06.川井凛子②
思わず現実逃避していると、カチカチと音がするのに気づいた。……それは、真名自身が恐怖に震えて歯を鳴らしている音だった。
「ど……どうしよう……!?」
恐怖と絶望に支配された真名は、狭いロッカーの中で頭を抱えて蹲っていた。どうにかしないといけないのは分かっていたが、どうしようもないのも確かだった。職員室も3階にあるから、凛子が戻ってくるまでさほど時間はかからないはず。その切迫感がますます真名を追い詰め、思考が堂々巡りを繰り返している。
「だーかーらー、扉が開いたと同時に逃げなさいよ。一夜目で悪夢に囚われる時間は長くないんだから」
真名の頭脳は混乱していた。春美の理屈で言うなら、先に春美の目が覚めるはずだ。しかし、その気配もない……。
窮地に陥った真名は、そこで公子の言葉を思い出していた。
『悪霊と化しても霊は霊、未練に反応することがあるわ』
つまり、意思疎通ができないわけじゃない。実際、ついさっき凛子は真名の何気ない言葉に反応した。でも、悪霊と会話するなんてできるのだろうか。
そんな考えが浮かんだところで、真名はふるふると頭を振っていた。できるできないではない。やるのだ。できないと自分が死ぬ。混乱の最中にあった思考に、一筋の道しるべができた。
「凛子ちゃんの未練……未練って何だろう……?」
蒼白になった真名は必死に知恵を絞っていた。だが……答えが出るより先に、ひたひたと足音が戻ってくる方が早かった。
「真名! 真名! あったよ!」
じゃらじゃらと鍵束が揺れる音に真名の表情が引き攣る。既に春美も助ける気はないようだ。
凛子が更衣室に入ると同時に、空気が不快なほど濁っていく。血のように鉄臭い匂いがむっとなってロッカーの中にも届いていた。
思わず全身から力が抜けてしまう。時間切れだった。真名は結局、上手くやり抜ける方法を見つけられなかったのだ。声、異臭、そしてロッカーの外の凛子の姿。まもなく五感が悪霊を捕らえるだろう。
「…………でも、凛子ちゃんなら……」
……いいかもしれない。それが、諦めた真名が最後に思ったことだった。自分があんなこと言わなければ良かった。行くにしても、自分だけで行けば良かった。凛子には迷惑しかかけてない。そのままロッカーの底にへたり込めば、ポケットに入れていたスマホが固い感触を返してくるのみ。
「今、開けるね?」
上から降り注ぐ視線と声に、真名は俯いたまま。
――せめて、正気の凛子に一言謝りたかった。
同時にガチャリとロッカーの鍵が回され……
『――真名!?』
「凛子ちゃん………………」
扉は開かなかった。ロッカーの上から喜々として真名を覗き込んでいた凛子は、気づいたのだ。真名がスマホで電話をかけようとしていたことに。そしてロッカーの暗闇の中でも皓々と光るその画面には、確かに凛子の名前と番号が表示されていて……
「凛子ちゃん……ごめんね。私があんなこと言ったから……」
『真名……』
凛子は扉を開けるよりも、真名からの電話に出ることを優先していた。真名は思ったのだ。知り合って1ヶ月程度の間柄じゃあ、何も分からない。だから、最後に賭けてみようと。真名は、凛子に縋ることにしたのだ。
『……謝るのは、私の方だよ。あの時、真名は校舎に行くの、嫌がってたじゃん。私が無理して引っ張ってって……その結果こんなことになっちゃって……』
真名の心に暖かいものが流れてくる。何のことはない。真名が凛子のことを心配していたのと同じで、凛子も死にかけてなお真名のことを心配していたのだ。凛子の未練とは、真名だったのだ。
『……電話切らないで。これを切られたら……良くない気がするの』
「……うん」
いつの間にか、凛子はロッカーの扉にもたれかかるようにして背中を向けていた。真名も立ち上がると、扉越しに背を向けていた。
『真名……逃げて……』
「……うん。一緒に逃げよう?」
『そうじゃないの……私は……もう駄目っぽいの。分かるんだ……私、あの車椅子の女と繋がっちゃってる。呪いの一部になっちゃってるの……だから……』
「だから、車椅子をどうにかすれば良いんだよね?」
凛子からの返答はなかった。ただ、薄い扉越しに凛子の嗚咽と震えが伝わってくる。
『真名……』
「……ごめん、凛子ちゃん。開いてるロッカーに入って貰っていい?」
『…………うん』
足音と共に、反対側のロッカーを開けて……そして閉める音が響いた。スマホで通話したまま恐る恐るロッカーから出る。足下にはロッカーの鍵束が落ちていた。
そしてそのまま……律儀に脱いだ靴が前に置いてあるロッカーの鍵をかけた。これで再び凛子が正気を失っても、暫くは時間が稼げるだろう。
「……行ってくるね」
『…………ありがと』
通話状態のスマホを片手で持ったまま隣のロッカーを覗けば、空だった。どうやら春美は先に夢から覚めたらしい。真名に残された時間も少ないのだろう。
「……私が凛子ちゃんを助けるんだ」
そうして、真名は振り向かずに更衣室を出た。
3階の廊下は1階と同じように先が見えないほどの暗闇に包まれている。そこで真名は思い出していた。前に公子が言っていたのだ。3階は危ないから近づくな、と。
だから真名はひとまず階段へ向かって、降りようとし……
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃッッ!!!
「――え?」
気づいたときには遅かった。振り向いた真名が見たものは、血に濡れて狂った微笑みを浮かべながら猛スピードで突進してくる車椅子の少女だったのだ。凛子の叫びを聞いていたのは真名だけではなかったのだ。
――スマホの光に気づかれたッ!?
先が見えないほどの暗闇……その中で通話中のスマホを持っていた真名は簡単に見つかってしまったのだ。反射的に後ずさりしてしまう。だが、その後ろにあるのは床ではなく階段だった。真名の足がバランスを失ってズルリと倒れていく。
悲鳴を上げる暇もない。真名は階段の踊り場まで転がり落ちていた。受け身なんて器用な真似も取れず、目の前をチカチカと星が飛んで視界が真っ赤に染まる。あまりの痛みに自然と涙が零れるのを必死に拭えば、階上では車椅子がこちらを見下ろしている。
逃げなくては。そう思って必死で立ち上がろうとした瞬間だった。
「あうッッ!?」
右の足首に激痛が走った。どうやら転がり落ちた拍子に捻挫してしまったらしい。体重を少しでもかけるごとに、激しい痛みが脳を焼く。
――逃げられない!?
助けを呼ぼうにも春美はおらず、凛子は鍵のかかったロッカーの中。叫んでも寄ってくるのは悪霊だけだ。這ってでも逃げるしかない。
そう思った瞬間だった。
「だ、大丈夫ですか?」
たおやかな声がかけられたのだ。真名は思わず呆然となってしまう。
「す、すみません。あいにく足を悪くしておりまして……助けてあげられたら良かったのですが……」
心の底から心配する声は、他の誰でもない車椅子の少女のものだったのだ。さっきまでの血塗れの姿などではない。白いセーラー服を折り目正しく着こなした、上品なお嬢さんが佇んでいたのだ。
真名の頭に少しだけ冷静さが戻ってきた。
車椅子の少女の未練は”足”だったのだ。足が未練、だから、足に傷を負った人間に対しては正気に返ったらしいのだ。
刹那、雷のような閃きが真名の脳裏を過ぎる。今、この場で車椅子の少女から呪って貰えば、彼女は成仏する。そうなれば、解放された凛子にもまた呪って貰うだけで、彼女も解放できるかもしれない。
「わ、私を呪ってください!」
「はい? え……っと?」
上品に聞き返す仕草ももどかしい。真名は焦っていた。切れた糸が再び繋がる感触があったのだ。真名の身体が目覚めようとしている。
「いいから……お願いします!」
「……落ち着いてください。わたくしは■■■■と申します。あなた様は?」
思わず泣きそうなほどの悔しさが真名の胸を打った。目覚めるのが二回目の真名には分かっていた。ノイズが混じったように名乗った少女が今から呪うより、真名が目を覚ます方が早い。そして、真名は見た。
「……え?」
彼女の背後に誰かいた。車椅子の少女の身体が浮かびあがる。返り血を浴びて真っ赤に染まった髪の長い鬼のような女が、彼女を真っ黒い右手で軽々と持ち上げたのだ。真名ももちろん、車椅子も驚きのあまり呆然となって固まっている。
――こいつだ。真名は公子の言っていたことを本能で理解していた。マズいことに足を怪我していて逃げられない。
「ニガサナイ」
顔立ちも分からないほど赤く染まった少女は雰囲気だけでニヤリと笑うと、車椅子の少女の身体を真名に向けて力任せに投げつけた。
車椅子は最後まで状況が理解できず、ポカンとしている。そんな彼女と目が合った真名は激突する瞬間思わず目を瞑ってしまい…………恐る恐る目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。