第四十四話:十二指腸乳頭部癌8
「誰だ貴様ぁぁぁあああ!!」
ブラッドが吠えた。その拳に握られた短剣はさきほどの攻防で折れてしまっているが、ないよりはマシだろうという判断だったのだろう。そして次の攻撃も魔法障壁に阻まれて、さらには氷結の直撃をくらってしまったブラッドは吹き飛ばされたのちに意識を失った。
「あ、ああぁぁ……お、王女さま……」
血だまりを形成している地面にひざから崩れ落ち、泣く事もできずにいるのはイーネだった。そして彼が王女と呼んだ少女はその血だまりの中でピクリとも動かないでいる。
「ノイマン! ブラッドを頼む! ミリヤはマインに回復魔法をかけろ! 急げ!」
「ああ、分かった!」
「分かりました!」
さすがにAランクパーティーである。冷静に対処ができているのだろう。そしてマインにかけよったミリヤはその最大の魔力を注ぎ込んでマインの治療を開始した。
「あ、あ……」
イーネはどうすることもできずにその光景を眺めていることしかできなかった。ブラッドの体を担いだノイマンが叫んでいる。彼を馬車に乗せて、さらにはミリヤとイーネにも乗るように急かす。
「急げ! 先生の所に連れて行くぞ!」
ミリヤの回復が効いていないこの状況で、助かる道があるとすればシュージの診療所へ連れて行くことしかできないのだろう。その判断はおおむね正しく、それ以外に選択肢などない事はこの場のほぼ全ての人間が理解できていた。塞がらない傷を抑えながら、ミリヤがマインを抱きかかえて馬車に乗せる。イーネがふらふらと後に続くと、馬車はアレンを残して走り去った。
「置いていかれたな」
「お前こそ、追わないのか?」
長剣を襲撃者に向けたままでアレンは聞いた。その答えが分かっているのであるが、確認くらいはしておくべきだと冷静な頭が告げていたからだ。
「あれはもはや助からん。我の仕事は終わりだ」
強大な魔力を周囲にまき散らしながら襲撃者は語った。マインはシュージの診療所へと運ばれた。であるならば、助かる確率というのはゼロではないとアレンは思っている。あの医者はこれまでも数々の命を救ってきた。マインという少女の命を繋ぎ止めることもできるはずだと信じている。ならば、この場から襲撃者を診療所へ向かわせないということがアレンの使命だった。時間稼ぎのために、アレンは質問をしてこの場を凌ごうと画策する。
「王子の刺客か?」
「くはっ」
その質問に対して襲撃者は笑った。あまりにもその質問がおかしいとでも言うように。
「王子など、我は何の関係もない。王国の後継者争いなどに興味はない」
「なんだと?」
「いいだろう、我の望みは果たされた。あの少女で最後だからな」
襲撃者はその妖艶な口元をニヤリと釣り上げた。仮面をしているために顔の全ては分からないが、やけに色の白い女性だという事だけが分かる。他は黒のマントとフードで覆われていた。
「あの血筋を根絶やしにするのが我の望みよ。あの母子は王家に保護されていたようであるが、馬鹿な王子が追い出すまでは手を出せなかった」
「そ、それでは……」
「ふふ、喋りすぎたな。もうここに用はない。我は安心して眠りにつくことにでもしよう」
そして襲撃者はその場で転移の魔法を使って姿をかき消した。
「転移だと!?」
それは超高度の空間魔法である。魔術を極めた人間ですら唱えることができるのはほんの一握りであり、そのほとんどは王宮仕えやSランク冒険者などであった。そんな魔法を行使することのできる存在であり、王女の命を狙う者というのにアレンは心当たりがない。しかし、それは確実に存在した。
「くそっ!」
転移が使える者に対してここでの足止めなどまるで無意味、むしろこっちが足止めをされていた事に気づいたアレンは急いでシュージの診療所へ向かおうとする。
「先回りさせたか?」
「もともと診療所には見張りをつけております」
その戦いを見ていた者たちがいた。王子を擁立することを画策している大臣の雇った刺客たちである。
「しかし、我々以外にも王女の命を狙う者がいたとは」
「忘れろ。ここで見た事は全てだ」
「……はい」
指揮官の中では打算が働く。あの襲撃者というのが誰なのかが指揮官には分からない。だが、その対象は王女セレーナであった。
先を越されたというのは事実であったが、我々の目的は達成されたと考えるべきだろう。どんな方法であっても王女セレーナを殺してしまえば、後継者は自分たちの擁立する王子だけとなるのである。この状況は悪くないと指揮官は思う。
ただし、真実を全て告げるべきかどうかを迷っているのだ。自分たちの手柄として報告した後に、あの襲撃者が王子に向かって王女を殺したのは自分であると伝えることがあるかどうか、である。話の内容からは他の誰かに雇われているわけではなく、他の目的のために王女の暗殺を企てたようだった。
結局、指揮官は王女セレーナを殺したと思われる襲撃者の事を報告はしなかった。診療所を見張らせていた部下から、王女セレーナと思われる少女が診療所に入っていったこと、そして最終的に翌日に棺桶が墓場まで移送されたことを報告され、命令を遂行したと判断した指揮官は王都へ帰還したのだった。
***
「レナさん、悪役がはまりすぎで笑いを堪えるのが大変でした」
「ちょっとそれ、どういう事よ!?」
診療所へと転移したレナはあとから担ぎ込まれてきたマインたちを迎えた。
このあと魔力が回復したのを確認した後に、シュージとレナの家へとマインを転移するのがレナの役割であった。家に帰ってから、襲撃者たちの見張りがいないことを確認した二人は血だらけの体を清めるために風呂場へと直行したのである。魔力が少な目になっていたレナであったが、それでも風呂を沸かすことくらいはできた。
「でも、本当にこの血が入った袋だけを切り裂くことなんてできたんですね」
「当たり前よ、私を誰だと思っているの?」
マインのお腹の中にはゴブリンの血を大量に溜め込んだ革袋が抱えてあった。レナはそれを風の魔法で切り裂き、マインを殺したかのように見せかけたのである。今頃、シュージたちがマインを治療しているかのような演技をつづけている頃だと思うと少しだけ笑いがこみ上げてきた。
「対象が死ねば、刺客はもう襲ってこないわよ」
皆が集まったイーネ商会のマインの部屋でレナがそう言った時、それはもう言葉が少なすぎて場の空気が凍り付いた。
「いや、あの……レナさん?」
「だから、刺客にマインが死んだと思わせればいいのよ」
ああ、そういう事か、と他の数人がほっとした空気を醸し出した。一番ほっとしているのはレナに抱かれたままのマインだっただろう。
「具体案はあるのか?」
「それはあるわ」
レナの説明というのは意外にも簡単なものだった。先に殺した演技をすればいい。その計画を実行するのに障害はあまりなかったのである。ただし、シナリオを考えるのに数日かかった。
***
「切除に入るよ」
全ての臓器の剥離が終了して、十二指腸を中心として胆管、胆のう、膵臓の頭部の切除へと移る。膵臓は潰すわけにいかないけど、胆管と十二指腸は専用でつくった遮断用の鉗子を用いて組織が痛まないように遮断し、それぞれを切除した。
「膵臓の出血は電気メスで止血するよ。唯一、膵管からは膵液が出てくるからこれを焼かないように注意が必要なんだ」
膵臓の断面の止血を電気メスで行う。小さい血管からじわじわと出てくる出血を止め、僕はミリヤやローガンに見えるように膵管を鑷子で指し示した。
「この透明な液体が膵液ですか?」
「そうだよ。タンパク質、つまり肉になる成分を溶かしてしまうからこれだけを集めて抽出したらかなり厄介な液体になるほどのものなんだ」
そして膵液は十二指腸で胆汁や腸液と混ざり合って酵素反応を起こす。それまでは無害な液体だけど、酵素反応を起こすと急にタンパク質を分解しまくる液体に変化するのだ。これに対抗できるのは十二指腸から小腸にかけて粘液を分泌しつづける腸の粘膜くらいのものである。
「他の場所にこの膵液がついてしまうと確実に炎症を起こす。酵素反応を起こした後の膵液が逆流したら急性膵炎といって、お腹から背中にかけて激痛が走るし、場合によっては死んでしまうほどの激しい反応がでることがあるんだよ」
だからこそ、これから行う膵管空腸吻合というのは縫合不全がそのまま死に直結する手技なのだ。そのためにこの膵頭十二指腸切除術は難易度が高いと言われている。
「本当は、中に細い管とかを入れて術後何日も縫合不全が起こらないように気を配るのだけども」
ここは日本ではないし、僕は自重するつもりはないと決めたのだ。僕は日本では本当に精神をすり減らすほどに注意が必要であった膵管空腸吻合と、胆管空腸吻合をこなしていく。
膵頭十二指腸切除術の再建法というのはいくつかあり、その中でも僕が一番経験した方法をとった。胃空腸吻合、膵管空腸吻合、胆管空腸吻合の順で本来ならばもっと下側にあるはずの小腸である空腸を持ってきて吻合するのである。この順番で再建するのは、幽門を残すことができているからで、本来ならば幽門を切除してしまっているから胃の中に消化物や胆汁、膵液が逆流しやすいから胃の吻合は最後にすることが多い。
「さて、回復!!」
何度も言うが、本来ならば管を留置したままで縫合不全がないかどうかを確かめながら何日も様子を見るのである。そのためにこの手術は難易度が非常に高い。ただ単に切除するだけの手術より、こういう再建というのを行う手術は難易度が跳ね上がる。出来上がりの状態が最終的にはっきりするのは術後だから、確かめる方法というのが極端に少ない。
しかし、魔法は偉大である。
「よし、うまく縫合できたね」
多少隙間が空いていても、鑷子で回復をかけ終わるまでくっつけておけば隙間を埋めてくれる。これが数日かかると考えると、その間に膵液や胆汁などの消化液が隙間を溶かして、もっと広げてしまうことがありえた。縫合の糸をぎゅっと縛りすぎると、縛った部分に血が行かずに壊死することがありえた。
回復があれば、そんな心配はいらない。そして手術が終わる前にうまくいったかどうかが分かる。
「さあ、閉じるよ!」
僕はこうして超高難易度の手術を魔法を使って切り抜けた。
***
「本当にマインだって分からないね」
「うん、髪と瞳は変えることはできないけど、髪型変えて見たりすると印象ががらっと変わるしね」
念のために二週間ほどマインは僕とレナの家で過ごした。周囲に襲撃者の姿がないかとブラッドがずっと気配を伺っているけど、何も起こらなかった。
「ねえ、これってなんて魔法?」
「前よりも美人になったんじゃないか?」
「そうですね。私もやってもらおうかな……」
レナもノイマンもマインの顔をのぞきこんで感嘆の声を上げている。ミリヤにいたっては自分もやって欲しいとか言い出してノイマンに止められている始末だった。
ブラッドがぽかんとした顔をしながら僕に聞いた。この顔はあまり見たことないな。
「いや、本当にすごいな。シュージ、どうやったんだ?」
「え? 二重にしただけだよ?」
僕がやったのは美容整形手術である。死んだことになっているマインがこの町で暮らしていくとすれば顔をかえるのが一番だと思ったのだ。それのやり方は簡単で、一重だったマインの瞼を切って二重に重ねた状態で回復をかけるのである。そうすることで二重ができるし、魔法のおかげで短時間で行うことができた。綺麗な金髪が目立つマインは髪を短くして、服装を変えるとどこから見ても下働きの少女にしか見えなくなる。
「よく覚えていたね」
「シュージが書いてた本に載っていたのよ」
レナは僕が書いた覚書のメモのような本にも目を通していた。ローガンもミリヤもまだ読んでいない本である。そこには遊び半分で二重に変えてしまう整形手術のやり方を書いていたのだ。それも二行だけ。
「これで、イーネ商会で働くことができるわね」
「イーネさんと一緒にいられるね」
レナとミリヤに祝福されてマインは微笑んだ。しかし、その顔がすこし曇る。
「どうしたんだよ?」
その顔にいちばん早く反応したのはローガンだった。ローガンは術後のイーネさんを献身的に看護してくれた。一番最初にイーネさんたちと関係をもったのはローガンだったし、それ以外にも僕ら大人にはローガンが何を、というか誰を想っているのかがバレバレである。
「私ね、ここで働いたらだめかな?」
イーネさんに勧められたらしい。イーネ商会で働くと、さすがにマインの事を覚えている人がいるかもしれないと。だとしたら他の場所で働くほうがいいと思ったマインは真っ先にこの診療所を希望した。
「ああ、いいよ」
僕はニヤニヤしながらローガンの方を向いて言った。