21.桐村幸子
「箱から出さないで」
箱女の言葉に真名は一瞬だけポカンとしていた。出ないで、なら分かる。出さないで?
「御神体を運ぶこの箱は、特別に作られているのです。箱の中なら、爆撃はもちろん他のまじないの影響だって避けることができます。そう、この生徒も」
そうして、箱の中を指さす箱女につられて真名がそっちを見るや、息を飲んでいた。
箱の中に誰かいる。それは妄想の産物でも、まして幽霊でも何でもなかったのだ。
「凛子ちゃん!?」
「……っぅ……あれ、真名?」
そこでは、胎児のように丸くなった凛子が眠っていたのだ。凛子はあの日箱女と戦って負けて、この箱の中に詰められた。しかし、箱女が言うとおり、この箱には特別な力があるのだろう。箱の中で死んだ凛子は呪いの影響を免れ、どうにか理性を保っていたのだ。
ほとんど奇跡的な確率だった。箱の中にいても夢に囚われていることに変わりはない。そして現実世界で身体が死んでしまえば帰る場所はなくなってしまうし、そうでなくてももし凛子が自分で箱の中から出てしまえば……。
真名はそこで頭を振ると、急いで開きっぱなしの窓から校庭を見下ろしていた。下では花壇に飛び降りたらしい公子が、制服を土に汚しながら痛みのあまり涙目でプルプルと震えていた。
「公子さん……良かった……」
「あなた、箱に隠れて……いや、そういうことね」
スカートの土を払った公子は、真名の態度で事情を理解したらしい。そうして歩き出そうとして……その顔が苦痛に歪んでしまっていた。
どうやら、飛び降りた拍子に足を挫いてしまったらしい。
「…………ごめんなさい。できるだけ早くそこに戻るわ」
「気をつけて下さい! まだ、他に悪霊がいるかも――」
「――それなら大丈夫よ。私の知っている限り、今夜は他に悪霊はいないから……」
公子はそこまで言うと、左脚を庇うようにしながらゆっくりと玄関へ向かっていく。
真名の後ろでは、箱女……幸子が凛子に何かを説明していた。だが、凛子はそれを全く理解できていない。
「いいですこと? もし空襲警報が鳴ったら、即座に防空頭巾を被って、防空壕まで走るのですよ? 場所は分かりますね?」
「いや……その……全然……」
「まぁ、いったい何を聞いていたのでしょうか。真面目になさい。いいですか、鬼畜米英は市街地であろうと、平然と焼夷弾を落としてきます。まして、これだけ赤々と燃えて煙が出ていれば、目印も同然……」
真名はハッとなって窓の外、遠くを見ていた。相変わらず学校の敷地の外は霧に覆われていて何も見えない。いや、霧ではなかったのだ。敷地の外に広がる白いもやは煙、爆撃を受けて炎上している町の姿だった。
死者は死んだ瞬間を永遠に繰り返している。ならば、彼女たちが存在するこの空間も、永遠を繰り返しているのだ。
……つまり、この呪いは戦時中に発生した可能性が高い。真名の頭の冷静な部分が囁いた。
「いや先生、そう言われても困っちゃう……」
「きぃぃぃ! 何ですかその言葉遣いは! 御維新以来伝統ある本校の生徒として恥を知りなさい! だいたいなんなのですかその髪型は!? あぁ、スカートまで短くなって、なんて……なんて破廉恥な!?」
一方で、真名の背後では思いの外ほんわかした空気が広がっていた。真名が振り向くと、凛子は竹刀を首に突きつけられて、箱の中で正座しているところだったのだ。
「あの、すみません」
「どうしたんです!? 今、わたくしはとても忙しい……」
逸る先生を宥めながら、真名は現状を説明していた。
「にわかには信じられない話です」
「でも、本当なのです! 今、説明したとおり、先生はさきほど自分の名前を言えませんでしたよね? それに……」
真名は窓ガラスを指さした。僅かな明かりしかない夜の学校だったが、それでも納得させるには十分だった。ガラスに映った職員室の風景、そこには真名と凛子が映っているものの、幸子の姿はない。
「…………そんな、だってわたくしはお社から御神体を必死で学校まで運び込んで、そう、左腕が発する痛みと肉の灼ける嫌な臭いに堪えて……あああああ!」
「先生!?」
その瞬間、幸子は左腕を押さえて蹲る。よく見ればその左腕はびっしりと包帯に覆われていた。桐村幸子は火傷で亡くなったのだ。そして、死者は死んだ瞬間を永遠に繰り返してしまう。
「あぁぁぁぁ、左腕が焼けるッ!! 熱い! 痛い! あああ! 水、水はどこでしょう!? あああ、神様どうかお助けください!!!」
「先生、しっかりしてください! 呪いを移して貰えれば、それで解放されるんです!」
「真名、危ないッ!」
痛みに呻く幸子が竹刀を放り投げたのだ。真名に向かって飛んだそれを、凛子が慌てて受け止めようとして……真名に力ずくで制止されていた。凛子を殺したのは幸子であり、まずは幸子の呪いをどうにかしなければ凛子を助けられないのだ。
「水! あぁ!? 後生ですから、水を下さいまし! 空気が燃えている! 腕が焼ける……喉が灼ける……! あぁ、神様……」
「み、水ですね!? すぐに持ってきます!」
慌てた真名は、職員室の誰かのデスクに置いてあったマグカップを手に取ると、慌てて職員室を出ようと扉に手をかけた。
幸いなことに職員用の手洗い場が近くにあったので、あわててそこから水を汲んで幸子に渡していた。だが、幸子はそれを飲まずに腕に振りかけてしまう。真名は何度も往復して水を汲み、その最後の一杯を幸子が飲んだことでどうにか話ができる状態まで回復していた。
「先生……お気を確かに……」
「も、申し訳ありません。わたくしとしたことが、取り乱した真似を。ありがとうございます。あなた、お名前は?」
「■■■■です」
「あっ、駄目だ真名。名前のところだけ音が変にぼやけて聞き取れない」
開き直って箱の中で大人しくしている凛子の言葉を、真名は理解するのに少しだけ時間がかかってしまっていた。少なくとも、真名自身ははっきり”朽葉真名”と名乗ったつもりだったのだ。
「……………………これ……は……」
そして、その言葉を聞いた瞬間、幸子の顔色が変わった。さきほどまで火傷の痛みで興奮して、紅潮していた顔色が、幽霊のように青ざめてしまっている。
「鏡に映らない存在……これは……」
「……先生? どうかされたのですか?」
「あなたたち、よく聞いて下さい。わたくしは……どうやらまだ、夢から目覚めることができないようです」
その言葉に思わず真名は目を見張っていた。眼前の幸子は火傷の痛みに堪えながらも、何かを悟ったのか俯いて何事かを呟いている。その怨霊めいた行動に、真名は思わず距離を取って、凛子と顔を見合わせていた。
「……この学校は、神域になっているようなのです」
「神域?」
「はい。神道的な説明は省略いたしますが、簡単に言いますと儀式、それも神様にお越し頂き、願いを聞き届けて貰う為に、神霊が留まる状態を維持してしまっているようです」
「神霊……と言うことは……」
真名はその言葉に身に覚えがあった。ありすぎた。
「はい。神霊、つまり神様だけでなく霊魂も神域の中につなぎ止めてしまっているようですね」
「……!? それじゃあ、夢から解放されないこの呪いは、全部神様のせいなんですか!?」
「……申し訳ありません、そこまでは。ただ、森上神社の巫女として言わせて頂くのであれば、鏡に霊魂が映らないのは、森上神社の神域特有の状態です。神社の御神体は鏡なのです。だから、神域では鏡に神様以外の何かが映り込むような無礼は許されません」
真名は背中に冷や汗が垂れるのを感じていた。これが人の呪いであるなら、人間の力でどうにかできたのかもしれない。だが、祟りとなれば、それはもう人間の力ではどうしようもない。
一度夢に囚われてしまったら、未来永劫夢の中ではないのか。そして……呪いから解放された詩織や由香に春美達はどうなってしまったのか。
そこで真名が深刻な顔をしているのに気づいた凛子が口を挟んだ。
「神様は神社が炎上してしまったことを恨み、私達を祟っているのでしょうか?」
「いえ、そんなはずはありません。確かに社殿が焼け落ちしてしまったことについては悲しむでしょうが……そもそもが違うのです。森上神社で奉るのは祟り神の類いではなく、人々に救いを与える、それはそれはお優しい神様なのです」
「でも、それじゃあ一体誰が呪っているんです? 神様じゃないんですよね? お社が焼けて、おかしくなってしまったってことも考えられますよね?」
「……不明です。ただ、神様のお力を何者かが利用しているのかもしれません。確かに神域では鏡に人と神様以外の何者も映らなくなります。なので、呪いの一節の”鏡に映らない”は説明がつくのです。ただ、”名前を名乗れない”については分からないのです。実際、わたくしも彼女の名乗りを聞くことができなかった時まで、ただの怪談だと思っておりました」
神様に誰かが干渉している。その言葉に真名は思わず顔を見上げていた。そう言えば、公子はまだ戻ってきていない……。
「それなら……」
「真名?」
「それなら、神様は私の願いを聞いてくれますか?」
その言葉に凛子は大きく息を飲んでいた。凛子の中では神様=祟りという図式が成立していたのだ。
そして、その問いに幸子は自信を持って頷いた。
「可能だと思います。幸い既に学校が神域化してしまっているので、多くの儀式を省略できますし……それこそ、神様にお願いするだけで願いを叶えられるでしょう」
「…………願い事に制限はありますか?」
「神様が嫌がることはできません。また俗に塗れた人間にも会いたがらないのですが……我が身を犠牲にしてまで、呪われた死者を助けようとするあなたであれば、問題ないでしょう」
真名はほっと胸をなで下ろしていた。
「分かりました。私は……神様にお願いして、この呪いを解いて貰おうと思います」
「……願い方には気をつけて下さい。一度願いを言ってしまえば、壱拾弐年間は願い事が叶いません。言の葉はよく選ぶように。それから……」
その瞬間、真名は意識が徐々に引っ張られていくのを感じた。身体のどこでもないどこかが暖かくなっていく。
「……あ、もう朝が近い」
「あ、そっか。真名はもう時間かー」
真名の身体が目覚めようとしている。それを凛子はどこか呑気な口調で眺めていた。頭の後ろで手まで組んでいる。
とはいえ、真名もそれを深刻には考えていなかった。次の夜になれば幸子は再び悪霊化してしまうが、凛子は箱の中にいれば理性を保っていられる。そしてその幸子も、生徒を傷つけても殺しはしない。黙って箱の中までついていけばいい話なのだ。
「鏡を持ってきて下さい。それから、お酒も……」
「あ、私はお饅頭がいいな! ほら、駅前で話題の……ちょっと遠いし高いけど、夢の中だし私が食べても減らないよ?」
「きぃぇぇぇぇ! 神様に捧げる供物と自分の欲望を同格に扱うなんて、どんな教育を受けているのですか――」
「――あぁ、はいはい。……真名……そう言えば…………手紙……だ?」
徐々に二人の声が聞こえなくなっていく。今までで一番ほんわかした目覚めに、真名は内心で苦笑いしながらも、その表情は確かに微笑みを作っていた。
心が身体に繋がるその瞬間、真名はなんとなく後ろを振り向いた。
……部屋の外、どこか寂しそうにこっちを見ている公子と目が合った。




