まどろみ
「やだ、いやだ……こないで……!」
走る、走る。
履き物さえ履かずに飛び出して、木の枝や石ころを踏み続けた足は傷だらけになった。
薄桜の着物は赤い斑に染まり、纏めた黄朽葉色の髪は崩れ、さらさらと靡いた。
喉の奥から血の味がじわじわと伝わり、懸命に走ったところで長くは走れないことも、追う者がわざと緩やかに走っていることもわかっていた。
けれど、気が緩んでいるならば、抜け出せるかもしれない。
騙されてしまった。
騙されてしまった。
私さえ差し出せば、友は逃がすと約束したではないか。
走る、走る。
友は、どこへ。
売り飛ばしたなんて、そんな。
嘘をついたな。
嘘をついたな。
引っ掻いて、暴れて、高価だという陶器を割り投げて、たくさん怪我人が出たというのに追ってくる者は笑ってさえいるのだ。
「……っ、橋……!」
真っ赤な橋だ。あの橋を渡れば、人の多い道へ出るかもしれない。
そうしたら、人に紛れて友を捜すことだって。
立派な橋だった。たくさんの人が一度に通れるだろう。ざあざあと川の声がする。
丁度真ん中で、身体は浮いてしまった。
「いやだ、はなして……!」
嘘つき
嘘つき、
嘘つき。
暴れて爪がどこかの肉をえぐり、途端に身体を締め上げる腕の力が増して咳き込むと、とっくに息の上がっていたことを思い出したかのように血が混じる。
ぽろぽろと涙が橋の上へと落ちてゆく。
唇を噛まれ、逃げ出すこともできず、顔に爪を立てるも口を塞がれては、苦しい。
また殴られるのだろうか。腹を蹴り、背を踏んで、噎せる姿を笑うのだろうか。
抵抗すれば、喜ぶのだ。
足掻けば、足掻くほど。
けれど、それしか。
頭がくらくらしている。走ればすぐそうなるくせに、そのうえこのざまだ。
解放された口で息をして、自分から真似事のように唇へ噛み付いた。
憎らしい
そして、拾い上げた舌を噛む。
憎らしい
噛みきれやしない、けれど、よろめくには十分だろう。
ざあざあと川の声がする。
首を絞められ周りがぼやけた。
くらりくらりと赤い橋が伸びてだんだん遠くへ行ってしまった。
そして、冷たい水の中。
ああ、このまま流れたら、友を捜すことだって。
気が付けば、川の岩に引っ掛かっていた。重い首を巡らせば、追ってきた者が砂利の上に転がって、肌の色を変えていた。
びしょ濡れで、這いつくばって。
まるで、自分を見ているみたいだ。
(どうしよう、流れ、早いな……)
よろりと岩の上に両手をついて身体を起こす。
川はざあざあと音を立て、木の葉や枝を流していった。
友なら、この程度と岸へ渡りきるに違いない。けれど自分の手足が水を掻き、岸へと上がるには流されて更に下流へ行った方が早いかもしれない。
がたがたと身体が震えている。
寒い、慣れているはずなのに。
「行かなくては……」
友のもとへ。
笑った顔が見たい。ありがとうって言いたい。
強い人だ。一緒に笑おう、なんて。
お礼が言いたい。
あなたがいたから、私は生きてこれたのだと。
「咲夜ぁ……」
会いたい。
会いたい。
ぽろぽろと涙を流してばかりだ。これでは、また呆れさせてしまう。
岩へしがみつきながら、川へと足を下ろす。
渡りきれば、どうにでもなる。
「……っ」
会いに行くんだ。
岸を見つめ、目指して、しがみついていた手を離した。
川はざあざあと音を立てる。
脇腹に、矢が刺さっていた。
「──え、……」
脚、手のひらにまで。だれだ、じゃまをするやつは。
倒れながらちらほらと人影が映る。木陰から飛び出して、指をさしている。
追う者が一人のはずはなかった。砂利に倒れているやつは、いつもたくさん人を連れていたではないか。
また川へと身が沈む。
悔しい、この身体がありながら。
「おい、大丈夫かい?」
川から掬い上げられたのは、いつ頃だったのだろう。辺りは暗くて、何も見えやしなかったけれども、抱き上げた身体を支える手は、乱暴だとは思えなかった。
「たす、けて……」
優しい嘘をついて、おまえも私を連れ戻すのだとしても。
友が無事なら、こんな思いをしなくていいのなら、縋ってでも。
「お前、それじゃあいかんよ。そのままじゃあ、化けちまうぞ」
「さくやを、たすけて……」
「こりゃだめだ、手遅れだ」
後から聞いた。周りが何にも見えなかったのは、私が抱える色だって。
気持ちが形になる場所なのだって。
「あんた、うちで働きなさい」
「なんでも、するよ」
「私、家族いないのよ。だから一緒に暮らしてちょうだい」
「……ひとつ、お願いをきいてくれたら」
「虎雄はなんだってできるわよ。気持ちがあれば」
「咲夜を助けて」
「泣き虫ね、あんた」
いいわよ。
「……」
日は暮れ涼しい風が帳簿をぱらぱらと捲っていった。
文台に突っ伏して寝ていたなどと、店主と暮らし始めたばかりの頃にしかなかったというのに。
「お休みで気が抜けたのでしょうか」
少し離れた畳の上へ落ちている帳簿を拾うまで、泣いていることに気付かなかった。慌てて涙を拭うも、またはらりと頬を滑る。
今日の賄いは香炉の番だし、することが帳簿の確認くらいのお休みが久しぶりで、気が緩んだりしたから昔のことを思い出したに違いない。
「宵ノ進、ご飯できたって。一緒に食べよう」
「羽鶴様……ええ、今、参ります」
開いたままの襖からひょっこり顔を出した羽鶴に驚くも、暗い部屋であって助かったと胸を撫で下ろす。
「宵ノ進、そこにいるよね? 提灯の火、途中で消えちゃって見えなうわああ!」
よろけた羽鶴を受け止めると、帳簿がもう一度畳へ投げ出された。
「ご、ごめん……! ああそうじゃなくて、ありがとう、助かったよ。また大瑠璃に馬鹿にされるところだった」
「お役に立てましたなら、嬉しく思います」
「ねえ宵ノ進はさ、どうしていつも敬語なの? 優しいけど、距離があるというかさ」
「いけませんか?」
提灯の火が消えたのだって、私のせいなのですよ。
「宵ノ進?」
「あなたは、こちらへきてはなりません」
優しい言葉を聴いて、たくさん笑って、きれいなものを見て、美味しいものを食べて、だいすきな人とあなたが生きていくなら。
この距離があなたを守るなら。
「宵ノ進、どこ……?」
一歩身を引いたところから、皆を守れるなら。
どんなに涙が流れようとも
あなたが泣くことに比べれば。