第一話*出会いの、その前
小さい頃、造花に水をやったことがある。
造花作家の母が作った一輪挿しの薔薇は、幼かった私には本物の花よりも美しく見えた。
水をやったのはだから、その美しさをいつまでも留めておきたくて、枯れてしまわないようにと思ったのだ。
〈このお花は、お水もお日様もなくても、咲き続けるの〉
造花のいろはを易しく説明したあと、母はそう言った。枯れることはないのだと、私を安心させたかったのだろう。
本物よりもずっと綺麗で、水も光も何も必要とせず、ひとり凛として咲き続けるという、一輪の薔薇。
私にはそれが、とても気高く尊く、そしてひどく孤独なものに思えた。
〈ずっとひとりで、寂しくないのかな〉
そう私が溢すと、母は娘の考えを悟ったのか、柔らかく笑った。
〈寂しくないわよ。お水とお日様の代わりに、ママがたーっくさん愛情込めてつくったんだもの〉
その言葉を聞いた瞬間、現金なもので、急に心が温かくなった。
この子は寂しくなんかないのだと。この美しさは孤独からくるものではなく、愛されて祝福されたからこその輝きなのだと、幼いながらに実感したのだろう。
それ以来、造花に水はやっていない。
作り手の愛に満ちた花々を、私はいつも、心から美しいと思っている。
4月。春爛漫のなかを歩く人の群れは、まだ着慣れない制服の裾をいじってみたり、どこかに知り合いはいないかと周囲を見回してみたりと、皆一様にそわそわとして落ち着きがない。 桜並木は今が盛りと満開なのに、見上げる者は少なかった。
それもそのはず、今日はこの並木の先にある高宮高校〈タカミヤコウコウ〉の入学式だった。在校生の始業式が午前、入学式が午後で、今が正午過ぎだから、今歩いている者たちは皆新入生なのだ。これから始まる高校生活に、期待と不安を感じて気も漫ろなのも無理はない。
だからひたすらに天を仰ぎ、桜を目に焼き付けて無邪気に笑っているのは、造花に水をやったことのある変わり者くらいだった。
ーーなんて見事なヤマザクラ。これを造花で表現するなら、どう作ろう。
花弁の滑らかな温かかさを出すには、布はうんと薄くて軽い絹がいいかなぁ。染料にはやっぱり天然物を使いたい。枝って実はただの茶色じゃないんだよな、薄くピンクがかっているというか……。
瑞木葉〈ミズキヨウ〉は、そんなことを考えながら、糊のきいた制服がはち切れそうになるくらい心を弾ませていた。スカートから伸びる健康的な両脚も、自然と軽やかなステップを踏んでいる。側から見れば高校生活に浮き足立っている輩のそれだったが、一重瞼の割に大きく黒い彼女の瞳には、ちっとも人の姿など映っていなかった。
と、その瞳が、ひとりの少女を捉えた。
思わず息をのむ。一瞬、時が止まったかのように思えた。
スラリと伸びた両手足、細過ぎる訳ではない均衡のとれた体躯、ピンと伸びる背筋、体重を感じさせない上品な足運び。
そして春風に揺れる、腰まで伸びた亜麻色の髪。緩くウェーブのかかった艶やかなその髪には、桜の花びらが一枚ついていた。
ーーなんて、綺麗。
数m先を歩くその少女には、後ろ姿にも関わらず、雑踏に決して紛れない美しさがあった。
ーー友達になりたい。
まだ顔も見る前から、葉の心はすっかり彼女に惹かれていた。
これが、花館芽里〈ハナダテメイリ〉とのはじまり。
そしてこれは、瑞木葉と花館芽里、ふたりの少女が生涯の友になるまでの物語。