表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/140

第三十五話:緊張性気胸3

「領主様!」


 この大発生スタンピードが始まって、最初に治療所に運び込まれたのはよりによってランスター領主だった。カジャルさんがすっ飛んでいき、その場で回復ヒールをかける。まだ死んでいるわけではないようだったけど、胸部を圧迫されたのか、鎧がかなり強い力で破壊されているのが分かった。明らかに肋骨が何本も折れている。


「くそっ、鎧を脱がせろ!」


 カジャルさんの焦る声が聞こえる。あの人が本気で回復ヒールをかければ、ほとんどの傷は回復するはずだった。だけど、ランスター領主は息ができないようだったし、意識はなかった。


「シュージ殿!」


 僕が走り寄るよりも先にカジャルさんが僕の名前を叫ぶ。周囲の治癒師たちの顔は青ざめていた。この大発生スタンピードの指揮を執るべき領主が開始早々に死亡するなんていう事はあってはならない。


「とりあえず鎧を脱がせましょう」


 周囲の治癒師たちと協力してランスター領主の鎧を脱がせた。ほとんどの部分が壊れていた彼の鎧は非常に脱がせにくかったが、それでも最後はカジャルさんが力ずくでなんとかした。そして回復ヒールをかける。だが、ランスター領主の意識も呼吸も元には戻ろうとしなかった。


「脈がかなり弱っている」

回復ヒールが効かないなんて」


 カジャルさんの回復ヒールは強力なものだった。それでも治らないということは、何かがあるのだろう。僕は心眼を発動させて、あるものを鞄から取り出した。


 助けられたはずなのに、助けられなかったなんてのはもう御免だ。



 ***



「突撃の準備はできているか?」


 伝令からの情報を受け取り、アレンは冒険者たちにそう言う。それを聞いた冒険者たちには緊張が走った。

 さすがに魔法使いたちだけで魔物を殲滅することは不可能だったらしい。城壁にとりつかせて、城壁で迎え討つのは魔法使いと兵士たちに任せて、アレンは冒険者の一団を率いて城門が破られた場合に備えていた。他にもアレンたちと同様に城門前で待機している兵士たちもいる。


「若、まだ城門にまで魔物はたどり着いておりません」

「さっき、一匹だけやってきていたみたいだけどな」


 完全に閉じられている城門には大きな閂が取り付けられている。それを破壊するというのは何百という魔物が殺到して初めて可能となるのだろうが、向こうの様子は見えないのである。一匹だけたどり着いたという情報ではあったが、門に何かがぶつかる音がしたというのは、兵士たちや冒険者たちの不安を掻き立てるのには十分だった。


「それに父上が負傷されたのだろう。ならば、ここで士気を上げる何かをしておいた方がいいかもしれん」


 父親のことが心配ではあるが、アレンはそれでも領主の息子として育てられてきた。このような場面では領主の息子としてやるべきことをやらなければならない。どうすれば兵士たちや冒険者たちの士気を保ったままにできるだろうか、とアレンは思案する。ランスター=レニアンという領主が負傷したという情報は規制することもできずに全軍に伝わってしまった。士気の低下をなんとかしなくては、アレンはそれを考え続けていた。

 そんな時にアレンの肩に手を置いたのはノイマンである。


「お、俺が言うのもなんだけどさ。落ち着けって」

「ああ、ノイマン。お前に言われるとはな」


 苦笑いしてアレンは冷静になった。正直なところ、焦りがあって周囲が見えなくなっていた。だが、一度冷静にさえなれば、自分が何をすべきかが分かる。

 突撃のタイミングというのは間違ってはならない。もっとも効果的な場面で、さらには犠牲になる者が少ない場面でのみ、城門を開けての突撃というのはすべきである。魔物の大軍にめがけて突っ込んでいくなどとは正気の沙汰ではない。


「いや、助かった。恩に着る」

「お前も取り乱すんだなとか思ったけど、そういや取り乱して一人で世界樹に登ってたもんな」

「くっ、お前も言うようになったな」


 笑い合うアレンとノイマンを見て、周りの冒険者たちも落ち着きを取り戻したようだった。まだ出番は先である。今から気を張っていても仕方ない。


「城壁の上のロンがしっかりしていれば、私らに出番が回ってくることはないのだがな」

「いやちょっと待てよ、そうしたら臨時報酬でないんじゃないか?」

「む、それはいかんな。やはり城門を開けて突撃するか」


 アレンが言うと冗談に聞こえないが、それでも冒険者たちからは笑いが出た。このくらいの雰囲気がちょうどいいとアレンは思う。



 ***



「レナ、飛ばし過ぎじゃないかい?」

「ちょっとね。自覚はあるわ」


 城壁の上で雷撃サンダーボルを放ったレナは軽いめまいを覚えていた。それは魔力切れの症状である。まだ、もう一度くらいは雷撃サンダーボルトを打つことができると思うが、それをすると枯渇して以前のように寝込まなければならなくなる。今のうちに、とレナはローガンの父親が製薬した世界樹の雫を飲んだ。持っているのはこの一瓶だけである。


「それを飲んだからといって、無茶してはいかんぞ」

「分かってるわよ」


 城壁の上の魔法使いたちや兵士たちの士気を上げるためにもたち、あの場面で雷撃サンダーボルトを使う必要があった。ランスター領主の負傷というのはそれほどに痛手であり、とてもではないが息子が領主の代わりができるとは考えられなかった。だからこそロンは指揮代行を名乗り出たのである。


 そのロンはサンライズを使って特大の業火球エクスプロージョンを放っていた。あれはレナの雷撃サンダーボルトと違ってあまり広範囲には及ばない代わりに、一撃がかなり強い。狙うはAランクの魔物であった。巨大な熊型の魔物が焼かれて、周囲の魔物を巻き込みながら倒れた。


「次にSランクが来た時が正念場ね」

「Sランクなんて、前回はいなかったさね」

「アマンダは前回の大発生スタンピードにはいたの? ずいぶんと前だと聞いていたけど」

「いーっひっひ、まだ小娘だったけどね」


 その頃はまだ十代だったアマンダはほとんど何もできなかったという。周囲の冒険者たちに混ざって城壁の上にいたが、あまりの光景に圧倒されて無駄打ちが多く、魔力はあっと言う間に尽き、気づいたらすべてが終わっていた。ロンも同じようなものだったという。ランスターやカジャルはまだユグドラシルの町には来ていなかった頃である。


 攻撃補助の魔法を兵士たちにかけながら、アマンダは魔力の切れそうな魔法使いを見つけては声をかけて行く。地味ではあるが全体の底上げとして、アマンダはレナやロンよりも効果的に貢献しているのかもしれない。重ね掛けされた攻撃補助によって、多くの兵士が放つ矢は普段のそれの何倍もの威力を持った矢となって魔物に突き刺さる。


「魔法は少し控えて、弓矢を中心に持久戦へと移ったほうがいいかねえ」

大発生スタンピードに備えてあったというのは本当だったのね。矢が尽きる気配がないわ」


 大量に用意された矢は、代々のレニアン家がこの時のために用意したものだった。年々増えていく物資を補完する蔵も増築が続けられていたのである。その気になれば、数年はユグドラシルの町に立てこもることができるかもしれない。もちろん城壁と門が突破されなければの話だが。


「魔物の死体が階段代わりになる勢いね」

「そうなったらお終いさね」


 すでに堀はほとんどが魔物の死体で埋まっている。土の壁を超すために、魔物は魔物の死体を乗り越えていく。当初はかなりの障害となっていたそれらは、あまりの数の魔物の前に意味をなさなくなっていた。残るは城壁である。ユグドラシルの町の東の城壁というのは、他の場所に比べて高く作られている。すべてはこの日のためだった。



 ***



 胸郭動揺フレイルチェストと呼ばれる病態がある。それは数本の肋骨が二か所以上折れているために起こる呼吸困難である。


 人間の胸郭きょうかくというのは肋骨とその間の筋肉、そして横隔膜でできている。肋骨を骨組みとして、肋間筋と横隔膜を動かすことで胸郭の中の容積を変化させ、肺を膨らませたり潰したりすることで呼吸を行うのだ。肺の周囲には胸腔と呼ばれる空間があり、胸膜という膜で覆われている。その中に基本的には空気や液体成分はなく、もし空気や液体があれば呼吸によって肺が膨らむのを邪魔してしまう。


 そして胸郭動揺フレイルチェストというのは本の肋骨が二か所以上折れ、筋肉で胸郭を広げようとしたり潰そうとしたりしても折れた部分に圧力が逃げてしまうために肺が膨張しなくなるのだ。



 おそらくランスター領主はこの状態だったに違いない。そのために呼吸困難に陥り、意識がなくなった。

ならば回復ヒールをかけた今、何故ランスター領主は回復してこないのだろうか。


 その理由が心眼ですぐに分かった。



 僕はアルコール消毒もせずに、鞄から取り出した針をランスター領主の左の肋骨の間に差し込んだ。時間が惜しかったのである。感染の危険があったが、そんな事をしている暇はなく、一秒でも早くこの状態を解く必要があった。


「なっ!?」


 その針はかなり太いものである。注射などで使う、穴が通っている針だった。二、三本それを続けて差し込む。周りの治癒師たちが、僕のしたことを理解できずに抗議の声を上げるが、カジャルさんがそれを抑え込んだ。


 プシューっと音がして、その針から空気が漏れてくるのが分かる。その間に僕はその周りを消毒し、カインの葉から抽出した局所麻酔薬を少しだけ注射すると、皮膚を切って、大きく肋骨の間に切り込んだ。注意するのは肋間動脈ろっかんどうみゃく肋間静脈ろっかんじょうみゃく、そして肋間神経ろっかんしんけいを切らないように肋骨の上側の縁を切ることである。それらは肋骨の下側についているのだ。


 完全に空気の抜ける音がなくなってから、僕は回復ヒールをかけた。傷が塞がっていく。奥にある肺にまで回復ヒールが効くのを期待しているのだが、この時点ではまだ分からない。


「ふう……」


 手技自体は簡単なものだったけど、かなり緊張した。だけど、これはあくまでも応急処置であって、まだ治療が終わったわけじゃない。うぅ、とうめいたランスター領主を見て、僕は治療がなんとか間に合ったことを確信する。

 カジャルさんの目が、説明を求めているのが分かって僕はようやく笑いかけた。


「一応、なんとかなりました。この後は診療所に運んで続きをやりたいのですが」

「ああ、助かった。ありがとう。しかし、なんだったんだ?」

「ええ、緊張性気胸きんちょうせいききょうという病態です。肋骨が折れて、肺に突き刺さっていたのですよ。それで、肺から漏れた空気が肺の周りに溜まってしまって左の肺が完全につぶれていました。だから息ができなかったんです」


 緊張性気胸きんちょうせいききょうとは、胸腔に空気が溜まって、その空気の圧力で肺や心臓が圧迫される状態の事を指す。肺に空いた穴が弁のような状態となり、空気は胸腔に漏れるが肺には返っていかない場合に、呼吸をするたびに胸腔内の圧力が上昇してしまうという状態になるのだ。心臓が圧迫され続けると、心臓が十分に血液を循環させることができなくなり、命に関わる。意識がなくなるのも、心臓がうまく働けてないからだ。そのために、一刻も早く気胸を解除する必要があった。


「まだ、空気が完全に抜けたわけではないです。肺がある程度潰れているので」

「そうか、早く運ぼう」

「ええ、お願いします」


 カジャルさんが兵士たちに指示を出し、ランスター領主は僕の診療所へと運ばれることになった。まさか診療所を使うことになるとは思ってもいなかったために、もう一人の兵士にサーシャさんを連れてくるように頼む。どこにいるか聞いておいて良かった。


「またしても胸腔ドレーンが必要なんですがね」

「兵を何名か貸そう。ランスターの命に比べれば安いものだ」

「助かります。落ち着いたらこちらに戻ってきますので」

「いや、ランスターを頼む。こっちは任せてくれ」


 

 診療所に戻り、手術室でランスター領主に胸腔ドレーンを入れる手術をおこなった。今回も陰圧をかけるために足踏みふいごで継続的に空気や溜まった血を抜いていたのであるが、途中で回復してしまったランスター領主はかなり痛そうだった。魔法使いがいないから昏睡コーマがかけられないのである。

 後で文句いわれるかもしれないと思ったけど、仕方がない。



 僕は城壁の方から聞こえる魔法の音を聞きながら、早くこの大発生スタンピードが終わることだけを願っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ