表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呪われ少女は夢を見る  作者: 中上炎
第死夜:コドクな少女の霊
27/30

27.伊藤公子③

 昭和20年、あの日からはだいたい十月十日。


 大仕事を終えた私は、穏やかな日々を暮らしていたわ。


 相変わらず学校で友達はできなかったし、勇気を出してお茶会を開いてみても、誰も来なかった。もっとも、私へのいじめは減っていたわ。首謀者の一人だった良子さんはすっかり元気がなくなってしまい、学校にも姿を見せなくなっていたの。


 それでも、無視は続いていたけれど……私にとって最も幸福な学校生活だったのは確かだわ。


 家では家族が一人増えた。


 父も疎開を名目に、街に滞在するようになっていたの。もちろん本妻や跡継ぎ達も旅館に滞在していたから、お陰で外出するときは少しだけ気を遣う必要があったわ。


 母はこの状況にいい顔はしなかった。でも、どうだったんでしょうね。実は、私に隠れて世話を焼いているのを、見かけたことがあるのよ。


 父はその後も毎日のように適当な口実をつけては、私達の家にやって来ていたわ。


 あいにく星の紋章の飛行機が空を飛び、夜は灯火管制がしかれたせいで真っ暗になるようになっていた。


 それでも、私達家族は……そうね、本当に幸せだったわ。


 ……でも、ついにその日が来たの。


 いつもは街の上を飛んでいく飛行機が、その日は何度も街の上空を往復していた。そして、その度に上空から黒いゴマ粒のような物を落としていったの。


 それが本当にゴマだったら、どれほど良かったことか……。


 空から落ちてきたのは焼夷弾だったわ。


 古くからある温泉街だったこの街は、風情ある……と言えば聞こえはいいけど、昔ながらの家屋が密集していたから、ひとたまりもなかった。


 旅館が、家が、喫茶店が、駐屯地が、全てが爆音と共に炎に飲み込まれ、後には悲鳴が残るばかり。そしてその悲鳴すらも、次の爆撃で消し飛んでいった。


 その時、私は学校にいた。最初に感じたのは爆発音で、少し遅れて開け放たれた窓から凄まじい衝撃が飛び込んできたわ。幸いなことに、音はまだ遠くだった。


 学校は大混乱に陥り、先生達は慌てて防空壕への避難誘導を始めようとしていたわ。


 だけれど、私は窓の外の光景に釘付けになっていた。学校からでも分かるほど、炎が赤々と舐め尽くしているのが分かったの。……それは、おにいさんのいる駐屯地の方だった。


 地上からは轟音と共に何かが空へと伸びていったけど、それだけだったわ。そして、空へ伸びる何かも空襲が続いていく内に少なくなっていき……とうとうなくなってしまった。


 何をしているのです!!


 気がつけば一人教室に取り残され、そんな私を幸子先生が怒鳴っていた。


 既にみんな出発しています! あなたも急ぎ防空壕へ!


 わ、分かりました。


 その瞬間だったわ。今までよりもずっと大きな衝撃が私達を襲ったの。その爆弾は今までよりも街の近くに落ちていた。


 爆発の衝撃から立ち直った私は、思わず目を疑っていたわ。


 窓から見える物延山が真っ赤に燃えていた。街を狙った爆弾が、風に流されて神社の方に落ちてしまったの。


 ……私は神社に行かなくてはならなくなりました。一人で大丈夫ですね?


 はい、先生。


 そうして、私と先生は別れたの。先生は神社へ、私は防空壕へ。でもそれは、少しだけ遅かった。


 既に駐屯地を破壊し尽くした飛行機達は、せっかくだからと言わんばかりに爆弾を街へと落とし始めていたの。


 私が学校を出たのは、丁度そのくらいだった。


 既に町中からも火の手が上がり始め、十字路を防空頭巾を被った人々が右往左往していたわ。


 公子!


 声をかけられた私は、思わず目を丸くしていたわ。十字路で逃げ惑う人々を誘導していたのは、他ならぬおにいさんだったの。


 宗太郎さん!? どうしてここに!?


 これも僕の仕事なんだっ! さぁ、君も早く防空壕へッ!


 吹き荒ぶ熱風の中、私は思わずおにいさんに駆け寄っていた。だけれど、それは少しだけ遅かったの。……いや、運が良かったとも言えるわね。なにしろ、爆弾がすぐ近くに落ちたのだから。


 それは、防空壕へと続く道で、今まさに沢山の人々が逃げ進む真っ只中だった。


 絹を引き裂くような悲鳴が響き渡り、私は思わずその場にヘナヘナと崩れ落ちてしまっていた。


 ……悲鳴を上げられたのは、私だけだった。


 爆発の衝撃で人間の身体が吹き飛び、燃えさかる炎の中から黒い人影が呪詛のような叫び声と共に、私達に向かって手招きをしているように見えたわ。


 見るなッ!!


 ……黒い人影は、炎に飲まれてなお生きている人間だった。ほんの少し前に十字路を通り過ぎていった人達が、火達磨になって、まだ動ける私達に助けを求めていたの。


 それを理解した瞬間、おにいさんが私を抱きしめてくれた。それでも、その炎の中の影が、耳に残る断末魔が、鼻を突く異臭が、肌を炙る熱が、私の脳裏から離れなかった。


 いつの間にか、私は泣きながらおにいさんに縋り付いていたみたい。


 防空壕はもう無理かもしれないな……公子、女学校に逃げなさい。石造りの校舎なら、少なくとも火災からは逃れられるはずだ……!


 おにいさんは、そんな凄惨な光景を前にしても気丈さを保っていた。……あるいは、それは私の前だったから……なのかもしれない。


 そ、宗太郎さんは!? 一緒に逃げましょう!?


 ……僕は駄目だ。まだ撤退命令は出ていない。


 私はきっと、絶望的な表情を浮かべていたのでしょう。おにいさんが辛そうな顔になるのがすぐに分かったわ。


 ……きっと、命令を出す方は……もう……!


 私は必死になってお願いしていた。肌に焼け付く温度は耐えがたいものになり始めていて、一刻も早くこの地獄から抜け出したかった。……もちろん、二人で。


 だけど、おにいさんは決して顔を縦には振らなかったの。私がみっともなく泣きわめいても、駄目だった。


 爆弾が近くに落ちて尚、私達の周囲には必死になって逃げ道を探している人もいた。おにいさんは……彼らを見捨てることができなかったの。


 ……ここももう限界か。僕もあと四半刻すれば、避難するよ。


 私は……今度こそ淑女の仮面を投げ捨てて、泣き叫んでいた。


 嫌です! 後生ですから、共に逃げてくださいませ!


 でも、おにいさんの決意は固かったわ。彼は、この街を守りたいと軍人になったんだもの。その誇りは……何人たりとも揺るがすことができなかった。


 ……公子、良く聞いてくれ。防空壕の近くにも爆弾が落ちているんだ。防空壕そのものが崩れることはないだろうけど、入口は閉ざされてしまっているかもしれない。


 その言葉を、私は必死になって聞いていたわ。心の何処かが囁いていたの。


 きっとこれが、今生の別れになる、と。


 だからせめて、私は笑おうと思った。頑張ったわ。あの人の記憶に残る最後の私が、泣き叫ぶ私ではなく、微笑む私であるように。


 それが上手くできていたのか……自信は全くなかったけど。


 公子は学校の玄関の鍵を開けて、清潔な水をできるだけ用意するんだ。それから爆撃が止んだら、屋上から救護と書いた布きれを……なんでもいいから垂らしてくれ。余裕があったら、薬や食料も頼む。


 ………………はい。


 ……これが、私とおにいさんの最後の会話だったわ。


 慌てて学校に引き返した私は、言いつけ通り玄関の鍵を開け放ち、窓掛けに墨で大きく”救護”と書いて屋上から垂らしたの。


 それから、ありったけのバケツに水を汲んで……そうしている間に、避難してきた人がいたわ。


 ……片腕に大火傷を負った、幸子先生だった。


 先生……しっかりなさってください!


 私が駆け寄ったとき、既に先生は火傷で意識が朦朧としていて、それでもなお大きな箱を引きずっていたわ。


 あの、職員室にある車箪笥よ。


 あぁ……公子さん! 良かったわ、申し訳ないのですけれど、手伝ってくださります?


 先生は痛みのあまり、既にうわごとを繰り返す危険な状態だったわ。それでも、私の顔を見ると、少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。


 先生はどれだけ私が言っても聞かず、やむなく私は先生の言いつけに従って、車箪笥を屋上に運ぶことにしたの。


 その間、先生はずっと呟き続けていて。私もようやく、何を言っているのかが分かったわ。


 ……箱に入れてしまいましょう。そうすれば、神様が必ず守ってくださいますから。


 だけれど、先生は道半ばで倒れてしまったの。ちょうど3階の、職員室の辺りだった。


 私が慌てて先生を助け起こした時には、全身から力が抜けていた。……素人目にも、助からないことが分かったわ。


 私は、せめて末期の水をと思って、水を取りに戻ろうとして……先生が大きな声で叫んだの。


 公子さん! 鏡を社の神棚に! 御神酒を撒いて! それから――


 ――先生っ!


 それが、先生との最後の会話になってしまった。


 先生はそのまま廊下で意識を失ってしまっていたの。頑張ったのだけど、私の細腕ではまともに動かすこともできなかったわ。


 その時、少しだけ箱が開いているのに気づいたの。


 中には……よく分からない古文書や勾玉、それから先生の仰っていた御神酒と、布で幾重にも巻かれたお皿のようなものが入っていた。


 直感的にそれだと悟った私は、その二つだけを持って屋上の社に行ったの。そこから見えた光景が、今でも目に焼き付いている。


 街が、燃えていた。無事な所なんて一つもない。私の家も、おにいさんの喫茶店も、全てが焼け落ちて跡形もなくなり、ただただ赤い炎と白い煙を吐き出しているだけ……。


 ようやくできた私の幸せな家庭も、おにいさんとの思い出も、全てが失われてしまっていた。


 私は、絶望のあまり涙を流していたわ。


 半ばよろめきながらも、どうにか社に辿り着くと、言伝通りに布を取った鏡を神棚に納め、場をお酒で清めようとして……その時、焦った誰かに肩を叩かれた……気がしたわ。


 変な話でしょう? でも、きっと虫の知らせだったと思うの。


 振り向いた先には、さっきまで私達がいた十字路が見えたわ。少し距離があったけれど、何故だかピタリと瞳の焦点が合った……そんな感じ。


 十字路では、おにいさんがまだ立っていたわ。


 だけれど、ちょうど女学校の方を……私の垂らした救護の文字を見ていたの。


 だからその時、屋上の私はおにいさんと目があった。


 私は大きく右手を振って、おにいさんもよくやったと言わんばかりに力強く笑い返し……その顔が真っ黒に染まったの。顔だけじゃなかったわ。おにいさんの全身が、立つ十字路そのものが影で塗りつぶしたように真っ暗に。


 おにいさんは直ぐに悟ったかのように、見事な敬礼をすると、直後爆炎に飲まれて消えていった………………。


 何度も目を擦ったわ。それでも……煙が晴れた先には、炎の他に動くものはなかった。


 力の限り叫んだわ。


 でも、それに何の意味もなかった。あの時の気持ちは……決して言葉にできないものだったわ。


 世界が色褪せて、まるで水の中にいるかのように、動くことすら億劫だった。


 だから、それに気づかなかったの。


 空を飛んでいたのは、爆撃機だけではなかったわ。


 不吉な羽音が聞こえてきた。涙を拭いながら横を見ると、一機の戦闘機が機首を屋上の私の方へ向けているのが分かったわ。


 なんでそんなことをするのか、咄嗟に考えが及ばなかった。


 次の瞬間、戦闘機が光ったかと思ったら、私は屋上に倒れ伏していたの。


 ………………この辺りは、記憶が少し曖昧だわ。ごめんなさいね。


 痛いとかは感じなかったわ。


 ただ、戦闘機の発射した機銃が私を掠め、気がつけば私は床に伏せて空を見上げていたの。泥に埋まったかのように全身が重く、目を開けているのがやっとだった。


 ……私、死ぬんだ。


 そう直感したわ。


 でも、その時の私は……そうね。むしろ、ほっとしていたかしら。


 おにいさんのいない世界を生きていくぐらいなら、みんなが待っているあの世にいきたかったの。


 まず目が何も見えなくなって、次に身体の感覚が失われて、最後に……心と体を繋げる何かが切れそうになっていた。


 でも、何も感じなくなってなお、誰かが私の心と体を強引に繋げていた。


 何も見えない、何も聞こえない、何も分からない。だけれど、不思議と意思のようなものが伝わってきたわ。きっと神様ね。


 それは……焦って私に助けを求めて欲しがっていた。妙な話だけど、神様は誰かの願いを叶えることはできても、自分の願いは叶えられないみたいなの。


 ……おにいさんを生き返らせて。


 私は…………結局最後まで淑女になれなかったわ。今際の際に浮かんだのは、自分勝手な願い事だった。自分でも自分に呆れてしまったわ。絶望もした。でも、なにより……これから死ぬんだと思うと、どうでも良かった。


 だけど、神様は駄目だって仰った。神様の力を持ってしても、過去は変えられないんですって。だから、私があとちょっと速く社に着いていたら………………


 ……悲しいことに、街が焼け野原になってしまった現状は変えられなかった。


 神様は再度、私に願いを求めてきた。


 でも、全ての希望を失っていた私は、もうどうでもよくなって願ってしまったの。


 ……私は、お茶会を開きたい。身分に囚われない自由なお茶会。参加するのもしないのも自由。素性や生死も問わない。俗世のことは忘れて、友達同士決してなくならないお茶とお菓子を食べながら、永久に続くお茶会を……できれば、おにいさんや幸子先生も。


 神様が悲鳴をあげているのが分かったわ。でも、過去は変えられない。一度願ってしまったものも変えられないの。


 気がつくと、私は屋上に立ち尽くしていた。


 あんなに重かった身体が、羽が生えたように軽かったわ。校舎の中は人のざわめきが満ちていて、どうやら学校も無事に再開しているようだった。


 その時……説明するのが難しいのだけれど、感覚で分かったの。


 自分では自分の名前を名乗れないこと。


 鏡に姿が映らないこと。


 ……これらの要件を理解することが、お茶会に参加する条件であること。


 そして、このお茶会に参加する権利を、誰かに譲ることもできること。


 ちなみに、この学校でお茶会が開催されるのは、授業が終わる放課後から朝が来るまで。お茶会が開催されていない間は……一応校舎にいるけど、なんにもできない。


 どうやら私は……幽霊になってしまっていたの。それも、永遠に終わらないお茶会の主催者としてね。条件を考えれば、すぐに分かるわ。名前を名乗れないのは、私が名乗りたくなかったからなの。


 そして私は、一人で学校をうろつき始めた。


 おにいさんや家族と一緒にいたいと望んだ結果、与えられたのは永遠のひとりぼっち。きっとこれは、淑女になれなかったことへの天罰だったのだわ…………。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ