第九十六話 鎖骨下動脈盗流症候群4
「治療はできない」
僕ははっきりとそう言った。
「え?」
意外にも、そう言葉を漏らしたのはラチェットではなくレナである。当の本人は何を言われたのか分からない顔をして僕を見ていた。
「今の僕ではこの病気は治療することができない。失神の原因は左手を使うことだから、これからは左手をあまり使わずに生活することに気をつけて……」
「ちょっと待ってください! ぼ、冒険者は……」
「残念だけど、左手を使うことによって失神する可能性は高い。左手を使わずに冒険者ができるかどうかは分からないけど」
「そ、そんなん無理に決まっているじゃないですか!」
「そうだね。はっきり言うと、今のままでは冒険者を続けることは難しいと思う」
心臓から駆出された血液は大動脈へと送られる。それは一旦は頭側へと走行し、大動脈弓とよばれるアーチを描きながら背中側を腹部に向かって下りていく。
その大動脈弓とよばれる曲がった部分からは三本の血管が分かれて、頭部と両側の手へと血液を送る。
右の頭と手に血液を送る枝を腕頭動脈、左の頭に血液を送る枝を左総頸動脈、左の手に血液をおくる枝を左鎖骨下動脈と呼ぶ。腕頭動脈はすぐに二つに分かれて、右総頸動脈と右鎖骨下動脈となってそれぞれ頭と手に血液を送る血管となる。
しかし、人間の頭蓋内、つまりは脳に血を送る血管は四本ある。左右の内頸動脈そして左右の椎骨動脈である。内頸動脈は左右ともに総頸動脈からの枝である。それに対して、椎骨動脈は手に血液をおくる鎖骨下動脈からわかれた枝だった。
ここに、ラチェットの病気の原因がある。ラチェットは前回の依頼でアッシュファングの牙が左鎖骨下動脈の根元を傷つけていた。シグルドの回復で傷は治ったが、後遺症が残ってしまっていたのである。
診断は鎖骨下動脈盗流症候群だ。
これは左手を強く動かすと失神してしまうというかなり特徴的な奇病である。それの原因は、左鎖骨下動脈の起始部、つまりは枝が分かれてすぐの部分が閉塞していることにある。
本来であれば心臓から送られた血液は左鎖骨下動脈まで来たのちに椎骨動脈を通って脳に送られる。しかし、この左鎖骨下動脈の入り口が閉塞していたらどうなるだろうか。
脳に送られた血液が、椎骨動脈を逆流して左手へと送られてしまうという現象が起こるのだ。それは脳の内部で左内頸動脈の先と左椎骨動脈の先が交わっているから起こる。
左内頸動脈から脳への血液はある程度保たれているために、脳と左手の両方をまかなえている普段の状況に比べて、左手を強く動かしてたくさん血液を使ってしまうと、左手に優先的に血液が送られることとなり、結果として脳の血液が足りなくなってしまう。そのため、ふらつきや失神が認められるのである。
「原因が分かってるなら……そうだ、この前人工血管を作ったじゃない? あれで手術をすれば……」
「レナ、人工血管があっても大動脈弓の血液を遮断する方法がない」
血管の手術というのは基本的にその血管に血液が来ないようにしなければ手術ができない。手術をする場所の上流と下流を完全に遮断して初めて切ったり縫ったりが可能となるのだ。しかし、左鎖骨下動脈の起始部の上流というのは大動脈弓である。単純に遮断すると他の臓器への血流も遮断しなくてはならない。
現代日本で鎖骨下動脈盗流症候群の治療を行うとなればカテーテルによるステント治療だろう。閉塞してしまった左鎖骨下動脈の中をガイドワイヤーとよばれる針金を通して、穴をあけて金属製の筒で内側から広げるのだ。それで血流は回復する。
それができない場合には、人工心肺を使って手術を行う必要があった。脳に行く血液を分けて送るその手技は脳分離体外循環という難易度の高く専用の器具が必要となる人工心肺のやり方である。
「僕らの中で、人工心肺を使うことのできる魔法が維持できる人というのはいないんだ」
以前、人工透析という魔法を開発しようとした。その考えは概ね成功し、水魔法と毒除去と製薬魔法を組み合わせることによって血液中の老廃物の除去は可能だと思われる。だけど、それは短時間の話だった。
人工心肺を魔法で行おうとすると、手術が行われている最中にずっと絶やすことなく脳や他の臓器に血液を送り続ける必要があるのだ。レナであってもそんな魔力量はないだろう。だいたい、レナは麻酔科の位置に立っていてもらわないと僕が手術に集中できない。難しい手術で全身管理を任せられるのはレナだけなのだ。
「申し訳ないが……」
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
「他の治療法がないかどうか、探してみるよ」
「ありがとう、ございます」
それ以上、僕はラチェットにかける言葉を見つけられなかった。ラチェットも僕たちにはそれ以上なにも言わなかった。
彼が診療所を出て行ってから、僕はレナに言った。
「大丈夫、僕はあきらめてはいないよ。今の僕にはできないって言ったんだ。今のね」
***
「前回の王都防衛戦の功績があったために、今回の作戦も我がユグドラシル領が立案した作戦が採用された!」
ジェラール=レニアンは王都に集まった騎士団を前にして演説を行う。士気があがって大歓声が鳴り響く中、その傍らに僕はいた。
いつもならばこんな所に僕はいない。きままに冒険者や診療所をしている方が性にあっている。しかし、僕の目的は他のところにあった。
「シュージ先生、協力してくれて礼を言う」
「いえ、ジェラール様。僕は僕の目的というのがあって、それが一致しただけです」
「そういえば、大発生の時には父上の命をシュージ先生に助けられた。今回も私が死にそうになった時はよろしく頼む」
「冗談としても笑えませんから。アレンに怒られます」
「兄上も来ているのだろう? よっぽど先生の事が気に入ったと見える。よく話題に出るからな」
アレンとは母親が違うとはいえ弟のジェラールは兄によく似ていた。イケメンというやつだ。ランスター領主のDNAが色濃く受け継がれているのだろう。もともとのユグドラシルの領主の血筋ではないというために次期領主になるためにいざこざがあったらしいけど、アレンが頑なにならない意志を押し通したことでユグドラシルの町はこれまでの血筋とは違うジェラールを領主として受け入れた。
苦難があったにせよ最終的にそれが受け入れられたのはジェラール本人の度量を皆が認めていたからだろうと思う。イケメンは税金を余分に納める法が制定されればいいのにと心の奥底から思うが、相手は次期領主で税金納めても自分のところじゃないか。世の中間違っているかもしれない。
兄であるアレンは僕らについてきてくれたけど、ジェラールの近くに現れて騎士団の士気に影響が出たら困るとか何とか理由をつけて王都観光に出かけてしまった。戦時中に近いにも関わらず、王都はにぎやかだ。僕も後で王都を散策しようかなとか思っている。
「シュージ、どうしたの? いきなり王都防衛戦に加わるとか言っちゃって」
「レナ。後で詳しく話すよ。僕もまだ考えがまとまっていないんだけど、多分ここだと思うんだ」
「ラチェットの診察の時から、なんかおかしいよ? 大丈夫?」
「大丈夫だよレナ。僕は僕だ。そして僕は医者なんだ」
たまたまジェラール次期領主の戦いに、僕の目的が重なっただけなんだ。これでも、Sランク冒険者なんだと都合の良い時だけ言ってみるのもありだと思っている。
僕は、なんだかイライラしているのを自覚していた。プライドというやつが胸の奥で騒がしく動き続けている。今の僕にはできないって言ったんだ。今のね。




