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路上のメロディ

作者: 地の果ての木馬

路上のメロディ


     Rain man


 傘を差すのは好きじゃないって

 寂しそうに君が言った

 泣いてるのがバレるからそれとも

 笑えない理由があるの?

 現実に打ちのめされ続け

 真実に届かなくても

 君なりにがんばればいいのさ

 これからも裸足のままで


 Rain man 目を閉じて歩け

 Rain man 土砂降りの街を

 Rain man あの風に乗りどこまでも


 あぁこんな雨降りの日には

 子供の頃を思い出す

 うちにこもり母さんと一緒に

 絵を描いて過ごしたっけ

 そして僕らも大人になって

 いつしか雨 憂鬱を感じてる

 仕事に追われ 夢にまで追われ

 眠る暇さえありゃしない


 Rain man 両手を広げて

 Rain man 雨の中で踊れ

 Rain man 素晴らしき命に触れるんだ


 雨のトンネルの向こうは

 きっと誰かが待ってる

 ほら 耳を澄ましてごらん

 本日は台風なり Rain man!


           詩・曲 mero



    1


 いつでもこの歌を聴くと思い出す。あの頃の空気、どこまでも広がっていきそうな夜の空気。これから何でも出来そうな自由な気持ちと、まだ何にもなれていない憂鬱。

 人生で一番強烈な出会い、それは恋人でもクラスの隣の席にいた人でも職場で世話になった先輩でもなく、路上で出会った人間だった。


 その頃16歳だった僕は、始めたばかりのギターを持って、立川駅付近の路上に行って歌うのが日課だった。ゆずや19が流行って路上で歌う人がたくさんいた時代の話だ。土曜の夜に、駅についてまずは歩いてどれくらい歌っている人がいるかなと散策してみると、だいたい5組前後は歌っていた。自分も他の歌い人と重ならない場所を捜して、そこに腰をおろし、調弦して歌い始める。その頃は今よりも景気が良かったからか、下手くそがギターケースを広げて(道行く人がそこに投げ銭してくれることもある)一晩歌うだけでも、居酒屋に行って飲めるくらいの金をもらえた。そして今ほど厳しくなかったからか僕の見た目が老けていたからか、16歳の僕でも普通に居酒屋に入って飲むことが出来た。だから終電が終わりある程度人通りがなくなって、そろそろやめるかとなると、同じ駅付近の別の場所で歌っていた人たちと集まって飲みに行ったりもした。歌を聴いてくれた人がおごってくれたりもした。ビートルズのノーウェアマンを歌っていたら、通りかかった外国人が僕の前で踊り出したりもした。要するに、楽しくて、しかも金をもらうことが出来た。最初に一万円くらいで買ったギターはすぐに指板に埋め込まれた鉄のフレットが浮いてきたから、路上でもらった金を貯めて新しいもう少し良いギターを買った。

 高校一年生の僕にとっては、どこかまともな店、ファミレスやコンビニなどでバイトをして、型に押し込められるような窮屈な思いをするよりも、路上で好きな歌を歌って金をもらえる方が、楽で楽しくて余程性に合っていた。残念ながら窮屈な場所で窮屈なバイトをしたこともある。一つの場所で管理者に見られながら働いて、経歴の長いだけの馬鹿が威張っていたり、一度も習ってないことが出来なくて咎められたり、要領の悪いヤツの分まで働いたり、くだらない噂話を流されたり、何の実りもない飲み会に参加させられたり、それも社会勉強だと諭されたり、とにかく思い出すだけで怒りが鮮やかに蘇ってくるようなところで働いていたことがあった。「誰も好きで働いているんじゃないんだからさ」といった諦めの空気が漂っている職場。そんな所に、僕は居たくなかった。だから路上という居場所を見つけた。


 路上の魅力は何よりも自由ということだった。誰も何も強制しないし、されない。路上にいる人は歌う人も聴く人も好きでそこにいるのだ。別に気が乗らなければ行かなくていいし、学校やバイト先のように合わない人と無理に一緒にいる必要もない。もちろん通っているうちに顔見知りは増えてくるし、その頃多くいた歌うたいの中でも群れをなすのが好きな人たちはそうしていたが、それも別に強制ではない。何処に行っても群れるのが好きな人たちはいるし、そういう人たちは何処ででもサークルをつくる。僕は群れをなすのは嫌いだ。


 夜、そうやって過ごしているから、学校ではほとんどいつも寝ていた。班で協力して行う化学の実験の時でさえ寝ていた。その時一緒の班だったギャルっぽい女の子に「君って全寝だよね」と言われた。全寝という日本語があるのかはわからないが、ゼンネがすぐに頭の中で全寝に変換されるくらい意味はよく伝わった。成績はみるみる落ちて行ったけど、全く気にしなかった。その頃から既に、どこかまともな会社に就職してサラリーマンをやっている自分の未来像が想像できなかった。だからと言って何をして生きて行くのか決めていた訳でもないけど、とにかく自分が楽しいと思えることを優先して生きて行くしかないんだろうとは思っていた。

 学校での僕の周りの人間を大まかに二分すると、とりあえずは勉強を投げ出さずに進学を目指しながら適度に遊ぶというタイプと、勉強を放棄して遊びに専念するというタイプに分けられた。もちろん僕は後者に属していた。どちらの選択が正しかったのか、という疑問はそれぞれの人生が終わるときにしかわからないだろう。どんな道を選んだにしろ、その年代の人間にとって「将来」というのはとても重く扱いづらいものだから、誰もその悩みの呪縛から自由になれた者はいなかった。ミラン・クンデラが書いたように「リハーサルのない人生」は、誰にでもいつでも不安がつきまとう。人生は常に本番だからだ。僕は不安が好きだ。不安はイヤでも人に何かを考えさせる。安心して馬鹿になるよりずっといい。むしろ、不安とは希望の一要素だろう。


 路上で歌っていると、「最悪でも俺はここで金をもらうことができるから、一日千円でももらえれば飯を食うことはできるし、ホームレスになっても餓死することはないだろう」と思えた。実際ホームレスの人たちとも話をしたし、時には酒をもらって一緒に飲んだりもした。彼らは一様に明るかった。社会のしがらみから解放されているからだろう。だからってホームレスになりたいとは思わなかったけど、朝、難しい顔をして満員電車に吸い込まれて行く人々よりも、彼らの方が生き生きとしているようにさえ見えた。

 もちろんそれは浅薄な考えで、ホームレスの人たちにだってきついことはあっただろうし、サラリーマンの人たちだって仕事が終われば笑っていたのだろう。少なくとも路上で歌う僕の前を通り過ぎる飲み屋帰りの人たちはみんな笑っていた。仕事の後くらいは笑わなければやってられないだろうと、僕も僕なりに思う。そしてそんな人々が投げ銭してくれた金で僕は遊んでいた。だから他人についてとやかく言うのはやめよう。ただ僕が言いたいのは、無力な少年にとって自分が少なくとも一つ生きる手段を持っているという実感はとても大きいことだったということだ。



    2


 そして路上で歌い続けていた16歳の冬、僕は彼に出会った。

 彼は冬の寒さの中、薄着で、痩せていて、悲しいほど透き通った目をしていて、自分の歌を歌っていた。見た目は夜が似合う黒猫みたい。声は透明な冬の空みたい。夜が、冬が、寒さが、彼を演出しているようだった。


 彼は僕にとって全く新しい存在だった。まずその黒猫のような佇まいが異質だったし、自分でつくった歌を歌っている人に会うのも初めてだった。歌を聞いただけでそれが彼の自作曲だと分かった。あまりにも彼に合っていたからだ。

 とりあえず彼が一曲歌い終わるのを待った。歌い終わると彼は、「やあ、君とは初めて会うね、今の曲気に入った?」と言った。僕は首肯し、もっと聴かせて欲しいです、と言った。それから彼は10曲くらいの自作曲を披露してくれた。僕はただ黙って目の前で演奏される彼の曲に聴き入っていた。体の中を流れる血が、新種のエネルギーを得て駆け回り始めたような気がした。自分にとって興味深いものに出会った時に感じるワクワクが、それまでの人生で最強の力で僕を揺さぶった。彼の歌を聴いている間は完全に寒さを忘れていた。駅前のコンコースが舞台になり、行き交う人々や街の騒音は僕の認識から遠のき、ただ彼と彼の歌声と背景の夜空だけが僕を捉えていた。


 その夜、歌を聴かせてもらった後、彼は自分でつくった曲を入れたカセットテープをくれた。裏を見ると曲名が手書きで書いてあって、書道的に上手な字ではないけどセンスを感じさせる独特な字がまた彼らしさを感じさせた。そして彼がmeroという名で活動しているということもわかった。去り際に「捨ててくれて構わないぜ!」と言い残し、寒空の中を去って行った。もちろん捨てることはなく、僕は何度もそのテープを聴いた。擦り切れて聴けなくなってしまわないようにMDに録音し直して、繰り返し聴いた。その頃はまだMDの時代だったのだ。


 彼の虜になるのに、そんなに時間はかからなかった。彼の曲は、メロディとリズムと和音、つまり音楽の三大要素が優れていて、歌詞は純粋で悲しいものが多かった。ただ悲しいだけではなく少しの希望が織り交ぜられていた。それはつまらなく簡単に言ってしまえば「悲しいこともあるけど、やっぱり生きよう」というようなものだ。もちろんそれは彼個人の希望であって、僕の希望ではない。だけど歌の力とは、つくった個人の想いを、他人が自分のもののように共感できる、というところにある。それが優れたメロディに乗って歌われたものが人々の心に残る歌になる。


 彼と出会ってから、路上に歌いに行くたびに、彼の姿を捜すようになった。猫のように気まぐれな人だから、いつも見つかる訳ではなかったけど、会えれば歌を聴かせてもらい、少し話をした。僕がまだ自分の曲をつくったことがないと知ると、「自分の歌を歌った方がもっと楽しいぜ。」と彼は言った。僕に曲がつくれるとは思えなかったけど、楽しいことを追求する僕としては、やってみようと思うのに必要十分な台詞だった。実践している人のシンプルな言葉は一番効く。

 

 そして僕も自分の曲をつくろうと悪戦苦闘した。ギターを持って何時間でも挑んだ。最初のうちは、やっとメロディを思い付いたと思っても気付けば誰かの曲に似ていたり、ちょっと良いと思えるメロディができても、それをどうやって一曲の曲に発展させればいいのかわからなかったりした。


 それでも何とか初めて自分の曲ができた時には、季節は春になっていた。まだ寒い春の夜明けごろ、完成した。だからタイトルは『春の夜空』だった。冒頭に書いたmeroの曲みたいにここに書くのはためらわれる程の拙い歌詞だった。大した曲ではないかも知れないけど、それでも自分に曲がつくれるんだ、という事実は、それまでの人生で一番素敵なことだった。


 これからまだいくらでも曲をつくることができる。生活の中で見つけたもの、考えたことを歌詞にできる、つまり無駄になることは何もない。悲しいことだって、例えば失恋だって死別だって、皮肉かも知れないけど、歌にすることができる。わざわざ形にしなくたって、全てはその人の人格形成に役立つだろう。でも僕は何かを形にすることが好きだ。結局、どんなに悲しんだとしても記憶は薄らいでいくものだから、僕はその時の想いをしっかりと何かに刻みたいのだ。だからそれまではたまに日記を書くなどして発散してきたそういう欲求を、これからは歌にすることができるようになった。そして「全てを活かせる」という感覚は、何よりも素晴らしいものだった。悲しみさえ無駄にしたくないくらい欲張りだということもできるかも知れない。


 それからは普段の生活の中でも、例えば自転車を漕いでる時なんかにも、頭の中でメロディを思い浮かべるようになった。なぜか乗り物に乗ってるときによくメロディが浮かんだ。新しいメロディができると、授業中も寝ずにそのメロディに合わせた歌詞を書くようになった。歌詞が思い付かなければまたメロディを思い浮かべればいい。とりあえず起きてさえいれば教師に文句を言われずに済むし、僕の脳内は僕の自由だ。もちろん夜更けまで歌った次の日など眠いときは寝たけれど、良い曲ができそうな時にはそのワクワク感で眠気は消え失せた。クラスメイトたちは、僕が心を入れ替えて真面目に勉強に励みだしたのかと思ったかも知れない。いや、僕に興味なんてなかっただろう。しかし、より強く音楽に惹かれるようになるのと反比例して、ますます学校の勉強に興味をなくして言った。授業で起きているとイヤでも教師の声が耳に入ってくるが、皆一様につまらない声でつまらない話をしていた。自分で教科書を読めばそれで事足りるんじゃないかと思う授業もあった。ひどいやつだと、不快な声で不快な話をしていた。生徒に学んで欲しいというよりも自分の知識をひけらかしたいという印象を受ける。他のみんなはよく黙って小一時間も耳を傾けていられるな、と思った。音楽の方が耳にも心にも余程良い。賢い人たちは教師の話なんて聞かずに自分の勉強を進めていたのかも知れない。

 教師の話がつまらなければつまらないほど、不快であればあるほど、僕は頭の中に美しいメロディを浮かべようとした。そういう意味では教師たちに感謝をしなければいけないのかも知れない。彼らのお陰でたくさんのメロディをつくることができたのだから。

 そしていつしか、不快な状況に置かれるとそれをかき消すように頭の中にメロディを流す、ということが僕の処世術のようなものになっていった。


 授業の合間の休み時間も昼休みも、ほとんど非常階段で過ごしていた僕だけど、それでも何人か友人はいた。友人たちは大抵煙草を吸える場所を探して非常階段に辿り着き、話をするうちに仲良くなった奴らだった。ほとんどこの友人たちに会うために学校に通っていた。


 それでもやはり僕にとって一番しっくりくる場所は路上だった。ギターケースを足の間に挟んで原付で立川駅まで行き、路上に腰をおろしてギターを構える。しばらく周囲を見回しながら調弦し、おもむろに歌い始める。その瞬間に僕は全ての鬱憤を忘れることができた。歌うということは、その頃の僕にとっての生きる手段であり、生きていることの証だった。



    3


 何度目かにmeroにあった時、話をしていて意外とお互いの家が近いことが判明した。そして彼の家に遊びに行っても良い、となった。その夜、お互い気が済むまで歌ってから、彼の家の最寄りのコンビニで待ち合わせをして(彼はバス、僕は原付)、初めて彼の部屋に足を踏み込むことになった。当時彼は、彼の妹と友人二人と一軒家を借りて住んでいて、彼の部屋だけが二階にあった。お陰で他の住人とは出くわさずに済んだ。今思えばちゃんと挨拶をするべきだったと思うが、その時の僕は細々とした声で「お邪魔します」とつぶやいて、そそくさと二階に上がった。


 そして彼の部屋を見渡した時、とても驚いた。正直に言うと来たことを一瞬後悔した。彼の部屋は、照明は薄暗く、楽器と録音機材と本とウイスキーの瓶が散乱していた。そこまではいい。僕をびっくりさせたのは、壁一面に貼られた新聞記事の切り抜きだった。薄暗い部屋の中で、パッと見の印象だけでもお札がたくさん貼ってあるみたいでおぞましいのに、よく見てみるとそれらは、殺人、自殺、テロ、疫病や戦争、つまり人が死んだことを書いた記事ばかりだった。沈黙している僕に彼は、「ああ、びっくりしたかい?俺はいつでも死を見つめていたいからさ」と言った。僕はなんと返事していいものか迷ったが、ただ「そっかあ…」と言うしかできなかった。「とりあえず座りなよ、ウイスキーを飲もうぜ」そう言われたので、とりあえず腰を下ろした。彼は一度部屋を出て行って、氷の入ったグラスを二つ持って再び現れた。そしてウイスキーのオンザロックをつくった。その間も僕は壁一面の新聞記事に目を奪われていた。

 確かに最初に会った時から、なんと言うか彼には死の匂いが漂っていた。ひどく痩せていたし、歌っている歌詞の端々からも死への憧れとでも言うべきものが感じられた。そこに惹かれたのだとも言える。十代というバカバカしく軽率であり、反面自分がこれからどう生きて行くのか決まってないという重苦しさもある時期、僕だって自殺を考えたことはある。くだらない奴らのくだらない悪口に傷付いて、その頃はそれをくだらないと割り切ることが出来なかったから、寝る前に自分の葬式を想像して、こいつらは葬式でさえ俺の悪口を言うだろうか、などと考えて寝付けない夜もあった。でもmeroはレベルが違った。本気で死と向き合っている、そんな風に思わせる凄みが彼にはあった。


「さあ、乾杯しようぜ」そう言われてウイスキーのオンザロックを差し出された時、既に僕はそこから逃げ出したい気持ちになっていた。その場の全てのものが不吉なパワーを放って、僕を知らない世界へ連れ去ってしまうような気がした。それでも結局、僕はグラスを受け取った。16歳の少年の好奇心に勝るものはない。

 薄暗い呪われたような部屋の中で、軽くグラスを合わせ、ウイスキーをゴクリと飲んだ。腹の中がジワジワと熱くなってくる。こうなったらもう酔っ払ってしまうしかない、と馬鹿な僕は思い、グイグイとウイスキーを飲んだ。それでも彼の方がペースが早かった。

 普段はどちらかと言うと寡黙な彼だが、酒が進むにつれて少しづつ饒舌になっていき、いろんな話をしてくれた。ヒッチハイクで故郷の福岡まで行った時のこと(ケルアックのオンザロードがその頃の彼の愛読書だった)、アルコール中毒の人の気持ちを理解したいから、二週間ほとんど飯を食わずに毎日一本ワイルドターキーを空けたこと。二週間眠らない実験をしてみたこと、などなど。二週間というのが何かに挑戦する基準なのだろうか。本当に二週間食べずに酒を飲み続けたり、一睡もしなかったりしたら人は死んでしまうと思うんだけど…。

 結果、どう考えても彼はまともな人間ではない、ということが酔っていてまともではない頭でも解った。別にまともである必要はない。人に迷惑さえかけなければ、どう生きようと個人の自由だ。しかしそんな実験を同居人たちに全く迷惑をかけずにできるものだろうか?などと余計な心配までしてしまった。まあ俺に直接害がないうちはいいか、そう思って飲み続けた。


 彼と向き合うことは「死」と向き合うことでもあった。

「死んだらどうなると思う?」と彼が聞く。


「うーん、やっぱり何も無くなっちゃうんじゃないかな。もちろん肉体は焼かれてなくなってしまうし、そうなったら意識だけが残るっていうのも無理があるように思うな」と僕。

「そうだね、死んだ人はこっちに何も伝えられないから永遠の謎なんだよね、きっと。死ぬのは怖いかい?」

「うん、死ぬのは怖いよ。死んだことないから、死ぬことを考えるのが怖いと行った方が正確かな。でも自分が全くの無になってしまうというのは、当たり前かも知れないけど想像がつかない」

「でも死ねない、というのも怖くないかい?」

「うーん、死ねないというのも確かに怖いね。つまりは人類が滅んでも自分だけ生き残っちゃうってことでしょ?なんだかSF 映画の設定みたいだけど」

「やっぱり自分だけ生き残るというのもイヤだよね。ということは死とは救いでもあるわけだ。そう考えたことはない?」

「それは考えたことなかったな。でもそうかも知れないね、自殺する人がいるってことは、生きるのが本当にイヤになってしまった人にとっては死ぬことが最後の救いになるのかも知れないね」

 自殺という言葉はなんとなくこの場では禁句のような気がしたけど、僕はそう言った。一瞬、彼の目が夜の猫の目のようにキラリと光った気がした。

「自殺を考えたことはある?」と彼。僕はごくり、とウイスキーを飲み込む。

「自殺…。うん、考えたことはあるよ。でも死にたいって思うだけで、死のうとしたことはないな」

 よく見ると、彼の左腕にはリストバンドがつけられていた。その下の傷を想像させる。

「そうか、どんな時にそう思った?今までで一番ツラかったことは?」そう聞かれて少し悩んだ。

「今までで一番ツラかったのは父が死んだときかな」

「お父さんはいつ亡くなったの?」

「俺が中一のとき」

「そうか、それはツラかったね…。でも大丈夫だよ、これからは俺が父さんの代わりさ。」と彼は言った。本当に大丈夫さ、といった感じで。どう考えても父親代わりというよりも近所の悪いお兄さんという感じだけど、僕は嬉しかった。何が大丈夫なのかわからないし、もちろん実際に彼が僕を養ってくれるわけではないけれど、気持ちが嬉しかった。


「じゃあさ、地獄ってどんなところだと思う?もし天国と地獄があるとすれば俺は地獄行きだろうなって思うんだ」と彼。

「地獄か…。うーん、そんなものないと思うけど、俺にとっての地獄ってことで考えれば、やっぱり音楽のないところかな」

「そうかっ!地獄は音楽がないところ!これは名言だ。君はなかなかうまいことを言うね。じゃあ、俺は死んだら音楽のないところに行くんだね。」

「大丈夫だよ、俺が歌い続けてやるよ」何が大丈夫なのかさっぱりわからないけど僕は言った。相当酔っていたんだろう。



    4


 それからたまにmeroの家に遊びに行くようになった。最初に彼の部屋を見渡した時に感じた恐怖は、もう僕の中からほとんど消えていた。きれいさっぱり消えたわけではないけど、それよりも彼といる面白さの方が勝った。ちょっと残ってる恐怖は、反面、魅力にもなり得た。

 一般的には死は暗い話題だとされているけど、彼と死について語り合っているとそれは暗くもなんともなく誰にでもいつか絶対に訪れる当たり前のことなんだと素直に捉えることができるようになった。秋の次は冬だというように。

 むしろ死を思いながら生きている彼は、誰よりも真剣に生きているようにさえ思えた。真剣にアル中の人の気持ちを知ろうとしたり、眠らない実験をすることが果たして意味のあることなのかはわからないけど、彼にとっては意味があったんだろう。そうでなければ生半可な気持ちで出来ることではない。何かしら芸術的な意図があったのかも知れない。

 彼と話し合うことによって、一般的に明るいとされがちなことだけが楽しいのではなく、自分が惹かれる事柄を追求することが楽しいのだ、とそう僕は思った。死が話題に出たら大抵の人は不快に思うだろう。話の内容やタイミングにもよるだろうけど敬遠されがちだ。縁起でもないことを、と言うかも知れない。でも彼と死について語り合うことは僕にとって楽しいことだった。

 もちろん死ぬこと以外にもいろんな話をした。一番楽しい話題だったのが、二人でギターを持って放浪の旅に出る、というものだった。ジョンレノンじゃないけど、「想像してごらん」とmeroは言った。想像してみると本当に胸がワクワクした。二人で適当な街に行き、歌い、疲れたら酒を飲んで語り合う。銭湯に行ったり、コインランドリーに行ってみたり、ヒッチハイクしてみたり、一度別れて再会してそれぞれどんなことがあったか話し合ったり、川で魚釣りをして焼いて食べるなんてのも良いし、共作で曲をつくったりも出来るかも知れない。その頃meroに対してある種の恋心のようなものを抱いていた僕にとってはそんな日々が夢のように思えた。


 しかし残念ながらその旅が実現することはなかった。二人で計画を立てて、よし、じゃあ実際に準備をして旅にでよう、という高二の夏休みの三日前、meroは麻薬の所持によって警察に捕まってしまったのだ。これは本当にショックだった。彼が麻薬をやっていたことには別に驚かなかったけど、まさかこのタイミングで捕まるなんて。

 その頃には顔見知りになっていたmeroの妹さんが知らせてくれた。朝の六時頃、急に警察が来て(まあ警察がわざわざ知らせてから来ることはないだろうけど)、家宅捜査をされ、そのまま連行されていったという。妹さんはmeroとは違っていつまでもウジウジ悩んでないでさっさと飯食って寝ちまえば良いんだよ、というようなサバサバした人で、とても明るい人(に僕には見えた)だけど、これには当然ショックを受けていた。夏休みの予定が一気になくなってしまった僕も意気消沈していた。何度か妹さんと二人で彼の面会に行ったりもしたけど、気は晴れなかった。初犯だからそんなにかからないということだったけど、それでも夏休みに二人で思う存分放浪の旅を楽しむという計画は白紙に戻ってしまった。


 僕の周りの友人たちは予備校に通って進学の準備を進めているか、もしくは海や祭りなどに行ってナンパしたりしていた。後者に混ざって高校二年生らしい夏休みを満喫するのも悪くないと思ったけど、思い悩んだ末に僕は一人で放浪することに決めた。元々は二人で行く計画だったから心細く思ったけど、このまま不完全燃焼な気持ちを抱えているよりは旅に出た方が良いと判断した。夏休みが終わるまでの二週間、ギターを持ってあちこちで歌う。夏だから凍死する心配はないし、日中はなるべく図書館などで休んで、夜に動けば良い。それもmeroと話していて思い付いたことだった。


 そうと決めたら早速準備に取り掛かった。ギター、作詞や日記のためのノートとペン、MD ウォークマン、最低限の着替え、洗面用具、サングラス、携帯電話、数万円の現金と数冊の文庫本。あとは足りなければ買えばいい。それらをバッグに詰めて、台車に乗っけたギターケースにくくりつけると、これから旅に出るんだという実感が湧いて来て、どんどん楽しい気持ちになって来た。

 小さい頃から自分が楽しいと思えることを思い付くと、もういても立ってもいられなくなった。それが実現できるまで我慢して待たなければいけないのが何よりも苦痛だった。こんな絵を描いてみよう、あのゲームがやってみたい、誰とどこであんな遊びをしてみよう、その想像だけで他のことには興味がなくなった。求める刺激に対して最短距離で辿り着きたい、それが僕の性格なんだろう。



    5


 最寄りの立川駅まで行き、電車の路線図を見ながら何処に行こうか考えた。優先事項はハッキリしている。何処に行ったら一番楽しくなれそうか、ということだ。しばらく眺めていて、決めた。井の頭公園に行って歌ってみよう。あそこなら池も緑もあるし、行くだけで楽しい気持ちになれそうだ。

 電車で吉祥寺まで行き、井の頭公園まで歩いた。昼過ぎの公園は平和の象徴のように見えた。程よく人がいて空気は爽やかで、歌うには最適な場所に思えた。

 しかしまだ日が出ていて歌うには暑過ぎるから、とりあえずは散歩することにした。池の周りを歩きながら、周囲を観察する。キラキラと光る木漏れ日や、日が当たって輝く水面が、僕の旅立ちを祝福してくれているように思えた。ボートに乗るカップル、木陰のベンチで本を読む人、犬の散歩をしている人、絵を描く人、レジャーシートを敷いておしゃべりする主婦たち。みんなそれぞれ思い思いの時間を過ごしている素敵な昼下がりだった。僕も楽しい気持ちになって歩き続けた。

 池に架かる橋にたどり着いたとき、ギターケースを持った女性を発見した。僕は仲間を見つけたと思って、彼女に話しかけた。彼女がギターを持っていなかったら、そしていつもの立川だったら、わざわざ自分から話しかけはしなかったと思う。細身で色白で、顔の造形の美しい人だ。白いワンピース、革のサンダル。僕好みだ。20代後半の清楚なお姉さんという感じ。

「これからここで歌うんですか?」

「ええ、そのつもりなんですけど、外で歌うのは初めてだからちょっとためらっていて…。あなたもこれから?」僕のギターケースに目をやりながら、彼女は言う。

「まだ日差しが暑いのでもう少し日が弱くなるまで散歩しようかと思ってたんです。でもせっかくだから、お互いの曲の発表会をしませんか?」断られたら断られただ、と思って僕は言った。美人じゃなかったらそこまで積極的にはならなかっただろう。

 お姉さんは少し考えて、「一人で歌うより心強いし、ぜひそうしましょう」と意外にも快諾してくれた。池の静かな水面とは対照的に僕の心は波立ってくる。

「せめて日陰に行きましょう」そう言って木陰のベンチまで移動を促した。橋の上で直射日光を浴びて歌ったら、一曲歌っただけで汗だくになってしまう。路上で歌う場合、冬の寒さよりも、夏の暑さの方がキツいのだ。冬は歌ってさえいれば体は温まるけど、夏はとにかくすぐに汗をかいてしまい、萎える。しかも聴いてくれる人々の反応も、冬は「寒い中よくがんばるねえ」と好意的である場合が多いけど、夏は「このクソ暑いのに勘弁してくれよ」といった感じで煙たがられることの方が多い。移動しながら、そんな話をした。

「路上で歌って長いの?」と彼女。

「いえ、まだ半年くらいですけど、一応路上での冬も夏も経験したので」


 木陰のベンチに座ってお互いギターを取り出し、調弦する。そこで、ふと思った。どう考えても彼女の方がギターも歌も上手そうだ。僕の歌を聴かせたら「なんだそんなもんか」と思われてしまうかも知れない。路上の先輩面しておいてそれでは情けない。でも仕方ない、どうせ下手なんだから開き直って歌うしかない、そう思って「僕が先に歌いますよ」と言った。ためらっている彼女のためではなく、先に歌われたら圧倒されてしまうと思っただけだ。

「楽しみー」と言って彼女は軽く手を叩いた。その仕草がまた素敵でドキドキしてしまう。僕はその時点での最新曲を歌うことにした。軽快なリズムの曲が欲しいと思ってつくった8分の6拍子の曲。歌いながら彼女の方を見ると、真剣な面持で聴いてくれている。その様子に励まされて歌い切った。

「すご〜い、どうやったらこんな曲が出来るの?」と拍手しながら言ってくれる。思ったより彼女の反応が良かったのと歌い切った達成感で僕は一安心した。


「じゃあ私も歌うね」そう言って彼女はギターを弾き始めた。物怖じしている感じはしない。細い腕でシャープなカッティングをする。やはり僕よりも上手い。音楽は楽しいが、残酷だ。一度聴いただけで、ハッキリと実力の違いが分かる。彼女は歌も上手い。見た目の清楚な感じからすると、意外にダークな雰囲気の曲だ。そのギャップがまた良い。僕がダークな曲をつくっても意外性はない。もちろん意外性だけが曲の良し悪しを決めるわけではないけど、彼女の音楽はとても素敵だ。

 歌い終わった彼女が僕に向かって微笑む。どうだったかしら?という感じで。僕の心のダムは決壊しそうになる。美人で、ギターも歌も上手いお姉さん。

「かっこいい」僕は素直にそう言った。

「本当に?良かった。あまり自信なかったんだけど、嬉しい」


 それから交互にそれぞれの曲を披露していった。僕は自分の持ち歌が底をつくのが心配だったけど、すごく楽しかった。やはり足りなくなったから、教えてもらったmeroの曲も歌った。最初で最後の美人のお姉さんとの発表会。お客さんはいらない。むしろ二人だけにしておいて欲しかった。一人でも放浪することにして良かった。アクティブ万歳だ。


 発表会をしている間に少しづつ日は暮れていき、夕暮れ時になった。落日の公園の風景も素敵だ。

「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな」とギターをしまいながらお姉さんは言った。僕の気持ちは夕日よりも早く沈んでいく。まだ一緒にいたいと思ったけど、そんなこと言えない。発表会案に乗ってくれただけでもよしとしなければ…。でも…。

「じゃあ駅まで送りますよ」僕もギターをしまいながら言った。

「大丈夫よ、まだ真っ暗じゃないし」

「いやいや、というかまだ話もしたいですし」

「じゃあ途中のカフェでコーヒーでもご馳走するわね。初めての路上ライブで、君がいてくれて心強かったし」

「本当ですか?いや、でも、悪いですよ」そう言いながらも断るつもりは全くなかった。駅に向かう途中にあるドトールに入り、アイスコーヒーを飲みながら話をした。ドトールのコーヒーがこの時ほど美味しく感じられたことはない。お姉さんは自分の曲が入ったCD をくれた。自分の曲のCDを持っているなんて!その時の僕には衝撃的だった。

「自分たちでつくったやつだから、お店とかに置いてあるわけじゃないんだけど…。」お姉さんはそう言って謙遜したが、僕なんて自分でMDウォークマンにマイクをつけて一発録りしたやつしか持ってない。

 CD の中身を見てみると、ドラムとウッドベースとお姉さんのギターボーカルからなるスリーピースのバンドの演奏だということがわかった。すごい。僕もいつか絶対に自分のCD をつくろうと思った。


 お姉さんが去り、僕はまた一人ぼっちになった。でもお姉さんとの出会いが僕に勇気を与えてくれた。家の中で孤独を純粋培養するよりは、外に出て何かを求め歩く方がずっと良い。いつもうまくいくとは限らない。余計に孤独を感じることもあるだろう。それでも僕は求め続ける方を選ぼう、そう思った。



    6


 結果的にお姉さんとの発表会のお陰で、僕としても初めての場所で歌う緊張感から解き放たれていたから、そのまま公園に戻ってまた歌うことにした。散歩をしている人たちやその場にいる人たちにとって騒音にならないように、BGM を添えるつもりで。全力で歌うのではなく、優しく歌った方が今の公園の雰囲気に合っているように思える。通り過ぎる人々の反応は様々だったが、概ね好感触だった。大体の人が微笑んでくれた。しかし通り過ぎていくばかりで立ち止まって聴いてくれる人はいなかった。初めて歌う場所であるし、最初からお客さんが集まるほど上手くないことは解っている。歌い続けて少しでも上手くなるしかないよな、そう思って歌った。歌うことに疲れたら、ギターを弾くだけにした。美しいメロディが降ってきて欲しいと願いながら。夕暮れのオレンジが池の水面に差し込む景色を眺めて少し感傷的な気分で。

 

 日が完全に落ちた頃、大学生らしき若者(その頃の僕の方が若いけど)のグループが、僕が歌っているベンチの近くにレジャーシートを広げて飲み会を始めた。辺りに焼き鳥の匂いが漂い、僕の空腹を刺激する。感傷が消えていく。たしかに夏の夜に男女のグループで井の頭公園で宴会をするというのはとても楽しそうだ。川原でバーベキューをするよりも手軽だし。用意周到な彼らは蚊取り線香まで持ってきていた。これには僕としても感謝しないわけにはいかなかった。虫に刺されて痒いからといって演奏を止めたくはない。

 しばらく気にせずに歌っていたが、だんだん酒がまわってきたらしい男が一人近づいてきて、何やらリクエストを言ってきた。体格がよく、迷彩のカーゴパンツに黒いタンクトップ、靴はバスケットシューズ、少し頬が赤くなっている。僕はとても視力が良いから、ある程度暗くてもしっかりものが見える。

 残念ながら彼が言ってきたその曲を僕は知らなかった。流行りの歌なのだろう。「僕は自分でつくった歌を歌ってるんです。すいません」と言うと、男は「おーい、みんな、こいつすげーぞ自分でつくった歌を歌ってるんだってよ」とみんなに呼びかけた。

 それを聞いた何人かがやってきて、「歌って歌って〜」と騒ぎ立てた。緩慢な拍手が起こる。目の前でしゃがんでいる女のチラチラと見える下着に心を奪われないように懸命に自制心を保ちながら、持ち歌の中で女の子受けの良さそうな曲を選んで歌った。

「えー、この曲自分でつくったの!?すごーい!」とかなりの好反応だ。しかしこういう若者は聴くだけ聴いて、騒ぐだけ騒いで、一円も置いていかないという場合が多い。リクエストをして僕がその曲を知っていて歌ったとしても「ありがとー、がんばってねー、じゃあねー」という具合に。別にそれでも構わない。こっちも勝手に歌っているのだから聴く方も勝手にしたらいい。通り過ぎるだけの人からすればうるさくて迷惑ということはあるかも知れないが、それ以外は路上は自由だ。だけど金をもらうのが目的の場合、こういう若者を相手にするよりも、やはり酔ったサラリーマンなんかを相手にした方がよほど効率は良い。それはそれで説教されたり面倒なこともあるけれど。


 しかし今回の若者たちはとても気前の良い人たちだった。気前がいいのは肌の露出だけではなかった。何曲か歌った後、「お兄さんも一緒に飲もうよ」と誘ってくれた。俺の方が若いけどな、と思いながらも、もちろん悪い気はしなかった。そして遠慮なく飲み会に参加させてもらうことにした。何と言っても楽しいことが最優先なのだ。男女それぞれ四人ずつのグループに僕も混ざって飲み会は再開した。最初に声を掛けてきたグループのリーダーらしき男が「夏の夜とお兄さんの歌に乾杯!」と言って、みんなで缶を触れ合わせ、思い思いの酒を飲んだ。暑い中歌った後のビールは格別だった。クーラーボックスに入れてあってしっかりと冷えている。


 夏の夜、露出の多い女、焼き鳥、酒、ギター、楽しくないはずがない。群れるのが好きではない僕もたまにこういうのはいいか、と思う。祭のようなものだ。


 歳を聞かれて16歳だと答えると、「えー私たちより若いじゃん!それで自分の曲つくって路上で歌うとかまじすごい!いつからギターやってるの?」半年ぐらいですかね、と答えるとまた「えーすごい!」だ。

「本当に半年でそんなに弾けるようになるの?わたしもやってみようかなギター。ねー教えてよギター」などとチヤホヤされる。そりゃ個人差はあると思うけど、と思いながらも気分は悪くない。ただ男たちを敵にまわしては厄介だと思ったが、意外にもそんなことはなく、彼らはみんな穏やかでやさしい人たちで、ニコニコしながら僕のモテ具合を眺めて普通に飲んでいた。内心僕は、「おいおい孤独を感じるどころか、めちゃくちゃ楽しいじゃないか放浪!」とそう思っていた。遠慮なくビールを胃に流し込む。いくらでも飲めそうだ。たまに伴奏をさせられてみんなで歌ったりもした。楽しい夏の夜は更けていく。そのあとに揺り返しのような孤独が訪れるかもしれない、などとは考えもしなかった。



    7

 

 終電の時間が近づいてくると、徐々に女たちは帰り始めた。一人くらい残ってくれて、そのままひと夏の恋を…などと思ったりもしたが、さすがにそんなに何もかも上手くはいかない。

 結局リーダーと僕だけが残った。腹が減ったから何か食おうとなり、コンビニに行ってカップラーメンを食べた。酒を飲んで塩分を欲している体にジャンクな味が染み渡る。必要な時に必要なものを摂取している、という気がする。さらに酒を買い込んで公園に戻り、リーダーと飲み続けた。

「君はやっぱりプロのミュージシャンを目指してるの?」

「うーん、そりゃ音楽で食って行ければそれが一番ですけど、現実的にはかなり難しいと思います。僕より上手い人はいくらでもいますし…。」

 僕はmeroがプロになれないなら、自分がプロになるなんて到底無理だと考えていた。実力だってルックスだって彼の方が数倍上だ。そういえば、彼はプロになる気があるんだろうか?そんな話はしたことがなかったな、と不思議に思った。でも考えてみれば自然なことだった。彼とは他にいくらでも話し合うべき話題が合ったからだ。そして彼はプロのミュージシャンには向いてないように思えた。実力も魅力もテレビに映るクズみたいなアイドルより余程あると思えるけど、テレビに出て祭り上げられたりしたら、カート・コバーンのように自殺しかねない気がする。

「でもまだ16なんだし、目指してみる価値はあるんじゃないの?うん、でもまあ無責任なこと言っちゃいけないよな。すまん。でもさ、俺らなんてこうやって遊んでるけど、こんなのは一瞬の楽しみで、これからまた就活しなくちゃならないんだ。君みたいにやりたいことを見つけた訳でもないし、やっぱり会社に入って働くしかないんだろうな」とリーダーは少し嘆き気味に言った。大して年の差を感じてはいなかったけれど、20代前半の彼がやけに大人びて見えた。いや、老けて見えた、と言った方が正確だ。年齢や顔の造形ではなく、何かに意欲的に向かっている人は雰囲気が若々しいし、何かを諦めた人は老け込んで見える。リーダーだってまだ若いじゃないですか、とは言わなかった。歳に関係なく、自分の好きなことを見つける人は見つける。それが必要だから見つける。僕はギターに出会ってなかったとしても、何かしら夢中になれるものをきっと見つけただろう。そういうものだけが、時に間延びした退屈のように思えるこの人生を、魅力的なものにすると信じているからだ。

 確かに今夜の宴会のような楽しみもある。気の置けない友人たちと酒を飲み交わす。それだって大げさに言うのなら人生の中の確かな喜びの一つと言えるだろう。だけどそれは他人がいなくちゃ成立しないし、彼が言ったように一瞬の楽しみでしかない。個人差はあるにしても一人で過ごす時間は、誰かと一緒に過ごせる時間より長い。だから他人がいなくても自分の時間を楽しめた方が充実する。別に充実することが人生の目的とは思わないけど、僕は少しでも充実させたいと思う。meroと話すようになってより一層そう思うようになった。いつ死ぬかわからない、ならばできる限り楽しみたい。自分が死ぬ直前にこれまでを振り返って意味のあるものは、肩書きでも貯金でもなく、良い思い出だ。

 僕は酔った頭でそんなことを考えていたが、リーダーには言わなかった。自分が年下だからと遠慮した訳でも酒を飲んで説教みたいなことをするのが嫌いとかいうのでもない。ただ僕より長く生きていて、自分一人で熱中し続けられることを本気で必要としたならもう見つけていたはずだ。他人に言われて探すものでもない。これから彼が就職して何年か働いて会社勤めに嫌気がさして、改めて自分の好きなことを探すことになる可能性はある。そうなったら必死に探すだろう。



    8


 結局二人で明け方まで飲み続け、リーダーの家でシャワーを貸してもらえることになった。井の頭線で明大前まで行き、リーダー宅まで歩く。一人暮らしの彼の部屋に入ると、meroの部屋とは違う意味で驚いた。高校生の僕の周りには一人暮らしをしている人間はまだいなかったけど、男の一人暮らしというと、汚くて悲惨な光景を勝手に想像していた。読んだ小説や観た映画の影響だろう。しかしリーダーの部屋はとても清潔で洒落ていた。整頓された勉強机、間接照明、観葉植物、寝心地の良さそうなベッド、主に洋楽ポップスが並んだCD ラック、ウッドスピーカーとその前に並べられた色とりどりの酒瓶、大学の教材と文庫本が半々くらい詰まっている本棚(彼はミステリーが好きなようだ)、昨夜いた仲間たちと海辺で撮ったらしい写真が入った写真たて、狭いが機能性は悪くなさそうなキッチン。もちろん新聞記事の切り抜きは一枚もない。ここに数人の友人かもしくは恋人を連れてきて楽しく過ごす時間が想像できるような部屋だった。一人暮らし良いじゃん!と僕は思った。この部屋を借りるのにいくらぐらいかかるのかはわからないけど、こんな部屋で暮らせるなら俺も早く一人暮らしがしたいと思った。

「シャワーはあっち、中にあるものは適当に使っていいよ。タオルは出しておくから、先にどうぞ」とリーダーは浴室を指しながら言う。お言葉に甘えて浴室に入りシャワーを浴びる。熱い湯が不快な汗を流していく。そこに至るまでの暑さが不快であればある程、シャワーは気持ちよく感じられる。そうやって物事はバランスが取れているんだろう。タオルで体を拭いて浴室を出ると、「これを着て少し眠りなよ、どうせ予定がある訳じゃないんだろう?」と言ってリーダーは寝間着を貸してくれた。「ありがとうございます」と言いながらそれを着る。とても着心地が良い。まるで小さな幸せが形をとったもののようだ。冷房の効いた部屋も快適だ。

「俺はシャワーを浴びたら少し勉強するから、その間ベッドを使っていいよ。適当に起こすから、それでいい?」と言ってリーダーは浴室に入る。

 「はい、本当にありがとうございます」と閉まったドアに向かって声をかけ、ベッドに入った。リーダーがみんなに慕われる理由がわかった気がする。当たり前だけどmeroとは違う魅力がある。自然に他人に親切にできる。自然にリーダーシップを取る。

 俺にはどんな魅力があるんだろう?それはわからない。それにしてもあれだけ酒を飲んでこれから勉強できるなんて相当タフだな…などと考えているうちに眠りに落ちた。


 昼過ぎに目を覚ますと、さすがにタフなリーダーも机に突っ伏して眠っていた。起こすのも悪いと思ったが、ベッドを占領していた罪悪感もあったから声をかけて起こした。

「あ、すまん。起こすって言ったのに寝ちまったよ。ちょっと待って、いま飲み物持ってくるから」と言ってすぐに動き出した。血圧が高めなのかも知れない。

「ぐっすり眠れたかい?」と言いながらグラスに入ったウーロン茶を渡してくれる。肯きながら受け取り、一気に飲み干す。まだ口の中に酒の匂いが残っているから、ただのウーロン茶もこれはウーロンハイですか?という感じがする。

「今日はこれからどうするつもりだい?俺はまだ夏休みだしバイトも休みだ。体中の血液がアルコールみたいに思える状態じゃ勉強は捗らないことがわかったから、ゆっくりするるもりだ」とリーダー。

「特に決めてないんです。ただギターを持って放浪するってだけだから」

「そうか、まあ好きに休んでいけばいいよ。腹は減ったかい?」

「うーん、減ったと言えば減りましたね」

「じゃあちょっと待ってろ、簡単なものならすぐにできる」そう言ってキッチンに入った。

「料理できるんですか?見ててもいいですか?」

「ああ、別に構わないよ。大したもんじゃないけどな」

 そう言って彼は、大きめの鍋に湯を張り火にかけた。湯が沸騰するまでの間に冷蔵庫にあったキャベツを軽快に刻みボールに入れて水につけ、ニンニクを刻み、エリンギを刻み、解凍した鶏肉を刻み、湧いてきた湯に卵二つと塩を入れ、パスタをタッパから適量取り出しておき、フライパンにオリーブオイルを注ぎ火にかけた。沸騰した湯にパスタを入れ、フライパンに刻んだニンニクを入れ、パスタをかき混ぜ、ニンニクを香りが出るまで炒めた。鶏肉をフライパンに入れ、塩コショウを入れ、エリンギと水を切ったキャベツを加え、さらに炒める。ボールと包丁を洗って片付ける。ある程度日が通ったら火を止めてフライパンに蓋をしておき、鍋の中の卵だけを先に取り出し、水をかけながらスルスルと殻をむいた。パスタを一本取り出して食べてみて、よし、という表情をして、一気にザルにあけた。湯を切りフライパンに入れ、再び火をつけ、さっき炒めておいた具と混ぜて炒める。鍋と蓋を洗って片付ける。軽やかにフライパンを振り、輪切りの唐辛子を加え、醤油を流し込み、強火で炒めながらからめる。そして出来上がったものを二枚の皿に均等に取り分け、卵を専用の糸で半分に割って添える。卵はちょうど良い半熟。フライパンを洗い、片付ける。ここまでわずか10分くらい。見事に二人分のパスタが完成した。

「すごいですね」と僕が言う。

「なに、簡単だよ。一人で暮らしてるとこれぐらいすぐにできるようになる」

「いや、でも誰にでもできるってもんじゃないと思いますよ」

「まあいい、とにかく熱いうちに食おう」そう言って座るよう、手振りで促す。

「いただきます」と言って食べ始める。

 美味い。特別なものは何も使ってないはずなのに、的確に調理するだけでこんなに違うのか。チェーン店でバイトが作ったものよりも数段美味しい。

「こんなものはすぐにできるようになるよ。君はギターを弾くくらいだから手先は器用だし、あとはやるかやらないかだけだよ」そう言って微笑む。嫌味な感じはしないが彼の表情には自信が窺え、無言で「料理ができた方が楽しいし、女にもモテるぜ」と語っているように思えた。僕が女だったら彼に恋心を抱いてしまうかも知れない。でも僕は男だから、自分も料理が出来るようになろうと思っただけだった。そういう意味でもmeroとリーダーの魅力は違う。meroの魅力は危険だが性別を超えて恋心を抱かせるだけの何かがあり、リーダーの魅力はあくまで同性の先輩として素敵だという魅力。

 食べ終えて、自分が使った皿を流しに持って行こうと立ち上がったら、リーダーはそれを手で制し、さっと立ち上がり、二人分の皿を洗い、グラスにウーロン茶を注ぎ渡してくれた。どうやらキッチンは彼の場所らしい。

「狭い台所には一人で充分なんだ。二人いると混乱する」そう言ってまた微笑む。

 僕はやっぱり一人暮らしっていいなあと思う。全て自分の好きなものに囲まれた、自分が選んだ自分だけの部屋。

 自分の服に着替え、「ずいぶんお世話になってしまいました」と言った。携帯電話も充電させてもらったし、僕自身も充電させてもらった。

「いやいや、大したことはしてないよ。俺も君と会えて楽しかったしさ。携帯の番号教えておくから、何か困ったことがあったらいつでも電話してくれ」そう言って携帯の自分のプロフィールの画面を見せてくれる。僕は自分の携帯にそれを打ち込む。

「一度かけますね」そう言って彼の携帯に着信を入れる。

「それじゃあ」と言って親切なリーダーの部屋を後にする。

「またな」と言って手を振ってくれる。手を振り返し、歩き出す。リーダーに出会えてよかった。



    9

 

 ひとまずあてもなく歩いてみたのだが、睡眠が足りていなかったのか、急に強い眠気が襲ってきた。周りの景色が歪んで見える。どこか安心して休める場所を探さなければ、と思うけれどあまりにも眠い。しばらく行くと道路脇にベンチがあったからそこに座り込んだ。荷物を枕にして横になる。まるで誰かに眠りの魔法をかけられたかのように、有無を言わせぬ眠気に負けてそのまま眠り込んでしまった。

 そして恐ろしい夢を見た。おそらく僕が眠り込んだその場所で、人が車に轢かれてしまう夢だ。急にトラックが突っ込んできて、その人は避ける暇もなかった。即死だった。その死体の飛び出した目と目が合った、と思った瞬間に、弾けるように目が覚めた。心臓が異様な速さで動いている。僕は慌ててバッグをギターケースにくくりつけ、その場を後にしようと立ち上がった。その時、ほんの少し先のガードレールの切れ目のところに、ワンカップの瓶に入れられた花が置いてあるのが目に入った。背中に氷を入れられたように背筋にスーッと冷たい感触が走る。正夢だったんだ。眠る前には眠すぎてその存在に気付かなかったんだ。少しでも早くここから離れよう、と早足で立ち去った。

 15分くらい歩いただろうか、図書館の看板が目に入ったから、そこで休むことにする。読む気は無かったが適当に何冊かの本を手にとって椅子に座った。読むともなくパラパラと本をめくっていると、少しずつではあるが落ち着きを取り戻してきた。そして冷静になって、ふと思った。俺はいつか来る死を当たり前のものとして受け入れたんじゃなかったのか?ならばどうして人の死を目の当たりにしてそんなに取り乱したんだ?と。いや、幾ら何でも(たとえそれが夢であっても)目の前で急に人が死ぬところに直面したら誰だって取り乱すだろう。meroだってきっと取り乱しただろう。いくら日常的に死に思いを馳せていたとしても、突然の死には混乱するのが人間らしいという気がする。もしさっきのが夢ではなく現実の事故現場に出くわしたのだとしたら、僕はすぐに通報したり、目撃者としての対処ができていただろうか?自信はない。

 日本の交通事故による年間の死者は自殺者の数よりは少ないと聞いたことがある。それでも自殺者は年間約3万人らしいから、1万人くらいは交通事故死しているんだろう。考えてみれば恐ろしいことだ。考えれば考えるほど、外を歩くのが怖くなってくる。そんなことを言ったら何も出来ないけれど、俺は何でまた放浪なんて危険なことを始めてしまったんだ?と思わないではいられない。でも更に考えてみれば日常生活の中でも一日に何度かは外を歩くわけだし、そんなに変わらない。いつ自分が車に轢かれて死ぬかわからない。危険は影のように常にそばにいて、こちらが油断したら一気に襲ってくるだろう。最悪の場合死んでしまうかも知れない。酔っ払って路上でフラフラしていたら、灰皿に入れ損なった灰のように、音もなく散ってしまうかも知れない。放浪二日目にして僕は考えられる限りの危険について想像し、怖気付いてしまった。

 危険について考察しているうちにまた眠気がやってきて、うつらうつらしていたら、図書館員に注意された。眠るなら外に出てくれ、ここは本を読むための場所であって決して眠るための場所ではないんだ、と。言ってることはもちろん正しいのだが、何か嫌なことがあったばかりなのかと心配になるくらい不機嫌な言い方だった。人々を不快にすることが彼の生きがいなのかも知れない。本は好きだけど人間は嫌いだ、と顔に書いてある。だったら接客の必要のない本の工場かどこかで働けよ、と余計なことを思いながら、そいつを睨み付け、図書館を後にする(まだ若かったのだ)。携帯の時計を見ると、どちらにしろ閉館時刻が近付いていた。

 図書館を出たところに大きめの公園があったからそこで休むことにした。基本的に夜しか歌わないから日中の時間をどう過ごすかがこの放浪の難しいところだと言える。あずまやに誰もいないところを見つけ、荷物を置きベンチに腰を下ろす。しばらく携帯を眺めながら放心していると、初老の浮浪者が近付いてきた(僕も浮浪者みたいなもんだけど)。顔は浅黒くて決して綺麗とは言えないが、嫌な匂いはしない。ワンカップの酒を飲みながら僕の前に立って、言う。

「やあ、暑いね。ちょっと俺も座っていいかな?」

「はい、構いません」公園は公共の場ですし。

「これ、飲むか?」と缶チューハイを差し出してくる。確かに喉が渇いていた。

「ありがとうございます、いただきます」受け取って、プシュッと情けない音を立ててプリングを引っ張り開け、ゴクゴクと飲む。渇いた体に染み渡っていく。

「ギター弾くのか?俺も昔弾いたよ。ちょっと弾かせてくれないか?」と彼。

「これをいただいておいて何ですが、他人には貸さないようにしてるんです」と僕。特にそう決めている訳でもなかったが、貸すにしても相手は選びたい。

「そうか、それなら仕方ない。確かに楽器は無闇に人に貸すものじゃない、自分の手に馴染めば馴染むほどそうだ」と彼は知った風なことを言う。

「ええ、そうですね」と適当に相槌を打つ。

「お前、金に困ってないか?良い話があるぜ」と彼。歯のない顔でニヤつく。

「いえ、特に困ってないですね」少なくとも浮浪者に相談するほど金に困ってはいない。良い話があるなら黙って自分でやっていればいいだろう。

「そうか…。かなり良い話なんだけどな。中国人の女と籍を入れるだけで、向こうで豪遊できるんだぜ。今なら俺が紹介してやれるよ。どうだ、籍を入れるだけだぜ?」

「いえ、結構です」友人が逮捕されたばかりですし。

「そうか…かなりおいしい話なんだがな…」


 その後も何やらぶつぶつ言っていたが、僕は彼をいないものとして完全に無視することに決めた。缶チューハイ一本で犯罪者になろうとは思わない。しばらくすると、フラフラと立ち去っていった。お前が中国で豪遊してくればいいだろう、と思った。もうしてきたのかも知れない。どちらにしろ、僕の知ったことではない。



    10


 何だかここに居るのが嫌になってきたから、電車の駅を目指すことにした。人々が多く向かっている方向にたいてい駅はある。少し歩くとすぐに駅があった。都心は便利だ。でももっと自然が多いところに行きたいと思った。井の頭公園の緑が恋しい。ビルの森は目が疲れる。せかせかしている人たちを見ると精神が疲れる。

 普段あまり電車に乗らないからよくわからないけどとにかく都心と逆に行く電車を選んで乗る。夕方の電車内は仕事帰りの人々で既に満員で、ギターケースを持って乗り込んだら、近くの数人にギロッと睨まれた。文句があるなら口に出して言えばいいのに、ただ睨むだけだ。何か言いたいことがあっても黙って睨むのが電車内のルールらしい。言いたいことがあるなら睨まないで言えよ、そう思う僕は「言いたいことがあるなら睨まないで口で言えよ」と彼らに言えばいいのだろうか。

 無言の圧力を感じ続けるのは気分の良いものではない。MDウォークマンを取り出したいが、混みすぎていてそれすらも出来ない。だんだんイライラが募ってくる。最大限の音量で「わーーーっ!」と叫び出したい衝動に駆られるが何とか抑え込む。そんなことをしたら警察に連れて行かれるだろう。周囲の人々はこんなに空気が薄くて他人と密着して不快な状況によく耐えられるなと思う。きっと誰も心地好いとは思っていないだろうけど、あまりにも不快だ。夏目漱石も「人間は牛でも貨物でもない」といったことを書いていた。すぐ目の前のおっさんの禿げ頭に汗が滲んでいて汚い。ぶん殴りたいと思うが触りたくもない。警察に行きたくもない。八方塞がりだ。無差別殺人者の心理が理解できた気がする。今なら人殺しになれる。誰でもいいから手当たり次第殺してやる。まぶたを閉じて、「これは一過性の状況だ、黙ってやり過ごせ」と自分に言い聞かせる。こんな状況では発狂する方が自然だとすら思える。

 永遠に思えた5分が過ぎて、次の駅で逃げるように電車を降りた。あんなものに毎日乗らなければならないなら死んだほうがマシだ。いくら通勤するためであっても僕には無理だ。早々に発狂するだろう。

 改札を抜けて煙草を吸いながら街を歩く。今度は買い物帰りのおばさんに睨まれる。それは僕が悪い、人並みの中で煙草を吸うものではない。しかし発狂しそうな自分を抑える手段が他に思いつかない。怒りに支配されている。世界の全てが僕に敵対しているように思える。すれ違う人たちがみんな敵に見える。どうすればこの怒りから解放されるだろう?危険について考察したばかりなのに、怒りが恐怖を相殺し、道路を脇芽も振らずに歩いて行く。俺を殺せるなら殺してみろ。


 歌えば落ち着きを取り戻せるかも知れないと思い、しばらく歩いて歌えそうな場所を探したが、人が多すぎる。普段は夜の9時を過ぎてから歌う。今こんなとこで座り込んでギターケースを広げて歌い出したら、通り過ぎる人たち全員に睨まれるかも知れない。またしても誰も言葉を発さずに、ただただ睨まれるかも知れない。電車の中だけでなく、触らぬ神に祟りなしがこの世界の基本的なルールだ。だから歩き続けた。歩き続けるしかなかった。怒りが心を燃やし続け、それを燃料に歩き続ける。そのまま内臓まで焼き尽くして死んでしまえればいいのに。


 ああ、誰かを殺したい。いや、殺すくらいなら死んでしまいたい。そんな思いが頭の中を駆け巡る。


 タクシーに乗り込み一万円札を差し出し、「これで行けるところまで適当に都心から遠ざかってください」と言う。運転手は一度振り返って困った表情をしたが、前に向き直ると車を出した。冷房の効いた快適な車内にいても、怒りは消えない。道路は道路で渋滞している。人地獄だ。死ななくても地獄は存在した。消えるどころか怒りは増すばかりだ。外はだんだん暗くなっていくが、僕の中では怒りが鮮やかに燃えている。まぶたを閉じ、やり過ごすしかない。ウォークマンを取り出し、meroの曲を聴く。音楽に集中する。

 一時間くらい走っただろうか。料金が一万円に達した時、運転手が「ここでいいですか?」と聞いてきた。「どうもありがとう」と言って降りる。どこかの駅の近くらしい。さっきの街より人通りが少ない。時間帯もあるだろう。現在地を知るために駅まで行ってみると、武蔵溝ノ口という駅らしい。


 駅前のコンコースに座り込んで歌うことにする。ギターを取り出し、調弦する。少し落ち着きを取り戻す。それでも怒りは消えていない。知らない街で歌う緊張感も怒りが相殺してくれる。そして歌い出す。が、思うように声が出ない。怒りで喉まで焼けてしまったのだろうか?それとも昨晩飲み過ぎたのか。僕はより一層混乱する。歌まで歌えなくなったら僕は一体何をすればいいんだろう?


 とにかく片付けてまた歩き出した。駅の周りをフラフラと歩く。ドアーズの歌詞にあるように、周りの人々が奇妙に見える。あなたたちは一体何のために生きているんだ?食べるため?性交するため?誰かのため?名誉のため?ただ生きるため?満員電車には慣れているか?そんな疑問が頭の中を埋め尽くしていく。混乱がさらなる混乱を生む。


 殺したい殺したい殺したい殺したい死んでしまいたい死んでしまいたい死んでしまいたい死んでしまいたいーーーーブラックアウトーーーー



    11


「大丈夫ですか!?」気が付いたら救急隊員に肩を叩かれていた。駅の階段に座り込んでいる。すぐに荷物を確認するが、変化はないようだ。どうやら失神していたらしい。確かに神は見当たらない。

「この辺で人が倒れているって通報があったんだけど君じゃないよね?」

「はい、僕は大丈夫です」

「よかった、気を付けてね、じゃあ!」そう言って救急隊員は爽やかに走り去った。救急車で運ばれたりしないで良かった。所詮未成年だから家にかえされてしまうだろう。

 声が出ないとなると、どうやって夜を過ごそう…と考えながらとぼとぼと歩く。また駅のコンコースまで戻ってくると、路上に座り込んで何かをやっている人間が目についた。路上で歌を歌うようになってから何かしら路上でパフォーマンスをしている人がいると気になるようになった。それが歌う人でなくても、例えば風船を膨らませて人形を作る人や、似顔絵を描いて売る人、マジックをする人でも。いろんな人がいる。

 近付いてみると、僕と同い年くらいに見える少年がシートを広げてその上に詩のようなものを書いた色紙を並べて売っていた。Tシャツに短パン、サンダルという軽装だから地元の人だろうか。

「やあ、君は詩を売っているんだね?」と声をかけてみる。

「うん、詩というか、その人の顔を見ると言葉が浮かぶから、それを書いてるんだ。ここに並べてあるのは見本だよ。もちろん気に入ってくれたらこれを売ることもあるけど」

 よく見ると座り込んだ彼の隣に置かれた看板に、あなたの顔を見て言葉を書きます、と書いてあった。

「へー、すごいな。どんな人を見ても言葉が浮かぶものなの?」

「そうだね、大体は浮かぶ。難しい人もたまにいるけど、何とか思い浮かべる。それが俺の仕事だからね」

 仕事か、と僕は思った。僕は路上で歌うことを仕事だと考えたことはなかった。確かに金を手に入れる為の手段でもあるけど、あくまで楽しむのが一番の目的だったからだ。もし一円ももらえなくても歌うだろう。でもそうなったら嫌々バイトをしなければならない。

「あんたも書いてやろうか?」

「うん、お願いするよ」

 彼はじーっと僕の顔を見た。そしておもむろに色紙に言葉を書き出した。早い。筆ペンで見事に書かれた言葉を渡してくれる。

「何処を目指すわけでもなく、ただ出逢いを求める旅人よ、一期一会を大切に」色紙にはそう書かれていた。

「ありがとう、お返しと言っては何だけど俺の歌詞を書いてもいいかな?」そう言うと、脇に置いてあったノートを渡してくれた。今まで路上で出会った人たちからの応援のメッセージなどが書かれたノートらしい。白紙のページに僕の歌詞の中で彼が気に入ってくれそうなものを選んで書くことにする。

 僕が歌詞を書いている間にも5人くらいのお客さんが現れ、色紙を受け取り、お金を払い、感謝の言葉を残して去って行った。金額は様々だが、千円札を出す人が多かった。路上で金を手に入れる手段としては、歌うよりもこちらの方が確実だと思った。お客さんは色紙を貰う訳だから、一円も払わずに去るのは忍びないだろう。歌には形がない。だからって彼を真似ようとは思わなかったけれど(真似しようたって無理だ)、感心した。歌詞を書き終え、彼に渡す。じっくりと読んでくれる。


「あんた、いけるよ」読み終わった彼はそう言った。

「少しここにいていいかな?今日は喉の調子が悪いみたいなんだ。もちろん仕事の邪魔はしないよ」

「ああ、構わないよ。良かったらギターを弾いてくれ」


 ギターを弾きながら彼の仕事を見学しているのはとても面白かった。当たり前だけど本当にいろんな人がいる。そのいろんな人たちに彼はそれぞれ言葉を書く。相手の顔を見て言葉を書き始めるまでの所要時間は平均10秒くらいだった。そして大抵のお客さんは、お金を払い、礼を述べて笑顔で去って行く。大したもんだな、と僕は思う。相手が求めている言葉を瞬時に読み取る才能が彼にはあるらしかった。そして人々は何かしらの言葉を求めているらしかった。


 お客さんが途絶えると、二人で話をした。やはり彼は同い年だった。大阪出身で、中学を卒業してからすぐに家を出て、そのままずっと放浪しているらしい。軽装でいられる理由はこの地で仲良くなった人の家に荷物を置かせてもらっているからだという。ほとんどの移動はヒッチハイクで全国をまわっていて、九州で出会った旅人と北海道で再会した、なんてこともあったという。各地に、行けばまた会いたい友人がいるそうだ。そして金が貯まったらいつか中国に行くんだ、そう彼は言った。そんな話を聞いたら、僕も夏休み限定ではなく高校を辞めて無期限の放浪の旅をしてみたくなった。

 衝動に駆られれて人を殺したり自殺したりしなくて良かった。まだ旅を続けよう。死ぬのは後でいい。自殺しなくても、いずれ死ぬ。



    12


 また会おう、と言い合って彼と別れた。彼にも勇気をもらった。今なら歌える気がする。彼とは離れた場所で歌ってみよう。適度に人の流れがある場所を選んで腰を下ろす。ギターを取り出して調弦する。やはりこの作業が僕の心をスッとさせる。そしていつも最初に歌う曲から歌い始める。meroに教えてもらった彼の曲、『Rain man 』だ。僕にとって路上のテーマソングのようになっている。声は、出る。精神状態がこんなにも声に影響するなんて。

 それから自作曲も含め何曲か歌い終わった時、少し離れたところで聴いていてくれた少年が近づいてきた。やはり僕と同い年くらいだろうか。バイト帰りといった雰囲気だ。

「すごく、良い歌でした。俺あんま金持ってないんすけど、良かったらこれでおにぎりでも食ってください」そう言って百円玉を2枚、ギターケースに入れてくれた。

「ありがとう」

「がんばってください、いつかテレビで観られる日を楽しみにしています」そう言って彼は去って行った。思えば放浪に出てから初めて金をもらった。また歌い出した僕の心にあたたかい灯がともった。それは怒りの火よりもやわらかくて、穏やかな灯だ。


 歌っているうちに深夜になった。おそらく終電がなくなり、辺りには人通りがなくなった。そろそろ潮時かなと思い始めた時、中学生に見える一人の少女が走って目の前を通り過ぎた。ポニーテール、青いT シャツ、白くて長いスカート。ちらっとこちらを見たがそのまま行ってしまった。何かに追われているように見える。何だか胸騒ぎがした。気にはなったがわざわざ追いかけることもあるまいと思い、それでも立ち去るのは何となくはばかられ、そのまままたギターを弾き始める。

 すると少し後にチンピラ風の男が現れた。髪はオールバック、派手な柄のシャツ、白いスラックス、足元は量販店で一足500円くらいで売っていそうな運動靴、手にはセカンドバッグ、見た目に気をつかったことはないようだ。

「よう兄ちゃん、この辺を青い服着た女が通らなかったか?」

「ああ、通りましたよ。あっちに行きました。」僕はそう言って少女が行ったのとは逆の方向を指差した。

「おお、助かった、ありがとな」そう言って男は僕が指した方向へ走って行った。

 うむ、これは穏やかではないな。痴話喧嘩なら僕の知ったことではないが明らかにあの少女は若かった。チンピラと中学生の痴話喧嘩なんて聞いたことない。とりあえずギターをケースにしまっていると、

「すいません、助けてください!」と言いながら息を切らせて先ほどの少女が現れた。やはり僕よりいくつか年下に見える。

「どうしたの?」と聞くと、

「変な男に追われてるんです」と言う。

「知らない人なの?」

「はい、急に声をかけられて、ご飯食べに行かないかって言われて断ったら怒り出して」

「それは困ったね。さっき君の行方を聞かれて違う方を言っておいたから少しは時間を稼げたと思うけど、また戻ってくるだろうな」そう言いながら対策を考える。

「とりあえずこっちに来て」と言って少女を駅前の公衆トイレに導く。男女のトイレの間に車椅子の人用の広いトイレがある。

「トイレってのも何だけど、ここなら中からしか開けられないし安全だよ。僕が男と話をして、大丈夫になったら呼びにくるから、それまでここで待っていて。ね?」

 彼女は頷き、中に入る。ギターケースとバッグをトイレの中に置く。meroがくれた革ジャンを着る。ちらっと鏡を見ると、自分が映画の主人公になったような気がする。外に出て、さあどうしたもんかなと思う。

 とりあえず男に教えた方に行ってみようと思い歩き出す。すると、ちょうど警察らしき人がいた。助けを求めようと近付くと、駅の警備員らしい。制服が違う。

「すいません、女の子が変な男に追われて困ってるんです。一緒に助けてくれませんか?」と言うと、

「え?あ、あの、そっちの方は私の管轄ではないので…」目が激しく泳いでいる。いかにも血の巡りの悪そうな顔をしている。

「は?管轄とか関係ねえよ、女の子が変な男にからまれて困ってるって言ってんだよ、あんた警備員だろ?」

「ええ、でも、管轄が…。あの、警察を呼んだ方がいいんじゃないですか?」と逃げ腰で言う。すると前からさっきのチンピラが現れた。僕を見つけると駆け寄ってくる。警備員は既に視界から遠ざかっている。

「おい、あっちにはいなかったぞ。お前、俺に嘘を教えたな?」こんな奴にお前呼ばわりされたくない。

「そうですか?喧嘩でもしたんですか?」

「そんなことお前に関係ないだろう、どこに行ったのか教えろ」

「あの子はあなたに追われて困っていました。だから教えられません」

「ああ?お前俺のことなめてるのか?」

「いえ、何とも思っていません」

「殺されたくなかったら、どこに行ったか教えろ」そう言って懐からナイフを取り出して僕に向けてきた。

「僕を殺してもあなたは得しません。少しはスッキリするかも知れないけどそのあと務める刑期を考えたら割に合いません。きっと後悔しますよ」

「何でお前にそんなこと言われなきゃいけないんだ!」そう言ってナイフを振り回す。簡単に避けられるが、敢えて浅く肩を切らせる。それを見たらこいつが怯むだろうと思ったからだ。簡単にナイフを振り回すような奴に限って、実際に相手を傷付けてしまった時のことを考えていない。想像力が絶望的に不足している。肩から血がスーッと流れ落ちる。予想通り怯んだ相手を見て、僕は微笑む。まだやるか?という感じに。

「ち、ちくしょう、生意気な野郎だ、ちょっと待ってろ」そう言って携帯を取り出し、誰かに発信する。何やらこいつにとって偉い人と話をしているらしい。わざと僕に向かってこの電話の相手はやばいんだぞ、と示すように話す。馬鹿みたいだ。そして電話を切る。

「俺について来な、お前を兄貴のところに連れて行く」そう言って男は進み始めた。

 そのまま逃げられるとも思ったが、少女が心配だし、僕なりに頭に来てもいる。しかしこの男が滑稽すぎて、満員電車で感じたほどの怒りは湧いて来ない。黙ってついて行くことにした。

 路地裏を少し入ったところに袋小路になった空き地があった。そこに、いかにもヤクザといった見た目の男と、ホストかポン引きに見えるスーツの男が、二人で待っていた。

「兄貴、こいつなめた野郎なんでガツンと言ってやってくれませんか」

「何があったのか最初から説明してみろ」

「いや、その、それは、こいつが俺に喧嘩売って来たんですよ」

「そうなのか?」ヤクザが僕の方を見る。僕は首を横に振る。ヤクザがジッと僕の顔を覗き込む。ヤクザに見つめられるのは気分の良いものではない。

「君はこいつに喧嘩を売ってないんだね?」僕は頷く。

「お前、話が違うじゃないか。どういうことなんだ?」とヤクザがチンピラに言う。

「どうせこいつから喧嘩売ったんですよ」と今まで黙っていたスーツの男が言う。

「それで手に負えないから俺に頼ったのか。違うか?」

「そ、それは違うんですけど…」

「もういいよ、君。わざわざ来てもらってすまなかった。こいつのことは俺に免じて許してやってくれ。俺からよく言っておく」

 僕は黙ってその場を後にした。


 急いで公衆トイレまで戻る。扉についた表示を見ると、使用中のランプが消えている。中に人がいるなら点灯しているはずだ。まさか少女は奴らの仲間で、一芝居うって俺の荷物を盗もうとしたんじゃ…。そんな考えが頭をよぎり、急いで「開」のボタンを押し、中に入る。やはり少女はいない。ギターケースとバッグは…ある。中身を確認してみるが、どうやら変わりはない。フッと胸を撫で下ろす。一瞬でも少女を疑った自分を恥じた。よく考えてみれば、俺の荷物なんて盗んだって大したものは入っていない。だけどお姉さんにもらったCD がある。そして何よりギターを盗られなくて良かった。それほど高価なものではないが、路上でもらったお金で買った愛着のあるものだ。他人にとっては価値のないものでも自分にとってだけは大切なものがある。



    13


 公衆トイレを後にして、これからどうしようかと考える。もう空はうっすらと明かりが差し始めている。群青色が下からオレンジ色に侵食されていく。ひとまず駅前のベンチに座って休むことにする。何だか疲れた。肩の傷は大したことないし、トイレの中でシャツは着替えた。ウォークマンを取り出しmeroの曲を聴く。まぶたを閉じ、耳を澄ます。心がスッとする。

 しばらく聴き入っていると、さっき空き地にいたスーツの男が僕の方に歩いて来た。一瞬、逃げようかとも思ったけど、面倒になってやめる。

「さっきはどうも」と男が言う。

「はあ」どうもも何もないだろうと思いながら言う。一応イヤホンを片方耳から外す。

「そんなに警戒しないでくれよ。さっきのあいつは頭がおかしいんだ。俺はあいつとは違うよ。そうか、君は路上ミュージシャンだったんだね」ギターケースを見ながら男が言う。特に言うこともないから黙っていると、

「まだ始発まで少し時間があるから、それまで話をしてもいいかな?」

「まあ別に構いませんけど」そう言うと男は僕の隣に腰を下ろした。

「君はここの人間ではないね?」

「ええ、地元は立川です」

「そうか、この辺はあいつみたいなチンピラが結構いる。路上ライブをしていたら、からまれる可能性が高い」

「そうですか」今この状況もからまれてると言うんじゃないか?と思う。

「それでもまたここで歌うのかい?」

「まあ、今夜はここで歌うつもりですけど」

「じゃあ俺が対策を教えてやる」そう言って男は勝手に話し続ける。

「まず、ギターケースの中にあまりお金を入れておかないことだ。入れておくと奴らが通りかかった時に、お前人のシマで勝手に商売してるのか?となる。本当はそいつのシマでも何でもなくてもね。だからお札はもらったらすぐにしまうようにして、少しだけ小銭を入れておくんだ。全く入ってないと通り過ぎる人たちがお金を入れてくれにくいし、もしチンピラにからまれたら、これは見せ金なんです、と言えばいい。少し入れておかないとなかなか立ち止まって聴いてもらえないもんですからとか言ってね」

 僕は、へーっと思う。この人は路上で歌う人を見つける度にこうして忠告してまわってるのだろうか?

「君はまだ若いから、何が起きてもどうにかできると思っているかも知れないけど、面倒なことはできるだけ避けた方がスマートだ。そうだろう?」

「そうですね」あなたのことも避けるべきでした。

「俺はここで長くキャッチをやってるから、飽きるほどいろんなことを見て来た。そしてわかったのは、大体の面倒は避けようと思えば避けられるってことなんだ。俺には人々が好き好んで面倒を起こしているように見える。何でか解るかい?みんな暇なんだよ。一見、忙しそうにせかせかしてるけど、みんな暇で寂しいんだ。だからちょっとしたことでいさかいが起こる。肩がぶつかっただけで殺されかねない時代だ。狂ってるだろ?みんなが何かそれぞれに自分の目的を持って生きていればそうはならないと俺は思う。ほとんどの人が生きる目的なんて持っちゃいない。目的を持って何かに向かっていれば、それ以外の小さなことにかかずらわってる暇なんてないはずだろ?これからもっと事態は深刻化していくと俺は思うね」

 あんたも随分暇そうに見えるが、と思うけどこれ以上の面倒は避けたいから黙っている。

「俺は今こんな仕事をしているけど、いつか本を書くんだ。最近、物事が灰色に見えるようになって来た。全ての物事が灰色に見えるようになったら本を書くよ。意味が解るかい?偶然に思うことでも、もとを辿って行けば全てに原因はある。全て必然だ。そうやって物事を見てるとね、ほとんど同じことの繰り返しなんだ。そして同じようなことはだんだん灰色に見えてくる。同じような理由で同じような事件が何回でも起こる。場所と登場人物が変わるだけだ。つまらないだろ?でもね、当事者はそんなこと考えない。犯罪をするようなやつは、俺が今からしようとしてることは前に誰かがやったことと似ているからつまらないしやめておこう、なんて考えないんだ。驚いたことに、わざわざ誰かがやったことを真似する馬鹿までいる。狂ってるだろ?全て想像の範囲内のことしか起こらない、そうなったらつまらないだろ?だからそうなったら俺は本を書くよ」

「そろそろ電車が動き出したみたいですね」駅の方に目をやり、僕は言う。

「お、そうか、すまない。こんな話は誰にもしたことがなかったんだがな、何だか君の顔を見ているとついベラベラ喋ってしまった。俺と同じ匂いを感じたのかも知れない。すまん、許してくれ。今夜もここで歌うならお茶でも買ってくるよ、じゃあな」


 灰色男が去ると、空腹を感じたからコンビニに向かった。おにぎり、水、虫除けスプレー、ウォークマン用の電池、煙草を買う。近くの公園まで歩き、ベンチに座って「いただきます」と呟いておにぎりを食べる。このおにぎりが僕の手に入るまでに関わった全ての人に感謝をしながら。もちろんお金をくれた少年にも。


 空を見上げると、雲ひとつない。今日も暑くなりそうだ。夜までどうしようかな、と考える。さすがに外で眠るのは暑さが厳しいから、漫画喫茶で仮眠を取り、後の時間は図書館で過ごす。晩年のグレングールドが弾くゴールドベルグ変奏曲を繰り返し聴きながら日記(この文章の原型)を書いていたらすぐに閉館時刻になった。この曲を聴いているといつも、心の中に溜まった感情の澱のようなものが洗い流されていくのを感じる。そして文章を書いたり読んだりする時には歌詞のない音楽の方がうまく集中できる。


 漫画喫茶の個室と図書館でガチガチになった体をほぐしながら適当に外を歩き回り、目についた定食屋に入る。しばらくメニューを眺め(それぞれの料理を食べた自分の満足度を想像し)、焼き魚定食と肉じゃがと瓶ビールを頼む。ビールをコップ一杯飲んでいるうちに目の前に運ばれて来た料理はとても美味しそうだ。瑞々しいキャベツの千切りの上に鯖の塩焼き、大根おろし、出汁のよく染みていそうな肉じゃが、あさりの味噌汁。湯気が僕の心を湿らせる。黙々と食べる。美味しい。気づけばまだ放浪三日目なのに、すでにまともな食事が恋しくなって来た。

 ふと、家に帰りたいなと思った。ちゃんと布団で眠ってまともな食事をする生活。長く放浪を続けることは僕には向いてないように思えて来た。昨夜会った人の顔を見て言葉を書く少年は、もう一年半以上も放浪を続けているらしい。僕にはとてもできそうにない。当たり前だけどどんなことにも向き不向きがある。果たして放浪することは自由と言えるのだろうか?低予算の貧乏旅行であることは否定できない。結局僕が普段路上で感じていた自由は、とても限定された自由だったのだ。学校やバイト先で感じた窮屈さからの逃避としての自由。もしも無限に金があれば好きなだけ贅沢な旅を続けることができるだろうけど、そうなったら今ほど必死に歌うだろうか?一円ももらえなくても歌うという考えはあくまで今の状況から生まれた意地なのかも知れない。好きなだけ金が使える状態が想像つかないけど、自分の感じていた自由の小ささに気づいてしまったことは確かだ。家に帰っても放浪とは違う形の自由と不自由が待っている。きっとどんな立場にも自由な部分と不自由な部分があって、その時の自分に適した環境を選んでいくしかないんだろう。こんなことに頭を悩ませていること自体、不自由と言える。美味い定食に感化されてそんなことを考えた。


 外に出ると、すっかり日は落ちていた。とりあえず昨夜の場所で歌おう。楽しいことを考えるんだ。でないと何もできなくなってしまう。


 幸い昨日の場所に他の路上人はいなかった。腰を下ろしてギターケースを広げ調弦する。僕はこの作業を愛しているだろうか?自由について考えたことが僕を混乱させている。ギターを爪弾いていると、目の前に昨夜の少女が現れた。

「今晩は、会えて良かったです。さっき一度来て見た時はいなかったからもう会えないかと思いました。昨夜は本当にありがとうございました。しばらくして外に出たら平気そうだったのでそのまま帰ってしまいました。親も心配していると思ったので。お兄さんの荷物が気がかりだったんですけど…。勝手に帰ってすいませんでした。荷物は大丈夫でしたか?」

「荷物は大丈夫だったよ、それより君が無事で良かった」

「これ、良かったら。ほんの気持ちですけど」ギターケースにのど飴を入れてくれる。

「ありがとう、気をつけてね」

「はい、がんばってください!では!」そう言って彼女は去って行った。

 また心にあたたかい灯がともる。自由よりも、もっと大切なことがあるのかも知れないな、そんな風に思った。


 結局深夜まで歌い続けた。数人の人が聴いてくれて、幾らかのお金を入れてくれて去って行った。金をもらう手段…でも…と僕は思う。いつまでもこうやって生きていく訳にはいかないよな。続けることは可能かも知れないけど、それが僕の望む未来だろうか?人の顔を見て言葉を書く少年は路上でもらった金を貯めていつか中国に行くと言っていた。僕が望む未来はどんなだろう、そんなことを考えていたら、またあの灰色男が現れた。


「やあ、今朝はすまなかったね」と言いながらギターケースにペットボトルのお茶を入れてくれる。

「本当に買って来てくれたんですね、ありがとうございます」

「いつか俺が本を書いたら、ぜひ読んでくれよ」そう言って名刺もギターケースに入れる。

「わかりました。楽しみにしています」

「たまにはここに来てまた歌ってくれよな。次に会えたら飲みにでも行こう。じゃあな」



    14


 結局10年以上経った今でも彼の名で出版された本を目にしていない。まだ書いていないのか違う名で書いたのか大した作品でなく僕の目に入る前に消えてしまったのかそれはわからない。あれからあの駅にも行っていない。リーダーにも連絡していない。


 meroが僕に与えた影響、それは死を見つめること、自分の曲をつくって演奏することの喜び、そこから派生した不快な状況におかれた時に頭の中にメロディを思い浮かべてやり過ごす処世術、興味のあることをとことん追求すること、一人で何かに熱中することでしか得られない充実感…。もちろん全てを言い尽くすことはできない。それは僕の中で細かな水脈となって様々な場面に息づいている。そしてそれらは今でも僕の中で生きている。



 Rain man 目を閉じて歩け

 Rain man 土砂降りの街を

 Rain man あの風に乗り何処までも



            終わり

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