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瓦礫の街にともる炎

仙台ジュニアFCのクラブハウス。久しぶりに訪れたその建物に、徹は不思議と足を向けていた。瓦礫や片付けられていない周囲の景色に比べると、この建物は少しだけ、時間が止まったかのように見えた。廊下を歩くたび、練習着の匂いや、ボールを蹴った床の感触が、かすかに残っている。


「……ここに来るの、久しぶりだな」

徹は小さく呟く。胸の奥にぽっかりと空いた穴のような感覚を押さえながら、階段を上り、部屋に足を踏み入れた。


部屋の中には、少しずつ集まったチームの仲間たちが座っている。テレビの前に集まったのは、避難や家族の事情でここに来られなかった者も多く、半分ほどの人数だった。みんな、どこか遠慮がちで、声も小さく、目に光を宿す余裕はない。


「……今日は、準決勝のスウェーデン戦を見るぞ」

原町監督の声は静かだが、どこか決意がこもっていた。岩出コーチもそばで頷く。


徹は周囲を見渡した。真希も、迅も、いない。すぐに心の中で名前を呼び、現実を思い知る。二人も、津波に飲まれて命を落としたことを知っている。あの笑顔、あの声、チームの練習中に交わしたちょっとした冗談――すべてが、今はもう戻らない。


「……俺たち、どうなるんだろう」

隣に座るチームメイトが、声を震わせながら呟く。避難するために他県に引っ越す子もいるという。チームの存続すら危ぶまれる状況。徹も胸が締め付けられた。


しかし、徹は深く息を吸い込み、目の前のテレビに視線を戻す。ユリの夢、ナデシコJAPANの舞台。ユリが何度も話していた、世界で戦う憧れの舞台。悲しみは大きい、でも今はその想いにしっかり向き合う時だ。


「……今は、ユリの夢を目に焼き付けるんだ」

徹は小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。隣の仲間たちも、自然と背筋を伸ばす。声を掛け合わなくても、胸の中で同じ思いを抱いていることが伝わる。


原町監督がリモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れる。画面に映るナデシコJAPANの選手たちは、予選リーグを勝ち抜いた堂々たる姿で、ピッチに立っている。緊張の面持ち、真剣な眼差し、そして決して諦めない強さ。


「……やっぱり、すげぇ……」

徹の胸に、じわりと熱いものが込み上げる。ユリの声が耳元に聞こえるような気がした。「徹、見てる? 私の憧れの舞台、すごいでしょ?」


涙をぐっとこらえ、徹は拳を握りしめる。失ったものの大きさに押しつぶされそうになるけれど、その痛みを原動力に変えなければならない。ユリの夢も、自分たちの夢も、まだここで途切れさせるわけにはいかない。


「……行くぞ、みんな」

徹の声は小さいが、強く響く。仲間たちは互いに頷き、画面に視線を集中させる。画面越しのナデシコJAPANのプレーに、自然と息を呑む。パスがつながり、ボールがゴールに迫るたび、心臓が跳ね上がる。


この瞬間、徹は自分の中で何かがはっきりと変わったことを感じる。失ったものは取り戻せないけれど、ここから再び歩き出す力は、自分の胸の中に確かにある。ユリと交わした約束を胸に、仲間と共に、サッカーを取り戻す――その想いが、確かに徹を支えていた。


テレビの向こうで、ナデシコJAPANの選手たちは躍動し続ける。世界の強豪と互角に渡り合う姿は、ただのスポーツではなく、生きる力そのもののように感じられた。徹は拳を強く握りしめ、静かに誓う。


「ユリ……俺、またサッカーをやり抜く。絶対に、前に進む」


部屋には緊張と静寂が満ちていたが、徹の心の中では、静かに新しい炎が灯っていた。過去の悲しみを背負いながらも、これからの未来に向かう決意。それは、失ったものすべてを乗り越え、再びサッカーを取り戻すための、一歩目の光だった。





スタジアムの空気は異様に張り詰めていた。アメリカとの決勝戦、観客席は世界各地から駆けつけたサポーターの声でひしめき合う。大画面には、東日本大震災で被災した日本の街の映像が映し出され、選手たちの表情は一層引き締まる。


「これが、私たちの戦う理由だ」佐々木則夫監督の声が静かに響く。被災地に少しでも希望の光を届けるため、日本代表はただ全力で戦うしかないのだ。


ピッチでは先制を許す。アメリカの素早いパス回しとフィジカルに、日本の守備陣は追いつくのに苦労した。岩清水梓が必死に前線をカバーし、宮間あやがパスをつなぐが、相手のプレスは容赦ない。


スタンドのスクリーンを見つめる徹の胸は締め付けられる。「ゆり…ゆりちゃんが見てたら、こうやって応援しとっただろうか…」自然と手に力が入る。


前半と延長前半を経ても、スコアは1-1。延長後半、時間は残りわずかとなった。アメリカが勝ち越した直後、日本は焦りながらもボールを支配し、必死に攻め続ける。


「宮間、落ち着け!焦んなよ!」岩清水が声を張り上げる。

「わかった、いぐぞ!」宮間が低く構え、サイドを切り裂くようにドリブルを開始。


ボールは中盤で澤穂希に渡る。相手ディフェンダーが寄せる中、澤は瞬時に周囲を確認し、迷わずシュートコースを決める。スタジアムが息を呑む瞬間、ボールはゴール左隅に吸い込まれた。


「よっしゃあ!!」大歓声。徹は画面の前で拳を握り、声にならない声を上げる。「ゆり…これで同点だ…!」


その瞬間、日本の選手たちの瞳は希望に輝き、被災地の人々への思いが全身を貫く。決して諦めない、最後の最後まで戦う意志が、ピッチ全体に広がった。


試合はPK戦に突入する。選手たちは極限の緊張の中、一人一人がシュートを蹴る。アメリカのキーパーは読みを変えながらも、日本のキッカーの心を読む。宮間、岩渕、川澄、鮫島、そして澤。シュートの瞬間、観客の息は止まる。澤のシュートは完璧に決まり、仙台の徹の胸も高鳴る。


「ゆり…見とるか?俺、もう一回サッカーを愛せる気がする」画面の前で独り言を呟く。チームメイトの笑顔、ボールを追う必死の姿、全てがユリとの思い出と重なった。


PK戦の末、ナデシコJAPANは悲願の優勝を果たす。喜びの涙を流す選手たち。世界の舞台で躍動した彼女たちは、被災地の人々に希望を届けるため、全力でボールを蹴ったのだ。


徹はその瞬間、心の奥底で決意する。「ユリ…俺も、いつか世界で戦ってみせる。ユリの夢、俺が追いかける」テレビ越しの澤の笑顔と、ピッチで全力を尽くす選手たちの姿が、徹の胸に深く刻まれた。






スタジアムの夜風が冷たく、緊張感で空気が張り詰める。延長戦の激闘を終え、スコアは2-2のまま、勝敗はPK戦に委ねられた。観客席の声援はもはや一つのうねりとなり、選手たちの鼓動と同期するかのように高鳴っていた。


ゴール前にはアメリカのキーパーが立ち、ナデシコJAPANのキッカーを迎え撃つ。一方、アメリカのキッカーがボールを蹴るときは、海堀選手がゴールに立つ。PK戦は、勝敗を決する極限の心理戦でもあった。


1本目:ナデシコJAPAN 澤穂希

澤はボールを前に置き、地面の芝の感触を確かめる。世界を相手にしても、ここで決められなければすべてが無になる。彼女の頭には東日本大震災で傷ついた故郷の光景、被災者たちの顔が浮かぶ。「私が蹴らなきゃ、みんなの笑顔は取り戻せない」

アメリカのキーパー、ブリトンは澤の視線を見つめ、左足に体重をかける。澤の動きを読むため、目を細め、反応のタイミングを計る。

澤は息を止め、右足を振り抜く。ボールは力強く、ゴールの右上隅へ。ブリトンは飛んだが、ボールはネットを揺らした。成功。


2本目:アメリカ エリン・メイ

海堀は冷静にゴールを見据える。緊張と疲労で心拍は早まるが、目の前の1秒1秒に集中する。「ここで止めれば、日本の夢がつながる」

メイは左足で狙いを定める。海堀はメイの目線、肩の動き、助走の角度をすべて読み取ろうとする。ボールが蹴られると同時に海堀は右に飛び、ボールはわずかに外れる。止めた!

歓声はスタンドに炸裂。ナデシコJAPANのベンチも抱き合って喜ぶ。


3本目:ナデシコJAPAN 宮間あや

宮間は軽く深呼吸をし、ボールの位置を微調整する。澤が先制したことで、ここで外せばすぐに逆転の危機もある。「みんなのために、絶対に決める」

ブリトンは宮間の足元を凝視する。踏み出す瞬間の力の入り方、ボールへの視線、蹴る前の微妙な体重移動を読み取り、動きを早めようとする。

宮間は右に蹴ると見せて、フェイントをかけ、左隅へ強烈に蹴り込む。ブリトンは反応が遅れ、ボールはゴールネットを揺らした。成功。


4本目:アメリカ メーガン・ラピーノ

海堀の視線は鋭い。ここで止めれば日本の勝利に大きく近づく。ラピーノの構えを瞬時に分析する。助走の長さ、角度、身体の傾き、足首の角度。すべてがヒントになる。

ラピーノはボールを蹴る瞬間、海堀を揺さぶるかのように目線を右に逸らす。しかし海堀は微動だにせず、タイミングを計る。シュートは左隅へ飛ぶが、海堀は反応し、指先で弾く。止めた!


ここで会場は静まり返り、選手たちは互いに視線を交わす。ナデシコJAPANが一歩リードした。


5本目:ナデシコJAPAN 高瀬愛実

高瀬は力を込め、心の中でつぶやく。「みんなの希望のために、絶対決める」

ブリトンは蹴るタイミングを計るが、高瀬のフェイントに翻弄され、ゴールを割る。決めた!


6本目:アメリカ アレクサ・スミス

海堀は体の芯から集中する。膝の微妙な動き、助走の速さ、ボールの置き方から蹴る方向を読む。スミスが蹴った瞬間、海堀は左に飛ぶ。ボールはわずかに右をかすめてゴール。成功。


7本目:ナデシコJAPAN 杉田妃和

杉田は震える手でボールを置き、強い息を吸う。「絶対、絶対に外せない」

ブリトンの目がこちらを鋭くにらむ。杉田は左に蹴るかのように助走するが、右に転がす。ブリトンは飛ぶが届かず、ボールはゴールイン。成功。


8本目:アメリカ ケリー・ジョーンズ

海堀は限界まで集中力を研ぎ澄ます。全身の神経が一点に集まり、足元から頭の先まで張り詰める。「ここで止める…」

シュートは強烈な右足の一撃。海堀は反応して飛ぶが、ボールはゴール右に吸い込まれる。決まった。


9本目:ナデシコJAPAN 鮫島彩

鮫島は落ち着いてボールを置き、深呼吸する。全てを振り絞り、蹴る瞬間には覚悟だけが残った。「みんなの笑顔、被災地の希望、全部託す」

ブリトンは左に飛ぶが、鮫島の蹴ったボールはゴール左隅に吸い込まれる。決まった!


10本目:アメリカ マディソン・ライト

海堀の目は鋭く、全神経が集中している。息を止め、一瞬の動きを見逃さない。ライトは右に蹴るかのように助走をとり、ボールを放つ。海堀は予測して左に飛ぶが、ボールはゴール右に吸い込まれる。決まった…


PK戦は10本目で決着し、ナデシコJAPANは勝利を手にした。選手たちは抱き合い、歓喜の涙を流す。スタジアムの歓声は、東日本大震災で傷ついた日本中に届く希望の音となった。





徹は画面の前で固まったまま、PK戦を見つめていた。ナデシコJAPANの選手たちが一人ずつボールを蹴るたびに、胸の奥が締め付けられる。海堀の鋭い視線、キッカーの一瞬の迷い、力強くも微妙に震える足元。すべてが、鹿児島で戦ったあの決勝戦の記憶を呼び覚ます。


年末、鹿児島の会場で、仙台ジュニアFCの仲間たちとともに汗を流した日々。ユリがいたから、みんながいたから、あの舞台に立てたんだ。負けたけど、悔しさと同時に、仲間と分かち合ったあの高揚感、ユリの輝いた笑顔、諦めずに戦い抜いた誇り。それらの記憶が、今の徹の胸を熱くする。


「ユリ…あの時、あんたの笑顔、忘れられねぇな」


小さくつぶやきながら、徹の瞳には自然と涙が溢れる。画面の中でPKを蹴る澤穂希や宮間あや、杉田妃和たちの必死の表情を見るたび、鹿児島で自分たちが全力で戦った瞬間と重なる。ユリはここにはいないけど、あの時のユリの頬の赤みや、必死に笑おうとする目の輝きが、脳裏に鮮明に蘇る。


PKが決まるたび、徹の胸は高鳴り、同時に喪失感もよみがえる。ユリと最後に交わした言葉、触れられなかった手、奪われた時間のすべて。勝利の歓声がテレビの向こうで炸裂する中、徹は静かに目を閉じ、心の中でそっとつぶやく。


「ユリ、俺、あの舞台で感じたこと、絶対忘れねぇ。あんたの夢、俺が追うけん…必ず、世界で叶えてみせる」


涙をぬぐいながら、徹は画面の中で躍動する選手たちを見つめ、再び決意を胸に刻む。ユリがいたから、仲間に恵まれたから、そして自分自身がこの道を選んだから、今ここに立つ意味がある。PK戦の一瞬一瞬は、ユリと仲間たちと過ごした日々の象徴であり、希望の光そのものだった。


テレビの向こうで、ナデシコJAPANが歓喜に包まれる。徹はゆっくりと深呼吸をし、心の奥でユリに語りかける。


「見とれ、ユリ。俺、あんたと一緒に夢見たサッカー、これからもっともっと大きくするけん」


そして、画面に映る笑顔の中に、ほんの少しだけ、ユリの姿が重なって見えるような気がした。





その時――かすかに、いや、確かに、耳に届いた気がした。


「徹…徹はこれからもサッカー小僧っちゃ。あんたがこれからのサッカー日本代表を引っ張っていぐんだべさ…」


その声は、ユリの声そのものだった。はっきりと形は見えないのに、胸の奥から響く声。徹は思わず息をのむ。目の奥が熱くなる。


「ユリ…?」


小さくつぶやき、涙をぬぐう。画面に映るナデシコJAPANの選手たちの必死の表情を見るたび、鹿児島で自分たちが全力で戦った瞬間と重なる。ユリはここにはいないけど、あの時の笑顔が、そして今の声が、徹の背中を押してくれる。


「うん、わかった。あんたの分まで、俺、絶対やるけん…」


徹の瞳に決意の光が宿る。年末の鹿児島、仲間とともに泣き笑いながら戦った日々の記憶、ユリの声、そして今目の前で世界と戦う選手たちの姿。それがひとつになり、徹の心に新たな炎を灯す。


「ユリ、俺、あんたと一緒に夢見たサッカー、これからもっと大きくするけん…」


そう心の中で誓い、徹は深く息を吸った。テレビの向こうの選手たちの歓喜に包まれるナデシコJAPANの姿。けれど徹の胸には、もう後ろは振り向かない覚悟があった。ユリの声が、輝いた笑顔が、確かに背中を押してくれている。






徹は避難生活を続けながら、日々をなんとかやり過ごしていた。朝の冷たい空気の中、仮設住宅の細い通路を歩き、周りの瓦礫や倒壊した建物を横目に、通学路の代わりにした道を辿る。瓦礫の山を前に立ち止まり、あらためてこの街の変わり果てた姿に息を呑む。家や学校、思い出の場所があっという間に奪われた現実。それでも徹は、前に進まなければならないと思うしかなかった。


享の家も、津波の被害でほとんど倒壊してしまった。家の中に残されたものはほとんど瓦礫と化していたが、徹は必死に使えるものをかき集める。写真や思い出の品、印鑑や銀行のカード、学校の教科書やノート――一つひとつ手に取りながら、丁寧に袋に詰めて持ち運ぶ。


「うわぁ…こんなに残っとるもんだけん、どがんして運ぶん…」


心の中でつぶやきながらも、徹は手を止めない。今は学校に通うどころではなかった。避難所での生活も、仮設住宅での生活も、決して楽ではない。だが、少しずつ日常を取り戻すためには、この作業も必要な一歩だった。


やがて、道路状況が少しずつ改善され、通行可能になったことで、中学校の授業が遅れていた徹も、他校の校舎を間借りして行われる授業に参加できるようになった。仮設住宅から通う道のりは決して短くはないが、久しぶりに制服に身を包み、教室に座る感覚は、徹にとってかすかな安心感を与えた。


「久しぶりだな…教室に座るの、やっぱ落ち着くべ…」


口には出さず、心の中で呟く。周りの生徒も同じ状況を経験している者ばかりで、沈んだ雰囲気が漂う。しかし、教師の声や友人たちの笑顔、黒板に書かれた文字や授業の音が、少しずつ徹の心をほぐしていく。


校舎は完全ではない。教室も設備も不足していて、机や椅子は足りず、教科書も一部を共有して使うしかなかった。それでも徹は、仲間と一緒に授業を受けられること、普通の学びの時間を取り戻せることに、感謝の気持ちを抱いた。


「ゆっくりでいい、少しずつ、元の生活に戻ればいい…」


徹は心の中でそうつぶやき、ユリや真希、迅のことを思い出す。あの時、共に夢を追いかけた仲間たちの笑顔が、胸の奥で力強く蘇る。学校に通うことで少しずつ日常を取り戻すことが、徹にとって、そして周りの仲間たちにとっても、希望の光となっていた。


そして授業が終わると、仮設住宅に戻る道すがら、瓦礫の中に残った思い出の品や、仲間との思い出の場所を見つめ、徹は静かに決意する。いつか、この町を元通りにするため、自分ができることを精一杯やる。


「必ず…また笑える町にしてやる…」


そう胸に誓い、徹は仮設住宅の扉を開けた。室内の冷たさと静けさが、逆に心を落ち着かせる。まだ瓦礫の山は町に残っているが、一歩ずつ前に進むことで、少しずつ日常は戻ってくる。徹はそのことを確信していた。







徹は、瓦礫の山に囲まれたユリの家の跡地を見つめた。かつては家族の笑い声が満ちていたであろう場所は、今や瓦礫と泥の山と化していた。倒れた家具や屋根の破片、割れたガラスや日用品の残骸。目に入るものすべてが、あの日の津波の爪痕を語っていた。


「ゆり…ここにおったんだべな…」


徹はそっとつぶやいた。手を伸ばして瓦礫をかき分け、慎重に進む。泥まみれの中から、かすかに見覚えのある紺と黄色の色が目に入った。


「…これ、ユリの…ユニフォーム…」


泥を払いながら取り出すと、ベガルタ仙台レディースのユニフォームだった。徹は指先でそっと触れる。ユリがいつも大事にしていたもの。試合のたびに着て応援していた、彼女の思い出が詰まったユニフォームだった。


その近く、泥の中に埋もれていたのは、公式試合球だった。観戦の抽選でユリが当てた大切なボール。泥に塗れ、ひび割れそうな状態だったが、形や重みから、確かにユリが大切にしていたものだとわかった。


徹はその場で膝をつき、泥まみれのユニフォームとボールを抱きしめた。胸の奥が締め付けられるように痛む。涙が頬を伝い、声を上げることもできなかった。


後日、徹はユリの両親、雄二さんと梓さん、そして兄の大志に連絡を取り、形見として受け取ってもよいか相談した。両親も兄も、まだユリを失った悲しみの底にあったが、徹の熱意と、ユリの思いを引き継ぐという気持ちに心を打たれ、承諾した。


「徹…ユリのこと、忘れないでいてくれるなら…このユニフォームとボール、あんたに託すべ」


雄二さんの声には、悲しみと同時に、前を向こうとする力が滲んでいた。


「うん…必ず、ユリの思いも一緒に背負って、俺が大事にする。ありがとう…」


徹は深く頭を下げ、ユリのユニフォームとボールを両手で抱きしめた。その重みの中に、ユリの笑顔や、試合を見ながらはしゃいでいた声、チームの仲間と交わした約束――すべてが詰まっていることを感じた。


梓さんも、そっと言葉を添える。


「徹…私たちもまだ辛いけど、ユリのためにも、あんたたちが前を向かなきゃいけないと思う。ユリも、きっとそう思ってるべ」


徹は頷き、目を閉じる。ユリの姿はもうこの世にはない。しかし、ユリの夢や、サッカーへの情熱、仲間を思う心は、こうして形として手元に残った。


「ユリ…俺、必ず見せるべ。ユリが追いかけた夢の続きを、俺が世界で叶えてみせる…」


ユリの形見を抱えた徹は、瓦礫の山に囲まれた町を見渡す。まだ復興の途中で、悲しみも多い。しかし、ユリの思いを胸に、そして仲間や家族の想いを背負い、少しずつ前に進むことを決意した。


その日の夕方、仮設住宅に戻った徹は、ユリのユニフォームを丁寧に干し、ボールをきれいに拭いた。触れるたびに、心の中でユリと会話をするような気持ちになる。


「徹…ちゃんと前を向ぐんだよ…」


そう聞こえた気がした。徹は涙を拭い、ユリの形見を抱きしめながら、これから歩む道を静かに、しかし力強く見据えたのだった。





瓦礫の町から戻った徹は、ユリの形見であるユニフォームと公式試合球を胸に抱え、仮設住宅の小さな部屋で夜を過ごした。静まり返った部屋の中、外から聞こえるのは遠くの工事音や、避難生活を続ける住民たちの声だけだった。徹はそっとユニフォームに手を触れ、その感触を確かめる。泥にまみれていたが、洗い清められた布はまだかすかにユリの温もりを残しているように感じられた。


「ゆり…俺、もう後ろ振り返んない。あんたが追いかけた夢、俺が叶えるけん…」


徹は独り言のように呟き、膝を抱えて静かに涙を流した。しかし、その夜を境に、徹の中で少しずつ日常の光が戻り始めた。瓦礫と悲しみの町の中でも、希望の欠片を見つけようとする気持ちが芽生えたのだ。


翌朝、徹は仮設住宅から歩いて学校へ向かった。東日本大震災で壊れた道路も徐々に整備され、通学が可能になったのだ。学校は他校の校舎を間借りしており、いつもとは違う教室や、他学年との合同授業に少し戸惑いながらも、徹はサッカーノートを手にして、心の中でユリの声を思い浮かべた。


「徹、あんたがこれからのサッカー日本代表を引っ張るんだべさ…」


ユリの声が、まるで耳元でささやくように響く。徹はノートに自分の技術や戦術の改善点を書き留め、少しずつ練習プランを組み立てていった。ユリの思いを胸に、彼の心には新たな覚悟が生まれていた。


ある日、徹は仙台ジュニアFCのチームが使っていたグラウンドに足を運んだ。瓦礫が片付けられ、少しずつ緑の芝が顔を出していた。すると、原町監督と岩出コーチが声をかけてきた。


「おお、徹。久しぶりだな。元気そうじゃんの」


「監督、コーチ…久しぶりです。ユリのこともありますけど、俺、またサッカー続けるっちゃ」


原町監督は少し考え込み、徹の肩に手を置く。


「わがった。あんたの覚悟、ちゃんと伝わったぞ。チームもまだ存続しとる。みんな、あんたを待っとる」


その言葉に徹の胸は熱くなった。瓦礫に埋もれていたあの日々を思い出しながらも、彼は再びチームの一員として、仲間と共に歩むことを決意した。


次の日、徹は旧チームメイトのユリの思いを胸に、グラウンドで初めての再会練習に参加した。そこには、避難先から戻ってきたメンバーや、新たにチームに加わった仲間たちがいた。真希と迅の姿はもうなかったが、彼らの思いもまたチームに残っていた。


「おお、徹!戻ってきたな!」

「待っとったぞ、俺たち!」


仲間たちの声に、徹は自然と笑顔を見せた。涙がこぼれそうになるが、それは悲しみの涙ではなく、再びサッカーに向かえる喜びの涙だった。ユリの形見のユニフォームを胸に抱え、試合球を手にした徹は、仲間たちとパス練習を始める。


「今日から、また俺たちで新しいチーム作るっちゃ」

「うん、ゆりのためにも、絶対負げねぇべ」


仙台弁が飛び交うグラウンドで、仲間たちは互いに声を掛け合い、汗をかき、笑顔を取り戻していく。瓦礫の町で失ったものは大きすぎたが、徹と仲間たちはユリの夢を胸に、再びボールを追うことで心の傷を少しずつ癒していった。


そして徹は、心の奥底で誓う。


「ゆり…あんたの夢、俺が必ず世界で叶えるっちゃ。もう後ろは振り返らん。仲間と共に、前だけ見て進むんだ」


太陽が差し込むグラウンドに、風が吹き抜ける。ボールが転がり、仲間の声が響く。徹の胸にはユリの笑顔が重なり、未来への希望が確かに芽生えていた。失ったものは大きかった。しかし、仲間と共にボールを追う日々が、彼に生きる力を取り戻させるのだった。





学校のグラウンドは、まだ瓦礫があちこちに残り、ボールを蹴れる場所は限られていた。周囲には倒れたブロック塀や、崩れかけたフェンスの残骸もあり、サッカーをするには危険が伴う。しかし、徹は真っ先に思い浮かべた。仙台ジュニアFCの練習が行われていた、高台にあるあのグラウンドなら…と。


「ここなら…やれるかもしんね」


徹は呟きながら、少し傾斜のあるグラウンドの入り口に立つ。卒団してからは中学校のグラウンドを使うことになるのだが、特例として、まだ利用させてもらえることになったのだ。扉を押し開け、長く伸びる芝の上を歩くと、土と草の匂いが鼻をくすぐる。サッカーのできる環境が、まだ残っていたことに、徹の胸は熱くなる。


「久しぶりだな…」


ボールを手に取り、軽くドリブルしてみる。砂利が混ざった地面にボールが弾む感触、草に足が沈む感触、そして何より、心臓が高鳴る感覚。サッカーと向き合う日々が、戻ってきた。ユリの形見のユニフォームを胸に抱え、徹は一歩ずつ、グラウンドの中で自分を取り戻していく。


遠くには原町監督や岩出コーチの姿もあり、静かに見守っている。声をかけられ、徹は軽く会釈する。


「おお、徹。まだまだ体動くかの?」


「はい…ゆりのためにも、絶対負げねぇっちゃ」


言葉は震えていたが、目には決意の光が宿る。久しぶりの練習に参加できるありがたみを肌で感じながら、徹は再びサッカーと向き合うことの喜びを、全身で感じていた。瓦礫に囲まれた町の中でも、ここだけは、あの日の仲間たちとボールを追った場所の記憶と、希望がまだ息づいている場所だったのだ。


徹は深く息を吸い込み、ボールを地面に置いて蹴り出す。蹴り返ってくるボールを、彼は全力で追いかけた。まだ周囲には危険も残っている。しかし、サッカーと向き合うこの瞬間に、徹は全てを忘れ、ただボールと心を重ねることに集中する。


「ゆり…見とってくれっちゃ」


小さな声で呟きながら、徹は次のパスを仲間に送る。風に乗って、ユリの笑顔が浮かぶような気がした。瓦礫の町に戻ったサッカー少年は、再び夢に向かって歩き出したのだった。






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