05.川井凛子①
気がつくと暗闇の中、狭い箱のようなものの中で立ち尽くしていた。驚いて手を動かせば、金属の壁にガツンとぶつかってしまう。ギリギリでパニックにならなかったのは、今日の午後のことを思い出していたからだ。ここはロッカーの中。真名は再び夢の中に戻ってきていた。
「……来たようね」
同時に音で気づいたのか、隣のロッカーからは春美のくぐもった声が届く。
「今日は様子見よ。もし公子が3階にいるのであれば、私達が夢に入ったときの音に気づくはずだわ。こっちに来てくれればそれで良し。来なければ明日は2階のロッカーに潜り込むだけよ」
その言葉を最後に、更衣室には沈黙が満ちた。室内に窓はない。ロッカーの中は息苦しいほどの暗闇に飲み込まれている。ロッカーの扉上部の穴から差し込む光は本当に僅かで、自分の指先すら満足に見えない。ただ、闇の中を自分の呼吸音と、冷たい金属の感触だけが真名に感覚を与えていた。
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壁のすぐ向こう、何もいないはずの暗闇が、底なし沼のような強烈なまでの存在感を放っている。いや、その暗闇はロッカーの内部にも繋がっていて……
「……そうだ、スマホ」
耐えきれなくなった真名は、思わず癖で制服のポケットへ手を伸ばしていた。そのまま何気なく起動すれば、初期からほとんど弄っていないホーム画面が表示される。時刻は22:57。同時に画面から広がる光がロッカー内を明るく照らしあげ、思わず胸をなで下ろしていた。
少なくとも、これでロッカーの中には何もない事が分かった。
「あんたね……スマホ? さっさと消しなさいよ。扉から光が漏れたらどう――」
春美が咎めるような声を出し……途中で止まった。他に音のしない校舎は、思っていた以上に静かだった。静かで……それだけ小さな音も響き渡る。
思わず真名は愕然としていた。聞こえたのだ。ロッカーの外、更衣室の扉の向こうから、残響のように余韻を残す声がした。
「真名―? いるのー?」
――凛子ちゃん!?
反射的に声を出しそうになった真名は、ギリギリの所で堪えていた。確かに凛子の声が真名を呼んでいる。
「アンタ、分かってると思うけど」
小さく、しかし鋭い声が隣のロッカーから放たれた。
「あれは既に悪霊化している。そうでなければ、声を出して3階の悪霊に襲われないはずない……!」
真名はコクコクと必死に頷いていた。もちろん春美には見えないだろう。ただ、自分に言い聞かせる為に。
「真名―? おっかしいな。さっき確かにこっちから音がしたんだけど……」
凛子の声は着実に近づいて来ていた。思わず縋ってしまいそうなほど、その声は普段と変わらない。
「おーい、真名―? いるんなら出てきてよー?」
いつの間にかパタンパタンと足音まで聞こる距離にまでなっていた。真名、真名と凛子の声が更衣室のすぐ外に差し掛かり……そのまま通り過ぎていく。
「違う人だったのかな……」
凛子がそう呟いたのを気に、足音が止まった。緊張に震える頭脳が答えを導き出す。凛子はおそらく、階段付近にいるはずだ。
「真名-?」
凛子のニュアンスにやや疑問が混ざる。それに気づいた瞬間、真名は思わず胸に溜まった空気を吐き出していた。どうやら凛子に居場所を気づかれていないようだ。
「真名―……」
どこか寂しそうな声音。もしかしたら、凛子は霊となって尚、正気を保っているのではないか。悪霊なんかになっていないのではないか。そんな都合の良い考えを真名は必死で堪えていた。堪えて……そして油断していた。
「……っえ?」
その瞬間、真名は思わず間抜けな声をあげていた。その大失態を、しかし春美は咎めない。むしろ身を守るように息を殺している。
唐突に場に不釣り合いな電子音が真名のポケットから響き渡ったのだ。そう、あったのだ。スマホに着信が……凛子からの着信がッッ!
「居たっ」
頭が真っ白になった真名は遮二無二スマホの電源を落とす。同時に更衣室の扉が勢いよく開かれ……凛子が室内に入ってきた。
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動かない暗闇。その中で視線だけが真名を探している。
「真名? どこ? ここ?」
入口側から次々と乱暴にロッカーを開けていく音。跳ね上がる心臓に真名はパニックに陥り、ただただ震えていることしかできない。最悪なことに、あるいは狡猾なことに、真名は春美よりも一つだけ入口寄りのロッカーに隠れているのだ。
「いない」
二つ隣のロッカーが開かれた。真名は怖くて震えていた。
「いない」
一つ隣のロッカーが開かれた。真名は怖くて動けない。そしてついに真名の隠れているロッカーの順番がやって来た。
「んん?」
鍵のかかったロッカーが凛子の行く手を阻む。だから真名は心底ロッカーに鍵をかけたことに――
「居た! 真名! 良かった! ようやく見つけたっ!」
「――ッッッ!!!!!?」
――後悔していた。僅かに光の差し込むロッカー上部。そこの穴から凛子のぎょろりとした二つの瞳が震える真名を覗き込んだのだ。蛇に睨まれたカエルのように、真名はその場でへたり込んでしまう。鉄臭いような香りが急速にロッカーの中にまで染み出していき、脚が恐怖に震えて動けない。
「あぁ、本当に良かった! 真名、開けて? 開けてよー?」
「ひッ!!?」
力任せにロッカーの扉が引かれ、悲鳴のような金属音が響き渡る。
「私、ずっと真名のことが心配で……探してたんだよ?」
ギィィィィという不気味な音と共に、扉が強引に引っ張られる。祈ることしかできない真名の目の前で、無慈悲にもプラスチックのパーツが拉げてはじけ飛んだ。
「大丈夫、あの車椅子はまだ来てない。私に任せてよ、真名」
ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ!
真名の瞳が大きく見開かれる。凛子の怪力の前に、少しずつロッカーが壊れ、開き始めていたのだ。
「でも、本当に良かったよぉ。真名ってば、同級生だけどなんだか妹みたいでさぁ、放っておけないんだよね。気弱かと思えば妙なところでしっかりしていて……でも抜けてたりして……」
真名の喉から音にならない悲鳴が漏れ出た。凛子の視線は真名の両目を捕らえて離れない。ニコニコニコニコニコニコと笑いながら、真名の両目をべったりと、瞬きもせずに張り付くように見続けている。
「不思議な話だよね。うちの妹なんて人の化粧品を勝手に使ったり、うざったいだけなのに。その点、真名は大人しいし可愛いし贅沢言わないし。本当、なんていうか、こんな妹が欲しかったっていうか……」
ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ!
「っていうかさ、妹にしたい。真名も……妹でいいよね?」
ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ!
「私とやり直そ? 一緒に死んで、やり直そ? ね? 真名、開けてよー。ねえ、開けてってば。開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけてアけて……」
ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ! ガンッッ!
その瞬間ついに扉が歪み、僅かにできたスペースに凛子の指がニュッと入ってきた。いつもは白魚のように美しい指だと思っているそれが、今は不快な芋虫のようにしか見えない。
真名が何度目かも分からない悲鳴をあげ、恐怖のあまり涙がこぼれ落ちる。怖くて上を向けない。向いても笑顔の凛子と視線が合うだけだ。しかし、足下の暗闇を見たって光明は掴めない。
「真名、今開けるね?」
「……か、鍵がッ!?」
泣きそうな声で、そう呟くのが限界だった。真名の視線の先、最後の頼みだった鍵はボロボロで、ロッカー自体もたわんでしまっている。あと数回力を入れられれば、なすすべなく破壊されてしまうだろう。
しかし、意外なことに凛子はその声に反応したのだ。
「そっか……真名、閉じ込められちゃったんだね?」
「…………え?」
妙に納得したような凛子の声。真名は縋るように震えるだけで何もできない。
「……学校のスペアキーは全部まとめて職員室に保管されてるって聞いたな……分かった! 真名、ちょっと待っててね! 今鍵を取ってきて……そこから出してあげるから!」
言うが早いか、意気揚々と足音が更衣室を出て行く。再びの沈黙に、真名はへたり込んだまま思わずスカートに手をやり……ここが夢だから失禁しないことに感謝していた。
「……徘徊型か、面倒ねー」
隣から響く気怠げな声。ずっと息を潜めていた春美のものだった。
「っていうか、アンタ達なんなのよ? 姉妹になろうとか……そういう関係?」
「ち、違います!」
思わず真名は反論していた。しかし春美は聞きもしなかった。
「いいネタありがとー。それはともかく、アンタ。次にアイツが鍵を開けたら、勢いよく飛び出してそのまま走って逃げなさい」
「無理ですよ!? 凛子ちゃんは凄く足が速くて――」
「――てめえが鈍くさいのなんて、見れば分かる。でも、他に方法なんてねーのよ。だって……」
真名はつい立ち上がり、その拍子にロッカーの扉に手がぶつかる。壊れかけの鍵は、それでも非力な真名では壊せない程度にはその役目を果たしていた。
「ロッカーの鍵は外からじゃないと開けられねーから、逃げらんねえんだわ」