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呪われ少女は夢を見る  作者: 中上炎
第惨夜 箱にシマう女ノ霊
23/30

23.鏡

 真名は思わず壁を二度見していた。だが、現実の壁には何も書かれていない。そして、鏡の中の壁にも変わらず”危険”の二文字が記されている。


 神様が真名に向けて警告を発している。それは間違いないだろう。


 混乱した真名は、ひとまず落ち着こうと深呼吸をした。そして、ゆっくりと手鏡を向けて、鏡の中の部屋一面を見回した。記された文字は他にはないようだ。目を閉じて扉の向こうの気配を探ってみる。


 雨音以外に響くものはない。


 そこで一旦胸をなで下ろした真名は、予定通り職員室に向かうことにした。真名の知る限り、夢の中にいるのは公子と凛子を除けば幸子だけ。そしてその幸子も校舎の3階職員室からは動かない。


 だから、今夜の夢はとても安全なはずだった。


 だが、真名の全身を嫌な予感が襲っていた。理由は真名にも分からない。風邪を引いたときのようにお腹に違和感を感じ、足の進みが遅くなる。


 最後にもう一度だけ、真名は鏡の中の壁を見渡していた。そこには変わらず危険と記されたまま。


 無意識のうちに左手でお腹を撫でながら、真名はゆっくりと扉を開けていた。雨足がいつになく強い。雨の音が静かな夜を満たしていて、気配が全く感じ取れない。続いて鏡で見渡すも、廊下には何も書かれていないようだった。


 ゆっくりと足を引きずるようなすり足で、誰もいない廊下を進んでいく。その間も雨音は続いていた。


 ざーーーーーーーっ。


 周囲の気配が全く分からない。少なくとも真名の視界に映るものはいなかった。


 ゆっくりと進んで玄関に辿り着いたので、真名は靴を履きかえることにした。そして、少しだけ考えて……傘はささないことにした。夢の中なので、あくまで夢の中にいる人間が知っていることしか再現されていない。そのせいで傘立てには真名の赤い傘しかなかったのだ。


 いくら雨の夜とはいえ、赤は目立ちすぎるだろう。


 幸い学校までの距離は遠くない。手提げ袋を傘代わりにしながら、慌てて駆け込むことにした。多少の足音は雨音がかき消してくれることを祈って。そして呆気なく辿り着いた玄関で、再び靴を脱ぎ……上履きは履かないことにした。靴下の方が足音がしないだろうから。


 ハンカチをポケットから取り出して雨を拭うものの、すっかりずぶ濡れになってしまっていた。


 ざーーーーーーーっ。


 降り続く雨の音に不安になった真名は、ひとまず手鏡を覗いてみることにした。すると、あっさりと文字を見つけることができた。


 「……? これは……道?」


 今度は壁ではなく、床に矢印が書かれていたのだ。奇妙なことに、その矢印は正面玄関のすぐ手前の階段ではなく、奥の廊下への道を示している。


 真名の表情が曇り、不安を隠せていなかった。


 真名の胸に根本的な疑問が湧いたのだ。


 この文字を信じていいのだろうか、と。


 幸子の話では、神様は優しい神様だという。しかし一方で、この悪夢を引き起こしているのもまた、同じ神様なのだ。


 真名の思考が疑いに塗れ、堂々巡りを始めていく。濡れたスカートの裾から雫が廊下に垂れ、その音でようやく我に帰っていた。神様のお告げに従うにしろ、無視するにしろ、このまま玄関で立ち止まっていてもいいことはないだろう。


 悩んだ上で、真名は手鏡を掲げて覗きながら矢印に従うことにした。


 ざーーーーーーーっ。


 幸運なことに、雨足はますます強くなっているようだ。真名も全身びしょ濡れである。今が初夏でなければ、風邪を引いてしまうかもしれない。そこだけは夢でよかったと、ほっとしていた。


 廊下の奥は闇が深かったが、幸いなことに矢印はそれに配慮してくれたのか、頻繁に床に記されている。廊下の奥の階段まで来ると、矢印もそこで向きを変えて階段の上を記していた。


 校舎内に他人の気配はない。ただ、激しい雨音が降り続いているだけ。


 真名は足音を殺しながら、階段を上っていた。ポタリポタリと雨の雫が真名の全身からしたたり落ちる。気のせいだろうか。なんだか空気が生暖かい。初夏の熱気に雨の湿度が加わったせいか、むっとした空気が校舎内を漂っている。こころなしか、空気が妙に生臭い。


 それは、真名が2階に着いたときだった。ずっと鏡に映った階段を見ていた真名は、矢印がそのまま2階を素通りして3階を指し示しているのが分かっていたので、そのまま上るつもりだったのだ。


 ……誰かに背中をポンポンと叩かれた……気がした。


 思わず振り向いてしまうも、当然ながらそこには誰もいない。


 ざーーーーーーーっ。


 濡れた髪から雨の雫が背中に垂れたんだろう、と自分で自分に言い聞かせて前を見て……血の気が引いた。


 たった今まで3階を示していた矢印は荒々しい筆致で×が書き込まれ、変わって焦ったように乱雑な矢印が2階の廊下を指し示していたのだ。


 同時に真名の心臓がバクンと跳ねる。


 ――見つかった。


 強烈な焦燥感と共に、その確信が真名の心を貫いたのだ。


 このままだと、危ない。


 それを表すように、鏡の中では矢印が増えていた。それどころか、書き手が混乱している真名に苛立っているのか、鏡の隅には”危険”とまで記され、その文字はどうやら廊下中に広がっている。


  ざーーーーーーーっ。


 強い雨が降り続いていて、音をかき消してしまっている。この雨足なら、真名が上履きを履かずに足音を消して歩くだけで、気配を殺すことができる。……じゃあ、悪霊も同じ事をしているとしたら?


 それに気づいた瞬間、真名は思わず両手を胸元に寄せてしまう。その瞬間、鏡に映る光景が見えた。思わず真名の表情が引き攣ってしまう。


 ”雨跡”


 強い調子の矢印と共に、そう書かれていたのだ。真名は傘をささずにずぶ濡れになって校舎まで来た。そしてその後も気配を殺しながら、ゆっくりと来た。ということは、玄関からここに至るまで、真名の通った道には足跡のように雨の雫が垂れているということで――


 「――ッッ!?」


 瞬間、真名の全身が総毛立つと同時に走り出していた。同時に、背後から何者かがこちらを追いかけてくる音が響き渡る。信じがたいことに、足音から察するに相手は階段を一足で4段近くも上っているらしい。


 人間離れした速さだった。


 足音が2階に辿り着いたとき、真名は廊下の真ん中あたりまで逃げるのが精一杯だった。逃げ切れない。


 鏡に縋って見るも、文字は書かれていなかった。


 逃げられない。ということは隠れるしかない。だが、相手がすぐ後ろにまで迫っている中、音をたてて教室の扉を開けたところですぐにバレてしまう。


 幸か不幸か、真名には隠れられそうな場所が一つだけあった。


 ……トイレだった。


 はっきり言って行きたくなかった。だが、他に道はない。意を決した真名はスカートの裾から雫が垂れないように気をつけながら、トイレの一番奥の個室に隠れることにした。


 真名が個室に入ると同時に、強烈な鉄臭い香りが空気を汚していく。同時に何かがトイレのすぐ傍まで来るや、立ち止まったのだ。


 真名は個室の壁を背に、俯きながら震えていた。


 トイレの個室の扉は開きっぱなしなので、鍵などかければそこに隠れているとバレてしまう。


 引き攣った表情のまま、手鏡を伸ばして確認すれば、少なくともトイレ周辺には水は垂れていない。あるいは、垂れていてもトイレの水だろうと思わせるぐらいの量だ。


 ざーーーーーーーっ。


 雨が降り続いている。そのせいで相手がどこにいるかも分からない。


 真名は気がつけば手鏡ごと身体をきつく抱きしめていた。


 ……足音が聞こえた。


 その瞬間、真名の鼓動が跳ね上がる。もはや雨と鼓動しか聞こえないのではないかと思うほどだった。


 いる。


 トイレのすぐ近くに、いる。


 強烈なまでの存在感。真名はそれと一度だけ会っている。前は目覚める直前だったので、助かった。でも、今度はそうじゃない。


 「…………赤鬼……」


 混乱する思考で、真名はそう結論づけていた。理性ではない。本能が、あんな化物が複数いてたまるかと叫んでいるのだ。


 真名は今更になって勘違いに気づいていた。真名は赤鬼とは、詩織を解放したせいで、血が薄くなった幸子だと思っていたのだ。だが、違う。顔立ちさえ分からないほどの血に塗れた赤鬼が、たった一人の目覚めで表情が分かるほど回復するわけがない。


 ぺとっ。


 トイレに奇妙な足音が響いた。おそらく、真名と同様に上履きを履いていないのだろう。噎せ返りそうなほどの血の臭いが強まっていく。


 真名の身体が恐怖でガタガタと震え、手提げ袋を抱いたまま両手で顔を覆ってしまう。もし足音が中に入ってきたら。


 ……だ、大丈夫。


 真名には震えながら言い聞かせるしかなかった。


 ……大丈夫、大丈夫、大丈夫。神様の警告で雫に気づいてからはできるだけ濡れないようにしてきた。きっとバレてない。大丈夫。


 赤鬼は入口の辺りで中を伺っているらしい。


 ……だ、だいたい上履き履いてないなら、きっとトイレの中なんて入ろうともしないんじゃないかな? 私だって抵抗あったし、さすがの凛子ちゃんだって戸惑うはずだよね。赤鬼は戦時中の人でしょ。それなら桐村先生みたいに厳しく躾けられてるし、そんなはしたない真似はしないはずだよね。


 ざーーーーーーーっ。


 雨が降り続いている。


 真名は泣きそうになりながら、もう一度手鏡を見た。そこには、恐怖で震える真名と、その顔のすぐ隣に焦った筆致でこう書かれていた。


 ”覚悟”と。


 その意味を考える余裕は残されていなかった。


 足音がトイレに入ってきた。


 その瞬間、真名は自分の喉が悲鳴を上げそうになるのを堪えることで必死だった。


 「ニガサナイ」


 悪霊がぶつぶつと呟いている。同時に、乱暴に一つ目の個室が開けられる音がした。怯えきった真名は、ますます自分を強く抱きしめる。


 「オイテイカナイデ」


 二つ目の個室が開けられた。近い。せめて目を閉じたかった。だが、真名の生存本能が危険から目を逸らすことを許さない。


 「ズットココニイレバイイ」


 三つ目の個室が開けられた。次は……真名の番だ。涙が溢れ、鼻の奥にツーンとした違和感を感じる。そして扉の下に赤鬼の足が見えた。案の定上履きを履いていないそれは、あと一歩もすれば真名を視界に収めるだろう。


 恐怖で視界がチカチカと明滅する。真名は祈るような気分で鏡を抱きしめていた。


 だが、不思議なことに、赤鬼の足は止まったままだった。涙で滲んだ視界は、ずっと赤鬼を見ることを強要されている。


 だが、そこで真名も気づくことができた。


 誰かが真名を呼んでいた。遠く、階段の方から誰かが確かに真名を呼んでいた。不自然なほどに明るく弾んだその声色。


 「真名―? もう来たー?」


 凛子だった。だが、様子がおかしい。まるで悪霊化したときのような……


 真名はそこでハッとなっていた。


 さっきの赤鬼の弾けるような足音は、3階にまで届いていたのだ。そして凛子はその様子から全てを察し……自ら進んで箱から出たのだ。そして正気を失い……代わりに赤鬼の注意を引きつけることに成功していた。


 ……凛子ちゃん!!!


 真名が心の中で絶叫するのと同時に、赤鬼がゆっくりと振り返った。


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