01.少女の現実
……雨が降っていた。
大粒の雨が真っ暗な窓の向こうに降り注ぎ、それが二人の足音を幾分かき消している。
「ね、ねえ凛子ちゃん……」
「ん? どしたの、真名?」
他の人に見つからないよう、二人は夜の校舎の中で明かりを持っていなかった。戦前からの歴史ある学校、と言えば聞こえはいいが、古い板張りの廊下は歩くだけでぎぃぎぃ音をたてる。闇の中ではむっとした湿気が肌にまとわりつき、不穏な空気を醸し出していた。
「……やっぱりやめよう? 宿題忘れたぐらい、大したことじゃないって」
前方が闇に飲まれて見えない廊下の途中で、耐えきれなくなった真名は思わずつぶやいていた。幽霊なんかを信じているわけではない。ただ、前を見ても暗闇、振り向いても暗闇、そんな状況に本能が嫌悪感を示していた。
「何言ってんのよ。それに、教室はすぐそこよ?」
「え?」
そこで凛子は廊下の1つ先の教室を指さした。あっけにとられた真名の視線がそれを追う。1年4組。確かに真名のクラスで間違いなかった。
「真名ったら……でも、気持ちは分かるわ。今の私達ときたら、寮の門限破りに学校の不法侵入、バレたら寮監に何言われるか分かったもんじゃないし」
真名は思わずそれを否定しようとして……寸前でぎゅっと拳を握って堪えていた。真名は長めの前髪にうつむき気味の姿勢が似合う、どう見ても臆病な少女だった。ソフトボール部で4番を勤める程の逸材である凛子とは違って背も低く、セーラー服があまり似合っていない。
「でも……凛子ちゃん。よく考えたら……教室はもう鍵が――」
「――開いてるわね」
躊躇無くガラガラと扉を開ける凛子に、真名の目がまん丸になっていた。同時に嫌な予感がひしと背筋を駆け抜ける。
……開いてるの? でも、うちの学校ってすごく校則が厳しくて……放課後は戸締まりの名目で校舎から追い出されちゃうのに……?
「ほら、さっさと取ってきなよ。ここで待っててあげるから」
苦笑いの凛子がウインク。どうやら、真名が怯えているのに気づいていたようだ。目鼻立ちが整って意志の強そうな凛子だけれど、不思議とそういうかわいい仕草が様になる。真名はひそかに、自分とは違う凛子の姿に憧れていた。
教室の入口で待つ凛子を尻目に自分の席まで歩く。相変わらず雨音がひどい。真名の席は左から二列目の先頭だった。そのまま自分の机に手を突っ込めば、教科書と分厚い資料集の下に……見つけた。
今日の授業で出された宿題だった。難しくて分からなかったので、教科書に挟んだままにしていて、そのまま忘れてしまったのだ。思わずほっとなっていた。
「よし、それじゃ帰ろっか?」
「……うん。ありがとう、凛子ちゃ――」
「――ねえ、知ってる?」
――ッッ!!!!!
雨音を突き破る第三者の声に、真名は雷に打たれたように真っ青になって硬直していた。同時に背中が粟立ち、心臓が大きく跳ねる。いつの間にか、廊下の窓際に別の生徒がいたのだ。確かに雨音が響き続けている。だが、真名の耳は間違いなく誰かの足音なんて聞いていない。
「え? 何が?」
「この学校の噂! 夜の校舎には、絶対に立ち入ってはいけないんだって!」
「……嫌味かしら? それとも、学校の怪談?」
恐怖に足がすくんでしまった真名。心臓が激しく鼓動を刻み続け……しかし凛子が平然と会話をしているのを聞いて、徐々に落ち着きを取り戻していた。振り返れば、いつの間にやら凛子の後ろには同じセーラー服姿の女の子が立っている。制服がややくたびれていて、手にぶら下げた鞄は埃で汚れている。上級生のようだ。どうやら、真名達と同じく校則違反の不法侵入をやらかしているようだ。だからだろうか、妙に愛想のいい微笑みを真名達に向けていた。
……だが、上級生がなんで1年生の教室に、とまでは思えなかった。
「まぁまぁ、そんなことより、夜の学校って幽霊が出るんだよ! しかも見た目は生きてる人間とそっくりだししゃべるんだって! そうやって馬鹿な生徒を油断させては、呪いをかけて夢に閉じ込め、4日以内に殺しちゃうんだよ! 夢の呪いだね!」
「はぁ……呪い、ねぇ……」
ゾワリと悪寒が背筋を駆け上がる。理性では全く理解できない、ただ嫌な予感とした言いようのない感情が胸の奥からわき上がっていた。真名は田舎のおばあちゃんを思い出したのだ。
……いいかい真名? もし幽霊に話しかけられたら、すぐに立ち去りなさい。絶対に答えてはいけないよ?
その瞬間うなじのあたりが総毛立った。なぜかその言葉が頭から離れない。何かがおかしい。そんな予感が脳裏にこびりついて離れない。
廊下には、確かにセーラー服の生徒がいる。雨の叩き付けられる窓の手前、非常灯の緑の光を浴びて、色濃い陰影の中で立っている………………
「り、凛子ちゃん! もう戻ろう――」
「でも、大丈夫! 呪いは、呪いの内容、つまり夢に閉じ込められるや幽霊の特徴、鏡に映らないし自分の名前も言えないを知らない限り大丈夫だよ神様がそういう風にしたんだって」
女生徒は笑っていた。最初はニコニコだったのが、今はニタニタと気味の悪い笑い方で。凛子はそれを不快そうに髪をかき上げながら聞き流すと、無視して真名を見るだけだった。
「そうね、戻りましょ――」
「分かった? ねえ分かった!? ねえ!? ねえってば!? 分かった? 分かった分かった分かった!?」
「うるさいわね。ところで、あんた誰…………あれ?」
真名が凛子にすがり、凛子が真名に目を向けたほんの一瞬、廊下には誰もいなくなっていた。ギョッとなった凛子が慌てて廊下に顔を出して左右を見渡し……
「誰もいない……」
不思議そうな表情になっていた。教室内の真名からは、凛子本人の他に、雨に濡れた窓ガラスに映る凛子が見える。当然ガラスに映った凛子も本人と同様ポカンとしていて……
――どうしてさっきの女の子は窓ガラスに映ってなかったのッッ!?
気づいた瞬間、口から漏れそうになる悲鳴を抑えるので必死だった。真名が感じた違和感の正体はそれだったのだ。理解した瞬間、生物の本能で肌が粟立っていき……
「戻ろう!? 部屋に戻ろうよ凛子ちゃん!?」
「真名?」
恐怖のあまり、凛子の腕にすがり付いて震えていた。
「………………………………………………………………………………………………………」
暗闇に包まれた廊下、あるいは人気のない教室、雨に打たれる校庭。そのどこかから覗かれているような、粘っこい気配が漂っていた。