私は私であり、君は君である、ということの本質。あるいは、丑三つどきの世迷いごと
たとえば、時計塔の歯車だったとして
歯の数も違えば
回転速度も異なり
動く方向だってバラバラだろう
カチッと息が揃うこともあれば
かみ合わないことだって珍しくない
それでも、ときを刻もうとするならば
歯車の位置を調節し
なるべく多くの歯車が
各自の特性を活かしたままで
組み合わさることが必要だ
ここで勘違いしてほしくないのだが
うまく機能しないからといって
歯の数を増減させたり
回転速度を変化させたり
動く方向を切り替えてはいけない
みんなで同じ型にはまってしまえば
複雑なことを考えずに済み
一時的には楽ができるだろう
だがしかし
そうした無理をし続けると
やがて、かりそめの均衡は崩れ
歯が欠けてしまったり
軸が折れてしまったり
ねじ切れてしまったりして
いずれ麻痺してしまうだろう
なぜなら、真の気楽さではないからだ
時計塔を社会に
歯車を個性ある人間に
それぞれ置き換えたとしても
きっと同じことが言えるはずだ
悪しき平等主義に惑わされるな
君たちは唯の一つとして同じでない
かけがえのない存在なのだから
真夜中の枕上で夢現に書いた詩は、翌朝に読み返すと、思春期のラブレター級に恥ずかしいものですね。