第十六話:慢性硬膜下血腫4
サントネ親方の治療をするということがユグドラシル冒険者ギルドの中で噂されているという話を持ってきたのはアマンダ婆さんである。
「早いなあ」
「いーひっひ、サントネの所には世話になってたやつが多かったからのう」
それだけ腕がよく有名だったということだろう。彼にしかできない仕事というのもかなりあったみたいだった。鍛冶屋に装備を注文するだけではなく、ちょっとした道具や装備品をサントネの工房に依頼する冒険者は多いのである。たしかに、腰回りにある革製品なんか、レーヴァンテインでは見かけないくらい便利で丈夫そうなものをここユグドラシルの冒険者たちはつけていることが多い。
「なにはともあれ、頼んだよ」
「ええ、全力を尽くします」
全力を尽くすと言っても、手術手技自体は簡単なものである。しかし、医療に絶対はない。あらゆる不測の事態を想定しても、さらなる不測の事態に陥ることが日常茶飯事なのである。
「そうだ、アマンダさん。今まで、噛んでて痛みが和らいだり少し眠くなったりする葉っぱって、見たことあります?」
「ん? なんだい、それは?」
「薬の原料として、使いたいんです」
今回の手術は昏睡を使用した全身麻酔で行うけども、局所麻酔があった方がいいのは確実である。そのためには原料となる薬が欲しいとことであるけど、天然もの由来で局所麻酔の原料となるものは少ない。
歴史的にはコカの葉が最初の局所麻酔として使用されているはずだ。全世界に普及した炭酸飲料の会社の製品も、当初はコカが含有されていて、その中毒性から入れるのをやめたはずである。であるならば、こちらの世界にもコカの葉にちかい成分の葉っぱを持つ植物があってもいいかもしれない。しかし、中毒性などがあるために、投与量はきちんと管理しなければならないだろう。そろそろ薬品用の金庫を買ってもいいんじゃないだろうか。
「あー、もしかしたら南の地方の部族の中に、そんな葉を茶にして飲んでたやつらがおったかもしれんね」
「おっ、どこの部族ですか?」
「テルドミラの台地の近くの部族さね」
テルドミラの台地と言えばここユグドラシルからかなり南にくだった地方である。残念ながらレナと一緒に行ったことはないので転移でひとっ飛びというわけにはいかなそうだ。いつか時間を見つけて旅に出る事にしよう。数日、馬車で旅すれば着くんじゃないだろうか。
「よし、サントネ親方の治療が一段落したら南に向かうとしようか」
「新しい場所?」
ちょうど二階から降りてきたレナも話に合流する。意外にもレナは旅好きであるから、南に行くのも嬉しそうである。ついて来ないという選択肢は全くないようである。
「なあなあ先生。俺もついて行っていいか?」
ローガンが後ろからそう言った。なんだかんだいって、診療所にいるときは診療室に皆集合してしまうようだ。
「そうだね、留守は……」
「私が残ってますよ」
サーシャさんがそう言うと、ローガンは「よっしゃ!」と両腕を突き上げた。あまりユグドラシルの町から出るなんて事もないのだろう。僕らは一応これでもSランクの冒険者であり、ローガン一人くらいなら護衛できると思っている。
「馬は売ってしまったから、新しく借りなきゃいけないね」
「そうね、馬で遠出することになるなんて想定外だったわ」
ユグドラシルの町に来た時に使っていた馬車の、荷車はまだ持っているけど、馬はもう売ってしまっていた。僕らには馬の世話をしてまで飼っている必要がないと思ったからである。維持費というのも馬鹿にならないし、世話の手間を考えると手放すべきだろうと思ったのだ。それでも南に行くだけだからか一時的に借りるだけの方が費用が安くて済むと思う。
「その前に、サントネ親方の手術が優先だよ」
「分かってるわよ」
手回しのドリルの試作品は悪くないものだった。それを改良するのに一日欲しいと言われている。さらには足踏み用に改良した呼吸器も完成間近とのことだった。明後日には物品が揃うためにサントネ親方の手術はできるだろう。
僕は人体と同じ濃度に調節した生理食塩水を瓶に入れてオートクレーブをかける用意をした。頭の中の洗浄にはこれを使うのである。
***
「それでは魔法で眠ってもらいますからね」
「あー」
サントネ親方は抵抗もせずに手術台の上で横になった。おそらく、どういう状況なのかは分かっていないと思う。本人の同意が得られない状況であるために、養女であるセンリに手術の説明はしっかりとしてある。意識がはっきりしてから、センリを通してしっかり説明してもらうことにしよう。
「いいよ、レナ」
「うん、それじゃ始めるわね……昏睡!」
レナの魔法を受けて、サントネ親方は意識を失った。呼吸は無くならないが、脳をいじるために不安が残る。本当は気管挿管はいらないはずだけど、僕は喉頭鏡という気管の入り口をしっかり見るための道具を手に取った。
「レナ、もしかしたら将来やってもらうことになるかもしれない。これをこう使うんだ」
「う、うん」
僕は喉頭鏡をサントネ親方の口に入れた。舌をどかして喉の奥にまで進める。喉頭蓋と呼ばれる気管の入り口の蓋のような構造の器官が見えた。これを上部に持ち上げて気管の入り口である声帯が見れるようにするのだ。
「こう、水平に上に持ちあげるようにしないと……ここを軸にしてテコを使うようにしてしまうと歯が折れたりするから気を付けてね。持ってみる?」
「うん」
サントネ親方の気管は比較的見やすいものだった。中にはほとんど見えない構造の人もおり、気管挿管が難しい場合もある。
「あそこの気管の入り口に向けて、管を入れていくんだ」
僕は気管挿管用のチューブを挿入した。十分中に入ったと思った所で固定用の風船に空気を要れる。バッグに接続して少しだけ空気を送り込むと、まだ自分で呼吸をしていたサントネ親方が息を吸って吐き出すというのがよく分かった。
「気管はこの辺りで二つに分かれる。別れ方が対称じゃないから、管を入れすぎると、片方の肺にしか空気がいかなくなるから注意して」
手製の聴診器で両側の肺に空気がしっかりと入っていることを確認した。酸素ボンベがないこの世界では高濃度の酸素を吸わせることができない。自分で呼吸をせずに外から送り込まれている場合に、肺の障害があって酸素を取り込む能力が落ちていると、血液中の酸素が少なくなってしまい、脳に酸素が送れないこともある。最悪は後遺症が残ることや命に関わることもあるので、高濃度の酸素がある方がいい。
しかし、酸素ボンベとかどうやって作ればいいのか。そんな技術は知らないし、知っていたとしても圧縮とかできる金属の加工とか、無理な事も多いだろう。
だから、肺に障害があった場合には手術はできないのではないかと思っている。日本にいた時にも術前の検査というのは非常に重要で、なんとなるだろうと思って手術を行ったら手術に耐えられませんでしたなんて話もよく聞くのである。今回は足踏み用の呼吸器を用意したけど、自発呼吸があるから使わないでも済みそうである。
「さあ、準備は整った。消毒をちょうだい」
「はい、先生!」
今日はノイマンもミリヤも呼んでいない。手術は基本的に一人でできると思われるし、簡単な器械を出す係はサーシャさんに、その他のものを出す係はローガンに任せることにした。
昏睡がかかった状態でも自分で呼吸をしているし、特に問題は今のところはなさそうである。
サントネ親方の頭の一部を剃った後に高濃度のアルコールを塗っていく。周囲にきちんと滅菌した布を付けて、消毒した部分が汚れないようにした。最後に手術する部分に丸い穴の開いた布をかぶせる。これでほとんど手術野とよばれる手術を行う場所以外は、布で覆われた状態となった。これならば他の部分に手が触れたりするのに気を遣いながら手術をせずに済むし、細菌がつく危険性も少なくなる。
「よし、痛み止めとかの薬は投与したかな?」
「事前の打ち合わせどおり、点滴の中に入れたわ」
レナに頼んでおいた薬が点滴の中に入った。これで、少しずつ体に吸収されるのだろう。レナの昏睡を疑うわけではないけど、麻酔というのは鎮静と鎮痛の両方が必要だと教えられている。しっかりと痛みを取る薬を投与するのが必要だとも教わってきたから、間違いではないだろう。
「じゃ、よろしくお願いします」
「「「「よろしくお願いします」」」」
僕の呼びかけに、三人が答えた。センリは他の部屋で待ってもらっている。身内の手術風景なんて見せるつもりはない。
僕はまず「心眼」で慢性硬膜下血腫の位置を確認した。右の側頭部を中心として、結構な範囲の血腫があるのが分かる。手術中に発動することができるなんて、高性能な超音波に匹敵するものだ。僕は何の心配もなく、皮膚と骨を切る場所を決めることができる。
「メスをください」
「はい」
僕と一緒で手術着に着替えてくれていたサーシャさんが、滅菌済のメスを渡してくれた。それを持って、皮膚をだいたい五センチほど横に切る。そのまま骨まで達し、出血した部分は焼きごてで止血した。
開創器と呼ばれる傷を左右に広げる器械を傷口に入れ、広げると骨が見えた。ローガンにはちょっと刺激が強いかもしれないけど、これが仕事なのである。慣れてもらうしかない。
「ドリル」
「はい」
手回しドリルも滅菌済である。僕はそれを骨にあてると、少しずつゴリゴリと骨を削り始めた。だいたい直径三センチ程度の穴を開けるつもりである。先がとがっているドリルではなく、平均的に穴を開けることができるような加工のしてあるドリルであるが、勢いがつきすぎて脳を損傷すれば取り返しのつかないことになる。慣れていればどのくらいで頭蓋骨を貫通するかなんてすぐに分かりそうであるし、その下には硬膜、さらに血腫まであるのだから脳を傷つける熟練の脳神経外科医は少ないだろう。だけど、僕には穿頭ドレナージの経験がなかった。
慎重に、慎重に骨を削る。おそらくは、必要な時間の倍以上かかって、ドリルは頭蓋骨を貫通した。
「よし、硬膜が見えた」
骨のかけらを取り除き、下に出てきた硬膜を確認する。
「先のとがったメスをください」
「はい」
少しだけ、硬膜に切り込みを入れた。メスも刺し過ぎると先の脳を傷つける。絶対に血腫以上に差し込まないように注意をして、少しだけ、硬膜を切った。
「剪刀をください。細いやつ」
「はい」
その切り込みの中に剪刀を入れ、硬膜を十字に切った。
中から、サラサラであるが黒色の液体がでてくる。これが血腫であるけど、塊になっているのではなくて、中で分離してしまっているのだ。上部の液体成分のところがサラサラと外に出やすい状態となっていた。
「吸引、行きます」
「はい」
金属製の筒に、スライムゼリーで作った管を取り付けたものを用意した。その先は途中で瓶に繋がっており、その瓶は密閉されている。さらに先にチューブがふいごに取り付けられており、要するにふいごを踏めば瓶の中の空気が抜け、そのために金属製の筒の先から液体などを吸い込むことができるような装置だった。ローガンにふいごは踏んでもらう。
硬膜下からはどんどんと液体化した血腫が取れた。中にはどろっとした部分もあったけど、そこは鑷子とガーゼを使いながらできるだけ取り除いた。
「よし、最初の吸引はこのくらいでいいでしょう。次に洗浄をします」
「生理食塩水です」
サーシャさんが濃度を人体と同じに調節した食塩水を渡してくれる。それを硬膜下に入れると、再度吸引を行った。この作業を数回繰り返す。洗浄した生理食塩水がほぼ透明になってきた所で僕は硬膜に回復魔法をかけた。
本当はこの中に管を入れたまま皮膚を閉じてくるのである。そうすることで一日は出血とか、周りの組織からのしみ出した液体などを吸い取って落ち着かせることができた。しかし、やはりここは魔法だろう。
「回復!」
沢山かけることで、脳の回復も見込めるのではないだろうか。徐々に圧迫されて小さくなっていた脳が元にもどっているような気がする。途中で硬膜が閉じてしまい、それ以上を見ることができなかったがおそらくは大丈夫だろう。更に回復をかけて、骨がある程度塞がるのを見届けた後に開創器を外して皮膚もくっつけることに成功した。
手術成功である。これから昏睡が解けたサントネ親方がどの程度治るかを見なければならないけども、今この世界でこれ以上の手術はできないはずだと胸を張って言いたい。
「よし、終わり。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
布を剥がして、ほっと一息つく。瓶の中とか周囲に血が飛び散っているこの状況をローガンはどう思っただろうか。内心はどうあれ、吸引の時にしっかりとふいごを踏んでくれていたから、これからも心配はなさそうだと僕は思った。
「お疲れ様」
レナが微笑んでくれた。僕もそれに微笑みかえす。
意識が戻ったサントネ親方は、今まで見ていた人とは変わったかのように豪快な人物だった。センリが泣いて喜ぶのに照れたのか、工房に戻ろうとするのを止めるのに苦労したのだけれども。