知らない間に妻が浮気をしていた挙げ句、間男騎士団長と決闘する羽目になった商人子爵は、逆襲に全てを賭ける~決闘代理人ジャック・ノワールの事件簿~
※以前書いた『決闘代理人ジャック・ノワール』の続編になります。
ネタをいただきましたので、書いてしまいました……。
「あの一件はどういうつもりですかな、ロシュトール伯爵!」
「おやおや、随分なご挨拶だね、ミクラウス子爵」
王宮で開かれた、きらびやかな舞踏会。
子爵が伯爵に食って掛かるという珍しい事態に、周囲の目が集まった。
かたや少々頭髪の寂しくなった三十過ぎで痩せ気味の子爵。
こなたそれよりも若く長身で程よく鍛えられた体躯に整った顔立ちの伯爵。
そして、二人の間には水色のドレスを着た一人の美女。
これは面白いことなりそうだと周囲の人間は耳をそばだてる。
渦中の一人ロシュトール伯爵は、つい最近騎士団長に昇進したばかり。
息子が加担した不祥事の責任を取る形で前騎士団長が職を辞し、その後釜に座る形で昇進したロシュトール伯爵に取り入ろうとする者、あるいは嫉妬の目を向ける者は数えきれぬほど。
そんな連中からすれば、この騒動は良いネタになることだろう。
「ご挨拶も何もないでしょう! 我が商会でほぼ決まっていた案件を、あなたが裏で介入してご破算にしておいて!」
「おやおや、私が介入しただなんてとんでもない言いがかりだ。
成り上がってきた人間はどうにもエレガントさが足りないね」
揶揄するようにロシュトール伯爵が言えば、周囲からは失笑が漏れる。
両者の言い分を見定めようとしている者もいるが、どうやら時流におもねる人間が多いらしい。
その反応に、何よりも伯爵の言葉に、ミクラウス子爵の顔は憤怒の赤に染まる。
「成り上がりとは失礼な! 当家はこの商売を三代続けております!」
「戦場に出る騎士であれば三代続けば大したものだが、命を賭けぬ商いごとき、せめて五代は続けてから言って欲しいものだね。
それとも何か、君は我々騎士を馬鹿にしているのかな?」
そう言いながら伯爵は、近くにいた友人らしき男の肩に手を回す。
確か、彼もまた騎士団の重職にある人物のはずだ。
「馬鹿になどしておりませんが、しかし! こちらとて安穏に金勘定だけをしておるわけではございません!」
「なるほど、どうやら君には金貨の触れあう音が剣戟のそれと同じく聞こえるらしい。うらやましい耳をお持ちだ」
言っていることは嫌味の固まりでしかないというのに、爽やかな笑顔の美丈夫が言えばもっともらしく聞こえてしまうから困りものだ。
周囲の人々も、かなりの割合が雰囲気に流されて伯爵に同調しかけている。
「落ち着いてくださいあなた、こんな人目のある場所で……」
「うるさい! これが黙っていられるものか!」
「うるさいだなんて、ひどい……私が邪魔みたいに……」
夫である子爵から強い言葉を向けられて、子爵夫人アゼットがよよと泣きながら顔を伏せた。
途端、側で見ていた伯爵が急に真面目な顔になる。
「ミクラウス子爵、流石にそれは言い過ぎではないかね?」
「わ、私は間違ったことなど何も……」
「間違っているかどうかではない。女性をこんな公衆の面前で泣かせるなど、男として恥ずかしくはないのかね」
その原因を作った男が、いけしゃあしゃあと。
一度下がりかけた子爵の感情が、噴き上がる。
「何が『恥ずかしくはないのか』だ! そちらこそ恥ずかしくはないのですか!」
「子爵、流石に口が過ぎるぞ。そこまで言われたら、私もそれ相応の対応を取らざるを得ん」
「いいですとも、こちらとて黙って引き下がれません!」
落ち着き払った伯爵の態度は、一層子爵の癇癪を刺激した。
怒り心頭の彼は己の左手に嵌めていた白手袋を取る。
それが意味するところに気がついた幾人かが、息を呑む音が聞こえた。
「ロシュトール伯爵、あなたに決闘を申し込む! 決闘裁判にてあなたの不当な介入を明らかにさせていただこう!」
「私に決闘を挑むとは、良い度胸だ。よかろう、受けてたとうじゃないか!」
必死の形相で手袋を投げつけ決闘を申し込むミクラウス子爵に対して、さながら舞台俳優のごとく堂々と受けて立つ伯爵という構図に、悲鳴と歓声の入り交じった騒ぎが起こる。
だから、誰も気がつかなかった。
決闘騒ぎで盛り上がる中、顔を伏せたミクラウス子爵夫人アゼットの唇が歪んでいたことを。
決闘裁判。
魔法があり、神も実在するこの世界には、だからこそ科学的捜査というものが存在しない。
故に立証は関係者からの証言が主とならざるを得ず、往々にして証言が食い違うこともある。
そのまま平行線となった場合に、白黒をつける最終手段として用いられるのが決闘裁判だ。
これは神の御前で互いに虚偽を申し立てていないことを誓い決闘を行うという一種の儀式。
神は正しき者に加護を与えると言われており、例え力弱くとも正しき者が勝つとされる。
よって、勝者の言い分が認められるというわけだ。
この際、決闘中にどちらか、あるいは両方が死ぬ場合もありえるのだが、それもまた神の裁きとして尊重される。
例えそれが、王族であっても、だ。
だから、子爵程度など決闘で死んだとしても何ら問題になるわけがない。
帰宅後、そのことが頭を占めた子爵は、頭を抱えていた。
「頭に血が上っていたとはいえ、私はなんてことを……」
リビングのソファに座り、嘆きの声を上げる子爵。
彼がここまで思い悩むのにはわけがある。
先程『正しき者が勝つとされる』と述べたが、この『される』というのが問題なのだ。
実際のところは、神の加護にそこまでの力は無い。
確かに正しい者に加護が与えられるのだが、しかし大きな実力差を覆す程のものではない。
そのことは、貴族のほとんどが知っていることだった。
当然ミクラウス子爵もそのことは知っているし、商売人である彼が騎士団長に抜擢されたロシュトール伯爵に敵うわけがない。性格に問題のある伯爵だが、腕は確かなのだ。
「あなた、伯爵様に謝罪しましょう? そうしたらきっと許していただけるわ」
隣の長いソファに腰掛けていたアゼットが労るような声をかければ、子爵はがばっと顔を上げた。
「そんなこと、出来るわけがないだろう! あんな大勢の場で決闘裁判を叩きつけたというのに謝罪などすれば、私はとんだ赤っ恥、慰謝料だってどれだけのものになるか!」
「きゃっ! そ、そんなに怒鳴るだなんて、ひどいっ!」
悲鳴を上げて怯えるようにソファへと突っ伏すアゼット。
しくしくと声がするのをみるに、泣き伏しているようだ。
「泣きたいのはこっちだ、そんなことになれば、我が家は破産だ……」
力無くぼやきながら、子爵はまた頭を抱える。
実はミクラウス子爵家は、商売を手広くやっている資産家の家で、総資産はロシュトール伯爵家を凌駕する程なのだが……この総資産、というのが問題なのだ。
動産、不動産の形で所有しているものも多く、即座に動かせる現金は総資産に比して少ない。
これで伯爵家へと公衆の面前で商売上の不当な介入の疑いをかけた慰謝料を払うとなれば、その金額は莫大なものとなり現金が枯渇する恐れすらある。
そうなってしまえば仕入れや輸送にかかる費用が払えなくなり、一気に商売が立ちゆかなくなってしまいかねない。
「で、でも、家にあるものをお金に換えればいいじゃない」
「出来るものならな……そんな隙を見せれば、うちを狙ってる連中が牙を剝くに決まってる」
恐る恐るアゼットが言うも、子爵は首を振ってそれを否定した。
伯爵家よりも資産のあるミクラウス子爵家は、少なくない数の家から疎まれている。
伯爵以上の家からは『子爵のくせに』と。子爵家からは『同じ爵位なのに』と。
もしもミクラウス子爵家が運転資金を焦げ付かせた、などと聞けば、そんな家々があの手この手で子爵家の資産を差し押さえていくことだろう。
もちろん良い付き合いをしているお得意様もいるにはいるのだが、そんな状況で守ってくれるかどうかは怪しいところ。
むしろ手の平を返すのではないかと子爵は疑ってすらいた。
「こうなったらもう、決闘の代理人を探すしかない……」
「あなた……そんなの無理に決まってます」
「うるさい! そんなことはわかっている! だが、それしかないのだ!」
引き留めるアゼットを、子爵は一喝するも、その唇は怒りと不安で震えていた。
決闘裁判の代理人は、騎士叙勲を受けている者しかなれない。
そして、騎士は叙勲の際に弱き者の力となることを誓うため、代理人を依頼されれば基本的に断れないのが建前になっている。
だが、実際はなんだかんだ理屈を付けて都合が悪い依頼からは逃げる者がほとんど。
となれば、新しく騎士団長となったロシュトール伯爵と敵対する代理人を引き受ける人間など、いるわけがないだろう。
わかってはいるが、それでも子爵は引き下がるわけにはいかなかった。
「どうせ伯爵のことだ、証言しそうな人間は囲い込んでいるだろうし証拠も残してないんだろう。だったらもう、これしか道は残っておらんのだ!」
「落ち着いてあなた! まって、まってください!」
言い捨てながら立ち上がり、リビングを出て行くミクラウス子爵。
引き留めようとするアゼットを、最早振り返りすらしない。
「どうして、どうしてこんなことになったの……」
「奥様……お労しい……」
ソファへと泣き伏したアゼットを、メイドが労るも、彼女が顔を上げることはなかった。
何故ならば。
上手くいったとほくそ笑んでいる顔を見られるわけにはいかなかったからだ。
こうしてミクラウス子爵の代理人探しが始まったのだが……予想通り、簡単には見つからなかった。
騎士団長を敵に回し、大きな利権も絡むと思われる案件の白黒を付ける決闘裁判の代理人。
負ける可能性が高い上に勝っても命の危険があるとあって、騎士達は首を縦には振らない。もちろんそれらしい言い訳はしてくるのだが、本音は透けて見えている。
本来であれば決闘裁判で負けた後に異議を唱えたり、関係者に危害を加えることは禁じられているのだが、決闘裁判にまでもつれ込む程の争い方をする連中が大人しく守るとは限らないし、神もそこまでは守ってくれない。
であれば、騎士達も金を積まれたところで引き受けはしない。あの世に金は持っていけないからだ。
子爵が代理人を見つけられない日々を送る中、決闘裁判の日時は速やかに決まってしまった。
今をときめく新騎士団長の伯爵が動けば、段取りなどあっという間。
必要な書類もすぐに集まっていた。……子爵側が提出するものも含めて。
なぜならば。
「うふふ、これで決闘裁判の日時は確定、もうあの人は逃げも隠れも出来ませんわね」
「アゼット、君のおかげで随分と楽に事を運ぶことが出来たよ。贅沢を言うならば後二、三日は期日を短くしたかったんだが……まあ、欲を掻きすぎてもな」
このように、アゼットがロシュトール伯爵と通じていたからである。
伯爵邸の中でも一際豪勢なロシュトール伯爵の私室で、二人は同じソファに並んで腰掛けていた。
「まったく、商人としては優秀かも知れんが貴族としては脇が甘い。
そんなことだから、簡単に情報を漏らされて出し抜かれるのだがね」
「私とあなたがこうして通じているだなんて、まったく気付いてませんもの。
財布の紐くらいしか気にしてないからこうなるんですのよ」
「はは、おかげで随分と貯め込んでいるんだろう?
それをこうしてごっそりいただけるんだと思えば悪い話でもないさ」
アゼットが嘲るように言えば、ロシュトール伯爵の唇の端が、にぃと上がる。
その顔に浮かぶのは、舞踏会の時とはまるで違うゲスな顔。
だが、あばたもえくぼとでも言うべきか、アゼットにとっては魅力的に映っているらしい。
「あら、悪い人。でも、そういうところがたまらないのよね……」
「だろう? 少しくらい悪くなければいけないのさ、男も貴族も、ね」
そう嘯きながら、ロシュトール伯爵はアゼットの身体をソファに押し倒した。
全てがアゼットとロシュトール伯爵の筋書き通りに進んでいるように見えていたある日。
決闘裁判まであと三日と迫る中、連日代理人を探して歩き回り、よれよれになったミクラウス子爵が顔に希望を輝かせながら帰ってきた。
「お、お帰りなさいませ、あなた。どうなさったのです?」
「喜べアゼット、代理人がなんとかなりそうだ!」
「な、なんですって!?」
思わず悲鳴のような声を上げかけたところで、まずいと必死に喜びの声音を作るアゼット。
幸いにして、望外の喜びに震えるミクラウス子爵は気付いていないようだ。
「代理人がなんとかなりそう、とは、一体どなたが……?」
「ああ、私もすっかり失念していたが、騎士団所属の騎士が受けないのであれば、所属していない騎士に頼めばよかったんだ!」
「は、はい……? 騎士団に所属していない騎士など、いるのですか?」
「あまり知られていないがな、国にも貴族にも仕えぬ自由騎士というのがいるんだよ」
ミクラウス子爵の言葉に、アゼットはぽかんとした顔を晒す。
自由騎士。騎士爵を持ちながら決まった主を持たぬ無位無官の騎士を指す言葉だ。
時に根無し草と揶揄され、時に自由と強さの象徴として憧れられる存在。
だが一般的に騎士というものは王国騎士団なり高位貴族の私設騎士団に所属するものであるため、騎士物語や戦記物を嗜む人間でないとあまり好意的な目は向けられない。
そして、アゼットは嗜まない人間だった。
「あ、あの、そんな騎士など信頼出来ないのではないですか?」
「そうかも知れん。だが、今日会った方は、信頼出来る。私の目を信じろ!」
まずい。
自信満々に言い切る子爵を前に、アゼットは内心で焦った。
商人として確かな目を持つミクラウス子爵がここまで力強く断言した時、見出した商品は必ずと言っていい程よく売れている。
取引相手に関しても同様で、彼の目を欺けた人間をアゼットは一人しか知らない。
他ならぬアゼット本人である。
もっとも彼女と子爵の婚姻は事業絡みのものであったため、差し引いて考える必要はあるが。
であれば、これはまずい相手を引き当てた可能性が高い。
「あなたがそこまで言うだなんて、その方はなんとおっしゃるの?」
相手がわかれば、ロシュトール伯爵から圧力をかけることが出来るかも知れない。
そんな希望を持ってアゼットが訪ねれば、ミクラウス子爵は爛々とした目を向けながら答えた。
「お前も知っているかも知れんな。『最後の騎士』の異名を取る、ジャック・ノワール卿だ」
と。
話は数時間ほど前に遡る。
決闘代理人をよく引き受けている騎士達を巡り歩き、ついに最後の一人にまで断られ打ちひしがれたミクラウス子爵を哀れと思ったか、その騎士が教えてくれたのが、ジャック・ノワールだった。
確かにその存在は聞いていたが、王国騎士団に所属していない彼の所在はあまり知られていない。
たまたまその騎士は知っていたため、教えることが出来たというわけだ。
そうと聞けば疲れ果てた身体にも最後の力が湧き、足も動く。
こうして何とかジャックの元を訪れたミクラウス子爵は、応接室でジャックに会うなりその場で土下座した。
子爵ともあろうものが、貴族の末端である騎士、そのさらに末端である自由騎士に対して、だ。
「お願いします、ジャック・ノワール殿! 何とぞ、何とぞお力添えを!」
「まあまあミクラウス子爵様、お顔をお上げになってくださいませ。まずはお茶でも飲んで落ち着かれてはいかがですか?」
ふいにかぐわしい紅茶の香りが漂ったかと思えば、涼やかな女性の声が響く。
先程応接室に入ってきたジャック・ノワールは、確かに黒髪黒目をした三十路絡みの美丈夫だったのだが。
怪訝に思ってミクラウス子爵が顔を上げれば、驚きのあまりに目を見開いた。
高い魔力を秘めた、鮮やかな真紅の髪。少しつり目のややもすれば勝ち気に見えるその顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいる。
「デ、デュモンド侯爵令嬢様……?」
「はい、ご無沙汰しております。新年の宴以来でしょうか?」
「な、何故あなた様がこちらに……あ、いや、ということは、やはり婚約されたという噂は本当のことだったのですね」
「どこまで広がってるんだ、その間違った噂は……」
驚愕と困惑に言葉がつっかえがちなミクラウス子爵へとデュモンド侯爵令嬢パメラが和やかに応じれば、子爵と向かい合って座っていたジャックが渋面を作る。
ここ最近、依頼人に会ってこの話題にならない事がないのだから、うんざりもするだろう。
「彼女は、以前依頼を受けたことがあるというだけの関係だ」
「ええ、それ以来わたくしがこうして押しかけ女房、いえ、押しかけ婚約者をしておりまして」
「だから! 君も誤解を広げるようなことを言わんでもらえるかな!」
パメラの余計な口添えに、思わずジャックも食って掛かる。
目の前で突然繰り広げられた掛け合いに、ミクラウス子爵は口をパクパクと開閉させるばかり。
いかに商人として鍛えられた彼といえど、この状況で何か気の利いたことが出てきたりはしないらしい。
「それで、依頼というのは?」
「もしかして、先日の舞踏会のあれですの?」
やいのやいのと言い合った後、ゴホンと咳払いをしたジャックが話を戻せば、そこにもまたパメラが口を挟んでくるのだが、流石に今回はジャックも文句を言わない。
「そ、その通りなのです。よくご存じで……」
「わたくしは参加しておりませんでしたが、父が目にしたそうでして」
「あ。その、あの日は侯爵様にご挨拶も出来ず、申し訳ございません……」
パメラの言葉に、ミクラウス子爵は顔色を失った。
先程のやり取りからわかるかも知れないが、子爵はパメラの実家であるデュモンド侯爵家とも取引がある。
であれば当然先の舞踏会で侯爵にも挨拶をしに行かねばならないところだが、あの騒動でそれどころではなかったのだ。
とんだ失礼を、と真っ青になっている子爵へと、パメラが向けたのは微笑みだった。
「いえいえ、騒動は父にも聞こえていたらしく、あの状況では仕方ないと言っておりましたので、お気になさらず」
「お言葉、痛み入ります。しかし、事が片付きましたら必ずご挨拶にとお伝えいただければ」
寛大とも鷹揚とも言えるパメラの態度に、子爵は頭を深々と下げる。
なんとありがたいことかと、久方ぶりに触れた優しさに、思わず涙が滲みそうだ。
と、感動しきりだったところに、わざとらしい咳払いが聞こえる。
「……で。どういうことか説明してもらえますかね?」
言われて、はっと気がついたように顔を向けた先には、眉間に皺を寄せながら営業用スマイルを無理矢理作っているジャックがいたのだった。
改めて舞踏会での顛末を聞いたジャックは、にやりと唇を上げて笑みの形を作る。
「なるほど、新しく騎士団長となられたお方が相手。それはなんとも面白い」
「お、面白い……いや、確か卿は、先だって王子殿下を相手にしておりましたな……」
「ま、今では元殿下、しかも儚くなられたらしいですがね。そんなわけですから、騎士団長を相手にするくらいならどうってことはないんですが」
傲慢な程に落ち着き払ったジャックの様子を見れば、ミクラウス子爵は驚きのあまり言葉に詰まる。
確かに王子すら殴り飛ばした男だ、伯爵にして騎士団長程度の地位であれば歯牙にもかけぬところだろう。地位だけであれば。
「しかし相手は騎士団長となる程の腕なのですぞ?」
「ってことは、前の団長には勝てなかったってことでしょう? だったら、俺の敵じゃない」
「いやしかし、それは……」
まるで明日の天気の話をするかのような軽い口調に、子爵は何か言いたげになり、しかし言えない。
ジャックの噂は聞けど実際に決闘裁判を見たことがない子爵からすれば、すんなりと信じるわけにはいかない。
おまけに、例えば噂に聞くパメラの代理人として決闘裁判に臨んだ際の立ち回りなど、人間業とは思えぬ程の大立ち回りなのだから、普通であれば話半分に聞くところ。
だが、この男を前にするとそれが出来ない。
嘘ではない、本当だと子爵の中の何かが言っている気がするのだ。
「もしかして、先日の決闘裁判についてお聞きになりました? 恐らくお聞きになったことは、全て本当のことですわよ。何しろ、わたくしもこの目でハッキリ見ましたもの」
「あ、あれが本当にあったこと、だというのですか!? 十人からの騎士を瞬く間に全て一太刀で片付け、王子殿下を殴り飛ばしたという話が!?」
「はい、間違っておりません。ジャック様はそれだけの腕をお持ちなのです」
「いや、なんで君がそこまで自慢げなんだ、パメラ嬢」
まさか、という面持ちの子爵に対して、パメラはいわゆるドヤ顔を見せ、思わずそこにジャックがツッコミを入れる。
とはいえ、表情を見るに悪い気はしていないようだが。
二人の関係が垣間見えたような気がして、子爵の顔が僅かばかり緩む。
それを目の端で捉えたジャックの口の端が僅かばかり上がり、それからまた元の形に戻った。
「ま、というわけで依頼を受けるのは問題ないんですよ。
一番の問題は、あなたが依頼料を払えるかです、ミクラウス子爵閣下」
「はい、法外とは伺っておりますが……しかし私もそれなりの商会を抱える身、言い値で払う心づもりはしております」
子爵にジャックを紹介した騎士は、どうやら依頼料についてもある程度教えていたらしい。
その返答を聞いたジャックの口の端が、今度こそ笑みの形に上がった。
「では、お伝えしましょう。依頼料は、あなたの全財産から払えるだけ全部。それが、依頼を受ける条件です」
「……は?」
楽しげに告げたジャックを見ながら、ミクラウス子爵の口がぽかんと開いた。
今、何と言われたのか。
耳はきちんと聞き取ったが、子爵の脳が理解を拒む。
まさかそんな。それこそ法外もいいところな内容に、子爵は思わず聞き返す。
「い、今、なんとおっしゃいましたか?」
「あなたの全財産から、払えるだけ全部。そう言いました。
こう言い換えてもいいでしょう。この決闘裁判に負ければ失うであろう全てと釣り合うだけのもの、と」
「な、な、何を!? 何を言っているのですか、全部などと、法外にも程がありますぞ!?」
思わず立ち上がって抗議する子爵へと、しかしジャックが向けるのは楽しげな笑みだ。
「ええ、だから最初に言ったでしょう、法外だと。
だがね、こっちは赤の他人であるあなたのために命を賭けて決闘しようってんだ、それくらいじゃないと釣り合いが取れないってもんでしょう?」
「ぐぬっ……そ、それは……」
その通りだ。そう言いかけて子爵は言葉を飲む。
こういう時に、即答してはいけない。
彼の今までの経験がそう言っている。
相手の言葉について考えろ。その意味するところを。
それも、出来るだけ速く、出来るだけ正確に。
思考が回る。視線が動く。
ジャック・ノワール。彼が、ただの守銭奴なわけがない。
彼とのここまでの会話で抱いたイメージと違いすぎる。
彼を紹介してくれた騎士もあんな顔で教えてくれるわけがない。
そもそもそんな人物にあのデュモンド侯爵令嬢がこうも懐くわけがない。
子爵の視線がパメラを捉えた瞬間、違和感が強くなる。
そういえば、彼女もジャックに代理人を依頼した。
ということは、依頼料を払っている。しかし。
「……そういえば、侯爵家の財政が傾いたとは聞きませんな。デュモンド侯爵令嬢様があなたに依頼したというのに」
子爵がそう呟いた瞬間、ジャックの口が『ほう』とでも言いたげに動き、パメラが拍手でもするかのように手をちょこちょこと動かす。
どうやら、子爵の推測は当たっていたらしい。
「私の全財産。当家のではなく、ということですか」
「ご名答。いや、流石凄腕の商人と音に聞こえたミクラウス子爵、大した肝の据わりっぷりと頭の回りだ。まさかこうも簡単に当てられるとは思わなかった」
「簡単ではなかったですよ、この数分で丸一日分頭を使ったような心持ちだ」
ジャックの賞賛に対して苦笑交じりに返しながら、子爵は大きく息を吐き出した。
これならば、何とかなる。なんとでもなる。
なんとでもなるからこそ、覚悟を問われるのだろう。
「確認させていただきたい。店の運転資金には手を付けずによいと?」
「それはもちろん。それは店の財産と呼ぶべきものでしょう」
「ありがとうございます、それだけ聞ければ十分です」
そう答えた子爵は、憑きものが落ちたように晴れやかな顔をしていた。
しばしその顔を眺めていたジャックは、やれやれと肩を竦める。
「まったく、パメラ嬢といいあなたといい、まず考えるのが領民や店のことですか。
こういう貴族ばかりであれば、俺もどこかに仕えようかって気になったんでしょうがね」
「あら、でしたら今からでもうちに……」
「ご遠慮させてもらいますよ、お嬢様。流石に今となっちゃ、この暮らしが気に入ってるんでね」
笑って返しながら応接室を見回すジャックにつられ、子爵もまた見回す。
先程まではまったく気付かなかったが、あちこちに置かれている調度品の見事さに思わず目を瞠った。
数多の高級品を見てきた子爵の目から見ても特級品のものばかり。
むしろ目が慣れているからこそ、その見事さがはっきりとわかる。魂が、想いがこもったものだと。まるで、この持ち主のために精魂込めて作ったかのような。
これだけの調度品を揃えるのに、はたしてどれだけかかるのか……子爵ですらわからない。
「この暮らしを続けていくためにも、ミクラウス子爵閣下にはきっちりお支払いいただきたいところですな。あなたが、出せるだけ全てを」
「……わ、わかりました、出来る限りをお支払いいたしましょう」
「結構。では、決闘は三日後ということだし、明日か明後日には何をどれだけ出すか決めていただきましょう。正式に受けるかどうかはそれを聞いてからということで」
「はい、そういうことでしたら……明日、またお伺いします」
明日の約束を取り付けた子爵は、立ち上がり。
何とかなりそうだという安堵と、何を払うべきか必死に考える忙しさで頭と足をフラフラさせながらジャックの邸宅を辞去した。
その後ろ姿を玄関で見送ったパメラが、屋内へ戻ろうとするジャックへと声を掛ける。
「……お優しいのですね」
「はて、何のことやら?」
「ああして応接室の中を見回したのは、ヒントのおつもりだったのでは? あの時わたくしが気付いたように、子爵様も気付かせようと」
パメラが依頼をした時、ジャックは同じように応接室のあちこちを観察させた。
そして、気付かせた。これらがかつて彼に依頼をした職人達の手によるものだと。
金のない職人達は、己の財産たる技術の全てを注ぎ込んであれらの調度品を作り、依頼料としたのだ。そうでなければ、蓄えのろくにない職人などに依頼料が払えるわけがない。
そのことにパメラは気付いたから、払うことが出来た。
恐らく、ミクラウス子爵も気付くことだろう。
「ははっ、俺はそんな情けをかけるような男じゃないんでね」
向き直ることもなくヒラヒラと手を振りながら戻っていくジャックの背中を、置いて行かれないようにパメラも追いかける。
少々小走りになってパメラが追いつきかけたところで、思い出したようにジャックが口を開いた。
「……ああ、大丈夫だとは思うが、一応子爵殿の裏を洗っておかないとだな。実は騙されていました、なんてことになったら、命がいくつあっても足りやしない」
「それは、確かに。……もしよろしければ、お父様にお願いしてみましょうか?」
「そいつはご遠慮したいところだなぁ。君のお父上に借りを作ったら、後でどんだけ利息を払わされるかわかったもんじゃない」
冗談めかして返しながらも、ジャックは考えを巡らせる。
侯爵家のツテや密偵を使えるならば、調査の確度はかなり高くなるはず。
ジャックとてこんな稼業で世の中を渡っているのだから、それなり以上の情報網を持ってはいるが、いくらなんでも天下の侯爵家には敵うまい。
そんなジャックの内心を見透かしたように、パメラが色々と含んだ笑みを見せる。
「あら、決闘裁判は三日後ですのよ? それまでに情報を集めないといけないのならば、使えるものは使いませんと。
それに、父はジャック様に貸しを作るつもりなんてありませんよ」
「どうだか。こと侯爵様に関して言えば、タダより怖いものはないとしか思えんからなぁ」
「大丈夫ですよ、貸しではなく先行投資ですから」
「結局投資してきた分は回収されないかね、それは」
呆れたような声で言いながら、ジャックはパメラに言われたことを検討する。
ミクラウス子爵がジャックも満足するだけの依頼料を持ってくれば、間違いなく代理人を引き受けるだろう。その程度には、この短時間のやり取りでジャックは子爵のことを気に入った。
しかし、後から彼に非があることがわかりでもすれば、加護で力を増したロシュトール伯爵を相手取ることになってしまう。
ジャックとて人を見る目に自信はあるが、一流の商人であれば彼の目を欺くだけの演技力を持っている可能性は否定出来ない。
相手は、運良くという側面はあれど曲がりなりにも騎士団長に登り詰めた男。
もしも欺かれていた場合、伯爵に加護がかかった状態となり、ジャックであっても不覚を取る可能性は否定出来ない。
であれば、最善を尽くしておく方が無難というものだろう。
「はぁ……今回ばかりは仕方がない。すまないが、頼めるか?」
「ええ、もちろんです! 父も手ぐすね引いて……もとい、父もこんなこともあろうかと準備してくれているでしょうし」
「おいまて、やっぱり頼みたくなくなってきたんだが!?」
わざとらしく言い直すパメラへと食ってかかるジャック。
しかし、結局それ以上の手も浮かばず、デュモンド侯爵の情報網を使わせてもらうことになったのだった。
やるべきことが定まった後の、子爵の動きは速かった。
アゼットに決まりそうだと告げた後は自室に戻って財産をリストアップ。
これが自分の財産だ、と言えるものを数え上げて、頭を抱え。
「あの、あなた、少し休まれては……」
「いや、そういうわけにもいかん、今は少しでも時間が惜しい!」
表向きとは違う理由でアゼットが心配して声をかけるも、ミクラウス子爵は取り合わない。
あちこちに手紙を送る手配をし、朝から出かける約束まで取り付けていた。
そして翌日はアゼットが起きるよりも早くに家を出て、方々を回り。
昼過ぎ、ミクラウス子爵は再びジャックの元を訪れていた。
「ジャック・ノワール様。こちらが、今回の依頼料として差し出すもののリストになります」
差し出されたリストに目を落としたジャックは、一瞬ギョッとした顔になる。
ジャックが要求する依頼料の性質上、こうしたリストを出されることはたまにあること。
その際、彼はリストの最初と最後をまず確認する。
依頼人の覚悟が一番現れるのが、最初と最後のどちらかだからだ。
彼が驚いたのは、その最後。
ふぅ、と息を吐き出したジャックは、改めてリストを確認していく。
「……存外、値の張るものはあまりお持ちでなかったようで」
「ええ、お恥ずかしながら。商売なぞやっていますと、新規商品への投資だとかで手元に残らんこともあるのです。それに、妻と違って私は着飾る甲斐もなければ趣味もありませんし」
「だから、これですか」
ジャックがリストの最後を指さして示す。
そこには、生命保険の受取人として指定した旨が書かれていた。
この国でも、保険という概念は生まれている。
始まりは、商人達が大規模な貿易に対しての互助手段として生み出し、以降様々な分野において保険がかけられるようになっていく。
その流れにおいて、生命保険が生まれるのも当然のことではあった。
受取人に赤の他人を指定するのは滅多にあることではないが。
「よく俺を受取人に指定するなんて無茶が通りましたな?」
「そこはもう、蛇の道は蛇と言いますか。保険協会には色々と顔が利くのです」
まだ相互会社という概念が生まれていないこの世界では、商人達が設立した協会が保険を扱っている。
ミクラウス子爵のような貴族であり大商人でもある人間であれば、さぞかし発言力もあることだろう。
だから、色々と無茶な契約内容も通せたようだ。
「普通、こうも高額な保険は、簡単に契約が結ばれないはずですが。特に第三者が受取人である場合なぞ」
「ええ、稀ですね。ですから私も、そういう契約を結ばれた人をよく覚えていまして」
「……なるほど?」
ミクラウス子爵の言い回しに、ジャックは苦笑を見せる。
例えば、受取人がとある商人になっている高額な生命保険をかけていた人物が、かけてからしばらくして死亡する、などということがあったとしたら。
真相が表に出てこない怖い話は、ジャックも時折聞くことではある。
そんな保険の契約に、保険協会の中枢にいる商人が関わっていたとしたら。
そのことをミクラウス子爵が知っていて、公表するなどとちらつかせたら。
無茶な契約も、すんなり認められてしまうことだろう。
「自殺に保険は下りませんよね?」
「私は国外にも買い付けに出ることがありますから、その途中での事故死であれば何も疑われないでしょう」
ジャックが疑問点を確認すれば、穏やかな顔で子爵は答える。
覚悟の決まりきった顔で。
彼は、己の持つ商人としてのコネや何やを駆使してこの契約を結び、報酬として払おうとしているのだ。
「そこまでして、店を守りたいと」
「はい。この裁判で負けてしまえば、伯爵に全てを奪われてしまうでしょう。
妻が受取人になっている保険もかけておりますから、彼女は生きていけるでしょうが……商会は、そうはいかない。騎士団一筋で商売の経験がない伯爵の手に渡れば、きっと滅茶苦茶なことになってしまう。そうなれば、店員達の生活も立ちいかない。
はじまりは私の失態ですが、それでもロシュトール伯爵に商会を渡してしまうのは我慢ならんのです」
柔らかな声音の中に感じる、強く芯の通った何か。
それを感じ取ったジャックは、大きくため息を吐いた。
「まったく……昨日の発言は撤回します。こんな貴族ばっかりいたら、俺の命がいくつあっても足りやしない」
「ノワール卿、それでは!」
「ええ、この依頼、受けさせていただきますよ。ここまでの覚悟を見せられて、逃げたら男を名乗れないってもんでしょうよ」
「おお……ありがとうございます!! なんとお礼を言えばよいのやら!」
言葉通り感謝しきりのミクラウス子爵へと、ジャックはまた苦笑する。
ここまでのものは求めていなかったのだが。
商売人は時に大きな賭に出るというが、その思い切りの良さは彼の想像を超えていたようだ。
この短期間で二度も超えられるとは思ってもいなかったが。
「……そういえば、デュモンド侯爵令嬢様は今日はいらっしゃらないのですね?」
契約書類を作成している最中に、ふとミクラウス子爵が顔を上げる。
やけに静かだと思って気になっただけだったのだが、その問いに返って来たのは、なんとも曖昧な顔だった。
「あ~……彼女は他にやることが出来まして。ま、また今度改めて挨拶は出来ると思いますよ。
決闘裁判に勝った後に、ね」
「はは、それもそうですな。……ノワール卿、よろしくお願いいたします」
笑いながら応じたミクラウス子爵は書類に署名をし。
それから、ジャックと固く握手を交わした。
契約が結ばれるよりも少し前。
不安が募ったアゼットは、翌日になって子爵が出かけた隙を突いてロシュトール伯爵の元へと訪れていた。
「あの人が代理人を見つけてきたのです!」
という訴えに、ロシュトールは『まさか』という顔になって驚いたのだが。
話を聞くうちに、その顔から警戒の念は薄れていった。
「ああ、ジャック・ノワールね、知っているとも。何、大した男じゃないから心配しなくていい」
「し、しかし私でも名前を聞いたことがある騎士ですよ?」
「確かに『最後の騎士』だとか言われて名前だけは通っているが、結局は誰も手を付けない依頼で食いつないでいる残飯漁りの野良犬さ。多少腕は立つようだが……先日の一件も、派手な大立ち回りに見えて実際は未熟なガキ共相手に暴れただけ。私の相手は務まらんよ」
自信たっぷりに言うロシュトールを見て、アゼットはほっと胸をなで下ろす。
言われて見ればロシュトールは精鋭揃いの騎士団で頭角を現してきた男。
ふらふらしている自由騎士などとは、置かれてきた環境が違うだろう。
安心したらしいアゼットへと、ロシュトールは笑いかける。
「さて、アゼット。安心してくれたならもう家に戻るがいい。
受任した代理人は、たまに裁判の争点に関して裏取りまでする奴もいる。依頼人を疑うだなんて騎士の風上にもおけないが、生き汚い野良犬ならばやりかねない」
「……あっ、こうして私が伯爵様と会っていることがバレてはまずい、ということですわね?」
突然帰れと言われて驚いたアゼットだったが、続くロシュトール伯爵の説明を聞いて納得顔になった。
二人が密会していることがバレてしまえば、彼女らの企みがバレてしまう可能性もある。
理解したらしいアゼットへと、ロシュトールは頷いてみせた。
「そういうこと。ま、今日の午後に契約という話だし、慌てることもないだろうが……念には念を入れて、ね。裁判さえ終われば、これから会う時間はいくらでも出来るから、少しだけ我慢してくれるかな」
「はい、そういうことでしたら、もちろん。……ああ、裁判が終わるのが待ち遠しいですわ」
「もう後二日だ、すぐに終わるさ」
たった二日。その間にどれだけの裏取りが出来るものか。
精々頑張るがいいさと胸の中でジャックへの嘲笑を響かせながら、ロシュトール伯爵はアゼットを玄関から送り出した。
だが。
それが甘い考えだったことをロシュトール伯爵は思い知らされることになる。
迎えた決闘当日。
「……この決闘裁判において、私はロシュトール伯爵の事業案件における不当な介入とともに、妻アゼットとの不義密通を訴えます」
顔を真っ赤にしながらも必死に怒りを堪えながら、闘技場に現れたミクラウス子爵が抑えた声で告げる。
思わぬ事態にロシュトール伯爵は顔を強ばらせ、何故闘技場に連れてこられたのかわかっていなかったアゼットは顔から血の気を失った。
呆然と突っ立っていたアゼットを体格の良い神官が二人がかりで、ロシュトール伯爵の側へと引っ立てていく。
その光景をしばらく絶句したまま見ていたロシュトール伯爵は、アゼットが無理矢理隣に立たされたことでやっと我に返った。
「まてミクラウス子爵、言いがかりにも程があるぞ! 私と彼女が不義密通などと!」
「こちらには証拠もありますが。ご縁があり、侯爵家のお力をお借り出来ましてね」
淡々と答えながらミクラウス子爵が観客席の方を見れば、小さく手を振り返すパメラ。
ロシュトール伯爵とて、彼女の顔は知っている。デュモンド侯爵令嬢であることも。
何故侯爵家が証拠を集めたかまではわからないが、それが本当であれば証拠能力は十分。
そして、デュモンド侯爵令嬢が来ているこの場で嘘を吐けるわけがない。
ロシュトール伯爵の額に、脂汗がにじみ出す。
「ですが、この際だからと決闘裁判での裁定にかけることにいたしました。
良かったですね。あなたが勝てば、なかったことに出来ますよ?」
淡々と告げるミクラウス子爵。
ロシュトール伯爵には、彼の意図するところがわからない。
一つだけわかるのは、何とか出来るチャンスがまだ残されているということ。
子爵がお膳立てしたチャンスだというのも忘れて、伯爵は誘いに乗った。
「はっ、情けでもかけたつもりか!? いいだろう、その甘さ、後悔させてやる!」
「ええ、ご存分に。ただ……」
窮地に追い込まれた中で活路を見出したからか目をギラつかせる伯爵へと、感情の窺えない顔で頷いた子爵が振り返る。
すると、彼をかばうかのように前に進み出る伊達男。
言うまでもなく、ジャック・ノワールである。
「あなたには出来ないかも知れません」
「笑わせてくれる! そんな野良犬ごときに、俺がどうこう出来るとでも思っているのか!?」
「さて。何が出来るかは、彼がこれから教えてくれることでしょう」
ミクラウス子爵の言葉に、ジャックの眉が片方だけ上がる。
その顔は、どうにも楽しそうだ。
「盛り上げてくれますな、子爵閣下」
「ちとやりすぎましたかな?」
「いいえ、問題ないですよ。ただの事実だ」
ジャックが軽く笑いながら返せば、ロシュトール伯爵がカッと顔を赤くする。
言外に『お前は勝てない』と言われているのだから、当たり前ではあるのだが。
「ふざけるなよ、この薄汚い野良犬が! 許さんぞ、血祭りにしてやるから覚悟するがいい!」
「おやおや、これでも一張羅を着てきたつもりなんですがねぇ。伯爵様のお眼鏡には適わなかったようだ」
からかうように言いながら、ジャックが決闘用に着ている騎士服の襟元をいじってみせる。
見る人間が見ればわかるが、それは王都でも評判の一流職人が仕立てたもの。
言うまでもなく、その仕立て屋もまた、かつてジャックに依頼して救われた人間だ。
そして、そうして見せつけても伯爵の顔は変わらない。
どうやら、彼にものを見る目はなさそうである。
決闘裁判を見に来た貴族の中にはそのことに気付き、小さく笑う者達すらいるというのに。
「それにしても、さっきから野良犬野良犬とそればかり。煽りの語彙が足りませんなぁ。
どうやら女遊びはお手の物でも、喧嘩には不慣れなご様子で」
「なっ、きっ、貴様っ!」
煽られ、言い返そうとするも、言葉が続かないロシュトール伯爵。
『野良犬』と口にしかけて、今まさにそれを揶揄われたことには気付き、しかし別の言葉が出てこない。
結果として、伯爵はジャックの言い分を閉口によって認めた形になってしまい、その顔はますます憤怒に歪む。
それを見るジャックの表情は、実に涼しげなものだ。
「ま、口で争ってもどうにもならない時のための決闘裁判だ、続きは刃で語りましょう」
「のっ、望むところだっ!」
最後にまた『野良犬』と言いかけたか、妙に詰まった物言いになった伯爵へと、ジャックは笑みを向け。
それから、実に慣れた足取りで祭壇前へと向かう。
何故なら、彼は幾度もこの場に立っているのだから。
言われた手順を思い出しながら歩いているロシュトール伯爵とは違って。
だから、祭壇の前で互いに嘘偽りないと宣誓した直後の違和感にも、ジャックはすぐに気がついた。
「……ふむ。神は随分とお怒りのご様子ですな」
「な、なに……?」
少しばかり驚いたように言うジャックへと、問いを発しかけたところで伯爵も気がついた。
舌が、上手く回らない。身体が酷く重たく、動きが思い通りにならない。
そのことに気がついた伯爵の背中に、冷たい汗がびっしりと浮かぶ。
決闘裁判は、一種の儀式である。
神の前に互いの主張の正しさを述べ、嘘偽りないことを誓い、その裁定を神に委ねるもの。
神は正しき者の味方であり、正しき者には加護を。偽りを述べた者には制裁を加えるという。
だが、その加護も制裁も実際のところは大したものではなく、よほど決闘者の力量が近しく無い限り勝敗を左右するものではない、というのが貴族の間では知れ渡っていた。
少なくとも、ロシュトール伯爵が見知った決闘裁判においては。
「我等が神は慈愛の神。故に偽りなき愛を望まれる。……どうやら貴族同士のいざこざよりも、不義密通の方が余程許されなかったらしい」
「あ、あ……そん、な、ばかな……?」
神官に促され、ジャックは淀みなく歩いて闘技場の真ん中へ。
対する伯爵は、促されても動き出さず、先程の体格の良い神官二人の手によって引きずり出される。
「残念ですよ、折角野良犬の剣がどんなもんかお見せしてやろうと思っていたのに。
ま、元々こいつは裁判なんだ、下されるべき審判が下されるだけよしとしましょう」
「まっ、まてっ、まってくれっ! わたしはっ、わたしはこんなつもりじゃっ!
たすけてくれ、みのがしてくれれば、いらいりょうの倍をはらうっ!」
「依頼料の倍? そいつは無理だ。あんた、命を二つは持ってないだろ?」
「い、いのち!?」
どういうことだ、とロシュトール伯爵はミクラウス子爵の方を見る。
その目に映るのは、落ち着き払った……覚悟を決めた男の顔。
何を意味するのか、回転の鈍った頭でもわかってしまう。
そうこうしているうちに時間が来たか、決闘の立会人を務める騎士が二人の間に立つ。
身に付けた鎧は近衛騎士のもの。国王直属となる彼は、新騎士団長であるロシュトール伯爵の麾下にない人間だ。
これでは、立会人になんとかしてもらうという最終手段も使えない。
「さ、懺悔の時間だ。神の御前で洗いざらい吐いてきな」
「い、いやだ、いやだっ、たすけっ、たすけてっ」
命乞いの言葉が終わる前に、立会人が「始め!」と告げて。
ロシュトール伯爵が何とか剣を抜こうともたついている間に、ジャックが抜き様に放った一太刀で、伯爵の首が飛んだ。
「……今までで一番簡単な決闘だったなぁ」
呆れたように小さく呟いたジャックが、剣を納めてから視線を動かす。
この裁判ではもう一人、ミクラウス子爵夫人であったアゼットも裁かれなければならない。
さてどうしたものか、と思案しながら彼女の様子を見たのだが。
「ありゃ。申し訳ないが立会人殿、彼女の様子を見てきていただいてもよろしいか」
「……む、あれは……承知した」
同じくアゼットの方を見た立会人の近衛騎士が、急ぎ彼女の元へと駆け寄る。
アゼットは、闘技場の床に崩れ落ちていた。
しばし彼女の身体に触れて様子を確認した立会人が、首を横に振る。
「ミクラウス子爵夫人は、事切れております」
「やはりですか。これもまた神の思し召し、ですかねぇ……」
ピクリとも動いていなかった様子に、もしやとは思っていたが、とジャックは肩を竦めた。
後に詳しく調べられたところでは、恐らく極度に緊張していたところに伯爵の首が飛ぶ衝撃的な場面を見て気絶、その際嘔吐し、吐瀉物が喉に詰まったショックで心臓も止まったのだろう、との見解だった。
あの場で応急処置を施せばまだ助かった可能性もあるが、その心停止までが神の裁きであるため、助けなかったことに対するお咎めはなし。
むしろこの場合は、助けた方が神の意志に逆らう行為と咎められたことだろう。
ともあれ、こうして決闘裁判は決着した。
「ありがとうございました、ノワール卿。おかげで、こうして裁判に勝つことが出来ました」
決闘裁判の翌日、改めてお礼にとやってきたミクラウス子爵は、ジャックへと頭を下げた。
その表情は、晴れやか……とは言い難い。
自分が死んだ後の生活のことまで考える程度には情のあった妻が、まさか不義密通していたとは。
そして、彼女が様々な情報を流したから、ロシュトール伯爵がこちらへと妨害をかけることが出来たとは。
何よりも、あの二人が子爵を合法的に葬るために計画したことだったとは。
信じがたく、何よりも受け入れがたいことだが……しかし実際に、裁きは下され彼女らはその命で贖うことになった。
そんな子爵へと向けるジャックの顔も、若干複雑なものはあった。
「なに、今回俺は何もしちゃいません。裁かれるべきが裁かれた、それだけの話です」
「しかし、それもあなたがあの場に立ってくださったからこそ。私一人が立っていては、どうなっていたことやら……」
もしも子爵一人があの場に居たら。
そもそも、ジャックが調べてくれなければ不義密通など頭に浮かばなかったのだから、あのようにハッキリと加護が現れたかどうか。
そうなれば、剣に不慣れな子爵など、多少弱った程度のロシュトール伯爵であれば簡単に仕留められたことだろう。
「こうして拾った命、依頼料として支払うことに心残りは最早ございません。いつにいたしましょうか」
さっぱりとした顔の子爵が言うのは、生命保険のことだろう。
だがその顔に浮かぶのは覚悟や潔さではなく、力の抜けた諦めのようなもの。
それが、ジャックには面白くない。
「そのことについてなんですがね。よくよく考えたら、あなたの財産全て、って考えたらこんな金額は端金なんですよ」
「は? いやしかし、一度それで受けて頂いたのですから……流石に店はお渡しできませんし」
「こっちからも願い下げです。まともに運営できないもんもらってもどうしようもない。そんなもんより欲しいのは、あなた自身なんですよ」
そう言いながらジャックが合図を送れば、横で控えていたパメラが額装された一枚の絵を持ってきた。……侯爵令嬢がメイドのように手伝っているのは、この際目をつぶるとして。
ミクラウス子爵の目は、その運ばれてきた絵に釘付けになっていた。
「こ、この絵は……?」
「流石、お目が高い。ちょっとしたツテから回ってきた絵なんですが、こいつが中々売れなくて」
「今の流行からは大きく逸脱してますからね~わたくしは結構好きなのですが」
パメラがそう補足する絵は、今の写実的な人物が中心の画壇からすれば異端もいいところ。
筆遣いは荒々しく、色使いは現実のものと随分乖離している。
だがそれは、絵に力強さを与え、生命力溢れる明るい世界を作り出していた。
「パブロって男の絵なんですがね、俺もいいと思ってるんですが、こいつが売れなくて。
こんな感じの絵が後何枚もあるんで、それらを全部売ってきてもらおうと。
つまりあなたの商人としての目と腕、ついでにコネを差し出してもらおうって腹なんですよ」
「私の、目と腕……」
言われて、子爵は改めて絵を見る。
売れる。
すぐに、この絵を理解してくれそうな好事家の顔が浮かんでくる。
むしろその人ならば、「何故真っ先に持ってこなかった!」と言い出しかねない。
その顔が思い浮かび、思わず笑ってしまう。
「わかりました、必ず売ってみせましょう!」
「決断の早いことで。ならば売上の半分をこっちに納めてもらう形に」
「何をおっしゃいますか、全てお納めいたしますとも! ああ、経費だけはいただきますが。
お渡しした分をそのパブロ氏とどうお分けになるかはノワール卿にお任せいたします」
「……その上豪毅なことで。やれやれ、また早まったかねぇ」
ぼやきながらも、ジャックの顔は楽しげに笑っていた。
渡された全てをパブロに渡すつもりのジャックからすれば、金額の多寡はこだわる部分ではないのだから。
もっとも。
ミクラウス子爵がとんでもない高額で絵を売ってきたのを聞いた時には、その顔が思い切り引きつることになるのだが……それはまだもう少し先の話である。
こうして一通りの話が終わってミクラウス子爵が帰っていった後、応接室に戻ってきたジャックは小さく溜息を吐いた。
「にしても、今回は侯爵閣下に随分と助けられちまったもんだ。まさか、ミクラウス子爵が依頼に来る前から調べだしてたとはなぁ」
その先見性と手際の良さに、頼もしさを通り越して恐ろしさすら感じてくる。
決闘裁判当日、ミクラウス子爵がロシュトール伯爵とアゼットを不義密通で訴えることが出来たのは、代理人を探して東奔西走している子爵を笑う二人の現場を押さえていたことが大きい。
しかし、何故そんなことが出来たかと言えば、デュモンド侯爵の読み、ただ一つである。
「後から聞いたのですが、あの決闘裁判の話を聞いた瞬間、これは最終的にジャック様へ依頼が来ると読んだそうでして」
「まったくもってその通りだっただけに、反論のしようもないんだが……。あれか、侯爵閣下は騎士団内の人間関係まで把握してらっしゃる?」
ジャックの問いに、パメラは笑顔だけ返す。
貴族社会でそれがどういう意味かを考えれば、つまりそういうことなのだろう。
「で、俺に貸しを作れるからと張り切ったわけだ」
「ですから、先行投資ですって。借りにするつもりはないみたいですよ?」
「……それはそれで、じわじわ外堀を埋められてる感じはするんだがなぁ」
貸し借りの関係ならば、返せば終わるだけのこと。
だが、そうでなければ返しようがない。
それが、このジャックという男にとっては落ち着かない。
「あ、外堀が少しは埋められましたか? これは有効そうだって父に伝えませんと」
「おいまて、そこで嬉々として教えようとするな! 冗談じゃないぞ、侯爵閣下相手に搦め手で勝てるもんか!」
「ふふ、うちの父はやはり貴族にして政治家ですから、その辺りは」
思わずジャックが言い返せば、パメラはそれはもう楽しげで。
しばし二人はやいのやいのと言い合いをしていたのだが。
ふと、パメラが何かに気がついた。
「……そういえば、外堀が少しは埋まったこと自体は否定されないんですね?」
「……あ」
「うふふふ、それならば、今後は一層この方向で……」
「まて、その怪しげな笑みはやめろ、ちょっと落ち着け!」
そんなことを言い返しながら、ジャックはうっすらと予感していた。
恐らくそう遠くないうちに、外堀は埋められてしまうのだろうな、と。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
……結局気に入った挙げ句にネタが浮かんだので書いてみましたが、お楽しみいただけたでしょうか。
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