約束のピッチ
◆ 仙台の風が静かに戻ってきたころ
男子代表の優勝の映像が街のビジョンから少しずつ別のニュースへ移り変わる。アーケードの黄色いフラッグが揺れ、わらすらがボールを転がして笑っている。歓喜の余韻は残しつつも、日常がまた歩幅を取り戻していた。
泉パークタウンのグラウンド。柚月は「仙台」の胸文字をなでて、深呼吸した。
(浮かない。いま季の合言葉だ)
「首の据わったボールにだけ手を出す。置き所の確認から!」
コーチの声が跳ね、ビブスの色が散る。観覧スペースの端で手を振る長身の影――徹だ。短い帰郷でも、視線の熱が背中を一枚薄くする。
「徹くん来てっからって、力むなよ」
主将の美里が肘でつつく。
「んだ。力むと最短距離が曲がっから」
ホイッスル。ゲーム形式。相手役のアンカーが低く構え、ライン間は狭い。柚月は一つ下がり、CBから足元で引き出す。右のSHが内に絞り、左SBが幅を取り直す。縦、斜め、逆サイド――三本のレールが見えた。
(いまは、斜め)
インステップで針穴へ。仮設ゴールの金属音が乾いて鳴る。美里がヘッドバンドを弾く。
「今日の一本目、斜め。クセにすっぺ」
「了解」
遠くで徹が親指を立てた。胸の奥が温かい。けれど浮かない。浮かないのが、いまの自分だ。
◆ 開幕戦(H) vs ジェフユナイテッド市原・千葉レディース
朝からしぶとい雨。濡れたユアテックスタジアム仙台に、合羽の匂いと低い声援が溜まる。
相手の中盤には走力のある若手が揃い、前から噛みにくる布陣。
「裏、無理に狙わねぇ。足元で呼吸合わせっぺ」
美里の声が雨音を割る。
前半32分。相手のプレスが前がかりになる瞬間、CBの縦刺しが強く入った。胸で落とす案が浮かぶ――(違う)。右足甲でライン上に転がし、背中受けの半身。針穴へ“斜め”。ペナルティアーク手前でエースが左足を巻く。低く濡れたネットが跳ね、遅れて歓声が膨らむ。
ハーフでコーチが問う。
「後半、二枚目のカードになれっか?」
「相手ボランチ“横に伸ばす”っちゃ」
「言語化、よし。行け」
2-1で白星。決勝点の一個前、“斜め”が記者のメモに残る。数字にならない仕事が数字を動かす。ロッカーで美里が笑う。
「浮いでねぇ顔だな」
「んだ。浮くのはボールだけでいい」
◆ 第3節(A) vs AC長野パルセイロ・レディース ― 風の軽い長野で
長野Uは風が軽い。0-0で迎えた後半7分、スローイン再開を“止めずに触る”で受ける。ボールは走り続け、相手ボランチの重心が一歩遅れる。その遅れ一歩が左レーンを空にした。クロスはニアへ、競ったこぼれに再び“斜め”。ネットが震え、相手ゴール裏から小さな溜息。
戻りながら、相手10番・菊池まりあと目が合う。彼女は小さく親指を立てて「ナイス判断」と唇が動いた。長野の最終ラインには久保田阿弥、中盤には原邑姫・上田佳奈・鈴木紗里らが顔をそろえ、読みの速さで試合を引き締めていた。
AiScore
+1
◆ 第5節(H) vs アルビレックス新潟レディース ― “遅い縦”の披露
満員のバックスタンド。手作り横断幕に「ユヅキ ナナメ サイコー」。思わず吹き出す。
相手はハイラインで草原を見せて誘う。走り勝負はまだ飲まない。(待つ)
周回が一瞬ほどけた瞬間、二触目で逆サイドへ“遅い縦”。スタンドの空気が吸って吐く。左のクロスが一本の線になり、ヘディング1-0。
場内MOM:柚月。軽く手を上げるだけ。浮かない。階段の上、ユリの両親と大志が拍手している。
◆ 第6節(A) vs サンフレッチェ広島レジーナ ― “最短時間”の実験
エディオンピースウイング。紫の波。前半は我慢。
広島の中盤は間受けが巧みで、寄せの角度を少しでも誤ると前向きに差される。
後半開始、スローインの一拍を削る。止めずに触れ、相手の思考に負担をかける“最短時間”。ニアで弾かれたこぼれを美里が押し込み0-1。
ベンチへ戻るとコーチがうなる。
「時計をズラしたな」
「んだ。時間は線じゃなく、面だっちゃ」
◆ ナイトゲーム(H) vs 三菱重工浦和レッズレディース ― “合図としての斜め”
赤い群れが押し上げる。ゴール前には日本代表GK池田咲紀子、最終ラインにエスタ・マイ・キス(Easther Mayi Kith)、中盤に伊藤美紀。守備の基準線が高く、合図なしの縦は飲み込まれる。
WEリーグ | Women Empowerment League
+1
アンカーの出口に相手の矢印が集中する。そこで受けない。CBから直で半身、“斜め”を早い合図にする。右シャドーが釣られ、左IHが浮く。ワンタッチでスルーパス。0-0を割る一撃の起点。
監督がサイドで親指を立てる。
(斜めはボールの軌道じゃない。ピッチの“視線”を斜めにする)
1-0で勝ち切り。スタンドから「よぐやった!」の声。胸の奥で、小さく返事をする。
(まだいける)
◆ アウェー(A) vs ニッパツ横浜FCシーガルズ ― 「嫌なズレ」を仕掛ける夜
ニッパツは“止めどころ”の職人が多い。今日は右SBの渡邉奈月、CBの中井美玖が前向きに潰し、最後はGK新井碧が背後を掃除する構図。二列目も運動量がある。
soccerdonna.de
「最短距離は相手も知ってっからな」
「んだ。じゃあ“最短時間”でいぐ」
スローインの再開を半歩早く受け、止めずに触る。ボランチが一歩喰いついた瞬間、逆足で“遅い縦”。ニア前で弾かれたボールが流れ、ファーで押し込んで0-1。
試合後、渡邉が肩を叩く。
「止めどころ、一個ズレんだよ。やりづれぇ」
「ごめん。でも最高の褒め言葉だべ」
◆ カップ戦(H) vs スフィーダ世田谷FC ― 斜めを“外す”勇気
世田谷は育成年代上がりの巧者が多い。移籍組の内田瑞穂や篠原紗矢ら、ボールの置き所が上手い面々が中盤を練る。
za.soccerway.com
+1
前半はわざと“斜め”を二度外し、世田谷のボランチに迷いを作る。三度目、今度は直線。ペナルティアーク手前で受けた美里が落とし、左IHがズドン。1-0。
「外した斜め、効いだな」
「んだ。たまに裏切るのが信頼の内側だっちゃ」
◆ 代表招集 ― なでしこジャパン合宿(千葉)
封蝋の紺。手が一度だけ大きく鳴る。
マイナビ仙台のロッカーでは、DFの國武愛美や三浦紗津紀、MF井上陽菜、GK伊藤有里彩らが次々声をかけてくる。「行ってこい」「任せた」。
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千葉の海風は仙台と向きが違う。最初の三日間は“観察者”。
四日目、日テレ・東京ヴェルディベレーザとのトレーニングマッチ。監督が言う。
「君の“斜め”は合図にしてくれ。合図のあとを再設計する」
アンカーの出口を使わず、CB直通の半身。見せて外し、“遅い縦”で逆サイドを開ける。一本目は通らず、二本目で裂ける。ネットが揺れ、監督の親指。
(ここで、私は“通訳”になれる。仙台語を、代表語へ)
◆ ビッグマッチ(A) vs INAC神戸レオネッサ ― 線を編む
ノエビアの夜。神戸の最終ラインには国際経験豊富なヴィアン・サンプソン、新世代の金月夏萌らが構える。ラインは整然、寄せは迷いがない。
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前半は耐える。後半、柚月は“斜め”の合図を二回続けて外す。三回目、あえて直線。ペナルティアーク前で落とし、左IHの一撃で0-1。
「神戸相手に、その裏切りは勇気あったな」
「勝つ前提の副作用だべ」
◆ 東北ダービー特別編(A) vs マイナビ仙台レディース(※物語の演出)
緑と黄色がスタンドで交差する東北の風。
GK伊藤有里彩、DF西野朱音、三浦紗津紀、MF大西若菜……顔なじみが向こう側に立つ日。握手の温度は高いが、試合は冷静に。
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81分、縦列の間に針を落とす“遅い縦”。左サイドがえぐり、ニアで擦ったボールが逆サイドに流れる。詰めて1-0。
スタンドのわらすが叫ぶ。
「ユヅキ、よぐやったー!」
手を振り返し、胸の奥でだけ呟く。(まだ、ここから)
◆ 夜の電話
海外遠征中の徹から。
『今日の“合図”、見た。君の斜めは、もう言語になってる』
「来月には読まれるべ。次は“遅い縦”の釣りで逆手だ」
『いい。あと、休むのも練習』
「わがってら。ありがと」
窓の外、東北の風がいつもの高さで鳴る。肩の力が一枚ほどける。
◆ ふたたび仙台へ ― 2027年への線
合宿を終え、仙台の空は少し高い。掲示板の震災ポスターの端を直し、静かに誓う。
「2027年、優勝狙う。ここから運ぶ」
手帳に書き足す。――“合図としての斜め”。
美里が手を振る。
「観察者、卒業したが?」
「んだ。次の授業始めっぺ。“斜め”をわざと外すやづ」
「嫌われっぞ」
「勝つ前提の副作用だべ」
深呼吸。視線、前。
合図の一本目を、またここから。
◆ 2026年 第22節 ―「数字がまだ呼吸している」
ユアスタの空気は重く、緊張が草の匂いに混ざっていた。
勝点表にはこう記されている。
1位 ベレーザ 40 2位 ベガルタ 38 3位 湯郷ベル 38 4位 レオネッサ 37。
残り2試合。どこが落ちても、どこが浮かんでもおかしくない。
柚月はスパイクの紐を強く締め直した。
(浮かない。いま必要なのは、冷たい判断だけ)
【前半】ベガルタ vs ベレーザ
首位を叩けば、優勝争いは一気に振り出しに戻る。
ベレーザの前線は代表経験者が並ぶ。池田咲紀子、伊藤美紀、植木理子。
開始15分、息を呑む攻防。柚月は“斜め”の合図を二度、あえて見せて外す。
アンカーが釣られ、二列目に空間ができた。
前半33分、CB直通の半身受けから遅い縦。
美里の落としを左IHが叩きつけ、ゴールネットが震える。
1–0。ユアスタが爆発した。
【後半】試合と同時に動く数字
ハーフタイム。スタジアムのスクリーンに他会場速報が映る。
湯郷ベル 1–0でリード(勝てば41へ)
レオネッサ 0–0(依然37)
柚月はタオルで汗を拭い、つぶやいた。
「うちらが勝てば41。でも湯郷も勝てば並ぶ。得失点差の勝負だべ…」
後半も圧を受ける。ベレーザが怒涛の攻勢。GKの指先が二度、救う。
ロスタイム、ベレーザのCK。ニアで弾いて、カウンター。
柚月が“斜め”を見せ、今度は直線を通す。
時間が延びた空気を切り裂くように、笛。
1–0、試合終了。
【試合後】数字が止まらない夜
勝点はベガルタが38 → 41(+3)。
同時刻、湯郷ベルも2–0で勝利、38 → 41(+3)。
レオネッサは引分で37 → 38(+1)。
ベレーザは敗れて40のまま。
スクリーンに映る暫定順位:
1位 ベガルタ仙台レディース 勝点41(得失点+α)
2位 湯郷ベル 勝点41(得失点+α−1)
3位 ベレーザ 勝点40
4位 レオネッサ 勝点38
観客席が歓喜と不安を同時に放つ。
「優勝じゃね!?」「いや、まだ分がんねぇぞ!」
柚月は深呼吸して、手帳を開く。
(得失点差、まだ“1”。湯郷が次で大勝すれば、うちら抜かれる)
【ロッカールーム】冷静と熱狂のはざまで
記者が押し寄せる中、監督が短く言う。
「浮くな。今日の勝ちは“条件付きの首位”だ」
美里がタオルで髪を拭いながら笑う。
「あと一個。“世界”につながる優勝のための、一個」
「んだ。最後の斜めは、未来へまっすぐ。」
柚月はスパイクを脱ぎながら、空を見上げた。
(徹くんが叶えたあの約束――次はうちらが、ユリの夢を地上でつなぐ番だ)
ふと、風がささやく。
『柚月、あといっちょだ。油断すんな。数字も試合も、まだ生きてっからな』
「わがってら、ユリ。最後まで走っぺ」
【ニュース速報・翌朝】
なでしこリーグ優勝争い、最終節までもつれ込む。
ベガルタ仙台レディース、ベレーザを下して首位浮上。
湯郷ベルも勝利し、同勝点で並ぶ。得失点差わずか1。
最終節:ベガルタ仙台 vs INAC神戸レオネッサ(ノエビア)
湯郷ベル vs ジェフ市原・千葉レディース(美作)
優勝条件は依然混戦。数字も夢も、まだ決着せず。
夜、仙台の空に風が吹く。
柚月はベランダで練習ノートを開き、そっと書き足した。
“最後の斜めは、未来と天国をつなぐパス。”
その横に、うっすらと小さな笑顔の絵文字。
ユリの字に似ていた。




