第三十七話:十二指腸乳頭部癌1
「やっぱり、これだな」
白衣の袖を通す。白衣を注文したのはずいぶんと前のことで、本当は数日前には出来上がっていたのだけども、白衣を着たりするような余裕がない日が続いていた。周囲の人間からは変な服を着だしたという目で見られているけど、僕はこれを着ることで身が引き締まる思いがするのだ。僕のような医者にとっての戦闘服と言ってもよい。
大発生が終結したユグドラシルの町は空前の超絶好景気に沸きあがっていた。
大陸中から商人たちが集まり、魔物の素材を取引する中で、多くの人々がユグドラシルの町を目指して集まるという現象が起こっている。人の出入りが激しいという事は行政も冒険者ギルドもかなり忙しいわけで、さらには一定の割合で体調を崩す者も少なからずいた。
「診療所が流行っているというのはいい事なのかどうか分かんないわね」
「流行り病とか、事故がないわけだから良い事じゃないかな」
本日だけですでに数十人の患者が診療所を訪れていた。それのほとんどが回復で治るものだったためにミリヤにも手伝ってもらっている。しかし、中にはそれだけでは治らない患者もいる。
「本当は魔法の研究をしたいんだよ」
「そう言えば大発生の前に何かを発見してたわね」
「うん、レナは水魔法は得意かい?」
「水魔法ねえ、あまり使わないわね。お風呂を沸かすときくらいかしら」
苦手ではないけど、と付け加えたレナに僕は微笑み返した。それならば、僕の計画に問題はない。
「ローガンが帰ってきたら、ちょっと試したいこともあるし」
「その前に仕事を終わらせなきゃ」
世間が大発生の後処理で忙しい中、僕の頭の中は他の事で一杯だった。そのために、僕自身も成長しなければならない事が多い。
「レナ、水魔法の訓練をしてくれよ」
「何に使うのよ、今さら」
「治療だよ」
僕にはやりたいことができた。今の診療所と設備では日本で行っていた医療のレベルにすら届いていない。それはこちらの世界に魔法があるにも関わらずである。
整形外科領域は、回復があるために知識さえあればあとは魔力でなんとでもなる。自己治癒能力を向上させれば、術後の回復過程もあっと言う間だった。だけど、原因となっている病気の治療に対して回復が効かない場合に苦労する。というよりももともとそれは呪いと呼ばれていて、こちらの世界の人たちは呪いを治すことを諦めてしまっている。
僕はそれを治すためにここに来たのだと思っている。だから、今の設備でできない事を諦めてしまえるわけがない。何を使ってでも治して見せる。そのために、僕はある魔法の開発をすることにした。
医療魔法と呼ぶことにする。
もともとある回復や毒除去に加えて、昏睡や浄化、そして心眼もこれに該当するだろう。そして名前のついていない製薬魔法だとか、鑑定魔法だとか、医療に携わる魔法をまとめて、それで一つの学問としてしまうのだ。
そのためにも必要なのは、魔法以外で行えるものとそうでないものを区別し、魔法で代用可能なものを開発していくという事である。
まずは血液透析である。血液中の老廃物や過剰な電解質を取り除き、水分量を調節する魔法だ。これを開発しなければならない。
この魔法があれば、ダリア領の砦で亡くなった兵士はもしかしたら助かっていたかもしれない。もう手遅れなのだが、それでも将来同じような症状に合う患者を助けるためにも、僕はこの魔法を開発する。
全てを魔法で行う必要はない。今考えているのは、血管にカテーテルを刺して密封された容器の中に血液を貯め、魔法で血液透析を行って綺麗にした血液を体に戻すという、日本で行われていた透析の人工腎臓の部分とポンプの部分を魔法で行うという構造だった。
一定の速度で血液を吸い出し、綺麗にして戻す。将来的にポンプの部分などを機械で行うことは可能かもしれないけど、人工腎臓の素材をこの世界で用意できるとは到底思えない。
「だったら、二人がかりで魔法を行うのがいいわね」
「やっぱり同時に二種類の魔法を行うってのは、難易度が跳ね上がるか」
「それに、その老廃物? ってのを綺麗するのは製薬魔法の系統でしょ。血液を体に戻すのは水魔法系統よ」
レナの提案としては、魔法は系統ごとに覚えるのが一般的であるために得意なものと不得意なものが出てくる。そのために水魔法を使う人間と製薬魔法を使う人間を別々にした方が精度が上がるはずだということだった。理解はできる。
製薬魔法と毒除去をどうにか組み合わせられないかを考える。この世界の魔法というのは感覚的な所があるので、できるまでやってみるしかない。イメージが大切だと思って、僕はなんとか老廃物とか電解質を除去できないかを頑張るわけだけど、その種類が多すぎてなんとも言えない結果となってしまっている。
魔法の実験のために使える血液なんて少量しかない。ほとんどは患者だとか周囲の人間に頼んで分けてもらっているのだけども、あまり沢山もらうわけにもいかない。しかし実際には多くの血液を透析しなければならないために、魔法が完成したとしても訓練が必要となる。
「いっそ、本当に透析と同じようにするか……でも、無理かなぁ」
血液透析というのは、透析液という老廃物だとか過剰になるはずの電解質がほとんどない液体を半透膜を通して血液と混ぜ合わせることで血液中のそれらを除去する方法なのである。そのためには透析液を作らなければならなかったけど、その技術はない。やはり魔法でどうにかするしかないだろう。
「ねえ、毒除去というのはどんな感覚で行うのよ?」
「ん? 毒除去は血液の中というよりも、傷ついた周辺の毒を分解するようなイメージかな。全身に魔法をかけようとしても、毒が薄まりすぎてて効かないことが多いんだよ」
だから毒除去は効果がない事も多い。
「さっきとは意見が全く逆になっちゃうけど、水魔法で一か所に集めてみたら?」
「なるほど!」
ポンプの役目として、常に血液を循環させるほどの水魔法を同時に行うことはできないけど、流れてきた血液の中から一定の物質をまとめることくらいは水魔法と浄化を組み合わせればできるはずだ。完全に分離することはできないだろうし、むしろ全部を除去してしまうと逆に体に悪いだろうけど、一定量を除去し続けるのは可能であるはず。僕はさっそく水魔法を使って老廃物などを集める訓練を開始した。
「水魔法はほとんど使ってこなかったからなぁ」
「回復魔法と製薬魔法ばかりだったものね」
なんとなく、回復とか補助を中心とした魔法ばかり使ってきたのである。攻撃に使うことのできる魔法はほとんど覚えてなかった。苦手意識でもあったのかもしれないし、僕は医者だからと思っていたのかもしれない。だけど、これからは医療魔法として覚えていこうと思う。
「ちょっと、すぐにはできそうにないからレナが手伝ってよ」
「分かったわよ」
レナが水魔法を唱えると、血液の成分に偏りができ始めた。その濃度の濃いほうに向かって毒除去と浄化を混ぜた僕オリジナルの魔法をかけていく。見た目はあまり変わっていないけど、老廃物はずいぶんと少なくなったはずだった。これを全身の血液で行う必要がある。魔力が足りるだろうか。
「よし、老廃物はだいぶ除去できたよ」
魔力さえあれば、血液透析は可能である。水魔法の部分も合わせて行えるようになって初めて血液透析として完成するのだ。
「あとは水魔法を中心とした訓練が必要だね」
「それでローガンが帰ってきたらって言ってたのね」
「うん、僕だけができてもあまり意味はないんだよ」
出来上がった血液透析の魔法の要点をまとめていく。最終的にこれを本にしてローガンを初めとして医療魔法を覚えていく人たちに学んでもらうのだ。
僕は僕一人でできることの限界を知った。いや、それは日本にいた時から十二分に理解させられていたはずだった。だけど、こちらの世界に来て医学を知らない人たちを相手にしていて、忘れたふりをしていたのだ。
脳裏に浮かぶのはダリア領の砦で死んでいった兵士と、あの場にいたラッセンという治癒師である。彼も正しい知識をもっていればあのような事はしなかったはずで、彼は彼なりに正しいことをしようとしていたのだろう。治癒師をしている人間が、面子だけの問題で兵士を見殺しにするわけもなく、僕の意見を聞いた彼の顔には侮蔑ではなく怒りが現れていたからだ。
少しずつでいい、僕の知識を分けることで救われる人がいれば……。
思いつく医療魔法を書きだすだけ書き出して、僕はサントネ工房へと向かう。まだ足りないし、もっと必要な物が多いと思ったからだ。
***
「なあ、父さん。やっぱり残ってた方が良かったな」
「馬鹿を言うな。あの場に残っていても私たちには何もできん」
ローガン親子はユグドラシルから西へ数日向かった所にある宿場町へと避難していた。大発生の現場にいたところで薬師にできることはほとんどないし、魔力回復のポーションは売り切ってしまったからである。最後の世界樹の雫はレナへと無償で渡して、ローガンは家族を連れて西へ脱出することを選んだ。
「罪悪感、って知ってる?」
「知らん。というよりも私たちは足手まといだ」
大発生で襲い来る魔物に対抗する手段もなければ、収束時に群がる商人たちと争って魔物の素材をはぎ取る技術もない。魔力を回復させるポーションが足りなくなるのであれば需要はあるかもしれないが、材料はもうなかった。世界樹へ登ればという意見もあるかもしれないが、そんな暇と実力があるなら大発生をなんとかしろと言われてしまうだろう。
結果、合理的に考えても薬師の家族は避難しておくというのが一般論である。事実、薬師ギルドに入っているユグドラシルの町で店を構える薬師たちはほとんどが避難を選んでいた。残っているのは家族が兵士である薬師のみである。
「もう、今は一番診療所が忙しい頃だと思うのに!」
ローガン少年は頭を抱えてベッドへと寝ころんだ。ローガン親子はこの宿場町まで避難し、宿を借りて数日過ごすことにしたのである。すぐに帰ったとしても、いまは商人たちの出入りは激しく、城門は大混乱中だろう。後からゆっくり帰ればいい。どうせ材料はないから薬屋は営業できないとローガンの父親は考えていた。
「俺も治療を手伝ってるんだよ」
「まさか。それはシュージ殿の教育というやつで、お前ごときがいなくても診療所は十分回るから。子供は心配しなくていい」
「いや、本当なんだって! 俺の製薬魔法の方が先生の奴よりもすごいの!」
「嘘をつくな、それに先生よりも凄いという言葉は二度と言うな」
ローガンの父親としては師弟関係を結んだ弟子にあたるローガンが先生を越えたという発言をしたことで機嫌が悪くなった。弟子が師匠を越えたと発言したときはもう教わる事はないという意思表示に他ならない。ローガンはそんなつもりはないだろうが、絶対に世間に聞こえる形で言ってはならないと思っていた。
「ちょっと教育方針を間違ったかもしれない。もっと先生に敬意を払いなさい」
「いや、ちょっと……」
「どこに行く? ここに座れ」
意外にも体育会系というのが似合うローガンの父親の説教はそれから二時間にも及んだ。
「くそう、俺の製薬魔法が凄いのは先生だって認めてくれたってのに……」
それからローガン少年はしかたなく宿場町の散策を行うことにした。薬の素材になりそうなものがあれば父親に買ってもらうというのもありだろう。ユグドラシルの町からそう遠くないとは言っても、違う町にきたら違う物があるに違いないと思ったのだ、ただし、ここは町ではなく単なる宿場町だったのでそんなものはないのであるが。
宿場町の唯一の雑貨屋はかなり賑わっていた。ほとんどユグドラシルの町からの避難民であり、これから他の町まで行くかユグドラシルの町へと引き返す人たちが物資の補給のために寄っているのである。商品はかなり少なくなっており、これは買うものは早めに買っておかないとなくなってしまうとローガンは思った。父親を呼びに行くべきか迷っていると、ローガンの目の前に馬車が停まった。
「あれ?」
そんなローガン少年は馬車から降りてきた人物と目が合った。