Take/1 十二月一日(月)
わたくしが第一発見者でした。
わたくしが朝、教室に入った時。その時すでに弓子さんは死んでいたのです。
弓子さんの席は窓際の一番後ろで、たえさんの隣でした。いつもお二人で楽しそうに話していて、特に夕刻、たえさんが弓子さんのほつれてきた赤茶色の三つ編みを綺麗に編み直している時などは、一種の絵画や小説のワンシーンのように思えたものです。それほどにお二人は大変仲が良く、良くて……
ああ、何とした事でしょう。何故こんな事になっているのでしょうか。
弓子さんはご自分の席の上で、首を吊って死んでいたのです。紺色の可愛らしいセーラー服は黒く染まっていて、机の上にはぽたんぽたんと赤い雫が滴っています。弓子さんの首に巻きついているそれは不自然に赤黒く、やけにぶよぶよとしていました。
それが自殺か他殺かは、今来たばかりのわたくしには分かりません。ただはっきりと分かる事は、弓子さんと楽しく談笑する事も、たえさんと仲良くお話しする姿を見る事も、もう出来ないという事だけです。
ただわたくしは彼女を見つめたまま、何をするわけでもなく、何が出来るわけでもなく、ただただ呆然としていました。
「なっ、何だよこれ!!」
ようやくわたくしが動いたのは、そんな男の子の声が耳に届いたからでした。ハッとして振り返れば、入り口に種歌さんが立っていました。種歌さんに連れてこられたのでしょう、六科さんもいました。
「おい、六科、先生、先生呼んで来い!」
種歌さんがそう指示を告げると、六科さんはこくりと頷いて走り出しました。ああ、何も出来ないわたくしと違って頼りになります。こうして弓子さんの死に呆然としているだけだなんて、よくないのに。
種歌さんは弓子さんを見て、わたくしを見て、何か言いかけましたが、口をつぐみました。代わりにふい、と背中を向けます。
……きっとこんなになってしまった弓子さんの姿を見たくないのです。美少女、と言うほどではありませんが、弓子さんは可愛らしい人でした。たえさんとお揃いの紺色のセーラー服がよく似合っていて、笑うと花が咲いたようで……
そんな弓子さんの姿を記憶にとどめておきたいのなら、彼女のこんな姿は見ない方がいいのでしょう。
けれどわたくしは、わたくしは弓子さんから目が離せず、赤黒くぶよぶよとした縄を見つめるばかりで。
ふと、あれが何か分かりました。見た事はありませんが、直観的に悟ったのです。
あれはきっと。
弓子さん自身の腸だと。
警察の方がやってきて、弓子さんを持っていきました。死亡、していたそうです。詳しい死因はこれから調べられるのでしょう。拭かれたものの、赤黒く染まった机と椅子と床だけが残されました。
「全く災難だったな、ジェバンニ」
パチン!と勢いよく扇子が閉じられました。
既にわたくしや種歌さんの事情聴取は終わっていて、今は職員会議の最中です。知らない大人の人と話して気疲れしているわたくしを、カムパネルラはそう労ってくれました。
「ありがとうございます、カムパネルラ。君にそう言ってもらえると気が楽になります」
傍から見れば素っ気ない言葉でも、思いが込められている事は良く知っています。それに他ならないカムパネルラの言葉です。たとえどんな言葉でも嬉しいし、ありがたいと思います。
カムパネルラはふっと微笑みました。
「何、君とわたくしの仲ではないか。……弓子殿は本当に残念な事だ。クラスメイトであり友人の一人以上ではなかったが、惜しい人を亡くした。たえ殿もやりきれないだろう」
「そういえば、たえさんはどうしたんでしょうか?」
時刻は九時を回り、本来ならば一時間目の授業が始まっている時間帯です。夜徒先生が職員会議に出ているので自習になっており、他のクラスメイトは思い思いに時間を過ごしています。だからカムパネルラとわたくしもこうしてお話しているのです。
イデアさんとネイルさんの姿も見えませんが、彼らが遅刻するのはいつもの事です。姫さんは今日も仕事で来れないでしょう。しかし、普段は弓子さんと一緒に誰よりも早く登校しているたえさんの姿が見えないというのは不思議です。カムパネルラは扇子の先を口元に当てました。
「ああ、朝夜徒先生に聞いたのだがな。たえ殿は風邪をひいたとかで、今日は一日休養を取るとか。全く、そんな日に大親友が亡くなるなど、やりきれないだろうよ」
「そうだったんですか……」
もちろん連絡は行くでしょう。けれどその遺体を、その死に様を自らの目で確認出来ないというのは、随分酷い仕打ちのように感じます。
いいえ、見ない方が幸せなのかもしれません。それでも何故、と思わずにはいれないでしょう。
と、カムパネルラは扇子の先をわたくしの口に押し当ててきました。
「君が必要以上に考え込む事はない。弓子殿が亡くなったのも不幸で、たえ殿が風邪をひいたのも不幸だ。それでいいではないか」
「カムパネルラ……けれど……」
弓子さんとたえさんの事を思うと、悲しみで胸が苦しくなります。せめて死に化粧で美しく着飾った弓子さんの姿をたえさんが見れれば、と思わずにはいられません。わたくしと弓子さんはクラスメイト以上の仲ではありませんでしたが、赤の他人ではなかったのですから。
「ふむ……」
カムパネルラは扇子を広げ、口元を覆いました。黒地に彼岸花が描かれた絵がわたくしの前に現れます。しばらくそうして、唐突に扇子を閉じると、カムパネルラはわたくしの頬に手を添えてきました。
「ジェバンニ、優しい君の事はとても好きだが、そうして色々と抱え込むのは君のためにならない。ただでさえ見知らぬ大人と話して疲れているのだから、少々優しさは忘れた方がいい」
「……カムパネルラ……」
「何、弓子殿とたえ殿を気遣うのは余裕が出てからで構わないだろう。……ほら、しばらくはわたくしの事だけ考えたまえ」
「か、カムパネルラ……!」
ぎゅうっと抱き締められました。着物越しにカムパネルラの体温が伝わってきてドキドキしますし、かあぁっと顔が熱くなるのもはっきりと分かります。
「どうした?」
「こ、ここは教室ですっ。その、は、恥ずかしい、です……」
今更この程度でどうこう言われるようなクラスではありません。夜徒先生は警察や教育委員会に知られれば即刻クビになるようなセクハラを日常的に愛子さんにしていますし、アイリスさんとアレックスさんも見ててドキドキするようなやり取りをよくしています。
ですから、抱き締めるなんて大した事ではないのですが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいです。確かにカムパネルラの事だけを考えるには手っ取り早いですが、もっと他の、わたくしが恥ずかしくない方法もあるはずです。
けれどカムパネルラはよりいっそう強くわたくしを抱き締めてきました。
「良い事だ。いっそ今日はこのまま過ごすか?」
「そっ、それでは授業が受けられません!」
「後で教えるさ。はっはっはっ、わたくしは別に構わないぞ」
そうは言われても困ります。確かにカムパネルラは頭がいいですけれど、いいですけれど……
そうこうしていると、教室の前の扉が開きました。
「っはよー!」
扉を開けたのはイデアさんでしたが、先に入ってきたのはネイルさんでした。相変わらずの白い病院服に、ギブスでグルグルと固定されて吊り下げられた両腕に目が行きます。
ずかずかと自分の席に向かうネイルさんの後ろで、同じく白い病院服を着たイデアさんは静かに扉を閉めてから自分の席につきました。
「あれ? なあなあジェバンニ、カムパネルラー、先生まだー? あとお前ら何やってんの?」
話しかけられてわたくしは苦笑いを浮かべるしか出来ません。今は何か他の事を考える余裕がないからです。そんなわたくしに代わって、カムパネルラは軽く体を傾けてネイルさんを見ました。
「ああ、ちょっとな。二人は今来たばかりなのか?」
「おー。なー、イデアー」
「うん。犬がちょっとおいたしたから、しつけてたんだ。そしたら遅くなっちゃったんだ」
ほぼ毎日聞いている言葉です。そんなに反抗的な犬なのか、と思います。これが猫であれば懐かなくとも逆らおうとも不思議には思わないのですが。
「わたくしは直接見ていないのだが、弓子殿が死んだというのだ。それで先生が職員会議に借り出されていてな。現在は自習という事になってる」
「へー。で、お前ら何やってんの?」
「ネイル」
イデアさんは綺麗に微笑むと、ネイルさんの額をぺちんと叩きました。
「った!?」
「空気読みなよ。ごめんね、二人とも。僕は気にしないから」
「ん、おお、あー、分かった。邪魔して悪かったなー」
そう言われても……
どちらかといえばわたくしは離してほしいのですが、その気配は全くありません。カムパネルラは一度こうと決めたらよほどの事がない限り変えない人です。わたくし自身、こうして抱き締められる事自体は嫌ではありませんから、無理には言えません。
結局わたくしは、夜徒先生が職員会議から戻ってきても離してはもらえませんでした。
「ほらお前ら前見ろ前ー」
夜徒先生が戻ってきたのは十時を過ぎ、二時間目に入った頃でした。いつも通りのデニムジャケットとジーパン姿にどこか安心感を覚えます。
夜徒先生は黒板の前に置かれたパイプ椅子に座ると、未だカムパネルラに抱き締められるままのわたくしを見て首を傾げました。
「ジェバンニ、カムパネルラ、お前ら何してんの?」
「見たままです」
わたくしが説明するよりも先に、カムパネルラがそう答えました。夜徒先生は理由を求めていたでしょうに、簡潔な答えです。
夜徒先生は少し頭をかくと、今度は愛子さんを見ました。
「愛子、こっちおいで」
「んー?」
呼ばれて愛子さんは席を立ちました。窓際の席からとてとてと短いポニーテールを揺らして教壇に向かいます。夜徒先生は愛子さんが側に来るとひょい、と抱え上げて、自らの膝の上に愛子さんを座らせました。
相変わらずストレートであけすけな人です。夜徒先生と愛子さんが恋人としてお付き合いしている事は、この学校の人間ならばほとんどが知っています。その関係が一線を越えたものだという事もまた、周知の事実でした。
「うー、夜徒ー、露出プレイとか止めてねー?」
「流石にしないって」
夜徒先生は愛子さんを抱えたまま、わたくし達を見ました。
「あー、お前ら、弓子が死んだっていうのはもう知ってるな?」
沈黙。それを肯定と受け取って夜徒先生は話を続けます。
「たえには俺から伝えておく。葬式と通夜は明日明後日でやるそうだ。行きたいけど家知らない奴がいたら教えるからあとで来い。この後の予定は二時間目は自習で、三時間目から予定通り授業をやるから。分かったかー?」
再びの沈黙。それも肯定と受け取って、夜徒先生は教壇を軽く叩きました。
「連絡は以上だ。休み時間なるまで教室で大人しくしてろよー。俺は数学準備室にいるからなー」
言い終わると夜徒先生は愛子さんを抱き抱えて教室から出て行きました。……何となく何をするのか察しました。仲がよろしいのは大変良い事ですが、遠慮して夜徒先生のところへ相談に行けないのは少しどうかな、と思います。
「そういえばさ」
にわかに騒がしくなり始めたクラス中に聞こえるように、けれど声を張り上げたり叫んだりはせず、あくまで静かに御杖さんが言いました。デコレーションをゴテゴテにつけた携帯電話を弄りながら、長い前髪を耳にかけました。
「誰か『蝶々結び』の噂、聞いた事ある人いる?」
ほぼ全員が首を横に振ります。わたくしも聞いた事がありません。
「何かね、裏サイトあるじゃん。そこに名前を書き込まれた人は死神に腸を引きずり出されて殺されちゃうんだって。で、死体は教室に吊り下げられるの」
腸を引きずり出されて、吊り下げられる――今朝見た弓子さんの遺体が思い出されました。そんなわたくしの思考を読んだのか、背中に回された腕の力が少し強くなります。
「殺された人は座席表に赤のバッテンがつくらしいんだけど……ねえ、前の方の人達、座席表にバッテンついてたりする?」
「ん、おお、ちょっと待って」
御杖さんが聞くと、ネイルさんは立ち上がって教壇に近寄りました。教壇の上に置いてある座席表を見ると首を横に振ります。
「バッテンとかねーけど」
御杖さんはふぅ、とため息をつきました。
「じゃあこれガセなのかぁ。ありがとうね、ネイル君」
「そんな噂、どこで聞かれたのですか?」
神門さんが藍色の髪の毛を結い直しながら訊ねました。確かに出所は気になります。……御杖さんなら出所は一つでしょうが。
「裏サイト」
ああ、やっぱり。
ニュースでも度々話題になる裏サイトですが、この学校にもそれはありました。御杖さんは常日頃からその裏サイトに入り浸っており、情報を集めているのです。書き込んだりはしていないそうですが、このクラスで裏サイトを見ているのは御杖さんだけです。
「あまりそういうところを覗かれない方がいいと思いますが……怖くはないのですか?」
「私には関係のない事ばっかだし。私達のクラスも話題にならないからね。怖くないよ」
他人事ならば怖くはないでしょう。しかしわたくしは、御杖さんのようには見れないな、と思います。いくら他人事とはいえ、書かれるのはこの学校の事なのですから。