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あの日の春風は今も  作者: リンダ


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ノックアウトステージ前夜

ノックアウトステージ前夜――

「最強」の意味を、ふたりで確かめる夜


ホテルの廊下は、もうだいぶ静かになっていた。

トレーナールームの灯りも落ち、

残っているのは非常灯のやわらかな光だけ。

柚月は、自室の前を通り過ぎて、

まっすぐ廊下の突き当たりまで歩いた。

そこには、さっきと同じバルコニーにつながる小さな扉がある。

ノックもせずに押し開けると、

予想通り、先に誰かがいた。

「……おう。」

手すりにもたれて外を見ていた徹が、

少しだけ振り返る。

「またここか。」

「おめぇもな。」

二人は並んで立ち、

しばらく言葉もなく、ブラジルの夜景を眺めた。


ノックアウトの戦い方

先に口を開いたのは、柚月だった。

「なぁ、徹。」

「ん。」

「ノックアウトステージの戦い方って、

 やっぱリーグ戦と違うんだべ?」

徹は少しだけ考えてから、首をかしげる。

「“違う”って言えば違うし、

 “同じ”って言えば同じだな。」

「どっちだよ。」

「両方だよ。」

と、少し笑う。

「ノックアウトは、文字通り“負けたら終わり”だ。

 だから、どうしても“勝たなきゃ”って気持ちが強くなる。

 でもな――

 “勝たなきゃ”って気持ちが強すぎると、

 逆に“勝てなくなる”ことが多い。」

柚月は、ちらりと横を見る。

「動きが固くなる、ってやつ?」

「それもある。

 体が固くなるし、

 判断も固くなる。

 “ここで取られたらやべぇ”って思うと、

 チャレンジできなくなる。

 “ミスしないこと”が目的になって、

 “点を取りに行くこと”を忘れちまう。」

徹は手すりを軽く叩きながら続けた。

「大事なのはさ――

 今までやってきたことを信じることなんだよ。

 ここまでグループリーグ三試合、

 お前らは“自分たちのサッカー”で勝ってきたろ。

 スウェーデンにも、カナダにも、韓国にも。

 だからノックアウトに入ったからって、

 急に“別のチーム”になろうとしなくていい。」

「でも、負けたら終わりだよ。」

「“負けたくない”の前に、“自分たちが一番強い”って信じろって話。」

徹の声が、少し低くなる。

「監督も言ってただろ。

 車いすテニスの国枝慎吾さんの話。」

「あぁ……“俺は最強だ”って自分に言い聞かせてたってやつ。」

「そう。

 あれな、口だけで言うのは簡単なんだよ。

 でも、あの人は実際に世界のトップで、

 何年も結果出し続けてきた。

 それは、“俺は最強だ”って言い聞かせることで、

 プレッシャーに自分から踏み込んでいったからだと思う。」

徹は、夜空を指さすように、軽く顎を上げる。

「女子サッカーは今、どう考えてもレベル上がってる。

 ヨーロッパも、南米も、アフリカも。

 簡単な試合なんて一個もねぇ。

 でもさ――

 今のなでしこジャパンは、“その中でも最強だ”って、

 俺は本気で思ってる。」

「……おだづな。」

「いや、マジで。」

徹は真顔で言った。

「スウェーデンに勝って、

 カナダに走り勝って、

 韓国にあんだけ押し込まれても、

 最後は笑って帰ってきた。

 “技術と戦術”と“メンタル”のバランスで言えば、

 今の日本は世界のどのチームにも負けてねぇ。

 だから、お前らはピッチに出るとき――

 “俺たちが最強だ”って顔して出ていけばいい。」

柚月は、口の端を少しだけ上げた。

「“最強”ねぇ……。」

「最強ってさ、“一回も負けない”って意味じゃねぇと思うんだわ。」

と徹。

「“何回プレッシャーかかっても、

 最後には自分を信じ切れるチーム”。

 それが、俺の中の“最強”だ。

 お前らは、それをやれるチームだよ。

 だから――」

と、徹は柚月の肩を軽く小突いた。

「最後に笑うのは自分たちだって、

 まず自分で決めろ。

 ノックアウトは、そこから始まる。」

柚月は、しばらく黙って夜風を浴びていたが、

やがて小さくうなずいた。

「……わがった。

 じゃあ明日ピッチ出るとき、

 “うちらが最強だ”って顔して出るわ。」

「そうしろ。

 で、顔が引きつってたら、

 スタンドからスクリーン越しに笑ってやる。」

「やめろ。」

二人は同時に笑った。


全体ミーティング――“最強”の定義

その少し後。

夜の22時。

ホテルのミーティングルームに、

なでしこジャパン全員が集められた。

前にはスクリーン、

その隣にホワイトボード。

原町監督と岩出コーチ、

そして分析スタッフが前列に座る。

しかし、今日は映像機器の電源は入っていない。

ホワイトボードにも何も書かれていない。

「よし、全員いるな。」

原町は、椅子から立ち上がると、

ゆっくりと部屋を見渡した。

「ノックアウトステージ、一試合目。

 相手はフランス。」

短く区切りながら、言葉をつなぐ。

「みんな、もうわかってると思うが――

 明日から、“負けたら終わり”だ。

 W杯のピッチでサッカーができる時間は、

 ここから一試合ごとに減っていく。」

部屋の空気が、少しだけ重くなる。

そこで、原町はわざと肩をすくめた。

「……だからと言って、何か特別なことをするつもりはない。」

選手たちの表情が、少しだけ緩む。

「いつも言ってる通りだ。

 “ノックアウトだから”といって、

 “別のチーム”になる必要はない。

 スウェーデン戦の自分たちを思い出せ。

 カナダ戦の自分たちを思い出せ。

韓国戦で、苦しい時間を笑い飛ばしてた自分たちを思い出せ。」

原町は、一度だけ息を吸い込んだ。

「さっき、誰かが言っていた。

 “今の女子サッカーで、一番強いのはなでしこジャパンだ”って。」

その一言に、ざわり、と小さな空気の波が立つ。

「俺も、そう思っている。」

きっぱりと言い切る。

「ただし、それは**“結果を出したから”**じゃない。

 “スウェーデンに勝ったから”でも、

 “カナダと韓国に勝ったから”でもない。」

原町は、ホワイトボードにマーカーで

大きく一行を書いた。


『俺は最強だ』


「車いすテニスの国枝慎吾さんの話をしたよな。」

選手たちがうなずく。

「世界のトップで、

 何年も何年も結果を残し続けた人だ。

 彼がどうやってプレッシャーと戦っていたか。

 “俺は最強だ”って、自分に言い聞かせていた。

 それは、相手をなめるためでも、

 天狗になるためでもない。

 **“自分で自分を信じるための言葉”**だ。」

原町は、ボードをトントンと叩く。

「みんな勘違いしないでほしい。

 “最強”ってのは、

 一度も負けないことじゃない。

 どんなにプレッシャーが来ても、

 どんなに流れが相手に傾いても、

 “最後の一秒まで、自分たちを信じ続けられるチーム”。

 俺は、それを“最強”だと思ってる。」

前列の美里、柚月、葵。

その後ろの選手たちの目が、ほんの少しだけ光を増す。

「スウェーデン戦、

 カナダ戦、

 韓国戦。

 みんなは、何度もピンチを迎えた。

 それでも、一人も下を向かなかった。

 それどころか、笑っていた。

 “ここでサッカーができるのが嬉しい”って顔をしてた。」

原町は、少し笑った。

「正直、ベンチから見てて、

 “こいつら、強いなぁ”って思ったよ。

 スコアじゃなくて、“心の中のスコア”で。」

部屋のどこかから、小さく笑い声が漏れる。

「明日、フランスと戦う。

 相手は強い。

 間違いなく世界トップレベルだ。

 でもな――

 “フランスが強い”ことと、“自分たちが最強じゃない”ことは、

 イコールじゃない。」

ホワイトボードの下に、新しい文字が増える。


『なでしこジャパンは、最強だ』


「いいか。

 これは外に向けたメッセージじゃない。

 自分たちの内側に向けた、約束ごとだ。

 外には言わなくていい。

 SNSにも書かなくていい。

 明日ピッチに立つとき、それぞれの胸ん中で、

 こう言って出ていけ。」

原町は、ひとつひとつの言葉を区切りながら、ゆっくりと。

「“俺たちが、最強だ。”

 

 “この90分で、それを証明しに行く。”」

沈黙。

誰も笑わない。

誰も目をそらさない。

背中側の壁時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。


岩出コーチから、一言だけ

原町が一歩下がり、岩出コーチに目をやる。

「岩出、何かあるか。」

岩出コーチは椅子から立ち上がると、苦笑いした。

「監督がだいたい言ってくれたので、あんまりないんですけど。」

選手たちから、くすっと笑いが漏れる。

「一つだけ、数字の話をします。」

岩出は親指と人差し指で輪を作った。

「“0”か“1”か。

 ノックアウトの世界は、

 結果だけを見れば“勝つか負けるか”の二択です。

 でも、そこに至るまでの90分は、

 “0.1”とか“0.3”とか“0.7”みたいな、

 たくさんの小さな積み重ねでできている。」

彼は空中に数字を書く真似をした。

「スウェーデン戦、

 カナダ戦、

 韓国戦――

 みんなは、その“0.1”を、

 何十個も何百個も積み上げて勝ってきた。

 だから明日も同じです。

 一発で“1”を取りに行かなくていい。

 “0.1”を積んで、積んで、積んで、

 最後にスコアボードが“1–0”になってればいい。」

岩出は、少しだけ真剣な目で全員を見渡した。

「その“0.1”を積み上げられるチームを、

 俺はこれまで何度も見てきました。

 仙台のジュニアで。

 Jのユースで。

 そして今、ここにいるみんなで。

 だから――

 明日も、同じことを繰り返せばいい。

 難しい新しいことは、何もいらない。」

彼は軽く会釈して、席に戻った。


解散前――キャプテンから

最後に、原町がもう一度前に出る。

「じゃあ、最後にキャプテン。」

美里が呼ばれる。

立ち上がり、前に進む。

マイクはない。

でも声は、部屋の隅々に届いた。

「……えっと。」

一瞬だけ言葉を探して、

すぐに、いつもの調子に戻る。

「明日さ、

 絶対、怖くないって言ったら嘘になる。

 フランスだし、ノックアウトだし。

 でも、私は――

 **“このメンバーでフランスとやれるの、めちゃくちゃ楽しみ”**です。」

彼女は振り返り、仲間たちを見た。

「監督も言ったけど、

 うちらは最強だと思ってる。

 でもそれは、“相手を見下す強さ”じゃなくて、

 **“絶対にお互いを見捨てない強さ”**です。

 誰か一人がミスしても、

 誰か一人が倒れても、

 誰か一人が泣きそうになっても、

 絶対に“置いていかない”。

 そういう意味で、

 うちらはもう、世界一だと思ってる。」

少しだけ笑い、肩をすくめる。

「で、どうせなら“スコアボード”でも世界一になりたいんで、

 明日も、ちゃんと楽しんで勝ちに行きましょう。

 最後に笑うのは、自分たちです。

 それだけ、忘れないでください。」

「お願いします。」と軽く頭を下げ、西野へアイコンタクトを送る。

「行こか。」という目だ。


「じゃあ解散だ。」

原町が言うと、

椅子が一斉に引かれる音が部屋に響く。

部屋を出て行く背中は、

誰一人として、うつむいていない。

ノックアウトステージ初戦・フランス戦。

その前夜。

なでしこジャパンは、それぞれの胸の中で

静かにこうつぶやいていた。


俺たちが、最強だ。

最後に笑うのは、自分たちだ。


そして、その小さな決意の積み重ねが、

翌日のピッチで、確かな“0.1”になっていく。

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