20
「奈良県にある正倉院の宝物については756年に光明皇太后が、夫である聖武太上天皇の七七忌という法要の中で最も重要とされる日に聖武太上天皇が大切にしていた約650の品と60種類の薬物を東大寺の廬舎那仏に奉献したのが現代に伝わる正倉院宝物の始まりだが、710年から794年といえば奈良時代だ」
「奈良の平城京に都があった時代ね」
「ああ。奈良時代は遣唐使によって大陸から周や唐の文化が伝わり、聖武天皇の治世で元号が天平であったことから大陸から伝わった仏教文化が天平文化と呼ばれている。おまえの言う正倉院で保存されているガラス宝物というのは226年から651年にイランやイラク、メソポタミアを支配していたササン朝のペルシアから、シルクロードを通って伝来したと言われている切子装飾のガラス宝物『白瑠璃椀』か、もしくは紺色ガラス製の宝物『瑠璃坏』だろう」
兄が私の手からスマホを取り数回、タップして写真を表示させた。透明なガラス椀に丸い切子装飾が施されている白瑠璃椀。そして、立体の丸い装飾が複数施されている紺色のガラス杯、瑠璃坏がスマホ画面に映し出されていた。
「そうそう、これよ! このガラス椀がシルクロードを渡って伝わったってことは、やっぱり昔のガラス製品は外国からの輸入品だったんだ! この時代にガラス製品が海外からの宝物として扱われてるのに、それよりずっと前の弥生時代や古墳時代に日本国内でガラスが製造されてるなんて、ありえないんじゃないの?」
自分の記憶に間違いはなかったと若干、興奮しながら意気込んで問いかけたが、兄は何ら感銘を受けた様子もなく冷静な表情をいっさい崩さずに腕を組んだ。
「昔のガラス製品は初めの頃こそ大陸からの輸入品だった可能性もあるが、いつからか製造方法も伝えられたようだ。近年、北九州市小倉南区にある長野尾登遺跡でガラス勾玉の製造に使用する鋳型が出土している。このことからも弥生時代に日本国内でガラスの製造が行われていたのは間違いないようだ……。書物としては正倉院にある八世紀前半、奈良時代の文献にガラス玉を製造する為の材料や製造技術に関する記録も残っている」
「へー。そうなんだ……。なんか日本の歴史に出て来るガラス製品って正倉院にある海外から輸入されたガラス製の宝物か、戦国時代あたりにオランダとかポルトガルから宣教師とか海外の貿易商人が伝えたってイメージがあったけど厳密には違ったのね」
弥生時代の遺跡からガラス製造の鋳型という物的証拠が出土しているというなら、日本国内でガラス製造が行われていたというのは間違いないのだろう。自分の認識と歴史の事実が違っていたことに、私は軽いショックを受け肩を落とした。
「まぁ、ガラスの鋳型については発掘されたのが最近だから知らないのも無理はないだろう。尤も弥生時代のガラス原材料に関しては大陸からの輸入に頼っていたらしく、その時点では日本のガラス文化は発達しなかったようだな。室町時代あたりは日本産のガラス製造技術は失われていたようだ」
「せっかく海を越えて入ってきたガラス製造の技術が失われたなんて、もったいないわねぇ……」
もし弥生時代からずっと日本国内のガラス製作文化が続いてたら色んなガラス工芸品が誕生してたんじゃなかろうか。文化が失われ、途切れるというのは完全なゼロになってしまうということなのだ。せっかく先人たちが培った技術や知恵が失われる。それは実にもったいないことだと思う。
「その代わりガラス同様、大陸から製造方法が伝わっていた窯を使う『焼き物』の技術と製造は広まっていき、日本で材料の調達が可能な陶器、磁器が発達していった。土地や場所にもよるが、陶器や磁器の材料として必要な上質な土なら日本国内で比較的、簡単に調達できたからな」
「なるほど。単純に道具として考えるならガラスじゃなくて陶器や磁器で充分ですものね!」
「ああ。古墳時代の5世紀後半から愛知県猿投地区、現在の尾張東部から西三河西に日本三大古窯の一つである『猿投古窯群』が出来た。猿投窯が奈良時代や平安時代に植物の灰を使用して、当時の高級陶器である『灰釉陶器』という人工的に施釉された陶器を作り出し、周辺地域に広まっていったことから愛知県瀬戸市に『瀬戸窯』が作られ、現代でも瀬戸焼として文化が残っている」
「あー! 瀬戸焼は知ってるわ! なんとなく戦国時代に作られてたイメージがあったけど、古墳時代にルーツがあったのか~」
「戦国時代、安土桃山時代は堺の商家に生まれた茶人の千利休などが『茶の湯』いわゆる茶道文化の一つである『わび茶』を織田信長や豊臣秀吉などの戦国武将や武士などに広めていったんだが、茶道が盛んになると使用する高級茶器の価値も上がっていった為、戦国時代に焼き物が親しまれていた印象が強いんだろう」




