表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
撫子色の秘密  作者:
4/4

4.オファー


「行って来ます」


 玄関で靴を履くと一人暮らしの部屋を振り向き、声に出して言う。もちろん答えは返ってこない。


 私は二十四歳になった。十年前、行きたくないとごねていた学校へは、きちんと通い続けた。ピアノスクールや英会話スクールにも通わせてもらった。高校を卒業したら音楽の専門学校に入り、卒業後に就職した。


 美月さんのことは、なるべく考えないようにしていた。もともと住む世界が違うのだ。小さな出会いがきっかけになって将来の展望を与えてくれた人ではあるが、その出会い自体が望外の幸運だっただけだと思っている。


 音で様々な色が見えて嫌な気分になったりすることは、子供の頃と比べると少なくなった。調律師の仕事にも利用できているという自負がある。それに、こんな自分を必要としてくれる人もいるようだ。


 私は賑やかな駅前でタクシーを降り、人に会うために国際空港行きの高速バスに乗り込んだ。



 ◇◇



「引き抜きのオファーが入ったのよ」


「……えっ?」


「あなたがいいって、ピンポイントで。春からだから、二か月後かしらね」


 ふわふわと空に漂う雲を見るような所在なさげな笑顔を、社長の奥さんである副社長が私に向けた。


「どなた、ですか?」


「それが、団体名まではわかってるんだけど、誰があなたをこんな田舎で見つけたのかまでは……。ああ、怪しい団体ではないわよ。古くからある楽団だから」


 私が専門学校を卒業して就職したのは、辺鄙な田舎にピアノ工房を持つ楽器製作会社だった。静かな場所でないと楽器は作れないという社長の思いに共感し、調律師としての入社を希望したのだ。


「あなたは優秀だからいつか離れて行くと思ってはいたけど、いざそうなると……」


 副社長がしんみりと、まるで歌を紡ぐような旋律でつぶやく。彼女はもう老年に近い年齢だけど、艷やかで美しい声の持ち主だ。夫である社長は心根が優しい人で、夫婦揃って私をかわいがってくれる。


 いつか離れて行くと思われていたなんて、少しショックだ。大好きな会社なのに。あの時の秘密の約束を破ってもいいから、ずっとここにいたいと思っているくらいなのに。


「そんな、やめてください。私、この会社に……」


 少し潤んでしまった目を副社長に向けると、彼女は私の言葉を遮って「でもね」と言った。


「大きなチャンスなの。イギリスの団体だし。あなた、英語得意よね?」


「え、えっと、アメリカ英語なら」


「イギリスでも通じるでしょう。世界へ、行ってらっしゃい」


「世界……」


「もう二度と戻って来ないで」


 副社長は厳しい言葉を優しい笑顔と麗しい旋律で奏で、私をぎゅっと抱きしめた。



 ◇◇



「日本に来るって、メールには書いてあったけど……」


 国際空港へと足を踏み入れ姿を探すが、どんな人物が来るのかなどの詳細は書いていなかった。問い合わせてもみたのだが、返信が届いていないため心配がピークに達する。


「……乗り継ぎなし、ヒースロー空港からの直行便……あ、あそこ?」


 国際線到着ロビーの北ウィング、多くの人が行き交う広い通路を、慣れない場所への不安を押し殺しながら歩く。ここかなと当たりを付けた場所で立ち止まって周りを見渡していると、遠くから「みなちゃん」と声が聞こえた。


 瞬間、ある色が視界に広がった。柔らかくてかわいくて優しい、あの撫子色。


「美月さん! 美月さん、どこ!?」


 気付くと、彼女の名前を叫んでいた。会いたくて会いたくて、周りの人波を縫うように駆け抜け、声の方へと急ぐ。途中少しつまずきそうになったが、何とかこらえて懸命に走り続けた。


「海凪ちゃん」


 息を切らせる私の目の前で人波がすっと途切れ、唐突に美月さんが現れた。女郎花(おみなえし)色のコートの下から、茜色のスカートの裾が見えている。相変わらず素敵な色合いで、胸が喜びでいっぱいだ。


「美月さん、美月さん……!」


 私は本人を前に、何度も名前を呼んだ。まさか会えるなんて思っていなかった。


「背が伸びたわね。もう十年……」


「……本当に、美月さん?」


「本当よ」


 ふふ、と笑うと目が細くなる。笑う時の癖も変わっていない。


「もしかして、オファーをくれたのって……」


「私が、所属してる楽団に頼み込んだの」


「……本当に?」


「本当よ」


 彼女はまた、ふふ、と笑う。変わっていない。変わっていないのだ。


「海凪ちゃんが調律師になったと知った時は、天にも昇る気持ちだったわ。……一緒に、来てくれる?」


「い、行きます。……イギリス、に」


 私のしどろもどろな返答を聞いて、美月さんは大きくうなずいた。その拍子に赤墨(あかすみ)色の前髪が揺れるのも美しく思える。


「ルノワールの絵も見に行きたいわね」


 美月さんのことは考えないようにしていたのに、本当は心のどこかで激しく求めていたことを、切に知る。初めて私の色を理解してくれた人、初めて憧れた人。とてもきれいで、かわいらしい人。


「い、きたいっ……、……約束、守っ……」


 涙が次から次へとあふれ出す。あの時交わした秘密の約束は、『将来、美月さんの専属調律師になる』というものだった。しっかり覚えてはいるけれど、子供の頃の淡い夢みたいなものだと思っていた。


「ごめんね、黙ってて。ちょっと上司に突っ込まれたりしたんだけど、秘密は守ったわ」


「そ、んな……ありがと、う……」


 あの時はすぐに離れて行ってしまった撫子色がこの手に戻って来たと、感動に打ち震える私の手をそっと取って、彼女は優しい微笑みを私に降らせる。涙を拭いもせず顔をくしゃくしゃにしている私と、こらえようとしても出てしまう嗚咽は、丸ごとふわりと抱きしめられた。


「がんばってくれてありがとう、海凪ちゃん」



 ◇◇



 その後、私と美月さんは専属調律師とプロピアニストとして世界中を飛び回った。


「ここのルノワールも素敵」


「本当、海凪ちゃんが言う通り、色同士の掛け合いが見事ね」


 約束通り、ルノワールの絵画が展示されている美術館を巡ることもできている。その度に、幸せとはこういうことなのだと実感する。


「美月さん」


「ん?」


「ありがとう」


 彼女は目を細めて、変わらない小さな笑みを浮かべた。


和色名の説明です。


葡萄染色えびぞめいろ

薄い赤紫色。

葡萄葛えびかずらの熟した実のような色で、古来より高貴な色として重用されていた。

枕草子にも記述あり。


群青色ぐんじょういろ

やや紫みを帯びた深い青色。

日本では、中国から伝わった天然顔料として曼荼羅まんだらのような仏教画に使われていた。


紺碧色こんぺきいろ

深く濃い青色。

鮮やかな夏の空を形容することが多い。


撫子色なでしこいろ

やや紫がかった淡紅色。

英語の「pink」は植物の撫子の総称であり、色としてはもともと撫子色のことをいう。

ついでに豆知識。色の意味で使うpinkは不可算名詞、植物の撫子の意味で使うpinkは可算名詞。


白鼠色しろねずいろ

白銀色のような明るい鼠色。

蝋燭の灯りの下でも映えると、江戸時代の遊び人の旦那方に人気があった。


蕎麦切色そばきりいろ

わずかに黄み・緑がかった無機質な灰色。

白いものが汚れて薄黒くなった鼠色とも言われる。


蝋色ろういろ

黒漆くろうるしの濡れたような深く美しい黒色。

漆工芸の塗りの技法である呂色塗ろいろぬりが由来で、「呂色ろいろ」ともいう。


黄蘗色きはだいろ

やや緑がかった明るい黄色。

日本の山地に自生する落葉樹の黄蘗の樹皮で染めた黄色のこと。

染めた紙や布には防虫効果・殺菌効果がある。


榛色はしばみいろ

ヘーゼルナッツ(セイヨウハシバミ)のような黄色がかった薄茶色、または赤みのあるくすんだ黄色。

目の色の形容に用いられることが多い。


紅梅色こうばいいろ

紅色の梅の花の、やや灰色がかった明るい紅色。

JISの色彩規格では「やわらかい赤」と定義されている。

枕草子にも記述あり。


青碧色せいへきいろ

鈍い青緑色。

古代中国の玉石である青碧が由来。

僧侶の衣の色として用いられていた。


黒檀色こくたんいろ

熱帯性常緑樹の黒檀を由来とした、黒みを帯びた濃い焦茶色。

黒檀は一般的な木材の中で最高の強度と重さを持つ。


珊瑚色さんごいろ

黄み・灰色がかった明るい赤色。

由来である宝石の珊瑚にも様々な種類があるが、「深海珊瑚/ミス珊瑚」と呼ばれるピンク珊瑚が一番近いかも。


瑠璃色るりいろ

紫みを帯びた濃い青色。

仏教の七宝しっぽうの一つとして珍重される宝石の瑠璃ラピスラズリが由来。


女郎花色おみなえしいろ

明るい緑みのあるやわらかな黄色。

秋の七草でもある女郎花の花の色が由来。


茜色あかねいろ

やや黄みを帯びた暗い赤色。

薬用・染料植物であるアカネの根で染めた色が由来。

夕焼け空の形容に用いられることが多い。


赤墨色あかすみいろ

赤みのある墨色。

朱の粉末をにかわで練り固めた墨が由来で、朱墨しゅずみともいわれる。


 ◇◇


藤色・桜色・朱色はよく使われる色名なので、説明を省いています。

もし見落としがありましたら、感想欄などで報告をいただけるとうれしいです。


出典はWikipediaが多いです。

何か問題があったら教えてください。

一般的な説明だから、大丈夫だとは思うのですが。


最後に一つお詫びを。

小説内で美術館に展示されている「ピアノに寄る少女たち」の説明で

涅色くりいろ」を使っていましたが、

再度見直したところ「榛色はしばみいろ」の方が近いと思い、

そこだけ訂正してしまいました。申し訳ありません。

※涅色:褐色がかった黒


以上、よろしくお願いいたします。(2024/01/08)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ