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第六十五話:悪性胸膜中皮腫4

「なるほど、これが原因……」


 洞窟の入り口に門のように設置してある魔道具をつまんでメルジュは呟いた。少し力を強くいれるとパラパラと崩れるほどに線維が毛羽だっている。僕はそこから少し距離をおいて彼の行いを眺めていた。


「これは何かで覆ってしまうと魔力の阻害ができなくなるのです。おそらくはその粉塵というのが魔力を吸収してくれるからこそ、魔道具開発において最も重要な外側からの魔力に影響されない空間というのを作り出すことができている……。この空間は私の魔道具開発には必須のものなのです」


 やはり、世の中そううまくはいかないものだとメルジュは言った。

 何年もアスベストの粉塵に暴露されつづけた肺はボロボロになっている。ちょっときつい運動をしただけでも咳が止まらないようだった。さらにはその右胸には悪性胸膜中皮腫あくせいきょうまくちゅうひしゅという腫瘍が巣くっている。


「できれば、もうこの魔道具に何もない状態で近づかないで欲しいのです」

「今更、手遅れなのでしょう? それに私は魔道具の開発をやめるつもりはありません」

「手遅れとは言えません。きちんと治療を受けてくれれば、生きていくことはできます」

「魔道具の開発をやめて? それでは私が生きて来た意味というのはどうするのですか?」


 これはかなり頑固な考え方をしている。一度決めたことを覆すのが非常に面倒な人種だったようだ。


「……逆です」


 本当ならば、こんな事は医者としてはしてはいけないのかもしれない。だけど、僕はメルジュの手術を行って腫瘍を取り除くと決めていた。


「何が逆なのですか?」

「それを話す前に……」


 僕は荷物の中に忍ばせていたあるものを取り出した。これはレナに頼んで転移テレポートを使ってもらってまで手に入れたものである。魔道具が出来上がったというのに、僕たちがユグドラシルに帰らないのもメルジュが治療に同意してくれて一緒に帰ってくれるのを待っているのだ。


「これを、飲んでください」

「これは……」



 ***



 以前行ったこの切り方では、術後にひどい痛みが出てしまってリハビリテーションに支障をきたすほどだった。痛み止めをたくさん使った記憶があるけど、そうでもしないと手術を行った時に奥深くが見えてこない。胸腔鏡きょうくうきょうを使えばその点は改善するのかもしれないけど、それはこの世界にはないのだから仕方がない。それに、魔法があるために術後の痛みは気にしなくてもいいだろう。治ってしまえば痛みを訴えることはないのだから。


後側方開胸こうそくほうかいきょう終了、肋骨を広げるよ」


 用意された開胸器で肋骨の間を広げていく。後側方開胸こうそくほうかいきょうでは肋骨の間を背中に向けて切って広げていくアプローチの仕方であり、肋骨の間には肋間神経ろっかんしんけいというかなり感度の高い神経が走っている。そのために意識があればかなり痛い。


 僕は現代日本では術後の痛みを気にしてできるだけ少なく切るところを遠慮なく手術中の視野がもっとも良いくらいになるまで開けた。とはいっても肺の一部が胸壁きょうへき癒着ゆちゃくしているから無理に広げると肺を傷つけてしまいかねないので注意しながらだ。


「やはり胸水も溜まっているか」


 アスベストに侵された肺と、その周囲の胸膜の中にできた中皮腫ちゅうひしゅの周囲には胸水きょうすいという染み出た液体が貯まっていた。炎症がずっと続くとこういった現象が起きやすい。


「さあ、胸膜をはいで中皮腫を取り除いていくよ」

「はい」


 助手をしてくれているのはミリヤである。サーシャさんは器械を出してくれている。二人ともにすでに何度も手術に入ってくれているために非常に作業がスムーズになってきた。僕がやりたいことを詳しく説明しなくても汲み取ってくれて動いてくれる。


「ローガン、吸引!」

「分かった!」


 術野の外ではローガンとノイマンが手術の手伝いをしてくれている。今は足踏みのふいごを使って肺の周りの胸水きょうすいを吸い出す道具をローガンが踏んでくれていた。スライムの素材で作られたホースにつながれたその先の筒は消毒済みのものであり、汚い部分が身体に触れることはないように細心の注意を払っている。


「レナ、もうちょっと呼吸が速いほうがいいかもね」

「了解」


 麻酔科の位置で立ってくれているのはレナである。麻酔の代わりに使った魔法である昏睡コーマの効き具合と、手術中の患者の呼吸を管理してくれているのが彼女だった。レナは僕の書いた本をしっかり読んでくれているので、医学を習っているはずのローガンよりも医学に詳しい。しかし、今回の手術は片方の肺だけで呼吸をしていることもあって、やや呼吸数が足りなかったようである。


 心眼と探査サーチを行う。悪性胸膜中皮腫を探すのだ。しかし、周囲にアスベストの粒子がある状態で中皮腫のみを探査(サーチ)するのはかなりの魔力を使った。


 理由は探査(サーチ)の発動を体に害をなすと僕が認識しているものとして練習してきたからである。


 悪性新生物と呼ばれる通称「がん」にも様々な種類がある。それらは増殖を繰り返す間にも性状を変えるなんてこともしょっちゅうだった。

 だからこそ、探査(サーチ)はある程度幅をもたせた認識で行う必要があり、今回はそれが災いしたと言っていい。


「魔力量がきつい…………ミリヤ、悪いが回復(ヒール)は任せた」

「はい!」


 心眼に探査(サーチ)だけではなく、雷撃(サンダーボルト)の魔道具である電気メスまで使わなければならないのだ。

 中皮腫を少しでも残すわけにはいかない。


 僕は探査(サーチ)をくまなく行って中皮腫の周囲の胸膜を切り剥がしていった。



「きつい……」

「シュージ、魔力を回復させて」


 ローガンの父親に頼んでおいた魔力回復の世界樹の雫を飲む。それでも、この手術で使う魔力は今までの比ではなく、軽い目眩が止まらない。

 そもそも僕はそこまで魔力量が多いわけではない。こちらの世界に来た時にいくらか肉体は若返ったような気はするけど、特別な力をもらったわけではない。日本にいた頃の知識と技術を駆使して治癒師としてSランクまで上り詰めることができたが天才とは程遠い。


 そういった意味でレナは明らかに天才だった。この年齢ではありえないほどの魔力量とそれを使う技術がある。ミリヤも優秀だ。実は僕の魔力量は彼女たちと比べると少ないのである。その代わり、魔力を効率よく使うというのが僕の得意分野だった。


 今回の医療魔法は、どれだけ効率よく魔法を使ったとしてもかなりの魔力を必要とする。三つの魔法の同時行使に加えて探査サーチはいつも以上に精度を要求された。


「あとは、肺の切除部分を決めよう」


 胸膜をある程度剥がしたところで肺の切除に移る。

 本来、悪性胸膜中皮腫あくせいきょうまくちゅうひしゅがここまで進展していた場合には片肺の全摘出が必要となる。肺には動脈、静脈、気管支が繋がっており血液と空気が流れているわけであるが、これらを全て塞いだ状態で切り取る必要がある。肺は右が上葉、中葉、下葉の三つ、左が上葉と下葉の二つに分けることができる。これらは動静脈と気管支の分岐がそう分かれているからだ。


「下葉だけ、切除するよ」


 中皮腫は他の場所には転移していない。これを調べるために心眼と探査サーチを同時に発動させているのだ。できる限り手術のダメージを少なくする。そしてダメージを負った部分をすぐに回復ヒールで治す。魔法と手術の融合でこのようなことができる。


 下葉に続く動静脈と気管を切る前に、下肺を剥がしていく。癒着した胸膜ごと肺の下葉を切除するのだ。こういった腫瘍の切除は、切り込んだ断面に腫瘍細胞がいた場合に、播腫(はしゅ)と呼ばれる転移の仕方をするかもしれないと言われている。播腫(はしゅ)とは血液やリンパの流れではなく、接していた部分や周囲ににじみ出た液体の中に細胞が移って、その先に転移することを言う。だから、手術は基本的に腫瘍の周りを多目に切り取る。


 慎重に下葉を剥がして、血管と気管支を露出させた。現代日本では、ここの処理には自動縫合器を使う。そんなもののないこの世界では、細かく縫って完全に閉鎖してから切り取らないいけなかった。もちろん、切り取った断端には回復(ヒール)をかけて治しておく。


「とれた!」


 肺の下葉と周囲の中皮腫が入った胸膜が一体となったものを体外に取り出した。まだローガンなんかはこの臓器を取り出す瞬間が苦手である。たしかに気持ちのいいものでは決してない。


「ま、魔力が限界かも‥」

「先生、あとは任せて。大丈夫、回復(ヒール)をかけながら傷を閉じていくのはできるから」


 ふらふらな僕を気遣ってミリヤが言ってくれた。

 だけど、最終的に腫瘍細胞が体内に残っているかどうかの確認が必要である。


「心眼を……」


 僕は最後の魔力をふりしぼって心眼と探査(サーチ)を発動させる。……よし、大丈夫だ。


 完全に腫瘍細胞がなくなったことを確認すると、僕の足は力を失った。カクンと床に膝をついて慌てて手術台を掴もうとするけど、手は思ったようには動かない。


「シュージ!」


 僕は外科医である。気を失おうとも、手術野を不潔にはしない。仰向けに倒れた僕の許にレナが駆け寄ってきた、くらいまでは意識があった。



 ***



「ねえ、そんなに落ち込まなくてもいいじゃない」

「いや、手術は失敗したんだ。なんて不様な…………」

「ミリヤがきちんと傷を閉じたわよ」


 結局、僕が魔力欠乏で気を失ったあと、ミリヤとサーシャさんでなんとか傷を閉じた。手術が終わり、翌日まではレナたちがなんとかメルジュの全身管理を行っていてくれたようだった。

 翌日、僕は意識を取り戻し、メルジュの治療を引き継いでそれを知った。


「私は気にしてない。ミリヤ殿とサーシャ殿には感謝しているのだ。もちろんシュージ先生には返しきれないほどの恩を感じている」

「ほら、メルジュもそう言ってるんだから」


 メルジュはすっかり元気になっていた。だけど、僕の目の前には許しがたい現実が突きつけられている。


「先生、ごめんなさい」

「いや、これは僕の落ち度だ。魔力の欠乏を予測できなかったのは僕の未熟さが原因であって…………」


 ミリヤが謝る。だけど、僕はミリヤではなく、僕自身を責めた。

 メルジュの胸には傷痕(きずあと)に沿って触ると分かるくらいの段差ができている。

 それは胸壁と皮膚を縫い合わせる時に正しい層同士を縫い合わせられなかった場合に起こる現象である。段違いという表現もされ、段差が形成されて治ってしまっていた。


 まだ、ミリヤにもサーシャにも皮膚すら縫わせたことはない。見よう見まねで初めて縫い、回復(ヒール)をかけたが上手くいかなかったのだろう。


「見た目は悪いのかもしれないけど、その腫瘍はきちんと取りきれたから治療は完璧じゃない」

「いや、そもそも服を着てしまえば見えないから私は気にしてないのだ」


 レナとメルジュは全力で僕を慰めにかかっている。だけど、違うのだ。


「これは僕の信条に反するんだ。この手術は僕の中では成功とはとても言えない」


 治療は成功だ。だけど、僕のこだわりを理解してくれる人間はそこにはいなかった。



 最終的に、レナが「そんなに落ち込むとミリヤに悪いからやめて」と言って、僕は更に落ち込んだんだけど、それ以上言うのだけはやめた。



「それでよ、なんで兄弟子は急に手術受けてくれるようになったんだ? いや、いい事なんだけどよ」


 それまで何も言わなかったルコルが聞いた。ずっと病室で寝ているメルジュの傍に付き添っていた彼がずっとずっと聞きたかったことだろう。


「うむ、私も当初は魔道具の作り方を残す事ができたからもはや思い残すことはないと思っていたのだがな」


 僕があの時にメルジュに飲んでもらったのは、というより一緒に飲んだのはアマンダ婆さん秘蔵の酒である。主治医命令であれだけ量を減らせと言ったのに隠れて飲んでいたから没収していたのだ。

 そしてその酒をメルジュにたくさん飲ませた。医者としてどうかとも思うが。


「シュージ先生の話を聞き、知識を正しく伝えるという事の難しさを理解した」


 お互いに酔っ払った状態で、僕が毎日書いている医学の本のことと、それをローガンという少年に教えていること、レナも積極的に読んでくれていることなどを話したのだ。


「これも、そうだな」


 メルジュはそう言って傷痕を指でなぞった。


「言葉として知っていても、それを活用できなければ知識とは言えない。シュージ先生が特に気をつけて弟子に伝授している教育の真髄を教えてもらった気がした」

「つまり……」


 メルジュはルコルと向き合った。それは単純に体が向き合っただけではなく、人として向き合ったと言うべきかもしれないなんて事を僕は思った。


「お前がきちんと私たち一族の技術を受け継いだと確認するまでは死ぬわけにはいかん」

「あ、兄弟子…………」

「今日よりお前は弟弟子ではない、正式に私の弟子だ」


 魔道具開発用のアスベストは埋めてしまった。魔道具開発であれほどに外からの魔力の影響を遮断できるものはないそうだが、他の方法をルコルと探すと、メルジュは言った。

 これからはユグドラシルの町で魔道具師として新たな人生を歩むのだと、その顔は希望に満ち溢れている。


「とりあえずは一件落着ってやつね」

「いや、本当に助かった。先生たちには恩義ができたな」

「そう思うならちょっとは安くしなさいよ」


 気が抜けたのか、ルコルは椅子に座り込んでしまっていた。


「仕方ねえな、ちょこっとだけだぜ」



 この後、自分の店を持ってそれなりに好き勝手していたルコルが修行中に逆戻りとなって大変な生活に身を投じていく事に気づいたのは、メルジュの退院の前の日のことだった。

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