30.八月十五日
ジジジジジジジ、とアブラゼミが全方位で鳴いていた。同時に吹き抜ける真夏の風は、一瞬だけの涼を与えてくれるものの、焼け石に水にすぎない。周囲が林に囲まれていることだけが、救いと言えそうだ。
うだるような猛暑の中で、真名は一分の隙もなく制服を着こなしていた。その両手には箒とふきんが三枚ほど。おかげで全身から汗が噴き出そうだった。
「あぁぁ、真名―、あっちいねぇぇぇ……」
一方、その隣では凛子が、こちらは真名とは正反対に白いワンピースに麦わら帽子。右手には車で来る途中に、大騒ぎして立ち寄ったコンビニで買った、アイスが光る。
「はぁぁ。これが歴史ある聖エトワール女子高生のなれの果てか……」
そう言ったのは、二人をここまで車で連れてきた寮監だった。手には花束と水の入った桶、それから柄杓が三つほど。
「それより……川井、こっちでいいのか? まったく、お前も盆休みくらい、先祖を敬え。それはそうと、まずお前の家に挨拶をしようと思うのだが?」
「えぇ!? そう言われても、私はずっと実家じゃなくて、お父さんお母さんついでに兄貴達と一緒に隣町で暮らしてたんだけどなー」
「……たわけ、なお悪いわ」
「はいはい……っと、確か一番奥の方だったような……」
8月15日、暑さに魘されるお盆、死者が帰ってくるという日に、真名達は墓を訪れていた。
……あの戦争で亡くなった、公子を弔うために。
だが、真名が寮監に相談して調べてみても、公子の墓は見つからなかった。だから、夏休みを利用して、森上地区で唯一にして最大の霊園へとやって来たのだ。
後は……墓石を一つずつ探すだけ。
凛子は、そんな真名に感心すると、一日だけ手伝ってくれることになったのだ。
「川井……川井……あ、あった!」
それが川井家の墓だった。物延山の一画を切り開かれて作られた墓地の最奥に、凛子の家の墓はあった。他の墓よりも一段高いところにあり、墓石も立派なものが多い。
どうやら、お金持ちだった人が眠っている区画なのだろう。山から下りてきた風が真っ先に吹き抜け、夏のうだるような暑さを緩和してくれていた。
「川夷家代々の墓……うん、間違いない、ここだよ!」
「え? でも川夷って書いてあるけど……」
真名は思わず聞き返していた。脳裏に公子と過ごした最後の夜が思い起こされたのだ。そう、あの時公子は確かに言っていたはずだ。
「うん、そうなの。うちは元々川”夷”家だったんだけど、戦後に夷の字がよくないっていうんで、川”井”家に変更したんだって!」
その墓石は古く、側面には埋葬者の名前が刻まれている。
気がつけば、真名は震える指先で墓石をなぞり……見つけていた。それは、墓石の一番上に刻まれていたのだ。
「川夷公子……公子さん……ここにいたんだ……」
「なに? しかし、公子の苗字は伊藤では……」
真名の言葉に一番驚いたのは、寮監だった。信じられないと言わんばかりに目を見開くと、そこで止まった真名の指先をじっくりと見入っている。
「……真名、どゆこと?」
「……あのね、多分だけど、公子さんって結婚してたと思うんだ」
「えぇ!? でも、あの人って、私達と同じくらいの歳だったよね!?」
「うん。だから、在学中に嫁入りして、苗字が変わったんだよ。だって、公子さんが慕っていたのは、川夷宗太郎さん……あった」
真名の視線は、そのすぐ近くに刻まれた川夷宗太郎の名前を見つけていた。公子のすぐ隣に刻まれた宗太郎の名は、確かに公子の名前と結ばれ、夫婦となっている。
「それはおかしいよ!? だって、宗太郎さんは空襲で亡くなったんだよ!?」
「うん。…………でもね、こういう時って、普通は卒業を待って結婚するものだと思う。それを待たずに結婚したということは……卒業まで待てなかった理由があったんだと思うの。たとえば……赤ちゃんができた、とか」
真名は再び墓石を見た。
横線で結ばれた宗太郎と公子の名前。その横線からは縦線が下に向かって伸び……別人の名前へと続いている。
男の人だ。だから、その人は当然跡取りとして川夷家……いや、川井家を継いでいる。
「……お父さんだ」
「え!? でも凛子ちゃんのお父さんって――」
「――もちろん生きてるよー! ほらほら、没年入ってないでしょ? ……ん? っていうことは……?」
「凛子ちゃん……公子さんの孫娘だよ!?」
その驚愕の事実に真名は心の底から驚き……少しだけ納得していたのだ。
“それに……なんとなくなんだけどさ、私はあの人が悪い人だとは思えないんだ。うまく言えないけど……どこかで会ったことがあるような気がするんだよね。”
『ありがとう、真名。最後に会えたのがあなたで……本当に良かった。あなたのおかげで、寮監にも……凛子にも……』
凛子は、公子と会ったことがある気がしていた。
公子は、最後に凛子の名前を口にした。
そういうことだったのだ。
「あぁ、そういうことか……」
驚きに目を見張る二人に対し、寮監は一人墓石の前に佇んでいた。
「……伊藤、苗字が変わっていたのか、それは見つからないはずだ。公子……夢の話を聞いたときから、ずっと別人だと思っていた、偶然じゃなかったのか。伊藤も公子も、珍しくない名前だから……」
真名も凛子も思わず寮監を見ていた。
公子は最後に寮監のことを口にした。ということは……公子は寮監も知っていたということだ。
「……二人とも覚えているか? 私の名前は宮下良子。旧姓なら角田良子だ」
「それって!? 公子さんの話にあった……」
公子に恋文を送った男性の妹であり、公子をいじめていた女性の一人である。彼女は兄の出征を見送った後、気落ちしてしばらく学校に来ていなかった。
……つまり、空襲から逃れていたのだ。
「……そうか、伊藤……あなた、ここにいたの」
寮監は前に出て墓石の前で跪くと、静かに手を触れたまま目を閉じていた。様々な思いが去来しているのか、その皺の刻まれた表情が少しずつ変わっていく。
不意に、真名は誰かの気配を感じた。目には映らない、けれど確かに存在するそれ。
「……ふふん。悔しがるがいいわ、伊藤。お兄様はあの凄まじい戦争から生きて帰ると、戦後は結婚して二男一女をもうけたわ。私も……どうにか淑女らしい様になったのよ。それに……悪いわね! お前に恋文を送っていた男性に嫁いで……今は、二度と生徒がお前のような目に遭わないよう、学校で働いているの!」
真名は思わず凛子と顔を見合わせていた。
寮監が定年を過ぎて、教師を辞めてなお、学校に留まり続けた理由がそれだったのだ。
その瞬間、夏の熱気で寮監の背中が陽炎のようにぼやける。
真名にはそれが、まるで制服を着た女生徒が、二人並んでお喋りしているように見えた。
「あぁ、良かった。これで最後の心残りがなくなったよ。お前達には感謝しなければな」
しばしの沈黙の後、寮監は満足したように振り返った。その姿はいつものもので、少女の面影など何処にもない。
ただ、とても満ち足りた顔をしていた。
……寮監こと、宮下良子が亡くなったのは、その二週間後だった。夏休みで帰省していた家族に看取られながらの、大往生であったという。
休み明けの聖エトワール女子高校では、葬儀に参列する生徒達が殺到した。寮監は、厳しくも愛のある指導で、生徒達からも慕われていたのだ。
その墓は……森上地区で唯一にして最大の墓地にある。
旧貴族の名に相応しい墓で、霊園の最奥で静かに眠っている。
その後のこと? そうね、色々とあったわ。
まず私、ですけれど……残念なことに、まだ天国には行けてないの。
真名さんは、あの時こう願ってくれたわ。
……公子さんのお茶会を終わらせ、参加した全ての魂を、死後は天国にお送りください。
それで多くの魂が救われたのは確かでしょう。でも、”速やかに”とは願わなかった。
だから、原因を作ってしまった私が、何の苦労もせずに、速やかに天国に行けるわけがない……。
「仕事! 仕事!」
「はいはい。なんでしょう?」
お陰で、罪を償う為に、私は今も現世に残っている。
「浄靈! 浄靈!」
「はいはい。それでは……行って参ります」
そう、森上の街をうろついているの。……今度は、神様の使いっ走りとして。
あの後、真名さんが場を清めて儀式を完遂させたことで、神様は少しだけ力を取り戻したようだった。なので、影響下に入る地域も学校の敷地の外にまで広がったわ。
……そう、かつてあの戦争で瓦礫の山と化した街へと。
きちんと弔われているのであれば、まだいいわ。でも、爆撃を受けて骨まで焼けてしまって行方不明のままだったり、そもそも自分が死んでいることに気づいていなかったりと、この街には、いまだに悲しい存在が溢れている。
そんな方々と仲良くなって、お茶会に誘うことが、今の私の仕事。
私の願いは、素性も生死も問わないお茶会を開くこと。真名さんの願いは、私のお茶会を終わらせ、天国に送ること。
だから、私がお友だちになってお茶会に誘うと、天国に送ることができるの。
私は、森上神社の巫女になった。……今度こそ、この街の戦争を終わらせるために。
「真名下賜御酒! 嬉也! 我飲飲飲! 公子仕事!」
……神様が下賜されてどうするのかしら。それはともかく。
巫女となったことではっきりと見え、声も聞こえるようになった神様に呆れつつ、私は今日も街へ出る。
学校を出て十字路を曲がると……まぁ、なんということでしょう。ちょうど真名さんと凛子が喫茶店に入っていくところだわ。
思わず一緒に中に入ると……そこには懐かしい大正風の世界が広がっていた。当然よね。だって、凛子は宗太郎さんの孫、つまりこの町で喫茶店を営む一族なのですから。
私は感傷的な気分になると、思わず窓際の席に座って外を眺めてしまっていた。一方、二人の姿は見当たらない。
どうやら店の奥へと入ってしまったらしいわね。どうしたのかしら。まぁ、いいですけど。
席に座って窓の外を眺めると……当たり前だけれど、そこから見える風景は全く違うものだった。そもそも店の場所も違うしね。
……初めてのお茶会から二年、か。あっという間だったわね。
幽霊の私は年を取らないけれど、真名さんや凛子は違う。二人とも三年生で、来年には学校を卒業して……この街から出て行ってしまうのでしょう。そうしたら、私はまたひとりぼっち………………この時、神様は数に入れないものとするわ。
「よっしゃあ! 行くぞ真名! お仕事の時間だー!」
「うん、今日も頑張ろうね!」
そんなことを考えていると、奥から元気よく出てきたのは真名さんと凛子だったわ。二人とも、大正風の衣装を着て給仕をするようで……あぁ、あれだわ。
そう、あるばいと。
「いやー、真名ちゃんが来てくれて助かってるわー。凛子はがさつで、すぐにお皿を割っちゃうし」
「えぇ、それはないよー。そんなことより、私にもお給料頂戴!」
「あら、あげてるじゃない……毎月、お小遣いとして」
「解せぬ」
そんなことを話しているのは、凛子のお母さん、つまり、私の義理の娘ね。
なんででしょうね。私、この嫁となら上手くやっていけそうな気がするわ。
「そういやさー」
そうして、二人の給仕を眺めていると、不意に凛子が気になることを言ったわ。
「真名は卒業したらどうするの?」
そろそろ出発しようと席を立っていたのだけれど……思わず座ってしまった。
「私? 私は……うん、大学に行こうと思ってる……」
「そっか…………」
……分かっていたことなのに、私もショックを受けてしまっていた。
そしてそれは、凛子も同じだったみたい。考えていることが顔に出る子だから、寂しいと書いてあるわ。
「……私はさ。地元の旅館で働こうと思ってるんだ。色々あった高校生活だけど……この街が気に入っちゃって。ほら、温泉あるし、お饅頭美味しいし、墓参りも近くて便利だし?」
……私は、凛子がこっそり毎月墓参りしていることも知っている。
「そっか。凛子ちゃん凄いね。もう将来のこと決めちゃったんだ」
「まーね。で、良かったら真名も一緒にって思ったんだけど……」
「……ありがとう」
その時、大きく胸が高鳴った。……もう心臓なんてないのにね。
「でも、ごめんね」
真名さんは言った。残念だ。とっても。でも、仕方ない。真名さんには真名さんの人生がある。それを私の気持ちでとやかく言うのは、友達として間違っている。
さて、そろそろ仕事に戻りましょう――
「――私は大学に行く。……大学に行って、またこの街に戻ってこようと思ってるんだ。……今度は、先生として」
「ほぇ?」
……!?
「実は……寮監が生前、他の先生方にも顛末を話して下さってたみたいで……もう学校側とも話をしているの。推薦で大学の教育学部に行って……卒業したら、またこの街に戻ってくるつもり。そうして、先生として働きながら……森上神社の復興の力にもなれたらいいなって……思ってる」
「……真名…………!」
……真名さん…………!
あぁ、胸がいっぱい。この気持ち、なんて言ったらいいのでしょう……。
「そういや、真名は聞いた?」
私がとても暖かい気分になっていると、それを邪魔するように凛子が言った。きっと、気持ちを誤魔化したかったのね。
「こうこさんの噂」
「……なにそれ?」
思わずギクリとしていた。いや、だって、毎年学年に一人くらいは霊感のある娘が入学してくるんですもの。そして、今の私は巫女であり……社が屋上にあるせいで、学校暮らしなわけで。
「この学校の寮には一つだけ空き部屋があります。先生に聞くと、それは遠いところから学校を訪ねてきたお客さん用だと言われます。でも、それは嘘です。何故なら、誰もその部屋が使われているところを見たことがないからです。そして、その部屋がどこにあるかは誰も知りません。普段は扉が閉まっているので、見分けもつきません。その部屋にはこうこさんという名前の幽霊が暮らしています。こうこさんは悪い霊ではありません。でも、自分が誰にも見えないので、とても寂しがっています。なので、間違えてその部屋に入ってしまうと……念願の友達だと思ってでます――」
「それって……」
真名さんは思わず凛子を見ていた。でも、凛子はそれを遮るようにして……笑ったわ。
「――こうこさんに会うと、ちょっとだけいいことがあります」
「…………あ」
………………。
さて、そろそろ仕事に戻りましょう。
……普通の少女が、夢を見られるように。




