14.人を呪わば穴二つ
凄惨な殺人現場と化した部屋から出ると、真名は凛子に連れられて女子寮の食堂に移動していた。広い食堂は入口から奥が見通せないほど暗い。一方で無数に立ち並んだテーブルやイスに厨房と隠れられそうな場所はそれなりにあった。
「凛子ちゃん……どうしてここに?」
「……もしかしたら、真名も察しているかもだけど、寮監から話を全部聞いたよ」
凛子が言うには、寮監と一緒に、耀子から呪い移された女の子から相談を受けたらしい。凛子はその時点で真名が逃げ出した為、呪われてしまったのではないかと心配し追いかけてきたようだ。それも、武器まで揃えて。
「女の子から聞いた話では、一緒にいた他の女の子も呪いを受けてしまったらしいの。そして、こんなことを言われたそうよ。『3階の一番南の部屋に行け』って」
「3階の一番南の部屋?」
妙な指示に真名は疑問を感じていた。具体的な教室名をあげなかったのは、単純に教室名をあげるよりも分かりやすいと判断したのだろう。だが、3階の一番南の部屋、真名の記憶が正しければ、そこは何の変哲もないクラスの教室のはずだ。ちょうど神秘倶楽部の部室とは真逆の方向のはず……。
「……囮……なんだ……」
「真名、どういうこと?」
「清水先輩は弱みが神秘倶楽部の部室にあると思ってるんだ。でも、現実での神秘倶楽部の部室は閉鎖されてしまっている。鍵は職員室にあるから、部室には入れない。でも、夢の中なら職員室の鍵を持ってくれば、部室にも入れるはず。あとの問題は、学校の3階に居座る赤鬼だけ……」
だが、3階には公子が警戒している凶悪な悪霊、真名が赤鬼と呼んでいるあれがいるはずなのだ。
そこで凛子も不愉快そうに眉を顰めた。
「……つまり、なに? 耀子は他の生徒を囮にして赤鬼って奴を引きつけ、その隙に自分は職員室から鍵を盗み出す算段って事?」
「急ごう凛子ちゃん。他の子が赤鬼に見つかる前に忠告しないと――」
「――しっ!」
その瞬間凛子が鋭く警戒の声を上げると、真名は思わず黙り込んでいた。すぐに理由も分かった。入口の向こうから足音が聞こえてきたのだ。
真名も凛子も急いで座っていたイスを元に戻すと、そのまま入口からは死角になりそうな机の陰に隠れていた。
ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぽたり、ぺたり。
緊張のあまり、真名はゴクリと唾を飲み込んでいた。バットを抱えた凛子と違って、真名は赤鬼に襲われたことがある。もしあの怪力を発揮されたら、いくらバットがあっても勝てないし、そもそも逃げ切れない。
少しずつ足音が近づいてきた。それと同時に独り言のような声も聞こえる。
「あ、ここ、扉が開いてる……」
聞き覚えのある声に、真名は思わず少しだけ顔を出して様子を伺っていた。
「あの……誰か、いるんですか……?」
どこか暗いその声音は、真名と同じく春美の脅されていた由香のものだったのだ。暗闇の中なのでハッキリとは見えない。ただ、由香の姿は血濡れには見えなかった。それでも、真名は由香を見た瞬間慌てて身を隠していた。
「凛子ちゃん……隠れて」
「分かってる……けど」
由香は、包丁を持っていたのだ。ただの包丁じゃない。返り血で真っ赤に染まった包丁だった。そして、由香自身は一切血を浴びていない。包丁だけが血まみれになっていたのだ。
「……どうしよ、探した方がいいのかな…………」
ボソボソと喋る声は、生前の由香の全く同一だった。そこでようやく真名達の元にも鉄臭い香りが届く。いや、それは以前の凛子や詩織とは比べものにならないほど濃厚に香る、鮮血の臭いだった。
ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぽたり、ぺたり。ぽたり。ぺたり、ぽたり。
中に入る足音に、真名には両手で息を殺すことしかできなかった。尋常でない真名の怯えように、凛子も表情を改める。凛子も気づいたのだ。ぺたりという足音に混ざる、妙な音に。
ぺたり、ぽたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぽたり、ぺたり。
それは、由香の持つ人を殺したての包丁から垂れる、血の雫の音だったのだ。真名の心は恐怖と疑問でいっぱいだった。あの大人しかった由香が襲う側へと変わってしまった。そして、あの包丁は一体誰に突き立てられたのか。
「……早くしないと。真名さん……耀子先輩……どこにいるの? もしかして、部屋?」
そこで真名は思わず神様に感謝していた。悪霊と化した由香は入口付近を少し探しただけで、あっさりと踵を返して廊下へと戻って行ったのだ。
ぺたりという独特の足音が聞こえなくなるまで待ってから、真名はようやく普通に息を吐くことができた。
「凛子ちゃん」
「うん、急ごう。それとなんだけど」
抜き足差し足忍び足。必死で廊下の左右の気配を伺ってから二人は玄関へと向かっていた。寮の部屋に向かった由香とは逆の方向だ。その途上、凛子が小さく呟いた。
「私もさ、真名が春美の霊に脅かされていることを寮監に言ったんだ」
「……?」
「そしたらさ。私も寮監も見解が一致したんだよね……春美の未練ってさ、弱みじゃないかって」
靴を履きかえる真名の手が止まった。春美は既に霊と化しているのは間違いない。ということは、夢の中では悪霊と化しているだろう。つまり、夢から解放するためには未練を探し出す必要がある。
真名は凛子の言いたいことが分かっていた。春美の未練が弱みであるなら、真名達も神秘倶楽部の部室に入らないといけない。ということは、どちらかが囮になって赤鬼を引きつけなくてはならない。
「…………ねえ真名。別に、今日中にどうにかしないといけないわけじゃないよ。明日寮監に話せば……」
「……そうだよね。でも、明日になったら、もっと多くの人間が清水先輩によって送られてくるかも……」
そして、何も知らないまま囮にされた生徒達は、赤鬼によって襲われてしまうだろう。そうなれば飛躍的に悪霊が増加してしまう。それだけは避けなくてはならなかった。
そして、どうにか危険な校庭を通り抜けた真名は、校舎へとやって来ていた。にもかかわらず、真名も凛子も厳しい表情のまま。
「真名、気をつけて。赤鬼はこっちに気づいていないみたいだけど……それは、既に別の相手を襲っているからかもしれない」
「……うん」
そのまま、足音をできるだけ殺すように早歩きで階段を上っていく。本当ならもう少し周囲を伺ってからの方が良かったのだが、そんな余裕はなかった。
そして、悪い予感は的中していたのだ。2階を過ぎた辺りで既に3階の異変には気づいていた。泣き叫ぶような悲鳴と、それを上書きするように響く、何かが壊れていく音。
3階に辿り着いた瞬間、真名は見逃さなかった。南の教室の前に、赤い女が立っている。そして力任せに教室の扉を怖そうとしているのだ。階下まで響いている異音は、その怪力で扉がひしゃげる音だったのだ。そしてその反対。素早く職員室から飛び出す影があるのを見逃さなかった。
「ッ凛子ちゃん! 清水先輩を追って!」
「え!? でも!?」
真名の判断に凛子は露骨に迷いを見せた。しかし、真名もここは譲れなかったのだ。
「凛子ちゃんでも赤鬼には勝てない! でも、私じゃ清水先輩にも勝てない!」
「だけど――」
「――大丈夫、きっと私の未練は凛子ちゃんになるから……」
「……ッ!! 」
真名の言葉に合点がいったのか、凛子は鬼のような表情になりながらも耀子の後を追った。真名はそれを背に、赤い悪霊へと向かう。
既に向こうも真名の接近に気づいたのか、扉を壊すのを止めてこっちを見ていた。赤鬼は背が高い。元は白いブラウスに黒のスカートだろうか。いかにも教員然としたその装いは、しかし長い黒髪の先に至るまで残酷なまでに赤く染め上げられていて、もはや生物の内臓のようにグロテスクになっている。そして、その表情は……
「箱ニイレテシマイマショウ……」
どこか悲しげだった。その言葉に真名は戸惑いを覚える。前にあったときの赤鬼は、表情も分からないほど血に塗れていた。
……詩織さんが成仏したから?
だが、真名に余計なことを考えている余裕はなかった。教室の中には恐怖で泣きそうになっている生徒が見える。
「箱ニイレテシマイマショウ……」
振り返った赤鬼がゆらりと真名へ向かう。その右手には棒のような物が握られていた。
……竹刀、でも剣じゃない。あれは……薙刀?
真名が左手で胸を押さえながら向かい合った瞬間、赤鬼がそれを構えた。剣道とは構えが違うから、やはり薙刀なのだろう。どっちにしろ、真名にできる抵抗に大きな差はない。
じわりじわりと後ろへ下がっていく。だが、真名が一歩下がる間に赤鬼は二歩進んでいた。だが、これは駄目だと観念した真名が慌てて階段に逃げようとした瞬間、教室の奥の扉から素早く誰かが飛び出して赤鬼を攻撃したのだ。
教室内の柄の長い箒で鋭く首を突いた彼女は……
「まったく、あなたと会う時はいつも忙しないわね……本当に」
「嘘!? 公子さん!?」