12.夢のあと
ちゃぷんと天井から雫が垂れて、寮のお風呂の大きな湯船に落ちる。ちょうど並んだ真名と凛子の間の辺りだった。
「くぁぁぁぁぁぁ。あ~~~疲れが取れるぅぅぅ」
真名の隣では、凛子が肩まで湯船に浸かると、裸体を隠そうともせずに四肢をめいいっぱい広げてリラックスしていた。心なしか、表情まで緩んでいる。一方で真名はというと、湯船の一番隅っこで、俯いて左手で胸をぎゅっと隠しながら縮こまって入っていた。
何故風呂に入っているかといわれれば、理由は簡単。凛子が誘ったからだ。
――真名、さっさとお風呂入ろ! 夜になったらあいつが来るかもしれないんでしょ!
確かにそうだった。真名は自分のことに対しては無頓着な少女だったが、さすがにずっと風呂に入らないのは嫌だった。どうにかして、汗を流したい。その為には……まだ空が青い間に入るしかない。
――大丈夫! 幽霊は扉に阻まれて入れなかったんでしょう? 鍵をかけとけば大丈夫だよ。
だから、凛子と二人で部屋に鍵をかけると、真っ先にお風呂に入ることにしたのだ。
「……? どうしたの、真名? 胸なんか隠して、さすがに覗きはいないって」
「う、うん……」
縮こまって入るのが、真名の癖だった。正確には、寮に入ってからできた癖だ。
そこで真名はチラリと凛子を見た。凛子はちっとも裸を隠さない。その必要も無いだろう。同性の真名から見ても、すらっと伸びた白い手足はモデルのように優美なラインを描いて、とても美しい。全体的に小柄な真名とは大違いだった。
「……ほうほう」
「……凛子ちゃん?」
ハムスターのように小さくなっている真名に対し、凛子が不躾な視線を向けてきた。赤ちゃんのように小さく折りたたまれた足から、お腹、そして膨らみ始めた胸を通って首筋の辺りでニヤリと笑う。
「前から思ってたけど、真名って……意外と胸あるよね」
瞬間、真名の頬がピンクに染まった。思わず胸を必要以上にぎゅっと抑えてしまい……かえって強調された。それを見た凛子は呆気にとられたような表情になると、自分の胸を指でゆっくりとなぞってみて……強いショックを受けているようだった。
「り、凛子ちゃんの方がスタイルはいいと思うけど!?」
「…………ぐすっ。慰めは不要だよっ!」
「そ、そんなことないよ!? ほら、背丈もあるし!?」
「足は伸びても、胸は変わらないんだもん!」
「ま、まだ高校一年だし、これからだよ!」
「うぐ、真名に言われても、とどめ刺されただけだよ!?」
うらめしや、と言わんばかりに凛子がずいと近づいてくる。真名は思わず下がろうとして……壁に阻まれていた。そのまま凛子が真名の両手を取ると、万歳させて……真顔になって崩れ落ちた。
「ふふ……これはあれ? 部活で打って走って守ってしてるせい? 真名みたいに図書室でレシピを調べたり、寮でお菓子を作ったりしたら……そうだ、それだ。女の子らしい趣味を持てば、身体も女の子らしくなるに違いない。……真名! 私、ソフトボール部辞める! で、お菓子研究部入る!」
「おお、落ち着いて凛子ちゃん! 早まらないで!?」
混乱して慌てて止める真名に凛子はますます悪ノリしていき……気がつけば真名も自然と笑っていた。そこまでくれば、真名にも分かったのだ。凛子が落ち込みがちな空気を変えようと、気を遣ってくれていたことに。
凛子のお陰で、真名はちょっとだけ上を向けるようになっていた。見れば少しずつ風呂の中の生徒が増えてきている。ということは、それだけ時間が経ったということだ。夜が近づいてきている。早めに戻った方がいいだろう。ゆっくりと湯船で立ち上がって……ふと気になったことを聞いてみた。
「そういえば凛子ちゃん」
「ん?」
「……私のこと、どう思ってるの?」
「え? うーんと……そうだなぁ。妹、かなー?」
「!」
そうして、夕日に赤く染まる中、真名は凛子と部屋に戻っていた。部屋に戻って、愕然としていた。部屋の扉が……開いている。
「戻ったか。すまない。万が一の事を考えて、開けさせてもらったよ」
その瞬間、真名は思わず持っていたバスタオルや着替えを落としていた。部屋に鍵をかければ安全だと思ったのだ。だが、違った。鍵は真名達以外でも持っていた。寮監がマスターキーを持っていたのだ!
凛子の表情が引き締まり、真名は思わず両手で顔を覆ってしまう。
「すまないな。だが、至急頼みがある。彼女の相談に乗ってあげて欲しい」
開け放たれたドアに寄りかかりながら寮監が言う。確かに彼女、といったにも関わらず、部屋から出てきたのは二人だった。一人は見たこともない女子生徒だった。そしてもう一人は……
「真名ァ?」
「ヒッ!?」
悪意に染まった表情の、春美だった。そしてなにより真名が驚いたのが……
「あぁ、勝手に鍵を開けていたのは謝罪しよう……」
「すいません。実は私、今日……」
「どうしたの、真名?」
誰も春美に気づいていない。寮監は元より、凛子ですら霊の存在に気づいていないのだ。真名だけがそれを見ていた。
「ねえ、知ってる?」
「いやッ!!」
思わず真名は振り返ると、落とした荷物もそのままに逃げ出していた。背中に響く凛子や寮監の声には目もくれず、一目散に走り去る。
「夜の学校には、幽霊が――」
「……ッッッ!!!」
逃げる。後ろから響く呪いに捕まらないように。だが、どこへ。真名にも見当がつかなかった。しかし、足を止めるわけにも行かなかった。玄関が見えた。とてもじゃないが外をさまよう気にはなれない。階段を駆け足で上っていく。猛烈な勢いで息が切れて苦しかった。
「幽霊には特徴があって、たとえば鏡に映らない――」
「聞きたくない聞きたくない聞きたくない!」
階段を一番上まで上りきったところで限界だった。ぜぇぜぇと息が上がってしまい、太ももが震えてこれ以上走れそうにない。だが、階段下からは呪いの声が響き続けており……
「こっちよ」
「……!? 公子さん!」
近くの部屋が開かれ、中から顔を出したのは公子だった。夢の外で会うのはこれが初めてだったが、真名は地獄に仏と言わんばかりに部屋へと転がり込んでいた。
同時に公子が素早く扉を閉めて鍵をかける。真名を追いかけていた怨嗟の声が遮断された。
「まったく、あなたと会うときはいつも忙しないわね……」
「ご、ごめんなさい」
「あら、別に責めてるわけじゃないのよ」
そう言って、ニコリと笑う。活動的な凛子とは違う優しい微笑みに、真名も思わず笑い返していた。どうぞと進められた椅子に腰掛けると、同時に公子もベッドに座る。
「助けてくださってありがとうございます。公子さん、やっぱり先輩だったんですね」
「……えぇ、もちろん。そんなことより、一体どうしたのかしら?」
優しく促す公子につられて、真名は全部話していた。呪いからどうにか解放されたこと。だけど幽霊となった春美に付きまとわれていること。そして、春美に握られた弱みのこと。
緊張が解けた反動か、やや支離滅裂気味の真名の説明を公子は黙って聞いていた。しかしその表情が見る見るうちに気の毒そうなものに変わっていく。そして聞き終わるや、お茶を入れましょうと言って、電気ケトルのスイッチを入れた。
「事情は分かったわ」
「私は……このまま呪いに捕まってしまうのでしょうか……」
思わず真名は弱音を吐いてしまっていた。自然と俯いてしまう。こういう時、凛子なら励ましてくれるのだ。公子の場合は……
「……あなた、縁ができてしまっているわね」
とても冷静なまま、アドバイスをくれた。思わず真名は公子を見てしまう。
「どういうことですか?」
「……幽霊は夢の中でだけ存在しているわけではないわ。あなたたちと同じように、起きている間も存在して、暗くなると動き出す。それも、悪い夢の中じゃないから理性を持ったまま……」
その言葉に真名は目を見開いていた。真名は……春美が悪霊となったから真名を呪おうとしているのだと思っていた。だが、違った。春美は……純粋に真名を呪おうとしているのだ。全ては、自分が助かるために。
「そうね。あなたはあの時、車椅子の女の子を助けてしまった。……助けられると理解してしまった。悪霊とは禁忌に囚われ狂った怪物ではなく、哀れな被害者だと、そう思ってしまった。そして、あの幽霊の方もあなたに呪いを移したいと思っている。お互いの気持ちが通じ合ってしまっている。それが……縁よ。相性の良い者同士が想いあっているから、認識できてしまう。……悲しいことにね」
「そんな……」
公子の言葉には深い悲しみが込められていた。まるで、もう助からないと言わんばかりに。
「……どうしたら、いいんですか?」
「……どうしようもないわ。少なくとも、向こうはあなたを呪うまでは付きまとうでしょうし……」
公子はとても言いにくそうで、真名から視線を外してしまう。そのまま電気ケトルの方を向いて、ティーパックや角砂糖へと送る。
「あるいは、再び呪われるか、よ」
そうして、公子は言った。
「開き直って、呪って貰いなさい。ただ、あなたは偶然呪いから解放されている。けれど次は……ないと思いなさい」
その先は言われなくても分かった。呪いからなんのしがらみもなく解放された真名は、とても幸運だったのだ。本来、誰かに呪いを引き取って貰わなくてはならない。おそらくは、代々の神秘倶楽部がしているように。だが、真名にはそんな真似はできなかった。
「……公子さんは」
「……?」
「公子さんは、まだ呪われているんですか?」
「……まぁ、ね」
ならば、真名の結論は決まっていた。
「私に呪いを移してください」
春美と決着を着けるために。そして公子だけでも助けるために。
真名の視線を受けた公子は驚いたような、そして困ったような顔で視線を逸らして思考を巡らし……紅茶の準備をしていた電気ケトルに向いた。ケトルはうんともすんとも言わなかった。
「そう言えば、沸かないわね、これ。なんでかしら?」
「…………コンセント入ってません」
公子が、真名が見たこともない渋い顔をした。