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第二十九話:細菌性膿胸5

 口に入れた世界樹の果実は、その絶品とも言える後味を残してアレンの体力と魔力の両方を回復させていった。


 さすがに自己治癒力が戻ったとは言え折れた足が治るはずもなかったが、アレンは痛みを我慢してでも動かねばならないと思った。

 ベースキャンプの端へともう少しで氷の柱が届くところだったが、距離が遠すぎるのだろう。十数メートルの位置で完全に止まってしまっていた。これ以上は魔力が届かないために、自分でなんとかするしかない。


 一切れだけを口にした世界樹の果実は、もう一度布に包んで丁寧にポーチの中にしまった。残りをニーナに食べさせるために、生きて帰るのだ。折れた右足を引きずってベースキャンプの端から体を乗り出した。第十一階層はかなり下である。落下すれば命は助からない。救助が形成してくれた氷柱の所に行くまでには、少なくとも上肢の力だけで十メートル程度は移動する必要があるだろう。そしてそこから落ちるのだ。氷柱が折れたら、そこまでである。


 アレンはベースキャンプから這い出た。外壁とでも呼ぶべき、世界樹の幹の側面に左足をかけて、少しずつ降りていく。右足に体重をかけることはできないために、両手でしっかりと体を支えながら、左足をかける場所を探した。

 徐々に氷柱の真上に近づいていく。しかし、この先は足場となる部分はない。アレンは両腕に力を込めて、先へと進んだ。



 


「よしっ! いいぞ、もうすぐ真上だ!」

「アレン坊っ!」


 ノイマンとアマンダ婆さんは望遠魔法を持っているために、それを使ってアレンの動きを注視していた。氷柱アイシクルをベースキャンプまで届かせることはできなかったけど、アレンの方から氷柱の真上にまで移動しようとしていたのである。

 レナはすでに魔力欠乏の症状が出ており、意識ももうろうとしかけていた。横になって世界樹の雫を飲ませているけど、回復する見込みはなさそうである。


「ノイマンっ、後ろ!」


 アレンの動きにばかり気を取られており、ミリヤが叫ぶまで魔物の接近に気づかなかった。先ほどからかなり目立つ行動ばかりしていたのである。魔物に見つからないほうがおかしかった。


「こんな時に!」

「ノイマン、氷柱を壊されないように」


 僕はメイスを握る。この氷柱を壊されるわけにはいかないし、レナとアマンダ婆さんは魔力が枯渇しているから魔法を唱えることはできないだろう。


「バードラビットか」


 バードラビットはBランクの魔物である。鳥の翼のような大きな耳を持ち、実際にその耳で空を飛ぶ兎型の魔物だ。世界樹の樹液を舐める魔物ではないけど、強靭な脚力で襲ってくる好戦的な魔物だった。あの足で氷柱を蹴られでもしたら、折れてしまうかもしれない。それに魔力が枯渇して寝ているレナが後ろにいるのだ。


「ふんっ、返り討ちにして土産にしてやるよ!」

「バードラビットって食べれるのかい?」

「ああ、高級品だ」


 ならば是非ともレナに食べさせてあげたいと僕は思う。そんな無駄なことを思っていると、バードラビットたちは一斉に突撃してきた。その数は三匹。


 ノイマンが先頭の一匹を斬り伏せる。残りの二匹のうち片方は僕の方へと向かってきていた。タイミングを合わせてメイスを振るったけど、直前で方向を変えたために避けられる。しかし、僕への攻撃も中断せざるを得なくなり、突進の勢いはかなり削がれた。もう一度メイスを振るうけど、なかなか当たらない。


麻痺パラライズ


 そんな時に後ろからアマンダ婆さんが麻痺パラライズの魔法を放った。すでに魔力は枯渇しかけていたはずで、真っ青な顔である。しかし、その魔法は効力を発揮し、バードラビットは一瞬であるが身を硬直させた。そこに僕の振り下ろしたメイスが頭蓋を割る。


「こっちも終わったぜ」


 ノイマンは二匹目も斬り伏せていた。


「アレンは!?」

「いない、……いや、氷柱にしがみついているぞ!」


 ノイマンが望遠魔法で確認して歓声を上げた。



 ***



 氷柱にしがみつき降りてきたアレンは満身創痍であった。両の手のひらは氷柱との摩擦によってただれ、右足は骨折している。しかし、その目つきに悲壮感はなく活力に満ちていた。


「助かった、礼を言う。そうか、君らが来てくれたのか」

「そんなボロボロで、まだ助かりきってないですよ……回復ヒール


 僕はアレンを回復させると背嚢に入っていた携帯食を差し出した。おそらくは数日間は食事をとっていないはずなのである。


「アレン坊……」

「アマンダ、坊はよしてくれ」


 回復ヒールで怪我が治っていくにつれてアレンの顔色は良くなっていった。ある程度まで手の怪我が治ったところで携帯食を食べ始める。見知ったアマンダ婆さんの顔が見れたからか、アレンも安心できたようだ。


「まさかとは思うが、もう足の骨折を治したのか?」

「ええ、すでに添え木がされていましたから問題なく。それに、ある程度は治っていましたよ」

「そうか」


 アレンはそう言うと右足の添え木を外して立ち上がった。数回足を曲げ伸ばしして見て、問題ない事を確認すると長剣を抜きはらう。


「まだ、魔物が近付いているようだ。ここからは私が戦うとしよう」

「そんな、回復したばかりなのに」

「いや、戦わせてくれ。それに早く帰りたいんだ」


 


 ***


 アレンはあっと言う間に世界樹を降りると、その足で領主の館へと向かった。僕らも成り行きでそのまま領主の館へとついて行くことになったけど、ずっとレナを背負ったままというわけにもいかず診療所へ戻りたかった。しかし、ランスター領主がそれを引き留めて、レナは体を拭いてもらったうえで客室のベッドで寝ている。魔力が回復さえすればすぐに起き上がることができるだろうし、意識は十分戻っていた。


 レナが落ち着いたのを見て、僕はアレンたちが向かった部屋へと案内された。


「ニーナ、すまない。時間がかかった……」

「若、力が至らずに申し訳ない」

「いや、カジャルが一番つらいだろう」


 そこには一人の女性がベッドに寝かされていた。傍らには治癒師が一人。そして、アレンの手には赤みがかった色の「世界樹の果実」があった。


「もう、起きてこないのです。回復ヒールを、かけても……」

「一口でいいから、食べてもらいたかった……。世界樹の果実は本当に美味しかったのだ。ニーナ……」


 アレンの母親代わりとしてずっと教育係をつとめてきたニーナさんという人がいる事を、僕はアマンダ婆さんから聞いていた。


「最期は、カジャルに看取ってもらいたいと、ずっと言っていた」

「…………そうでしたか。それは何とも残酷な願いですな」


 カジャルと呼ばれた治癒師は涙を零した。その手は握られたまま震えている。

 ニーナは高熱が出ているのか、真っ赤な顔をして苦しそうに息をするだけだった。


「私の矜持にかけて、ニーナを治すつもりでした。治すことができなければ、最期を看取るというのを、治癒師としての誇りに賭けて…………ですが……」


 カジャルはふとこちらに向いた。涙でぐしゃぐしゃな顔は、ランスター領主やロンさん以上に老けて見えた。


「シュージ殿ですな……恥を忍んでお願いする。ニーナを、私の愛する人を助けることはできないでしょうか」


 カジャルさんは僕の方へと数歩だけ歩み寄ると、その場に膝から泣き崩れた。慌てて、僕は彼を支える。かつてはSランクとして世界樹の第20階層にまで到達したパーティーの治癒師である彼が、僕にこんな願いをするなんて。自分のプライドにかけても助けたかった人を、初めて出会った僕に託すしかできないなんて、僕は彼の立場であったならばと身を引き裂かれる想いがした。


「助けます」

「シュ、シュージ殿……」

「大丈夫、僕がニーナさんを助けます。世界樹の果実を食べてもらわなくてはなりませんからね」


 カジャルさんは僕の手を握って、泣き続けた。



 ***



「もうほとんど敗血症性ショックに近い状態だ、急ぐよ!」

「点滴の準備はできたよ、先生」

「分かった、すぐに中心静脈カテーテルを入れる!」


 診療所の手術室には昏睡コーマの魔法がかけられたニーナさんが横になっていた。昏睡コーマはロンさんにかけてもらった。すでにギルドマスターとしての仕事に戻ってもらっているから、ここにはいない。いつもはレナがいる場所で足踏みの呼吸器を踏んでいるのはノイマンである。


 首の右側の内頚静脈ないけいじょうみゃくへと針を差し込むと、僕はそこに柔らかく細長い針金を入れ、針を一度抜いた。かわりに工房に注文しておいた中心静脈カテーテルを入れる。針金を抜いて逆血があることを確認して、点滴につなげた。中心静脈カテーテルは縫い付けて固定した。


「ローガン、世界樹の雫を高濃度に製薬し直して投与するんだ」

「はい、先生」


 ローガンが製薬魔法を使う。すでにこの診療所の戦力として使えるようになってきた彼がいてくれて助かった。ミリヤとサーシャさんと三人でニーナさんの右の胸を高濃度のアルコールで消毒し、清潔な布をかけて手術野を確保した。



「本当に、治るのだろうか」

「若、シュージ殿を信じましょう」


 外ではアレンとカジャルが待機している。アマンダ婆さんはレナとともに領主の館で休んでもらっていた。いつものメンバーとはいかないけど、なんとかなると僕は思っている。



 ニーナさんの病気は細菌性膿胸さいきんせいのうきょうだった。

 胸膜炎という病気がある。それは肺を包んでいる胸腔きょうくうという肋骨と筋肉、さらには横隔膜おうかくまくで覆われている空間の中で、何かしらの炎症が起こってしまう病気だった。胸腔に膿がたまったものを膿胸のうきょうと呼ぶ。

 ニーナさんはそこに細菌が感染し、膿が溜まってしまっていた。高熱と咳と胸痛が続き、肺が損傷すれば気胸だとか血痰だとかの症状が出る。


 もともと肺に病気があったとのこと。それがぶり返したのか、他の何かがあったのかは分からないけど、本来は細菌が全く入ることのない胸腔きょうくうの中で細菌が繁殖するなんてことはなかった。たぶん、過去の病気が原因なのだろうと思う。もしかしたら、その際に肺を損傷していたのかもしれない。



 治療としては抗生剤の投与に加えて、大量にたまった膿を取り除いて洗う事だった。これ以上膿が溜まらないようにするために、「胸膜きょうまく癒着ゆちゃく術」なんていう治療法もある。わざと肺を胸膜をくっつけてしまう方法だった。だけど、そこまでする必要はないし、回復ヒールがあればなんとかなる。それよりも全身管理の方が問題だった。極度の脱水症状が認められる。


「ローガン、これとこれを点滴の中にいれて、それでできるだけ早く投与するんだ」

「わ、分かった」

「世界樹の雫の投与が最初、次がこっちで、とにかく血管の中に水分を入れなきゃならないけど、電解質ミネラルの濃度は間違えてはいけない」


 まだ、使い勝手の良い点滴製剤がこっちでは製薬できていない。毎度毎度、食塩を始めとするミネラルを濃度を調節しながら溶かして点滴するしかなかった。とはいっても、濃度が問題なく合わさっていたらスポーツ飲料のそれと大して変わりはない。若干、砂糖が高いのがこの世界の問題である。


「よろしくお願いします」

「「よろしくお願いします」」

「メスください」

「はい」


 ニーナさんは半側臥位はんそくがいと言って、少しだけ横を向いて寝てもらっている。更には下になっている左の肋骨の下に枕を入れて押し上げることで、右の肋骨と肋骨の間が開くような体勢になっていた。

 その第八肋間を切っていく。

 

 肋骨の間には重要な臓器がある。それは肋間動静脈ろっかんどうじょうみゃくと、肋間神経ろっかんしんけいである。血管も神経も、肋骨のすぐ下を通っているために、胸腔に到達したい手術ならば、肋骨のすぐ上を切るようにと言われている。肋骨のすぐ上側を切っていくと、胸膜が見えてきた。

 

 傷が胸腔まで達しようとした時に、僕はノイマンへ声をかけた。


「ノイマン、右の肺に行く空気を止めてくれ」

「わ、分かった」



 今回の手術を行うのは右の胸である。その周囲には膿が大量に溜まっているとはいえ、肺が膨らんでいたならば手術ができないだろう。そのために手術中は左肺だけで呼吸をしてもらう必要があった。

 日本にいた時には分離肺換気ぶんりはいかんき用の挿管チューブがあった。原理は分かっていたために、こちらでも作ってもらっていたのだ。肺の手術はそのうち行うことになるだろうと予想していた。


 人間の気管は左右対称ではなく、右側に比べて左側が急な角度で曲がる。さらには右はその先で三つ、左は二つに分かれるのであるけど、挿管を行った時に挿管チューブの先端はほとんどが右の気管支に入っていくのだ。その違いを利用して、右の気管支と左の気管支の分岐する部分の前後に固定用のバルーンを膨らませ、途中には左肺に空気を送り込む穴を、挿管チューブの先端は右肺に空気を送り込む構造にしておけば、どちらかの肺にのみ空気を送り込むことができるチューブが出来上がるのである。

 その右肺に行く方のチューブを、ノイマンに遮断してもらったのだ。


 右肺が徐々にしぼんでいく。僕は膿で一杯になっている胸腔に到達するために、胸膜に穴を開けた。


 すぐに膿が出てくる。悪臭が立ち込めるけど、それを吸引で吸い取っていくのだ。足踏みふいごで空気を抜かれた瓶は陰圧となり、チューブの先端に取り付けられた吸引器を胸腔にいれると膿を吸い取ってくれる。ある程度吸い取ったところで穴を広げて、更に膿を吸い取った。ところどころ既に肺と胸膜が癒着ゆちゃくしており、吸い出しにくい所もある。できるだけ綺麗に吸い取り、綺麗な食塩水を入れて洗っては吸い取るのを繰り返した。


 手が入るくらいまでに肋骨の間を切り、中の肺を観察する。膿でぐちゃぐちゃになりながらも、一部穴が開いている場所があり、おそらくは変な形で胸膜と癒着ゆちゃくしていたのだろうと思われた。


回復ヒール


 肺にも回復ヒールをかけ、かなり綺麗な状態となったところで、スライムゼリーでできた管を肺の周りに入れたまま固定し、傷を閉じた。術後の膿や胸水が溜まってくる場合があるので、陰圧をかけて吸い取るのである。もし、肺に穴があいていても空気が溜まらないように吸ってくる役割もあった。針と糸で縫い付けて固定する。


「あ……」


 手術がもう少しで終わろうという時に、僕は気づいてしまった。


「これ、胸腔ドレーンって名前なんだけど……」


 肺の周りの置いてきたスライムゼリーでできたチューブを指差して言う。入れておく必要もあるし、今更治療方針に変更はできない。僕はノイマンとローガンに心の中ですまんと謝りながら言った。


「明日の朝まで、ずっと陰圧かけ続けなくちゃならないんだ……」




 結局、翌日の朝にまで僕とノイマンとカジャルさんの三人で呼吸器と胸腔ドレーンの足踏みふいごを踏み続ける羽目になってしまったのであるけど、その甲斐あってかニーナさんは意識を取り戻した。


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