第二十六話:細菌性膿胸2
「随分とよくなりました」
「ニーナ、こんな時まで気を遣わなくていい」
「いえ、カジャル様。本当ですよ」
その部屋はおそらくは身分の高い者のために用意された客室の一つであったが、一介の使用人に過ぎないニーナがそこのベッドに寝ているというのは長年にわたってこの家に仕え、主を始めとして多くの使用人たちからも信頼が厚いというのが理由だった。自宅へ辞去しようとするニーナは多くの声によって引き留められ、この町でも有数の治癒師であるカジャルの治療を受けている。それはこの館の主の意向でもあったし、その息子の願いでもあった。
「痛みが良くなったんですよ。回復魔法をかけていただくと、すっと痛みが引くんです」
「いや、しかしだな」
「良いのです。私は幸せです。こんな部屋も使わせてもらって」
ニーナは部屋を見渡した。よく掃除に入ることもあれば、客人の世話をしたこともあった部屋である。若かりし頃にこっそりとこのベッドに横になってみたこともあった。まさか自分がここに寝る日がくるとは思わなかったが。
「ごほっ、ごほっ」
「横になっていなさい。今に若様がお土産でも持ってこられるだろう」
「若様はまた危険な所に行かれたのでしょうか。ご自覚というものが足りませんね」
「ああ、帰ってきたら目いっぱい叱ってやるといい」
カジャルは水差しの中の水を汲んでニーナへと手渡した。その表情の中には自分自身の未熟さに対する怒りが押し込まれている。南方の国の出身であるカジャルはここの主に救われるまでは根無し草として旅をしていた。路銀を稼ぐために冒険者ギルドの依頼をこなす日々の中でここの主の依頼を代わりに説明しにきたのがニーナだったのを覚えている。彼らの付き合いはそれ以来三十年にも及ぶ。
「そういえば、いつでしたか同じように私が肺を患ったときにも治してくださいましたよね」
「いや、完全には治してやれなかった。あれからお前はずっと病弱なままではないか」
約十年前、ニーナは肺の呪いに侵された。呼吸が苦しくなり、熱が出続けるのをカジャルが看病したのだった。必死に回復魔法をかけてくれるカジャルにニーナはずっと微笑みかけていたという。治療の甲斐あってニーナは回復したが、体調が悪いとすぐに熱をだして寝込まなければならないようになった。その度にカジャルは館へと出向いた。
今回はいつもの症状とは違う。ニーナは左の肺に痛みを覚えていた。息も苦しい。
「回復」
ニーナが水を飲み干したグラスを受け取ると、カジャルは回復をかけた。
「暖かい……」
「治るまでかけ続けよう」
「そんな、カジャル様。無理はなさらないでください」
「何を言う。回復だけであれば一晩中かけ続けられる。俺を誰だと思っているんだ」
ニーナは微笑んだ。カジャルがいくらユグドラシルの町で有数の治癒師で、かつては冒険者ギルドのSランクパーティーに所属していたとはいえ、一晩中回復をかけ続けることなどできるはずがない。しかし、それでも良かった。
「ごほっ、ごほっ…………!?」
強めの咳をしたニーナの手のひらには血がこびりついていた。それをカジャルにはバレないようにと、そっと拳を握るようにして隠した。もう長くはないと、ニーナは思う。それがあまり意味がないこともニーナには分かっている。
「ねえ、カジャル様」
「なんだ?」
年甲斐もない。だが残された時間の中でなら許されるだろう。ニーナは汚れていない方の手を差し出した。
「手を握っていてくださいませんか」
***
「シュージや、ギルドに来てくれんかの」
「どうしたんですか、アマンダさん」
診療所がかなり暇な時間帯にやってきたのはアマンダ婆さんである。その恰好はどこか依頼にでもでるのではないかというほどの完全装備だったにもかかわらず、僕を冒険者ギルドへと呼びにきたのだという。
「いつもなら職員の人が呼びにくるのに」
「ちょっとな、職員には言えないことが起きたんじゃよ。おお、レナも付いて来てくれ」
なにやらいつもとは違い非常に真面目な顔をしているアマンダ婆さんからは、事態が一刻を争うということと、周囲には内密にしなければならない何かがあるというのが分かった。
「分かりました、すぐに行きましょう。サーシャさん、後を頼みます」
「はい、いってらっしゃいませ」
「先生、俺は?」
「ローガンや、今回は駄目じゃ」
僕がローガンに応えるよりも先にアマンダ婆さんが答えた。その様子を見て僕はレナと頷き合う。世界樹に向かうためにいつも用意してある装備を取って、アマンダ婆さんのあとに続いて冒険者ギルドへと行った。先を歩くアマンダ婆さんはかなりの速足だった。
「シュージ、マスタールームへ行くぞい」
「分かりました」
すでに僕らが来るということが分かっていたのだろう。冒険者ギルドの建物に入ると一部のギルド職員が目くばせをして、僕らをマスタールームへと導く。その表情からも異常な事態が起こっているというのが分かった。
「ああ、来たか」
マスタールームにはすでに先客がいた。ノイマンとミリヤである。更には会った事のない人がソファに座っていた。その後ろに二人、使用人と護衛と思われる人物が立っている。
「ロンさん、どうかしましたか」
「まずは座ってくれ。こちらが治癒師のシュージと魔法使いのレナです。どちらもSランクで実力は折り紙付きです」
ロンさんは僕らにソファに座るように促すと、ソファに座っている人物に向けて言った。その話し方からも身分の高い人物だというのが分かる。初老、というのがちょうどいいくらいの男性だった。金髪の中に白髪がすこしだけ混じっている。目つきは鋭いものだったけど、どこかしら力強さとやさしさを感じる目をしていた。
「ロン、こんな時まで敬語を使わなくていいだろう」
「そうだな、すまない」
その人物は言った。かなり親しい間柄なのだろう。しかしギルドマスターが敬語で接する必要がある人物とはどのような人物なのだろうか。
「シュージ、レナ。紹介しよう」
ロンさんはこちらに向き直ると言った。
「こいつはランスター。ランスター=レニアン、ユグドラシルの領主様だ」
「ランスターである。急に呼び出してすまない」
ユグドラシルの領主だったか。僕もレナもびっくりしたけども、だからと言って萎縮するわけでもなかった。ノイマンとミリヤは部屋の角でちっさくなっている。ギルドマスターとはいえ、ロンさんが「こいつ」と表現したのにも少し驚いた。貴族に向かってそんな事が言えるとは、思った以上に親しいにちがいない。
「シュージです。ギルドの診療所で医者をしています。こちらは魔法使いのレナです」
「ロンからもよく聞いている。なんでも呪い、いや……病気を治すことができるとか」
初対面であるはずの領主の話し方は、どこかで感じたことのある雰囲気がした。
「君たちに緊急で指名の依頼がある。しかしそれは医者としてではなく、Sランクの冒険者としてだ」
「分かりました、まずは話を聞きましょう」
「私の息子が世界樹に登ったまま、予定の日時を過ぎても帰ってこんのだ。すでに帰るはずだった日からは二日が過ぎている」
この時点で僕はもしかして、と思った。そしてその予想は当たる。
「息子もSランクをもらっている。そう簡単に死ぬとは思えんが、何を思ったのか単独で世界樹に登ったのだ」
「もしかして、息子さんのお名前は、アレンと言うのではないでしょうか」
僕の問いにロンさんが頷いた。領主は僕がアレンを知っているというのに少し驚いたようである。
「四日前に第七階層で会いました。その時は数匹のユグドラシルジャイアントビートルを倒して、そのまま第八階層へと登って行ったところで僕らとは別れましたが」
「そうか、第七階層にいたのが四日前なのだな」
領主もロンさんもなにやら考えこんでいるようである。お互いに目を合わせて頷き合った。
「もしかすると、第十八階層にいるやもしれん」
「第十八階層ですか?」
「ああ、あそこには高位ランクのものしか知らんが、ベースキャンプが設営してある」
世界樹の第十八階層といえば、Aランク冒険者でも踏み入れることができないほどの高さである。そんなところにベースキャンプを設営するというのは並大抵の努力ではできなかっただろう。
「君たちに、息子を探しにいってもらいたい」
僕は部屋の中を見渡した。ノイマンとミリヤがいるということは、他にアマンダ婆さんを含めても五人しかいない。
「待ってください。僕らは世界樹の第七階層より上に行った経験がありませんよ」
「分かっている。しかし、このユグドラシル冒険者ギルドは二十年前の最盛期をすぎてからというもの、衰退しつづけており、今ではSランクなどほとんど輩出できていないのだ」
現状でSランクに認定されているのは僕とレナとアレンだけなのだとか。Aランクの中から数人Sランクに届きそうな人もいるらしいけど、今は依頼で他の町に行っているとか。ヴァンのパーティーもいなかった。
「世界樹に登って何かを採ってくるという依頼が減ったのが原因でもある」
領主は悲痛な面持ちで言った。アレンは正妻の一人息子なのだとか。そしてこの領主は婿入りしており、レニアン家の血を受け継ぐ直系はアレンただ一人だという。
「分かりました。できる限りなんとかしてみましょう」
「すまない、恩に着る」
領主は頭を下げた。貴族がそんな事をするというのはほとんどない。しかし、ここは領主としてでも貴族としてでもなく、ただの父親として頭を下げたということなのだろう。
「シュージや、あたしも行くよ。アレンの坊やを放っておくわけにもいかんからね」
「アマンダさん、他にも腕の立つ冒険者ってのはいないんですか?」
「世界樹はのう。あまり人数が多くてもいかんのじゃ」
何故? と聞くまでもなく、僕らは世界樹に登る準備を進めなければならなかった。特に今回は野営が必要になりそうである。大量の荷物がいるかもしれない。
「ノイマン、最低限だけ持つんさね。第十二階層で全部捨てにゃならんくなるからの」
「マジかよ、アマンダさん。俺もミリヤも第九階層が最大到達だってのに」
「第十八階層まで行くと決まったわけじゃないさね」
他のギルド職員たちには極秘で準備を進める。とりあえずは一緒に冒険者ギルドの建物を出るわけにはいかないからと、僕はレナと先に世界樹の入り口まで行くようにと言われた。ついでに診療所に戻って、必要なものを補充する。サーシャさんとローガンに、内容は説明できないけど数日診療所を空けることを伝えた。
「ねえ、シュージ」
「なんだい?」
「私とシュージがいれば大丈夫よ。心配しなくていいわ」
多分、僕はかなりひどい表情をしていたのだろう。それは最悪の想定が僕の頭の中でぐるぐると回っているからであって、不安と心配と焦燥と、それと誰かが死ぬかもしれない状況というのに僕がいつまで経っても慣れないのが原因だった。しかし、こんな年下の女の子に心配されて支えられるとは格好悪い。
「大丈夫だよ、レナ。僕は大丈夫」
それで嘘をついた。本当はアレンも心配だし、これから未踏の領域に何の準備もなく入らなければならないというのが心配でたまらなかった。今までは下準備に情報収集を必ず行ってから依頼に出ていたからだ。
「大丈夫」
僕は、僕に言い聞かせるように言った。




