を借り、これから進めていく企画について話し合っているところであった。
「あの頁ですか……? いったいどの本のことです?」
「あの本ですよ。以前お貸ししたあの本のあの頁のことです」
先も話した通り、私たち二人は関わり合う機会が多く、お互いのプライベートについて話すことも少なくはなかった。
はじめは巷で話題となっている小説についての話から始まった。彼は通勤時や昼休憩などに少しでも時間があると本を読むというほどの読書家らしく、彼はこれまでに読んできた面白い本の話を私に沢山してくれた。
私は妙に彼の語りに惹き込まれ、彼が勧める何冊かを借りる流れとなった。
しかし、普段読書をしない私は、文字を追う速度というのがあまりにも遅く、また、仕事で彼とよく会うので借りる本は家に増えるばかり。
そのため、まだ彼に借りた本をすべて読み終えていない私は、いま彼がいったいどの本の話をしているのかさっぱりであった。
「その本のタイトルを教えてはもらえないだろうか」私はやや控えめな声で彼に聞いた。
「タイトルですか?それは……」
彼がタイトル名を口に出そうとしたそのとき、会議室の扉が開き、彼の部下が入ってきた。
結局、そこで話は中断されてしまい、いったい彼がどの本のことを指していたのかはわからなかった。
その日の夜、私は帰宅してすぐに彼から借りた本の山を確認した。
いったいどの本だ。賞を総なめにしたこの推理小説か? 短編の名手が生涯唯一書いたこの長編ミステリーか? はたまた新人SF作家のこの作品集か?
どれだ。どの本のどの頁だ。
開いては閉じを繰り返して数時間。全くもってわからない。まあ、タイトルや作者など手がかりとなる情報を何も持っていないのだから、わからないのは至極当然である。私はもう少し捜索しようと眠気る頭を振ったが、やはり睡眠時間を奪われるのはイヤだったので、私はその日寝てしまった。
どうせ明日も彼に会うのだから、その時にもう一度タイトルやらなんやらを聞けばよいと考えた。
「開いたんですね。あの頁」
その言葉に、私は資料を捲ろうとした手を止めた。
今日も使用しているいつもの会議室が急に冷えだした。
「いまなんとおっしゃいました?」
「昨日おはなししたあの頁のことですよ。お開きになったんですね」
彼の言葉を飲み込むことができずにいる私の手が震え始める。
昨日手にした数十冊の本の中に彼の言う頁があったのか。果たしてどの本だ。
いや待て。彼はなぜ私がその頁を開いたとわかったんだ?
私はその頁があった本がどの本かということよりも、そちらの方が気になってきてしまった。
「あなたはどうして私がその頁を開いたとお分かりになったんです?」
私の疑問に彼は口を大きく開いて笑った。会議室に響き渡るほどの笑い声であった。
「わかりますよ。私は自分が今まで読んできた本のどの頁ともつながっているんです。よく本や映画、ドラマのシーンなんかを鮮明に覚えているヒトっていますよね? すごいヒトなんかは、それが何ページにあるとか、何分何秒の部分だとか正確に答えることができるんですよ。要は記憶力がいいんでしょうね。私のはそういう力をもっと発展させたものです。本の一頁一頁を自分の感覚が覚えすぎてしまっているんです」
「では、私があなたに借りた本を読んでいるとき、あなたはそのとき私がどの本のどの頁を読んでいるかお分かりになっていたと?」
「ええ。ですが、これが厄介なものでもありましてね、生まれた時から今までに読んだすべての本の感覚を覚えてしまっているんですよ。学童で読んだ絵本や、たまたま古本屋で手に取った本とか。なので本屋は大変ですよ。気になる本や新刊はついつい触れてしまうのでね」
「なるほど……。ちなみに、今回私に問うたあの頁とはどの本のことでしょうか?」
「……お知りになりたいんですか?」
先ほどまでは彼の力というものに興味が湧き始めていたが、そう言われると私は少し気味が悪くて仕方がなくなってきた。
私は純粋に彼が勧めてくれた本を楽しみたいだけだ。たとえ、彼に邪な気持ちがなかったとしても、「こいつはいま、この本のこの頁を読んでいる」という彼の視線を感じながらの読書がいい気持ちだとは私の心が言えなかった。
今まで本を貸してくれたことには感謝しているが、ここで彼との趣味の関係は終わりにしたいと思った。
「君には悪いが、誰かに自分の読書時間を邪魔されたくはない。これまで借りていた本は返すよ」
「……そうですか。では、また次の打ち合わせの時にでも持ってきてください」
彼はあっさりと私の思いを受け入れた。
それから私は、何回かに分けて、今まで借りていた本を彼に返した。
自分の家に積み上げられていた本の山は消え、私の部屋には小さな空きができた。
「よし、この空いた場所にこれから自分で買った本を置いていこう」
そう意気込んだ私はその次の日の仕事帰りに本屋に寄った。
あまり買い過ぎてはいけないと思い、吟味を繰り返した末に片手で数えられるほどの本を選んだ。
そして、また次の日。
趣味での関係は終わったものの、仕事での彼との関係は終わらない。
私と彼はいつもと変わらず同じ会議室を使って仕事を進めていた。話し合いは順調に運び、その日のうちに決めておかなければならないことは済んだ。
丁度昼休憩のチャイムが鳴り、私たちは会議室を退出しようと片づけを始める。
そのとき、電気を消そうと立ち上がった私を、彼が世間話口調で呼び止めた。
「そういえば、あの頁をお開きになったんですね。……何をそんなに驚いた顔をしているんですか。駅前の本屋に置かれてるあの本ですよ。……ハハっ」




