2011年3月11日
3月11日、午前11時。八王子の空は淡く曇り、冬の名残を感じさせる冷たい風が吹いていた。祖父の葬儀告別式が厳かに始まる。読経の声が響く中、徹は喪服に身を包み、手を合わせながら祖父との別れを胸に刻んでいた。
「じいちゃん……安心して見でてけろ。俺、ちゃんと頑張っから」
その小さなつぶやきは、誰の耳にも届かぬまま、徹自身の胸の奥へと沈んでいった。
やがて出棺の時が訪れる。棺は静かに霊柩車へと運ばれ、親族が涙ながらに見送る。徹はぎゅっと拳を握りしめ、その車が角を曲がって見えなくなるまで目を離さなかった。その後、火葬場へと一行は向かい、淡々と儀式は進んでいった。
一方その頃、仙台。
午後2時を少し回った頃、ユリは学校から帰宅した。ランドセルを下ろし、制服のまま台所に立ち、母が用意してくれていたおやつに手を伸ばす。
「……今ごろ、徹はじいちゃんのお葬式終わった頃かな」
窓の外を見やりながら、ユリはつぶやく。3月の冷たい空気が、ガラス越しに伝わってくる。どこか胸の奥にぽっかり穴が空いたような感覚を抱えながらも、ユリは微笑んだ。
「今日の夜、帰ってきたら……“おかえり”って出迎えるっちゃ」
そう思うだけで、胸が温かくなる。別れの悲しみを抱えながらも徹が戻ってくる。そう信じて、彼女は帰宅後の小さな時間を過ごしていた。
まだ、この数時間後に自分たちの運命を大きく揺るがす出来事が訪れることを、ユリは知る由もなかった。
⸻
午後2時46分。ユリは自宅のリビングで、宿題を片付けていた。突然、建物全体が大きく揺れた。初めは軽い地震だと思ったが、揺れは次第に強さを増し、ユリは机の下に体をかがめる。
「わ、わぁ……めっちゃ揺れる……」
机の下で体を固くしているが、揺れが激しくなると、壁に沿って置いてあったタンスがゆっくりと、しかし確実に傾き始めた。ユリの心臓は恐怖で打ち震え、手足が冷たくなる。
「うそ……タンス……倒れ……」
逃げようと立ち上がった瞬間、ガシャンという鈍い音とともに、右足に激痛が走った。倒れかけたタンスの角が右足を押さえ、動けなくなってしまった。
「うわぁ……足、抜けん……!」
涙が頬を伝い、息が荒くなる。体をひねろうと試みるが、タンスの重みは想像以上で、足を抜くことはできない。恐怖と痛みで体が固まるユリ。耳にはテレビやスマホから流れる速報がかすかに聞こえる。東北沿岸に津波警報が出たという知らせだ。
——徹……大丈夫かな……
携帯を手に取ろうとするが、右手もタンスの下敷きになり、自由に動かせない。焦りが増す。
「徹……ごめん……今、うち……足挟まれて……」
涙をこらえながら必死に声を絞り出す。しかし、地震の揺れはまだ完全に収まらず、家具の軋む音がリズムを刻むように響く。ユリは自分の無力さを痛感し、恐怖と不安に押しつぶされそうになる。
「誰か……助け……」
泣き声にならない声で叫ぶ。けれど、家族は外出中で、隣家に頼ることもできない。足の痛みがじわじわと増し、感覚が鈍くなってくる。ユリは呼吸を整えようと深く息を吸うが、恐怖で手も足も思うように動かない。
その瞬間、思い出すのは徹との最後の電話。揺れが来る前に交わした短い言葉。ユリは必死で心を落ち着け、涙をぬぐいながら自分に言い聞かせる。
——大丈夫……徹、すぐ来てくれる……うち、絶対生きる……
小さく呟きながら、体を少しずつ動かそうと試みる。足を前後に少しずつ揺らし、タンスの角から抜け出す隙を探る。右足に走る痛みは鋭く、思わず声を上げてしまうが、諦めずに試みる。
「う、うごく……ちょっとだけ……」
呼吸を整えながら、痛みに耐え、タンスと自分の間に少しずつ空間を作る。数分が、永遠のように感じられる。心臓は恐怖と痛みで打ち震え、汗で体がびっしょりになる。
徹は八王子の祖父の家で、通夜と告別式の一連の儀式を終え、疲れ切った体をソファに沈めていた。祖父の死に深い悲しみを抱えながらも、心のどこかでほっとする気持ちもあった。しかし、その安堵は長く続かなかった。
スマートフォンを手に取り、無意識のうちにユリに電話をかける。画面に「圏外」の文字が浮かぶ。再びかけるも、同じ結果だった。固定電話もだめだ。徹は焦燥感にかられ、胸の奥で何かが締め付けられるような感覚に襲われた。
「うそ……うそだべ……なんで……つながんねえ……」
声を震わせ、震える指でスマホを握りしめる。周囲の親戚や親族の静かな気配が、逆に孤独感を際立たせた。徹の頭の中には、先ほどユリと交わした電話のやり取りが鮮明に蘇る。
——「地震大丈夫やったか?」
——「うん。かなり揺れたけど、うちらは怪我とかしてないよ。早く徹に会いたいな。11日の夜、仙台に帰るから。」
——「うん、待ってる。」
あのときのユリの声が、今はもう届かない。地震の被害がどれほどだったのか、ユリは大丈夫なのか——徹の心は不安で押し潰されそうだった。
「ユリ……今どげしてるんだ……」
自分の声が、誰にも届かない虚しさに、徹は言葉を呑み込む。外の空は穏やかに晴れ渡っているのに、心の中は荒れ狂う嵐のようだ。頭の中で次々と最悪の状況が浮かぶ——家が倒壊、道路が寸断、避難できずに……。
徹は思わず手を胸に当て、深呼吸を繰り返す。だが、焦りと恐怖で呼吸は荒くなるばかり。スマホを再び握りしめ、何度も番号を押す。圏外の表示が何度も画面に現れ、指の力が痛くなる。
「お願い……出てけれ……ユリ……」
声にならない声を上げ、涙が頬を伝う。祖父の死を悼む悲しみと、ユリの安否への不安が、徹の胸を重く締め付ける。何もできない自分に、苛立ちと無力感が混ざり合い、全身を震わせた。
固定電話もダメ、スマホもダメ、インターネットやSNSもまったく機能しない。周囲の状況から、これはただの通信障害ではなく、地震による大規模な被害の影響だと理解する。だが、理解しても状況は変わらない。連絡が取れない現実が、徹の心を締め付ける。
「……仙台……ユリ……」
繰り返し名前を口にする。頭の中でユリの笑顔や、元気な声、普段の何気ない会話の数々がフラッシュバックする。心配と焦りが、時間の経過とともに増幅され、徹の手は冷たく汗ばむ。
「う……どうすっぺ……うちら……」
孤独感の中で、徹は震えながらも、自分にできることは祈ることだけだと理解する。祈りながらも、行動したい衝動に駆られる。だが、現状では仙台まで行く手段もわからず、情報も入らず、ただ時間が過ぎていく。
心臓が破れそうなほどの焦燥感と不安の中、徹はもう一度スマホを握り直し、画面を見つめる。目に映るのは、圏外の文字と、虚しい画面の明かりだけ。祈りと焦燥、無力感——その全てが徹の胸に重くのしかかる。
「ユリ……お願い……無事で……いてくれ……」
叫び声にもならない声を漏らしながら、徹は八王子の祖父の家で、仙台のユリの安否をただただ祈るしかなかった。時間だけが無情に過ぎ、心の中の不安は膨れ上がる。連絡手段が全て断たれた絶望の中で、徹の心は、恐怖と悲しみの中で揺れ動き続ける。
は八王子の自室でスマートフォンを握りしめ、繰り返しユリに電話をかけていた。しかし、何度かけても画面には「圏外」の文字しか表示されない。固定電話も光回線も、全てが沈黙している。八王子のテレビでは、仙台をはじめ東北地方の太平洋沿岸に津波注意報、避難勧告が発令されたことが繰り返し報じられていたが、映像から伝わるのは被害の断片に過ぎず、ユリの無事はわからない。
「ユリ……うちら、どうすれば……」
声が震える。拳を握りしめても、何もできない自分に苛立ちが込み上げる。八王子から仙台へ向かうための手段を必死に探すが、状況は絶望的だった。
羽田空港――フライトはすべて欠航。仙台空港は浸水の被害を受けて閉鎖中。新幹線――高架橋や線路の一部が被災し、運行は完全に停止。東北本線も常磐線も、鉄橋や線路の破損で不通。高速道路も、土砂崩れや浸水で通行不能。八王子から仙台へ向かう方法は、地上も空もすべて塞がれていた。
「……仙台に行けねえ……ど、どうすんだ……」
徹の胸は締め付けられるように苦しい。八王子の静かな街並みと、家族の祖父の死に向き合った直後の疲労感が、焦燥感と絶望感に絡みつく。ユリの顔、無邪気な笑顔、昨日の電話で交わした声——それらが一瞬で心に迫り、涙が滲む。
「お願い……無事でいて……ユリ……」
机に置いたスマホを握りしめ、徹は何度も呼びかける。だが、返事はない。情報は遮断され、ユリが今どこにいるのか、足は大丈夫なのか、津波から逃げられたのか——すべてが不確かだ。
彼の目に浮かぶのは、仙台の街の被害状況だ。テレビの映像では、家屋は浸水し、車は流され、街路が黒い水の海と化している。小さな町の風景が、あっという間に破壊されている。徹の頭の中では、ユリが倒れたタンスに右足を挟まれ、逃げられないまま水が迫る姿が鮮明に想像され、心臓が破れそうに痛む。
「う……ユリ……今どこ……?」
声がかすれ、涙で視界がにじむ。周囲の音は八王子の穏やかな日常のままなのに、徹の心だけが嵐の中にいる。どれだけ冷静に考えても、仙台に行く手段はない。列車も飛行機も、道路も、すべて絶たれた。地図を睨み、手を握りしめ、あらゆる経路を頭の中で想定するが、どれも現実的ではなかった。
「……どうすれば……ユリ……」
徹の指がスマホの画面を何度も叩く。SNSも通じない、メールも届かない、電話もダメ。情報の遮断は、もはや絶望を形にした壁のようだった。心臓は張り裂けそうで、呼吸は荒く、額には冷や汗が伝う。
徹は立ち上がり、窓から外を見下ろす。八王子の街は穏やかに見えるが、心の中では津波が押し寄せ、ユリがその水に飲まれる映像が繰り返しフラッシュバックする。地震の衝撃、倒れた家具、抜けない右足、迫る黒い水——その恐怖が脳内で連鎖し、徹は思わず膝を抱えて床に座り込む。
「……どうすれば、ユリを……」
言葉が喉で詰まる。何もできない自分が憎い。全身の力が抜け、思考が途切れ途切れになる。だが、絶望の中でも徹の心の奥底では、一つの決意が生まれつつあった。
——仙台に行くしかない。どんな方法であれ、必ずユリの元に行く。
列車も飛行機も車も通れないなら、徒歩で——山を越え、川を避け、何日かかっても、必ず仙台に到達する。通信手段が断たれても、ユリの無事を確認し、抱きしめるまでは諦めない。
徹は立ち上がり、荷物を整え、必要最小限のものだけをバックパックに詰め込む。震える手をぎゅっと握りしめ、心を無理やり落ち着かせる。絶望の中の小さな光。それは、仙台にいるユリの生きている姿だけだった。
「……ユリ、絶対に……助ける……」
窓の外の静かな八王子の景色と、心の中で押し寄せる恐怖が同時に存在する中、徹の決意だけが確かに燃えていた。たとえ世界が遮断されても、たとえ交通手段がすべて失われても、この決意が徹を動かす原動力となった。
その夜、徹は眠れなかった。時計の針が進むたび、仙台のユリの安否を想像し、胸の痛みを感じ続けた。焦燥感、絶望感、恐怖——それらが入り混じり、心を切り刻む。しかし、同時に希望の火もまた消えてはいなかった。必ずユリに会う。必ず生きている姿を確認する。
八王子の静かな夜の中で、徹はスマホを握りしめ、涙を拭いながら心の中で繰り返し誓った。
——仙台に行く。どんな手段を使っても、必ずユリの元へ。
ユリの右足は、まだ倒れたタンスに挟まれたまま抜けない。もがくたびに痛みが走り、身体中の力を吸い取られるようだ。息は荒く、胸が押し潰されそうになる。しかし、目の前の現実はそれどころではない。窓の外で、黒く濁った津波が屋根の高さまで達し、容赦なく家を飲み込もうとしていた。
「……徹……会いたい……」
声を振り絞って叫ぶが、全身を包む水圧と恐怖のせいで、声は喉で引っかかり、まともに外には届かない。体が水に押され、二階の床板もきしむ。家具は浮き、流れ、家の中のありとあらゆるものが水に乗って押し寄せる。
「お願い……助けて……誰か……」
叫ぶたびに水が喉まで迫り、息が詰まる。ユリの目は水に沈む家の中を必死に見渡すが、逃げ場はない。右足は依然としてタンスに挟まれ、全身の自由は利かない。身体中の感覚が水に飲み込まれ、心臓の鼓動が耳に響く。
津波は二階にまで達し、ユリの頭を軽く押す。冷たい水は、肩、胸、顔を一気に覆い、呼吸を妨げる。息を吸おうにも、水が口と鼻を塞ぎ、パニックが心を支配する。
「……徹……助けて……」
叫ぼうとするが、声は水に消され、わずかに泡と水の音しか返ってこない。全身が水に沈み、二階の天井まで水が迫る。身体は重く、足はまだ抜けない。逃げることも、立ち上がることもできない。ユリは、ただその場で水の圧力と戦うしかない。
目の前の景色は揺らぎ、家具や家電が流れていくのをぼんやりと見つめるしかない。恐怖と絶望が心を押し潰す。
「……徹……会いたい……」
ありったけの力で叫ぶが、声は水の中に吸い込まれ、最後には声も出せなくなった。息が続かず、意識が遠のく。水の冷たさと圧力が全身を支配し、心の奥でかすかな希望の光が消えそうになる。
ユリの視界は次第に暗くなり、耳には水流の轟音しか残らない。全身が水に沈み、外界の景色も感覚もすべてが消え去る。
「……徹……」
最後に、かすかな意識の中で徹の名前を思い浮かべる。その想いだけが、混沌とした水の世界でユリの心に残った。
八王子の駅前。徹は家族とともに立ちすくむ。普段なら数時間で仙台まで戻れるはずの新幹線も、高速道路も、東北本線も、常磐線も、すべてが寸断されている。テレビの画面には、津波によって浸水する仙台沿岸の街が映し出され、次々と建物が水に飲み込まれていく。
「ユリ……どうか生きていてくれ……」
徹は小さくつぶやく。手には携帯を握りしめ、何度もユリに電話をかける。呼び出し音は鳴ることなく、すぐに圏外を告げる無情なメッセージに変わる。何度繰り返しても結果は同じ。胸が締め付けられ、焦燥と絶望が混ざった感情が全身を襲う。
「お願い……逃げていてくれ……絶対、生き延びて……」
徹は心の中で何度も何度も祈る。けれど、その声は空虚な駅前の風景に吸い込まれるだけだ。
同じ時間、仙台市内。ユリの両親、雄二と梓、そして兄の大志もまた、職場や学校で被災していた。道路は陥没し、倒壊した建物が行く手を阻み、家に帰ろうにも進むことができない。家にいたはずのユリの安否が頭を離れず、胸の奥に重い石が沈むようだ。
「ユリ……無事でいてくれ……」
声にならない叫びを漏らす雄二。梓も涙を浮かべながら、家族の無事を祈る。大志は無言で両親を見つめ、拳を握りしめる。電話をかけても繋がらない。携帯は圏外、固定電話も使えず、通信手段はすべて途絶えている。絶望感がひとつの塊となり、胸にのしかかる。
街は混乱に包まれ、人々は避難所を目指して走る。車もほとんど動かず、川の水はあふれ、家々は浸水し始めている。ユリのことを思うたび、胸の奥の不安が渦を巻く。あの笑顔は、あの元気な声は、今どこにいるのか。無事でいるのか。それを確かめる術はない。
八王子の徹も、仙台にいる家族も、共通の恐怖を抱えていた。津波による被害は刻一刻と拡大し、通信も交通も途絶え、外界との連絡は遮断されている。徹の心は焦燥でいっぱいだったが、祈ることしかできなかった。
「ユリ……お願い、絶対に生きて……帰ってきて……」
駅前で徹は膝をつき、手の中の携帯を握りしめながら、何度も名前を呼んだ。声は風に消され、周囲の騒音にかき消されていく。けれど、心の奥底では、ユリがどこかで必死に生き延びているという確信を持ち、希望の光を手繰り寄せるように目を閉じた。
仙台市内でも、雄二、梓、大志の三人は道路の寸断や浸水で立ち往生しながら、ユリの無事を祈ることしかできなかった。時折、遠くで家屋が崩れる音や、避難を急ぐ人々の声が聞こえ、胸を押さえる。けれど誰も諦めなかった。家族として、親として、兄として、祈り続けるしかないのだ。
すべての通信手段が途絶え、交通が完全に止まった中、徹もユリの家族も、無力さと恐怖に押し潰されそうになりながらも、必死に希望の糸をつかもうとする。未来は不確かで、先の見えない暗闇に立たされていた。しかしその暗闇の中で、彼らの心には、たとえ一瞬でも再会できる希望の灯火が揺らめいていた。
津波から一か月が過ぎた。仙台沿岸では、復旧作業とともに、まだなお多くの被害の爪痕が残っていた。瓦礫の山、倒壊した家屋、流された車両、浸水の跡。海岸線には漂着物が散乱し、住民たちは人々の安否を確かめながら、被災の現実と向き合っていた。
そんな中、仙台沿岸警備隊の人員が海岸線を捜索していた。瓦礫や漂流物の中を丹念に歩きながら、一つ一つ確認する。やがて、岩場の奥の泥まみれの場所で、異物を発見した。近づいて確認すると、泥に埋もれ、破れた衣服の一部が露出していた。その服には、仙台ジュニアFCでユリがいつも着ていたキャラクターが描かれており、誰のものかすぐに分かった。
警備隊員はその場で状況を把握し、警察と連絡を取った。遺体は右足が酷く損傷し、衣服は泥に塗れ、一部は白骨化が進んでいた。距離や岩場の状況から考えて、津波の際に自宅で逃げられなかったユリが、流されながら岩場に打ちつけられた結果であることが推測された。
仙台ジュニアFCのチーム関係者に連絡が入り、徹やユリの家族も知らされることとなった。雄二と梓、そして大志は、その知らせを受けた瞬間、言葉を失った。胸を押さえ、視界が揺れる。長い間信じていた希望が、一瞬にして崩れ去った。
徹は八王子で、仙台に戻る術を失い、何度も携帯をかけていたあの日々を思い出した。あのとき、必死に祈ったが届かなかった無力感が、身体を締めつけるように襲った。涙が頬を伝い、呼吸が止まるような感覚。胸の奥で、どうしても受け入れられない現実が渦巻いた。
「ユリ……ごめん……助けられなくて……」
徹は自分の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。八王子から仙台に戻れなかったこと、交通や通信の途絶によって救えなかったこと、何度も思い返し、悔しさと悲しみが入り混じる。
雄二と梓も、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。大志は無言で両親の肩に手を置き、ただ涙を流す。言葉を交わすこともできず、家族全員が悲しみに沈む。
遺体の発見は、町の中でも深い悲しみと衝撃をもたらした。被災後の復旧作業に奔走していた地域の人々も、改めて津波の凄まじさと、その犠牲の大きさを目の当たりにした。
徹はその後、家族やチームメイト、学校の先生たちと連絡を取り合いながら、少しずつ悲しみを整理する時間を持った。ユリが生前見せてくれた笑顔、サッカーで見せた勇気、日常の中での何気ない言動が、胸に深く刻まれていることを感じた。あの日までの思い出は、かけがえのない宝物であり、同時に今後の生きる力となった。
しかし、現実は非情だった。ユリは帰らず、被災から一か月後に海岸線で遺体として見つかった。徹も家族も、その現実を受け入れざるを得ない。深い悲しみの中で、彼らは少しずつ、日常を取り戻すための第一歩を踏み出すしかなかった。
それでも、ユリの存在は消え去ることはなく、徹や家族、チームメイトの心の中で生き続ける。サッカーでの活躍、笑顔、仲間と過ごした日々、それらが、痛みと悲しみの中でかすかな希望の光となり、未来への歩みを支えるのであった。