第六十四話:悪性胸膜中皮腫3
「その、呪いとは……」
出て行こうとした足を止めて、メルジュはこちらを振り返った。普通、こういう事を言われてしまうと驚きと不安で逆上してしまう人までいるのであるけど、メルジュはそんな事は全くなかった。むしろ、それを言われたというのを予想していたかのような顔である。
「最終的に血を吐いてしまうことがありますか?」
「ええ、場合によっては喀血するでしょう。息を吸う事が辛くなる人も多い」
「そうであればそうなのでしょう。それで、理由も分かるとおっしゃっていましたが、それは魔道具の作製、……いや研究に関連していることなのでは?」
「……その通りです」
気づいていた? それでいてこの状況を受け入れている人に見えた。
「何だよ、それ!?」
「ルコル、黙っていろ。それでシュージ殿、すぐに死ぬということでもないのでしょう?」
「ええ、もちろんすぐという事はないと思いますが」
言いながら僕は心眼を発動させた。状況は思ったよりも悪い。現代日本でも対応できるかどうか分からないくらいだった。僕は頭の中で治療の方法を組み立てる。まさか、この病気がこの世界で見つかるなんて思ってもいなかったのだ。
「一週間くらいは大丈夫ですか?」
「いえ、命に関わるのはもっと先の事です。ですが、数年後はどうなっているかは保証できません」
「何だよ、おい! シュージ先生! いつもみたいに治してくれるんだろう!?」
ルコルが思い余って僕に掴みかかってきた。もちろん危害が加わるほど力が入っているわけではないけど、レナやノイマンがそれを引きはがそうとしてくれている。僕はルコルに落ち着いてと言うことしかできなかった。
「治療? そんなものは必要ないです」
いつの間にか、出口の扉の所ではなく奥の書斎に入っていたメルジュは言った。その言葉と行動に僕は理解が追い付かない。ルコルも、他の人も同じだったようだ。
「兄弟子! このシュージ先生は呪いを治すことができるんだ! もしかしたら助かるかもしれねえんだぞ!」
「ルコル、文字の読み書きはきちんとできるようになっているか? 出ていった時には心もとなかったからな」
「そんな事を話している場合じゃねえだろ!」
ルコルは、ユグドラシルの町で魔道具屋を開いているとはいってもまだ若い。二十代の半ばという年齢で独り立ちしているというのは優秀な証拠である。対してメルジュは一回り以上年を重ねているようだった。
「シュージ殿、魔道具を作る職人というのはですね、職人という一面も持っているのですがそれとともに発明家という一面もあるのですよ」
「兄弟子!」
「ここにいるルコルは先代でもある私の父親が弟子にと思った人間です。父の想いというのを私は理解しているつもりでしたが、ここにいることを許さずに町に出るように言いました」
メルジュの手の中には一冊の本があるようだった。僕はその本を見て、なぜだがローガンに医学を教えるために書いている本を思い出した。誰かに知識を引き継がせるために毎日書いている本は、試行錯誤しながら表紙をすり減らしながら作られる。
「人の命を守る魔道具……私の最後の作品にふさわしいかもしれませんね」
「メルジュさん、治療を受ける気はないのでしょうか」
「私には私の命よりも大切なものがあります。それだけの事です」
「なるほど」
なんとなくだけど、僕はメルジュの言いたいことが分かるような気がした。ルコルは言いたいことがたくさんあるようだったけど、僕はメルジュの言うことを最後まで聞くことにした。
「この魔道具を見れば、ルコルの腕というのは十分に合格点にきているということが分かります。魔道具というのは作成よりも開発の方が難しい。魔法使いの編みこんだ魔法の術式を、その魔法使い以外の魔力で具現化する時にどうしても無駄な魔力を使ってしまう。それを極限まで削っていく作業が必要なのです。ですが、一度設計図が出来上がってしまえば、ある程度の腕があれば再現は可能となる……」
メルジュは本をルコルへと押し付けた。
「帰るまでに全て暗記しろ。むりならば書き写せ」
「兄弟子……」
「それは我が一族に伝わる秘伝だ。最後のほうは父の術式も、私の術式も組み込まれている」
技術の受け継ぎがなされようとしている。受け取ったルコルは泣いてしまっていた。
「この時期に戻ってきてくれて良かった。でなければ村の人に頼んでこれをお前の所に送らねばならんかったからな」
「いや、兄弟子……こんなものよりも治療を受けてくれよ……」
「私には子がいない。父もそれをずいぶんと気にかけていた。そんな時にお前がここにやってきた」
ルコルに魔道具師の才能があるというのを見抜いたメルジュの父はルコルを鍛えようと思ったという。だけど、その頃にはメルジュの父は呪いに侵されていた。それは代々の魔道具師がかかる呪いなのだとメルジュは聞かされた。おそらく、魔道具開発を行うものばかりがかかる呪いである。一族はこの呪いと戦っていたといっても過言ではない。
そんな呪いとの戦いにルコルを巻き込みたくはなかった。それにこれはもしかしたら一族しかかからない呪いなのかもしれない。どちらにせよ、メルジュは父が呪いで死んだあとにルコルを同じ環境に置いておくつもりはなかった。
「だから、俺を追い出したってのか……?」
「魔道具師は術式さえあれば魔道具を作ることは可能だ。この呪いは私で終わりとすると、父に誓った」
父は最後に頷いてくれたわけではなかったけどな、とメルジュは寂しそうに言った。
「だけどな! このシュージ先生ならばその呪いだって治るんだぜ! もう何人も救ってきたんだ。このノイマンなんて二回目だって言ってたくらいだぜ!」
「よいのだ、もう覚悟したこと。私にとっては私の命よりもこの技術をお前が受け継ぐ方が重要だ」
本を読むだけで魔道具が作れるようになるかどうか、それだけが心配だった。だけど、こうやってルコルはこの村に帰ってきた。だから、その腕を見極めさえすれば思い残すことはない。メルジュの突き放すような話の中には、ルコルを本当の弟のように思う優しさが感じられた。
「なんだよ、それ……」
「命ある限り、開発は私が行う。お前は技術を次の世代に引き継ぐ役目を担ってくれ」
それだけ言うと、今度こそメルジュは小屋を出ていった。足取りはここに来た時よりも速い。だがメルジュは咳込んでいるようだった。
「くそっ、なんだってんだ……」
メルジュのいなくなった小屋の外でルコルが本を読んでいた。それはメルジュに託された魔道具の本である。半べそをかきながらも読みつづけるルコルの姿には執念というものを感じた。
ノイマンとミリヤはルコルの代わりに食事を作ってくれるそうだ。
「ねえ、これからどうするの?」
「どうって?」
「メルジュさんの治療をするんでしょ?」
レナはいつもこういう時に心配そうに僕に聞いてくる。僕が患者を見捨てるわけがないというのは分かっているのだろうけど、それでも患者の方から治療を拒否するという事に対して、僕が冷たく見放す可能性というのも残していることをも理解できているのだ。
「まず、メルジュさんの肺は完全には治らない」
「……!?」
徐々に進行していく病気の原因はもう何十年も前にあったのだろう。いまさら何かをしたところで肺が完全に治ることはないほどの年月だった。
「メルジュさんたちはもう何年も前から、魔道具の開発というのが体をむしばむものだという事を知っていたようだよ。原因が何かは分からなくても、魔道具を研究する者は例外なく呪いに侵される……」
それを知っていて、その呪いに侵される覚悟があるものだけが魔道具を開発してきたのだろう。メルジュはその連鎖に自分の子孫を巻き込みたくなかったから妻を娶らなかった。さらには技術を廃れさせたくない父親の意向を無視してまで、ルコルを遠ざけた。技術の受け継ぎは本で行う。それがメルジュの覚悟だったのだろう。
「でも、そんな……」
「安心して、レナ。僕はメルジュさんを助ける」
メルジュという人の人生をまとめて助けるなんておこがましい事は考えていないけど、この場合はどういえばいいのだろうか。
「技術も廃れさせないし、病気もなんとかする。そうすればメルジュさんも生きていけるしね」
本に技術を書いたからそれで終わりなんてさみしいことは言わせない。僕はローガンに医学を教えるという使命があり、その点でメルジュに共感するところがあると思う。その想いを成就させるのを手伝う……やってやろうと思った。
生き延びることができて、魔道具の開発を続けることができるというのなら、その時は僕の欲しい治療道具を作ってもらおうじゃないか。
***
空気中には様々な物質が浮かんでいる。それは呼吸とともに肺の中に吸い込まれる訳であるけど、ほとんどは肺までたどり着かずに喀痰や粘液にからめとられて体外へと排出される。量がおおければ咳やくしゃみとなってまでだそうとする機構の他にも、肺まで達した物質や細菌のほとんどは免疫細胞が貪食して消化されてしまう。
だが、ここにあまり排出されることのない物質が存在する。いや、排出されないわけではない。99%は排出されると考えていい。残った1%が、肺に障害をもたらす。
アスベスト。
和名で石綿といわれるこの繊維状の鉱物は耐熱剤としては非常に優れた特性を示し、一時期の現代建築では使うことが当たり前である時代があった。アスベストを溶かしたものを壁や天井に吹き付けることによって均一に塗るわけであるが、これに健康被害が報告された。
石綿肺、アスベスト肺と呼ばれる肺疾患は、アスベストの粉塵を吸い込むことによって肺の組織を広く腫れあがらせ、徐々に瘢痕化とよばれる肺が硬く癒着した状態を引き起こす。もちろんそれは肺の中での酸素交換を障害し、息切れ、咳などの症状を引き起こす。
肺の中にまで吸い込まれたアスベストの粉塵は体外へ排泄されることなく、その場で軽度の炎症を繰り返すのである。気管支鏡で組織生検などを行うと、組織の中に「アスベスト小体」と呼ばれるものが見つかることがある。顕微鏡で鉄アレイのような形になっているこの物体はアスベストの線維の周囲にタンパク質が数珠状にくっつくことによってできるもので、その周囲が常に刺激されていると考えればいい。
そしてこの石綿肺の悪いところの一つが潜伏期の長さである。それは他の病気にはほとんどみられないほどの長さを示し、十年から数十年と言われている。数十年前にアスベストを吸ってしまい、その後は全く吸っていなくても石綿肺になる可能性があるのだ。
皮膚などでも、傷がついて治ることを繰り返すと硬くなって治る。なんども繰り返すとさらに硬くなる。何年もかけて肺でこれと同様のことが起こっている。これが瘢痕化だった。そしてその原因は吸収できない鉱物であるために、取り除かれることなく肺の中にとどまり続ける。
ただ、これだけでは死んでしまうまで肺が悪くなることは少ない。少なくとも現代日本では酸素投与や投薬である程度改善は見込める。しかし、この石綿肺にはある合併症があった。
それは、肺癌や胸膜中皮腫とよばれる悪性の腫瘍の合併である。
メルジュはこの悪性胸膜中皮腫とよばれる肺の周囲の膜の間に悪性の腫瘍が広がる病気に侵されていた。その予後は非常に悪く、転移もしやすい。手術で完全に取り除く必要があったが、その場合には片方の肺の全てを取らなければならないこともある。
「メルジュさんは肺が片方だけになってでも生きていく意志をもっているのだろうか」
レナは答えてくれなかった。想像もつかないのだろう。そして残る方の肺も石綿肺で硬くなり空気を吸い込みにくく酸素を交換しにくい肺である。陸上で溺れるという状態になりかねない。
原因はあの魔力を阻害する魔道具である。あの繊維状の構造が魔力をうまいこと吸収するのだろうから、周囲を何かで覆ってしまうと効果はなくなるのだろう。あの周囲には常にアスベストが舞っている。マスクもせずにあそこを毎日のように通っていた魔道具師たちが石綿肺になるのはほとんど必然であり、だからと言ってあの魔道具がなければこれまでのような開発はできなくなる。
二日して、メルジュは僕の思ったとおりの小型の除細動器を作り上げた。僕は何としてでもメルジュを治してユグドラシルの町でルコルの魔道具屋を手伝ってもらおうと思った。




