10.白昼夢
春美が死んだ。それは、真名にとって非常に都合の良い話だった。しかも、既に倶楽部の部室は閉鎖され、握られていた弱みまで寮監は回収してくれたという。
着替えもせずに寮のベッドに仰向けに寝転んだ真名は、薄暗くした部屋の中、どこか影のある表情のままその意味について考えていた。
……幸運なことに、真名の呪いは既に由香に移した後だったから、今の真名は呪われていない。つまり、これ以上呪いに関わる必要は無いという事だった。
確かに呪いに関わる必要は無い。一方で、一人取り残される形になってしまった公子のことは心配だった。また、自分が移した呪いが、巡り巡って人が死んだという負い目もある。真名は寮監の言葉を思い出していた。
『警察の調べでは、先に剛田の方が亡くなったらしい』
つまり、真名が由香に移した呪いは由香から春美に移り、そして春美が悪夢に囚われて亡くなった。
「……あれ?」
思わず首を捻ってしまう。気づいたのだ。由香は春美に呪いを移した。そして春美は死んだ。
「……?」
そこで違和感を感じ、ふと顔を上げていた。言うまでもなく、見慣れつつある自室の風景が広がっている。壁際のベッド、そのすぐ隣には真名用の歴史を感じさせる重厚な机がある。その隣には窓があって、落ち着いた赤色をした厚手のカーテンが少しだけ開いている。凛子の方を閉め忘れてしまっていたようだ。そしてそのまた隣にはやはり木製の代々使っているであろう古びた凛子用の机、そしてベッドがあった。足下にはクローゼットが無言のまま佇んでいる。
それらを一つ一つ視線で追っていく。……特に異常はない。そのままベッドから足を降ろした。素足に触れる絨毯の感触は悪い物ではない。ただ、妙に寒々しいそれに、落ち着かない気分にさせられていた。まるで、動物の死骸に触れているような……。
思わず部屋の明かりをつけていた。ベッドサイドランプのオレンジ色の明かりが瞬く間に白の閃光に駆逐されていく。シンと静まりかえる室内。何もおかしくはない。スマホの時計を見た。いつの間にか時間が過ぎていたのか、既に消灯時間が徐々に近づいている。
……気のせいかな。凛子ちゃんもいないし。
そして真名は再び明かりを消した。オレンジ色のランプの明かりが復活し、されど室内全てを照らし尽くすには物足りない明かりが微妙な陰影をそこら中に描いている。
……もう寝よう。
そうして真名はパジャマに着替えようとクローゼットに手を伸ばし……それに気づいた。部屋の扉、そのドアノブが動いていた。ゆっくりと、音をたてないよう、室内の獲物に気取られないようにスーッと。
引き攣った表情のまま固まっていた。言うまでもなく凛子は入院中である。それじゃあ、今、扉の向こうにいるのは誰なのか?
「ヒッ……!?」
同時に扉が勢いよく開かれようとし……カタンという音と共に鍵に阻まれていた。震える右手で身体を抱きしめながら思い出す。凛子がいないからと、部屋の鍵をかけたのだった。
たかが寮の個室にしては、妙に分厚いその扉。そのたくましさに思わず真名は安堵していた。
「だっ、誰かいるんですか?」
思わず真名は声を上げていた。返事はない。ただ、ドアノブが慌てて元の位置に戻っただけ。相変わらず室内はシンと静まりかえっている。黙り込んだ扉の向こう。真名の神経はそちらに集中していた。
……何か、いる。
それは間違いなかった。なにしろ、室内とは違い廊下に絨毯などはない。歩けば足音がするのだ。
産毛が逆立った。やはり、扉の向こうに何かいる。真名の直感が囁いている。何かいる。そう、誰かではない。
「………………………………………………………………」
続く沈黙。室内に響くのは自分の呼吸音だけ。真名は息を殺して扉に視線を送り……思い出した。扉にはドアスコープがついていたのだ。それを覗けば、何がいるのか直ぐに分かる。
無音の中、ゆっくりと足を動かす。冷えた絨毯は真名の足音を殺してくれていた。一歩、また一歩。ゆっくりと扉へ進んでいく。
「………………ッ」
気のせいか、扉の向こうから鉄臭いような臭いがした……気がした。怖くてそれ以上嗅げなかった。また一歩進み、扉の前についた。
「………………………………………………………………」
向こうに、何かがいる。そんな予感を妄想だと信じたくて、真名は震えながらゆっくりとドアスコープを覗き込んだ。扉の向こうには………………誰もいなかった。
あらゆる矛盾を飲み込んで、ほっと一息。そのままゆっくりと後ずさりしていく。疲れているんだ、早く寝よう。真名の頭はそれでいっぱいだった。シャワーすら浴びる気になれなかった。
そう、シャワーだ。真名はてっきり、シャワーの音を思い出していた。どうして気がつかなかったんだろうか。ずっと遠くで、何かが鳴っている。
それに気づいた瞬間、真名はしまったと思った。その音に気づいた瞬間、まるでピントが合ったように鮮明になったのだ。
誰かがいる。扉の向こうで、何かを囁き続けている。
思わず真名は息を飲んでいた。僅かに吸い込んだ鉄の臭いは関係ないと黙殺する。囁いているのは、春美の声だったのだ。
……ど、どうして!?
咄嗟に湧いた疑問は、されど口から漏れることはない。答えが分かったからだ。春美は呪いで死んだ。呪いで死んで、夢に囚われたままなのだ。しかし、春美はそこから解放される方法を知っている。
誰かに呪いを移せばいい。
つまり、真名を呪ってしまえばいい……!
その瞬間、真名は思わず両手で耳を塞いで蹲っていた。理解できなくて良かった。このタイミングで春美がかける言葉なんて、呪いの言葉以外にあり得ない。まして、真名には一度、悪霊を呪いから解放した過去があるのだ。
泣きそうな顔のまま蹲って目を閉じる真名。
どれほどそうしていただろう。塞いだ耳に遠くで柱時計が鳴る低い音が聞こえた。消灯時間の合図だ。恐る恐る目を開けてみる。………………室内に異常はない。ドアノブも元の位置のまま微動だにしていない。動くものはない。
……もう寝ようッ!
真名は慌ててクローゼットの扉を開けると、ブラウスのボタンに手をかけていた。普段は何も感じないそれが、何故だか酷く億劫だった。プチンプチンとボタンを外し、しゅるりと脱ぎ捨てる。綺麗に畳む気分じゃなかった。
外気に白い肌が晒されたからか、妙に肌寒い。
そのままスカートのホックを外す。その手がはたと止まった。凛子の手紙の存在を思い出したのだ。脱ぎかけだったスカートを脱いで下着姿になってから、手紙を取り出す。
……読むのは明日にしよう。
手紙はそのまま脇へ寄せて、一息吐いた。下着姿で悩んでも仕方がない。さっさと眠ってしまおうと思い直し、手を伸ばす。ショーツを脱いで、ブラジャーを外して、新しい下着を身につけた。
そのまま冷たいパジャマの袖に腕を通してベッドで休もうと振り返り……窓の向こうの顔と目が合った。
「……え?」
「………………ァァ」
凛子の側の、僅かに開いたカーテンの向こうから、誰かが真名の着替えを覗いていた。
「ヒッッッッ!?」
「真名ァ?」
真っ白い顔の春美が、ニヤニヤ笑って部屋を覗き込んでいた……!
恐怖のあまり頭を抱えて蹲ってしまう。流れる涙のせいで視界が滲み、気がつけば強烈なまでに鉄臭い香りを力一杯吸い込んでしまっていた。いつの間にか、部屋の中にまで悪霊の気配が充満している。
「ねえ、知ってる?」
「……ッ!?」
魅入られたようにニタニタ笑った春美から視線が外せない。悪意だけの存在となった春美の声はくぐもっていて、だけど何故かその意味が鮮明に伝わってくるのだ。必死で耳を塞いでも、僅かな指の隙間から入って真名の心を犯していく。
「夜の学校には、幽霊が――」
「ぃぃいやああああぁぁぁぁぁ!!!!!」
逃げられない恐怖に絶叫した真名は、頭からベッドの布団に潜り込むや、闇の中で渾身の力を込めて耳を塞いでいた。
だが、それは完全に失敗だった。暗闇で視界を閉ざされた真名の感覚は、逆にそれ以外の感覚を研ぎ澄ませていたのだ。布団のお陰で辛うじて聞き取れなくなった春美の声。纏わり付いて離れない悪霊の臭い。恐怖で収まらない鳥肌。
その全てが、闇の向こうに存在する悪意を如実に真名に伝えていたのだ。
真名にできたのは、悲鳴を上げてそれらを塗りつぶすことだけ。
……確かに夢から覚めた。だが、悪夢は終わらない。