韓国戦
決戦のピッチ ― 韓国戦キックオフ
午後6時。
スタジアムを包む照明が一斉に点り、観客のざわめきが波のように広がる。
空気は張り詰め、湿った風がゴールネットをかすかに揺らした。
実況の声が響く。
「いよいよ予選リーグ最終戦、なでしこジャパン対韓国代表――運命の一戦が始まります!」
両チームの立ち位置
すでに勝ち点6で首位に立つ日本。
勝ち点3が絶対条件の韓国。
勝つか、散るか――その分かれ道に、両チームの覚悟がぶつかり合う。
なでしこジャパンの選手たちは肩を組み、円陣を組む。
キャプテン美里が叫ぶ。
美里
「このチームで、最高のサッカーをしよう!
相手がどんなに前に来ても、うちらは“笑顔でつなぐ”!」
声が夜空に響く。
対する韓国は、監督キムの檄で闘志を燃やしていた。
キム監督
「勝ち点3以外、ありえない! 한국, 가자(行くぞ)!」
火ぶたが切られる
主審のホイッスルがスタジアム全体に響いた。
ボールが動く。
韓国が一気に前線へ。ロングパスを放り込み、日本の最終ラインへ圧力をかける。
だが葵の冷静なセービングで、まずは日本が凌ぐ。
その直後、日本もすぐに反撃。
右サイドを柚月が駆け上がり、クロスを上げる――惜しくもDFがクリア。
ベンチから原町監督の声。
「いいぞ、そのテンポで続けろ!」
ピッチには、緊張と興奮が入り混じる。
誰もが息をのむ瞬間。
ボールが転がるたびに、観客席の歓声が波のように押し寄せた。
この瞬間、
なでしこジャパンはトップ通過をかけたプライドの戦いを、
韓国代表は生き残りを懸けた背水の陣を、
それぞれの思いを胸に――
静かに、しかし確実に火花を散らし始めた。
試合前の祈り ― ユリへの言葉(仙台弁Ver.)
ピッチに立つと、夜風がほんのり潮の匂いを運んできた。
柚月は深く息を吸い込み、胸に手をあてる。
スタンドの上、徹が掲げるユリの遺影が照明を受けて光っていた。
あの笑顔が、まるでそこにいるみたいだった。
柚月(小声で)
「……ユリ、聞こえっか?
おめぇの夢だった“なでしこジャパン”、
今、うち、ここに立ってっからな。」
小さく息をつく。
震える指をぎゅっと握る。
柚月
「やっと、ここまで来たよ。
“世界、いっしょに見に行ぐべ”って言ったべ?
約束、守っからな。
だから――ユリ、力貸してけろ。」
一瞬、風がふわりと頬をなでた。
まるで答えるように。
柚月(目を細めて)
「……うん、わがった。
そこにいんだべ、ユリ。
見でてけろな。
うちら、やっから。」
主審の笛が響く。
柚月は前を向き、静かにボールを蹴り出した。
その一歩は、天国のユリへと続く“約束のキックオフ”だった。
開戦直前 ― 天から届く声
スタジアムのざわめきが、次第に遠のいていく。
柚月はピッチ中央で立ち尽くしたまま、ふと耳を澄ませた。
風の流れが変わった――そう感じた瞬間だった。
照明の光が、ユニフォームの青をやわらかく照らす。
その中で、どこか懐かしい声が、
胸の奥をやさしく震わせた。
⸻
ユリの声(風のように)
「……柚月、おめぇなら、きっとやれっからな。
今までやってきたべ? あの冬の練習、あの雪の日も。
全部、無駄じゃねぇがら。
おめぇの蹴るボールは、想いごと届ぐんだ。」
⸻
柚月は、はっと顔を上げる。
胸の奥があたたかくなる。
スタンドのざわめきも、笛の音も、今はもう聞こえない。
柚月(小さく)
「……ユリ、ありがとな。
見でてけろな、うち、やっから。」
⸻
その頃、ゴール前では葵が手袋のベルトを締め直していた。
その耳にも、確かに届いていた――あの声が。
ユリの声
「葵、おめぇの守備力は、世界一だっちゃ。
怖がんな、いつもの通りでいいっちゃ。
背中に、みんなの想い背負ってっからな。」
葵は一瞬、目を閉じて息を吸い込む。
心の中で静かに答える。
葵(心の声)
「ユリ……聞こえだよ。任せでけろ。
うちら、必ず守っからな。」
⸻
そのとき、主審のホイッスルが高く鳴り響く。
一瞬の静寂を切り裂くように。
柚月がボールを蹴り出す。
葵がゴールを守る。
ユリの声に背中を押されながら――
なでしこジャパンの、最終決戦が動き出した。
青の呼吸 ― 韓国戦」
1.火蓋
主審の笛が、夜空を震わせた。
その瞬間、22人が同時に走り出す。
韓国の出足は狂気じみていた。
最初の5分、彼女たちはまるで“嵐の前脚”のように日本へ襲いかかる。
右サイドのチェ・ユリが縦へ爆発的に加速。
エンドラインまで一気に運び、角度のない位置から鋭いグラウンダーを送り込む。
美里が懸命にコースへ身体をすべり込ませたが、ボールはそのわずか外を抜け――
ゴール前へ転がった。
そこにいるのは葵。
身体の向きを変える余裕もない。
だが、彼女は迷わなかった。
右足のつま先を精密機械のように伸ばし、ギリギリの角度でボールを弾き出す。
「ナイス葵!」
「よく止めた!」
歓声が味方から上がるが、韓国は止まらない。
奪われても、すぐ奪い返す。
鋭利なナイフのようなプレス。
前半10分で、すでに日本の最終ラインは汗で濡れていた。
⸻
2.風の声
そんな最中、柚月は奇妙な感覚を覚えていた。
叫び声、シューズ音、太鼓、金属音――
すべてが遠のいた瞬間。
耳の奥、そこにかすかに響く声。
「柚月、おめぇならやれっから。
怖がっこどなんてねぇ。
蹴れ。前さ、進め。」
――ユリの声だ。
胸の奥が熱くなる。
汗と呼吸の音が、急にやわらぐ。
ピッチの明かりが、少しだけ柔らかく見えた。
同じころ、葵もまた聞いていた。
飛んできたミドルをセーブした直後、
まるで背中を押されるような優しい波。
「葵、おめぇの守備力は世界一だっちゃ。
いつもみでぇに、守れ。」
葵は胸の前で拳を握り、深くうなずいた。
⸻
3.韓国の苛立ち
韓国は何度も何度も攻める。
中央突破、サイドチェンジ、クロスの雨。
しかし日本の“青い壁”は少しも崩れない。
美里のスライディング。
清野のカバーリング。
そして葵の執念のセーブ。
韓国の10番、ジ・ソヨンの顔に焦りが刻まれ始める。
シュートを枠外へ外すたび、舌打ちが聞こえそうだった。
「なんでだ…なんで入らない…!」
その焦燥が、日本の“隙”へつながった。
⸻
4.逆襲
前半32分。
中盤で起きた競り合いから、ボールが日本の美里へこぼれた。
「行く!」
美里は叫ぶと同時に縦へ低いボールを刺す。
受けたのは相沢。
ワンタッチで左へ振る。
日比谷が一気に加速した。
韓国右サイドの背後――千切れた守備ラインの“溝”へ、全速で走った。
「日比谷!」
「持ってけ!」
スタンドからの声援が波のように押し寄せる。
日比谷は追いすがるDFを肩でいなすように前に出し、
ペナルティエリア左奥まで一気に到達。
相手の足が伸びてきたが、見てからでも遅れない。
迷いなく――折り返す。
ゴール正面に西野。
誰もが、「打つ」と思った。
韓国DFは一斉に飛び込む。
だが西野は、触らなかった。
ほんのコンマ数秒の、絶妙なスルー。
「柚月、入れ!」
西野の意図が炎のように伝わる。
そのボールは、ペナルティエリア右後方へ転がる。
そこに、柚月がいた。
まるで、最初からそこにいることをユリに教えられていたように。
柚月はワントラップもせず、
身体ごと右足を振り抜いた。
乾いた衝撃音。
GKの指先で触れたが、抑えきれない。
ボールはファーサイドに吸い込まれ、
ネットの下段が派手に跳ね返る。
――ゴオオオオ!!!
スタジアムが揺れた。
日本ベンチが総立ちになる。
日本 1-0 韓国
柚月は胸の前で両手を握り、空を見上げた。
「ユリ……見でだべ?
うち、決めだよ」
涙はない。
ただ燃えるように熱い息だけが、喉からこぼれた。
⸻
5.揺れる韓国、締める日本
失点した韓国は怒涛の攻撃を続ける。
前半アディショナルタイム、
右からのクロスがどんぴしゃで中央に入る。
地を這うような強烈なミドル。
決まった――と思った瞬間、
葵が飛び、指先でコースを変えた。
ゴールを割らせない。
その姿勢がチームに伝わる。
美里が叫ぶ。
「あと3分! 面で守るよ!」
「ここ耐えんのが、うちらのサッカーだから!」
そして前半終了の笛。
日本は1点を守りきった。
ハーフタイムの笛が鳴ると同時に、スタジアムの温度が一段下がったように感じた。
選手たちがピッチをあとにし、細い通路へ吸い込まれていく。
左右に分かれたその先では、まったく違う空気が待っていた。
⸻
前半の余韻と、ロッカールーム二つ分の温度差
韓国ロッカールーム ――「怒号のハーフタイム」
ドアが閉まるなり、室内の空気が爆ぜた。
キム監督
「왜 이렇게 소극적이야!(なんでこんな消極的なんだ!)
枠に飛ばしてるシュートの数、見てみろ!
あいつらのGKひとりに、どれだけ止められてんだ!」
ホワイトボードのペンが、バンッと叩きつけられる。
靴音、椅子のきしみ、誰かの浅い息。
選手たちは誰も顔を上げない。
汗で濡れたユニフォームが、椅子の背もたれに張りついていた。
キム監督
「前半で勝負決めるつもりで入ったんじゃないのか?
なぜ1点を先にやる! なぜ戻りが遅い!
もっと走れ!ぶつかれ!
後半、やらなきゃ代表の資格なんてないぞ!」
韓国の10番、ジ・ソヨンは唇を噛んだまま黙っている。
彼女も苛立っていた。
自分に対して、チームに対して、そして――止め続けるあの青いGKに対して。
だが、この怒声の渦の中で、
誰も「どう守るか」「どう攻めるか」を口にする者はいなかった。
ただ、“もっとやれ”という言葉だけが
空っぽに響いていた。
⸻
日本ロッカールーム ――「よくやった」の一言から
一方のなでしこジャパンのロッカールーム。
扉が開くと、まず聞こえてきたのは拍手だった。
原町監督と岩出コーチが、立って待っていた。
原町監督
「よくやった。前半、100点だ。」
そう言って、一人ひとりの肩を軽く叩いていく。
美里、柚月、葵、日比谷、西野、國武――
全員の目が、少しだけ柔らかくなった。
ベンチに腰を下ろすと同時に、タオルとドリンクが行き渡る。
選手たちは大きく息を吐いた。
張り詰めていた心臓の糸が、ようやく少し緩む感覚。
岩出コーチが、ホワイトボードの前に立った。
前半のスタッツが簡潔に書かれている。
岩出コーチ
「シュート本数は向こうが上。でも、“質”はうちら。
決定機の数は同じか、むしろこっちが上だ。
まず、そこは胸を張れ。」
葵がタオル越しに息を吐く。
足はまだじんじんしているが、心は――不思議と静かだった。
⸻
原町の違和感
水分補給の合間、原町はふと天井を一度見上げ、それから小声でつぶやいた。
原町監督
「……向こう、だいぶ引きつってたな。」
岩出コーチが横目で見る。
岩出コーチ
「怒号、聞こえましたもんね。
あれでギアが上がるチームもあるけど――
今日の韓国は、ちょっと違う。」
原町監督
「あんな顔してサッカーやって、楽しいのかね。
少なくとも、うちらとは方向が違うな。」
その言葉に、美里が小さく笑う。
美里
「うちら、怒鳴られたら逆にテンパりますもんね。」
柚月
「いや、監督に怒鳴られだら、たぶん真っ先に笑い出すのうちだべ。」
葵
「で、私がその横で“やめてくださいよ〜”って苦笑いしてるやつ。」
ロッカールームに、かすかに笑いが広がる。
緊張をほぐしていく、ほんの少しの余白。
それが、このチームの強さだった。
⸻
後半への指示 ――「怪我だけはするな」
ひと呼吸おいて、原町がホワイトボードの前に立つ。
マーカーのキャップを外す音が、静かな部屋に響いた。
原町監督
「まず、大前提な。
後半、韓国は前半以上に激しく来る。
プレスも、当たりも、言葉も、全部強くなる。」
ボードに赤ペンで矢印が引かれる。
韓国の前線の動き、両サイドバックの押し上げ。
その後ろに開くスペースを、青のマーカーで示す。
原町監督
「これは、“最後の賭け”だ。
勝ち点3が欲しいチームの顔をしてた。
だからこそ――怪我だけはするな。」
部屋の空気が、一瞬だけ変わる。
シリアスな響きが、足首から伝わってくるような感覚。
原町監督
「ここで怪我して、この先の戦いを棒に振るのが一番もったいない。
W杯は、今日で終わりじゃない。
ここから長い戦いが続く。
だから、無茶なタックルに飛び込むな。
かわしていい。遅らせていい。
ゲームとして、上手く逃げろ。」
葵がうなずく。
葵
「相手の突っ込み方、前半でもう分かってきました。
“当たりに来る”タイミングで、こっちが一歩引けばいい。」
岩出コーチが続ける。
岩出コーチ
「それからもうひとつ。
相手のプレスに、感情を露わにするな。
当たりが強くなったとき、
押されただの、蹴られただの、つかまれただの――
そこで“やり返し”に行くな。
余計なカードをもらうと、
このあとが全部狂う。」
ボードの隅に、大きく「CARD」と書かれ、その下に「0」の数字。
岩出コーチ
「この試合、うちの目標は“カード0枚”だ。
ファウルは戦術として必要なときもあるけど、
感情のファウルはいらない。」
美里が前に出て、輪を見渡す。
美里
「みんな、もう分かってると思うけど――
相手がイライラしてくるのは、“うちらが正しいことをやってる証拠”だよ。
フラストレーション=こっちの優位。
それを忘れなければ、感情でぶつかる必要なんてない。」
柚月がにやりと笑う。
柚月
「うちら、相手が荒くなってきたら“あ、効いてる効いてる”って笑っとけばいいべ。
“サッカーしよ? サッカーで勝負しよ”って顔して。」
⸻
送り出す言葉 ――「楽しんでこい」
指示が一通り終わると、
原町はマーカーを置き、
ベンチの前に立っている選手たち一人ひとりを見た。
汗で髪が額に張りついている。
呼吸は整いつつある。
足はまだ重い。それでも、眼差しだけは前を向いていた。
原町監督
「最後に、ひとつだけ。」
声が少しやわらかくなった。
原町監督
「みんな、よくここまで来た。
W杯のピッチで、韓国と引き締まった試合をしてる。
スタンドは満員で、テレビの向こうには日本中がいる。
こんな場所でサッカーできるやつが、世界にどんだけいると思う?」
誰も答えない。
けれど、全員の胸の中で数字を数えたような顔になった。
原町監督
「だから――
楽しんでこい。」
短く言い切る。
原町監督
「この雰囲気、この空気、この音。
全部、耳と身体と心で味わってこい。
守りに入るんじゃなくて、
“ここに立ててる喜び”をサッカーで表現してこい。
勝ち点6持ってるのはうちらだ。
プレッシャーは、あっちに全部預けよう。
うちらは、“世界一を取りに行く側”だ。」
美里がうなずき、声を張る。
美里
「よし、行こう。
いつも通り、“斜め”で合図出して、“面”で守って、“笑顔”で終わるよ!」
葵が立ち上がり、グローブの甲を軽く叩く。
葵
「前半、私が未来に貯金してくる。
後半、三浦さんが利息つけて返してください。」
ロッカールームに、ちいさな笑いが戻る。
柚月は胸の「JAPAN」の文字に手を当て、小さくつぶやいた。
柚月(仙台弁で)
「ユリ、後半も見でてけろな。
うちら、まだまだやっから。」
⸻
トンネルの向こうへ
スタッフが扉を開ける。
外から、スタジアムのざわめきと太鼓の音が流れ込んでくる。
一列になって、トンネルを進む。
芝の匂いが近づくたび、心臓の鼓動も早くなる。
通路の途中で、韓国の選手たちとすれ違った。
張り詰めた顔。
噛みしめる奥歯。
声を張り上げるキム監督の姿が、その後ろに見える。
原町と岩出は、その光景を横目に見ながら、
ごく小さな声でだけ、こう言った。
原町監督
「やっぱり、あれはうちらのやり方じゃないな。」
岩出コーチ
「ですね。
うちらは、“楽しんで強い”チームで行きましょう。」
ピッチへ出る最後の一歩。
照明がまぶしく目に刺さる。
そこが、世界のど真ん中だった。
青の呼吸 ― 韓国戦・後半
6.後半開始――絞り上げられたギア
後半、ホイッスル。
ボールは韓国のキックオフで動き出した。
その瞬間から、日本の陣地に圧がかかる。
前半より、明らかにラインが高い。
前線のイ・グンミンとチェ・ユリが、CBにほとんど距離を与えない。
ジ・ソヨンは一歩下がってセカンドボールを狙い、
LSB チャン・セルギはサイドライン際を往復しながら、
右サイドへ大きなサイドチェンジを何度も通した。
スタンドのモニターに、リアルタイムのスタッツが映る。
ボール支配率
日本 30%
韓国 70%
数字だけ見れば、一方的だった。
日本の最終ラインは押し込まれ続ける。
シュート数も、韓国が倍以上。
クロス、ミドル、こぼれ球――
波状攻撃という言葉が、そのまま形になっているようだった。
だが、肝心の欄は違っていた。
枠内シュート
日本 2
韓国 1
その「1」は、前半に葵が指先で弾いたミドルシュートだ。
後半開始から15分、韓国は幾度も撃っているにもかかわらず、
ほとんどが枠の外か、ブロックに当たってコースを変えられていた。
⸻
7.GKの交代――青い最後尾、バトンリレー
後半15分、タッチライン際にひとりが呼ばれる。
三浦有里。
なでしこジャパンの第2GKにして、葵とともに“守護神コンビ”と呼ばれる存在だ。
原町監督
「有里、行けるな?」
三浦
「もちろんです。葵さんが前半“貯金”してくれたんで、
うちは利息つけて返すだけです。」
葵がグローブを外しながら笑う。
葵
「ユリ(※三浦)も、ユリ(※天国のユリ)も、頼んだよ。」
三浦は小さくうなずき、ピッチへ走る。
交代ボードに「1 伊達 → 23 三浦」。
スタンドから温かい拍手が起こる。
後半のゴールマウスを守るのは、三浦有里。
名字も名前も、あのユリと重なる。
偶然かもしれない。
でも、なでしこたちはそこに縁のようなものを感じていた。
柚月(小声で)
「おめぇの番だよ、有里。
“ユリ”の分まで、止めでけろな。」
⸻
8.韓国の猛プレス――「押し込む」けれど、崩せない
韓国はなお前に出る。
ボールを奪えばすぐに縦、
収まればサイドへ。
日本はブロックを自陣の深い位置に敷いて、
PA前に“青い面”を作る。
ジ・ソヨンがPA手前でボールを受けるたび、
美里がその前に半身で立つ。
斜めのコースが消され、
彼女は仕方なく横または後ろに散らす。
チェ・ユリがサイドから仕掛けるたび、
國武と左SBが二人がかりで向かい、
最後にはタッチへ追いやる。
韓国ベンチからの声が大きくなっていく。
「もっと前へ!
クロスを増やせ!」
「シュートで終われ! 何度でも撃て!」
シュート数は確かに増えていく。
だが、その多くは焦りから生まれた遠めの一撃で、
三浦の守るゴールを脅かすまでには至らなかった。
三浦は、飛んできたボールを淡々とキャッチし、
大きく息を吐いてから、ゆったりと前線へボールを投げる。
その度に、時間が溶けていく。
岩出コーチ(ベンチで)
「いい、いい。この時間帯、“数字が呼吸してる”だけ。
まだ慌てるな。」
⸻
9.ロングスロー――罠と、スイッチ
後半25分。
日本の右サイドでスローイン。
ボールを持つのは、ロングスローを得意とする右SB。
韓国は、ここにもプレスをかけてきた。
3人が一斉に寄せ、“スローインの出しどころ”を消しにかかる。
美里がサイドライン際で手を挙げた。
「ここ」と示すが、そこには韓国の選手もぴったりついている。
柚月は少し離れた位置で、相手アンカーの背中に立った。
視線が合う。
ほんの少し、顎が“上”を指す。
――合図は、斜めじゃない。
今度は、“高さ”だった。
右SBのロングスローが、ペナルティエリア手前まで飛ぶ。
競り合いでボールは高く弾み、
空中での“第二の勝負”が始まる。
韓国のボランチが、その浮き球を奪おうとして、
身体ごと突っ込んだ。
その瞬間、日本の選手はボールにかすっただけで離れ、
韓国の選手の足だけが空を切る。
遅れてきたスライディングタックル。
ボールが離れたあとに飛び込んだ形。
バチッ、とスパイクが芝をえぐる音。
日本の選手が倒れ込む。
スタジアムが一瞬、静まり返った。
⸻
10.レッドカード
主審が笛を噴き鳴らす。
韓国の選手が立ち上がる前に、
ポケットへ手が伸びる。
――黄か、赤か。
全員の視線がそこへ集まる。
日本の選手たちは、誰ひとり詰め寄らない。
痛がる味方を囲むように立ち、
ただ静かに事の行方を見つめている。
原町の言葉が、全員の頭に残っていた。
「感情でぶつかるな。余計なカードはいらない。」
主審の手が、ゆっくりと上へ――
赤いカードが、照明を受けて鮮烈に光った。
スタンドから、どよめきとため息が同時に上がる。
韓国の選手が目を見開き、
自分の胸を指さして抗議しようとする。
だが、キャプテンが肩をつかんだ。
「もういい。行こう。
これ以上、壊れんな。」
韓国は一人少なくなる。
時間は、後半30分を少し過ぎたところ。
スコアはまだ、1-0。
だが、ピッチの温度は明らかに変わった。
⸻
11.フリーキック――2点目の“置き場所”
ファウルの地点は、ゴールまで25メートルほど。
やや右寄り。
直接も狙えるし、合わせることもできる、絶妙な位置だった。
ボールの前に立つのは、日比谷。
そして、その横に柚月。
壁の向こうで、韓国GKが防御の位置を調整している。
声が飛び交う。
壁の人数、立ち位置、ニアとファーの担当。
日比谷は、じっとボールを見つめたまま呟く。
日比谷
「……柚月さん、どうします?」
柚月
「GK、ニアに寄り気味だべ。
でも、あそこは“見せ球”でいい。
うちが一回、ニア見せっから。」
日比谷
「了解です。」
壁の向こうで、韓国の選手が叫ぶ。
「ニア気をつけろ! 9番、打ってくるぞ!」
主審の笛。
一歩、二歩、三歩――
柚月が先に助走に入る。
身体の向きは完全にニアポスト。
GKも一緒にそちらへ重心をずらす。
だが柚月は、ぎりぎりで足を止める。
そのまま、ボールに触れずに壁の横を回り込む。
瞬間、視界から柚月が消えたGKの前で、
日比谷が滑らかに右足を振り抜いた。
強くはない。
だが、コースだけを狙いすましたボールが、
壁の外側、GKがさっきまでいた場所の“空きスペース”へ吸い込まれていく。
GKが反応する。
だが、一度ずらした重心は戻りきらない。
ボールは、ポストの内側をかすめて、
ネットのサイドを揺らした。
――ゴオオオオッ!
日本 2-0 韓国
日比谷は両手を広げて走り出し、
真っ先に柚月の胸に飛び込んだ。
日比谷
「ナイス、見せ球っす!」
柚月
「日比谷のコントロールがエグいんだっちゃ。
完璧だべ。」
美里が駆け寄りながら叫ぶ。
美里
「よし、あと1点。
“決定打”行こう!」
⸻
12.崩れる守備ライン、広がるスペース
2点差。
しかも、一人少ない状況。
普通なら、ここで試合は落ち着く。
だが、韓国は引けなかった。
勝ち点3がなければ、グループリーグ突破はほぼ消える。
「まだ行ける!」
「1点返せば流れは変わる!」
そう信じたい気持ちが、
彼女たちをさらに前へ押し上げていく。
しかし、サッカーの守備は“全員で行く”のが前提だ。
一人欠けただけでも、連動のバランスは崩れる。
ラインが揃わない。
スライドが遅れる。
一歩目のズレが、二歩、三歩の穴になっていく。
日本は、その“穴”を見逃さなかった。
後半38分。
自陣左サイドでボールを奪った美里が、
ワンタッチで中央の柚月へ。
韓国の選手たちは前がかりになっている。
アンカーとCBの間に、ぽっかりと空洞のようなスペースができていた。
柚月
「行けっ!」
斜めでも、縦でもない。
まっすぐでも、曲線でもない。
彼女が選んだのは、
“時間をずらす”グラウンダーパスだった。
一拍、遅らせて出したそのボールは、
韓国のラインが揃う前、
DFとMFの“継ぎ目”をすり抜けていく。
走り込んできたのは、渡瀬ひかり。
途中出場のスピードスター。
オフサイドはない。
韓国の最終ラインがずれた瞬間を、
柚月は“見逃さなかった”のだ。
渡瀬が左足でボールを少し前に出し、
飛び出してきたGKを見て、
ふっと力を抜いたインサイドキックでボールを浮かせる。
GKの頭上を越え、
ゆっくりと、しかし確実に、
白いラインを越えていく。
ネットがふんわりと揺れた。
――スタジアムの空気が、決壊した。
日本 3-0 韓国
⸻
13.終幕――3-0、そして握手
残り時間はわずか。
韓国はそれでも諦めなかった。
最後まで前へ出ようとした。
だが、ボールを追う足には、疲労と悔しさが重たく絡みついている。
日本はボールを回した。
急がない。
でも、ただ守るだけでもない。
ピッチの幅いっぱいを使いながら、
まるで“この時間そのものを味わう”ように、
青いユニフォームがゆっくりと動いた。
「楽しめ。」
「この空気を、全部覚えて帰れ。」
原町の言葉が全員の脳裏でほどける。
アディショナルタイム、3分。
三浦がキャッチした最後のロングボールを、
静かに前線へ送ったところで――
主審が時計を見た。
胸のホイッスルへ指が伸びる。
ピイィィィィィ――――。
長い笛の余韻が、夜空に溶けていく。
日本 3-0 韓国
選手たちが一斉に両手を突き上げ、
ベンチが総立ちになる。
だが、日本の選手たちは、
まず最初にピッチへ一礼した。
そのあとで、韓国の選手一人ひとりのもとへ歩いていく。
握手。
ハグ。
遠くを見る目。
膝に手をつき、動けない選手。
喜びと落胆が、同じ芝の上で混ざり合う。
柚月は、ジ・ソヨンの前に立った。
柚月
「お疲れさまです。
すごい、怖かったっす。
でも、楽しかった。」
ジ・ソヨンは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
ジ・ソヨン
「……あなたたちは、楽しそうにサッカーするね。」
柚月
「それが、一番強いって、信じでるんで。」
二人は固く握手を交わした。
⸻
14.トンネルの途中――ユリへ
ピッチをあとにして、
薄暗いトンネルへ入るその途中で、
柚月はふと立ち止まった。
スタンドの一角。
徹が掲げるユリの遺影が、
まだそこにあった。
彼女は、そっと右手を上げる。
声は届かない距離。
けれど、心の中でははっきりと言葉にした。
柚月(心の中で、仙台弁)
「ユリ。
見でだべ?
うちら、やったぞ。
ベスト16じゃねぇ、
世界一、ここから取りに行くからな。
まだまだ、つながる“斜め”あっから。」
そのとき、トンネルの天井あたりから、
ひとすじの風が、すっと通り抜けた。
汗で張りついた前髪が、ふわりと揺れる。
ユリの声(風の中で)
「見でだよ、柚月。
おめぇらなら、どごまでだって行けっから。
楽しんでこい。
世界一になって、“面白がって”こい。」
柚月は、小さく笑った。
柚月
「うん。
楽しんで、世界一取ってくっからな。」
背後から、美里と葵、有里(三浦)が追いついてくる。
美里
「おーい、ひとりでエンディング迎えないの。
こっから、まだ大会続くよ?」
葵
「そうですよ。
私、次また出番もらったときのために、
未来貯金、いったん預けときますから。」
三浦
「預かっときます。
決勝までに、利息つけて増やして返します。」
柚月は、笑いながら三人に追いつく。
柚月(仙台弁)
「んだな。
まだ“本番”はこれからだっちゃ。
次、準々決勝、その次、準決勝、
で、決勝――全部、“斜め”でつないでやっぺ。」
四人の背中が、照明の光に照らされて、トンネルの奥へ消えていく。
なでしこジャパン、グループリーグ3戦全勝。
韓国は、ここで大会を去る。
スコアボードにはもう、数字は残っていない。
だが、**3-0という結果と、その裏にあった“楽しむ強さ”**は、
彼女たちの心の中で、ずっと呼吸し続けていた。
――物語は、次のノックアウトステージへと続いていく。
ピッチ上の照明が少し落とされ、「PLAYER OF THE MATCH」のボードが片付けられる。
その中央に、なでしこジャパンの選手たちが並んだ。背後のスタンドでは、まだ日本コールが続いている。
マイクを握るのは、地上波の女性アナウンサー。
⸻
ピッチサイド・フラッシュインタビュー
アナウンサー
「見事な勝利でした! まずは原町監督、おめでとうございます!」
原町監督
「ありがとうございます。」
アナウンサー
「まず、対戦した韓国代表チームについて、どのような印象を?」
原町監督
「本当に、最後まで激しく戦ってくる素晴らしいチームでした。
技術も、運動量も、メンタルも、どれも世界基準です。
あれだけ前からプレスをかけ続けて、なおかつボールも握れるチームはそう多くありません。
心からリスペクトしています。」
アナウンサー
「その中で 3–0 の勝利を収めました。率直なお気持ちは?」
原町監督
「もちろん嬉しいです。
でもそれ以上に、**“みんなが楽しんでサッカーしていた”**ことが一番、誇らしいですね。
苦しい時間帯もたくさんありましたが、誰も下を向かなかった。
互いに声を掛け合いながら、自分たちのサッカーを表現してくれたと思います。」
⸻
主将・美里インタビュー
アナウンサー
「キャプテン・美里選手にうかがいます。グループリーグ最終戦、3戦全勝で突破です。今の気持ちを聞かせてください。」
美里
「素直に、ホッとしてます(笑)。
ただ、ホッとしながらも、“ここからが本当の勝負だな”って気持ちも同時にあって。
でも何より、今日の試合をピッチの全員で楽しめたことが嬉しいです。
韓国は本当に強くて、押し込まれる時間も多かったですけど、
“このプレッシャーの中でサッカーできるの、最高じゃん”って思いながらやってました。」
アナウンサー
「楽しむ、という言葉が出ました。具体的には、どういう瞬間に“楽しい”と感じましたか?」
美里
「相手がすごいプレスしてきて、ボールを取りに来て、
それでも一個パスが繋がった瞬間とか、ワンタッチでかわした瞬間とか。
“あ、今ちゃんと世界と渡り合ってるな”って実感があって。
それをベンチも含めてみんなで共有できたことが、楽しかったです。」
⸻
柚月インタビュー
アナウンサー
「続いて、今日も中盤で攻守に存在感を見せた、相馬(大船)柚月選手です。おめでとうございます。」
柚月
「ありがとさまです。」
アナウンサー
「韓国の激しいプレスに対して、“斜め”や“遅い縦”で時間を作る場面が印象的でした。 どんなことを意識していましたか?」
柚月
「前半からずっと、『相手は前へ前へ』ってエネルギーで来てたので、
その勢いをそのまま受けないことを意識してました。
“最短距離”のパスは餌、っていうか……そこをあえて外して、
斜めに、ちょっとずらしたところにボールを置いてあげることで、
相手の足と頭に、ワンクッション余計な仕事をさせるイメージです。」
アナウンサー
「試合前に、天国のユリさんに語りかけるシーンがありました。
今日のこの勝利を、どんなふうに伝えたいですか?」
柚月(少し空を見て、仙台弁で)
「ユリ、見でだべ? って、まず言いますね。
“おめぇの夢だっだなでしこのユニフォーム着て、世界の舞台で勝ったよ”って。
うちら、ピッチでちゃんと笑ってサッカーしてっから、
『それでいいっちゃ』って、きっと笑ってくれると思います。」
アナウンサー
「今日の試合、ご自身も“楽しめましたか?”」
柚月
「はい、めちゃくちゃ。
苦しいのも、走るのもしんどいのも、“ああ、W杯来たな”って感じで全部楽しんでました。」
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守護神コンビ:葵 & 三浦有里
アナウンサー
「前半ゴールを守った伊達葵選手にも聞きます。
序盤から相手のシュートが続きましたが、どんな気持ちでゴールに立っていましたか?」
葵
「“あ、今日忙しいな”って思いました(笑)。
でも、こういう試合で忙しくなれるのは、GKとしては幸せなことでもあるので。
一本一本、“未来への貯金”だと思って、楽しく止めてました。」
アナウンサー
「未来への貯金?」
葵
「はい。前半で止められるだけ止めといたら、
後半、交代した有里が“利息つけて守ってくれる”って信じてるので。」
アナウンサー
「続いて、その後半のゴールを守った三浦有里選手です。
途中出場で、無失点に抑えました。今の気持ちをお願いします。」
三浦
「まずは、前半から体を張って守ってくれたみんなに“ありがとう”って伝えたいです。
入る前に葵さんから“貯金しておいたから、利息つけて返して”って言われたので、
『じゃあ3–0で返しますね』って、心の中でこっそり約束してました。
それが結果として叶ったので、すごく嬉しいです。」
アナウンサー
「おふたりも、やはり“楽しめた”と?」
葵
「はい。怖さよりワクワクが勝ってました。」
三浦
「『ここを守れたら、また一個、世界に近づける』って思いながら、ワクワクしてました。」
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日比谷みちるインタビュー
アナウンサー
「2点目の美しいフリーキックを決めた、日比谷みちる選手です。ゴールシーンを振り返ってください。」
日比谷
「壁とキーパーの立ち位置を見たときに、
“柚月さんが一回ニアを見せてくれるな”って、なんとなく感じたので(笑)、
あとは空いたところに“ボールをそっと置きにいく”イメージで蹴りました。
しっかり決まってよかったです。」
アナウンサー
「緊張は?」
日比谷
「めちゃくちゃ緊張しましたけど……
“この緊張も、W杯じゃないと味わえない”って思ったら、
楽しくなってきました。」
⸻
監督・コーチ 会見コメント
試合後の公式会見。
記者席からのライトがまぶしい会見場で、
原町監督と岩出コーチが、改めて言葉を紡ぐ。
原町監督
「まずは、韓国代表チームに最大限の敬意を表したいと思います。
最後までアグレッシブに、リスクを恐れず攻め込んできた。
そういうチームとこの舞台で戦えたことは、
私たちにとっても大きな財産です。
その中で今日のうちの選手たちは、
**“楽しみながら、冷静に戦う”**という目標をしっかり体現してくれました。
ボール支配率では相手が上回っていましたが、
数字に振り回されることなく、自分たちのゲームプランを遂行してくれたと思います。」
「グループリーグはここで終わりですが、
大会としては、ここからが本当の勝負です。
ノックアウトステージは、一つのミスで流れが変わる世界。
だからこそ、今日のように“感情に飲まれないこと”、
そして**“この舞台でサッカーができる喜びを忘れないこと”**を、
次の試合でも大事にしていきたいですね。」
⸻
岩出コーチ
「選手たちは、本当によく頑張ってくれました。
韓国のプレッシングは想定以上でしたが、
その中でも冷静さを失わず、カードをもらわず、
大きな怪我もなく終えられたことは、
ノックアウトステージを見据えるうえで非常に重要なポイントです。
これからは、**“相手を上回る”**だけではなく、
**“自分たちを更新し続ける”**ことが必要になります。
分析スタッフとともに、次の相手に向けた準備をすぐ始めますが、
同時に、選手たちにはしっかり休んで、
今日の勝利と、この雰囲気を“ちゃんと味わって”ほしいと伝えました。」
⸻
最後に、記者からこんな質問が飛ぶ。
記者
「監督、このチームは世界一になれますか?」
原町は、少し笑ってから、はっきりと答えた。
原町監督
「なります。
彼女たちが“世界一を取りに行く”と言ってここにいる以上、
私たちスタッフも、その前提で準備をします。
今日もそうでしたが――
“楽しんでいるチームが一番強い”
私はそう信じています。」
会見場に小さな笑いと拍手が起きる。
選手たちはロッカールームで、
スパイクを脱ぎながら、静かな余韻をかみしめていた。
「今日も、ちゃんと楽しめたね。」
そう言えることが、
なによりの勝利だった。
そして、ノックアウトステージ――
新しい“斜めの合図”が、また世界へ放たれていく。
ノックアウトステージ一回戦 vsフランス前夜
――「負けたら終わり」の夜に、風と話す
⸻
1.フランス対策ミーティング――“負けたら終わり”の部屋の温度
午後の映像ルーム。
ホワイトボードには、青いマーカーで描かれた「4-3-3」の配置。
上には大きく、原町が三文字書き込んでいた。
「負けたら終わり」
その下に、さらに小さく。
「でも、サッカーはいつも90分」
原町監督が、部屋を一周見渡す。
今日は、いつもより新戦力組が前列に座っていた。
フランスリーグでプレーしている選手、
欧州移籍組、代表経験の浅い若手たち。
「じゃ、始めようか。」
スクリーンに再生されるのは、
直近数年のフランス代表の試合映像。
ワールドカップ、EURO、親善試合――
何度も日本が対戦してきた相手でもある。
⸻
原町がリモコンを止める。
フランスの左サイド、エース格のウインガーが
1対1でDFをちぎり、クロスを上げるシーンで静止画になった。
「まず、フランスの強みから。」
1本指を立てる。
「一つ。
左サイドの個の破壊力。
うちが去年も、何回も“あ、やられるかも”ってなったの、
ほぼここだ。」
ホワイトボードに「左WG」「LSB」「IH」の三角形が描かれ、
“トライアングル+ハーフスペース”とメモがつく。
「二つ。
高さとセットプレー。
CB、ボランチ、FW、どこを取っても空中戦が強い。
CKとFKは、1本で流れを持っていかれる。」
三つ目の指が立つ。
「三つ。
スイッチが入ったときのテンポチェンジ。
ボールを回してるだけに見えて、
突然、縦に三本でゴールに迫ってくる。」
岩出コーチが、ここで前へ出た。
「逆に、弱点な。」
画面が切り替わり、フランスがカウンターを食らっている場面。
「一つ。
重心が前にかかりすぎたときの、背中のケアが甘い。
LSBが高い位置を取り続けたあと、その裏を何度も突かれている。
うちの“遅い縦”が刺さる場所は、ちゃんとある。」
別のシーン。
セットプレー時の守備で、
CB同士がマークの受け渡しに失敗する。
「二つ。
セット守備で人とゾーンの切り替えミスが出る。
ニアとファーの“間”、
ここに遅れて入る選手がいれば、点は取れる。」
原町が、若い選手たちの方を見た。
「だから今日は、
“フランスを知らない選手”に、あえて喋ってもらいたい。
映像を見て、何を感じた?」
手を挙げたのは、今回初W杯の若手MF。
「えっと……
怖いですけど、
でも、常に前向き過ぎるっていうか……。
ボール失ったときの“うっかり”が、
自分たちにも、ちゃんとチャンスになるな、って。」
原町がうなずく。
「そう、それ。
“怖さ”と“隙”は、セットで存在する。
スウェーデンも、カナダも、韓国もそうだった。
フランスも変わらない。」
岩出コーチが、最後にまとめる。
「フランスは強い。
でも、“知らない怪物”じゃない。
何度も戦って、何度も苦しめてきた相手だ。
そこに新戦力が入ったことで、
うちの“言語”に新しい語彙が増えた。
明日やるのは、
“新しい日本語で、フランスと会話するサッカー”だと思ってくれ。」
部屋に、じわっと笑いが広がる。
「言葉に詰まったら、『斜め』と『遅い縦』に戻ればいい。
そこに、“世界基準の日本語”が全部入ってる。」
⸻
2.汗と湯気と笑い声――なでしこ風呂ミーティング
ミーティングが終わると、
選手たちはいったん部屋に戻り、
スパイクやテーピングを置いて、大浴場へ向かった。
「はぁ~~~っっ。」
湯船に肩まで浸かった美里が、
思いっきり息を吐く。
「これでやっと汗流せた……。」
「今日、汗じゃなくて“韓国のプレス”が毛穴に詰まってたもんね。」
と日比谷が笑うと、
「それはシャワーじゃ落ちねぇな」と柚月。
湯気の中、笑い声が弾ける。
葵と三浦有里は、壁際で脚を伸ばしながら、
グローブをしていない両手を眺めていた。
「なんか、変な感じしません?
いつもテーピング巻いてる手が、すっぴんでお湯にいるの。」
「わかる。
でもさ――」葵が湯をすくって手のひらに落とす。
「こうやって一回、何もない状態に戻すのが大事なんだよね。
プレッシャーも、ボールの感触も、一回流して。
明日、またゼロから積めばいい。」
「葵さん、名言っすね。
“プレッシャーはお湯で流す”。」
「それだと、なんか温泉のキャッチコピーみたいだな。」
湯船の縁で髪をまとめていた若手が、ぽつりと言う。
「でも、なんかホッとしました。
ノックアウトステージって聞いただけで、
体がカチカチになってたから。」
美里が湯から顔だけ出して、言葉を返す。
「“負けたら終わり”だけど、
“負けるかどうかを決めるのは、明日の自分たち”だから。
今の私たちができるのは、
きちんと疲れを落として、
きちんと笑って、
きちんと寝ること。」
日比谷が指を折る。
「きちんと食べる、も追加で。」
「それな!」と湯船が揺れる。
湯気の向こうで、
誰かがユリの話題を出しかけて、
ふっと言葉を飲み込んだ。
葵が静かに続ける。
「ユリもさ、絶対こう言うと思うんだよね。
“ちゃんと風呂入って寝ろ”って。」
「わかる。」
「めっちゃ言いそう。」
湯船の中で、小さな笑いが生まれた。
⸻
3.夕食――「緊張」と「おかわり」の共存
バイキング形式の夕食会場。
選手たちは思い思いにプレートを持ち、
炭水化物とタンパク質と野菜を、
各自のルーティンで盛り付けていく。
「その量、明日フル出場する気満々だね。」
と日比谷が柚月の皿を見て笑う。
「んだって、**“延長+PKまでやる”**つもりで食わねと。」
「さすが、W延長仕様。」
デザートコーナーでは、
若手組がフルーツとヨーグルトを
真剣な顔で選んでいる。
「チョコケーキは?」と聞かれて、
美里が即答した。
「決勝で食べる分、とっとけ。
“あのケーキを優勝してから食べた”って、
あとで一生語れるから。」
「うわ、それずるい。
じゃあ我慢します。」
「うちも我慢する。」
「じゃあ私も。」
テーブルに戻ると、
原町と岩出は、少し離れた席で
選手たちの“食べ方”を静かに見ていた。
「ちゃんと食って、ちゃんと笑ってるな。」
と原町。
「ノックアウト前夜でこれなら、上々です。」
と岩出。
「緊張してないわけじゃないけど、
ちゃんと“日常”を持ち込めてる。」
「そういうチームが、最後まで残るんですよ。」
二人は視線を交わし、
皿の上のサラダを静かに口に運んだ。
⸻
4.夜風と、ふたりのユリ――バルコニーにて
食後。
ロビーは早めに静まり、
各自が自分の部屋でストレッチやマッサージをしている時間帯。
その少し上。
ホテルのバルコニーに、柚月の姿があった。
夜風が、汗の引いた首筋をやさしく撫でる。
ブラジルの街の灯りが遠く瞬き、
スタジアムの照明塔が、まだかすかに空を照らしている。
柚月は、胸元をそっと押さえた。
そこには、いつもユニフォームの下に下げている小さなペンダント。
ユリと三人で撮った写真が、折りたたんで入っている。
心の中で、そっと語りかける。
(ユリ。
うちら、やっとここまで来たよ。
W杯で、ノックアウトステージ。
次はフランスだ。)
(おめぇが“対戦したかった国”のひとつだべ?
強くて、速くて、でもどっかで隙があって、
“そこ突けたら最高だよな”って、
昔、三人で話したっけ。)
(明日、そのピッチに立つの、うちだよ。
“なでしこジャパンの一員”として。
ちょっと怖くて、
でも、その何倍も、ワクワクしてる。)
風が少し強くなる。
どこか遠くで、車のクラクションが鳴る。
(なぁユリ。
負けたら終わりの試合で、
おめぇだったら、どんな顔してピッチ出る?)
(たぶん、笑うんだべな。
“こんなオモロい舞台、楽しまねぇともったいねぇべ!”
って、絶対言う。)
柚月が、ふっと笑う。
ちょうどその時、バルコニーの扉が開いた。
「ここだと思った。」
声でわかる。
大船徹が、軽いパーカー姿で外に出てきた。
「勝手に人のルーティンに侵入すんなや。」
と柚月が笑うと、
「いや、W杯前夜のルーティンに参加できるって、
なかなか無ぇ機会だからよ。」
と徹も笑い返す。
⸻
5.徹と柚月――“ノックアウトの空気”の話
ふたりは手すりにもたれ、
同じ方向を見ながら話し始めた。
「まずは、予選突破おめでとう。」
と徹。
「ありがとさま。」
と柚月。
「テレビで見てっけどさ、
スウェーデンとカナダと韓国やったあとに、
まだこの顔して笑ってんの、すげぇなって思った。」
「それ、褒め言葉で受け取っとくわ。」
少し沈黙があって、
徹がふっと真面目な声になる。
「で――明日、フランスだな。」
「んだ。
負けたら終わり。
でも、“ここからが一番面白ぇ”って感じもしてる。」
「ノックアウトステージってさ、
リーグ戦と“空気の質”が全然違うんだよな。」
徹は、自分の経験を思い返すように目を細めた。
「Jでも、ACLでも、
ホーム&アウェイのトーナメントとか、
一発勝負のカップ戦とかやってきたけどさ。
みんな“負けたくない”って思ってピッチ出る。
でも、“負けたくない”だけで出ると、
だいたい負けるんだよ。」
「なんで?」
「“負けたくない”って感情は、
無意識に**“失点したくない”**に変わるから。
すると、人は“チャレンジしない守備”を選びがちになる。」
「“外す勇気”がなくなる、か。」
「そう。
この前、お前が言っただろ。
“外す勇気、通す誠実”って。
あれ、ノックアウトステージで一番効くんだわ。
“外す勇気”を捨てた瞬間に、
世界のピッチは、ただの“怖い場所”になる。」
柚月は、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「じゃあ、どうしたらいい?」
徹は、少し笑って答える。
「簡単だよ。
“負けたくない”より先に、
**“この90分を面白がる”**って決めて出ること。
ノックアウトのプレッシャーってさ、
逆に言えば“人生でそう何度も味わえねぇ、
最高級のスパイス”みてぇなもんだから。」
「スパイスて。」
「辛いけど、クセになるやつな。」
ふたりで笑う。
「あと、もうひとつ。
ルーティンで“日常”を持ち込むこと。」
「日常?」
「引き分けでも次があるリーグ戦と、
負けたら終わりのトーナメント。
空気が違うのは当たり前なんだけどさ。
そこで“特別なことをしよう”って思うと、
だいたい空回りする。
いつも通りアップして、
いつも通り声出して、
いつも通りボール触って、
その延長線上に“特別な90分”がある。
そう思えば、
ノックアウトも、
いつもと同じピッチだよ。」
柚月は、しばらく黙って聞いていた。
そして、ぽつりと言う。
「ユリもさ、同じこと言うと思う。」
「だろうな。」
と徹。
「“負けたら終わりだっちゃ? じゃあ負けなきゃいいべ”
とか言いながらさ。
いつもと同じように、
ゲラゲラ笑ってピッチ出てくんだよ、あいつ。」
「想像つくわ。」
ふたりの間に、温かい沈黙が流れる。
⸻
6.ユリへの“報告会議”
柚月が、空に向かって少し顎を上げた。
「ユリ。」
徹も同じ方向を見る。
「聞いでっか?
うちら、ここまでちゃんと来たよ。」
と徹。
柚月が続ける。
「スウェーデン倒して、
カナダ倒して、
韓国にも勝って、
今、フランスとやりに行くとこだ。」
「お前が夢見てた舞台で。」
と徹。
風が、少しだけ強く吹く。
髪を揺らし、パーカーの裾をつまむように。
柚月は仙台弁のまま、静かに言う。
「ユリ。
明日さ――
“負けたら終わり”の試合で、
おめぇの分まで、楽しんでくっから。
怖さも、重さも、
全部まとめて、
“世界のスパイス”として味わってくっから。」
徹も手すりに額を預ける。
「スタンドから見でろよ。
いや、上からでもいいけどさ。
“そこ、斜めだっちゃ!”って、
ちゃんとツッコんでくれよ。」
柚月がふっと笑う。
「うるせぇって言う声、
どっかから聞こえてきそうだな。」
「聞こえる聞こえる。」
ふたりはしばらく、何も言わずに夜景を眺めた。
その沈黙に、怖さも、不安も、
そして、それを上回る期待も、全部混ざっていた。
⸻
7.部屋へ戻る前に――決めごと
「そろそろ戻っか。」
と徹が言う。
「んだな。
明日、寝坊したらシャレになんねぇし。」
と柚月。
バルコニーの扉に手をかける前、
ふたりは最後に、もう一度だけ空を見上げた。
「じゃあ、決めよ。」
と徹。
「何を?」
「明日の試合さ。
“怖くなったら”どうするか。」
柚月は、少し考えてから言った。
「んじゃ――
“怖くなったら、笑う”。
“プレッシャー感じたら、斜め見る”。
それで行く。」
徹がうなずく。
「いいじゃん。
じゃあ俺はスタンドから、
怖そうな顔してたらスクリーン越しに突っ込むわ。
“おめぇ今、斜め忘れだべ!”って。」
「うっさいわ。」
ふたりは笑い合い、
バルコニーから部屋へ戻っていく。
扉が閉まっても、
夜風はまだ、そこに吹いていた。
ノックアウトステージ、フランス戦――前夜。
“負けたら終わり”だけれど、
“ここからが一番面白い”夜は、
静かに、更けていく。




