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優良物件

作者: 岩礼ゆえん

   1


 涼子はあせっていた。

 誕生日が来ればもう三十二になる。大学時代の友人たちも、あらかた片づいてしまっている。残っているのは涼子と、その他のさえない女性が二人という現状だった。

「今度はなんで別れたの」

 春香が首をかしげた。

 こうやって彼氏と別れるたびに呼びだされ、さすがにうんざりしているのがわかる。いや、わからせようとして、わざと態度に出しているのかもしれない。

 それならそれでかまわない。彼女は気が短いところがあるから、少し時間を置けばほとぼりも冷めるだろう。いままでもそうだったからきっと大丈夫だと、涼子は春香の機嫌の悪さを気にしないことにした。

「やっぱり私とは合わないと思って……」

「ねえ、もう何回目? いい加減、高望みしすぎなんだよ」

 そんなことはわかっている。

「しょうがないよ。だって、譲れないものとかがあるじゃない」

 上目遣いで春香を見ながら頬をふくらませた。

「彼のことが好きじゃなかったの?」

「条件はいいし、性格は好きだったけど……」

「だったらなんで」

「やっぱりどうしてもあの顔がだめなの。笑顔が気持ち悪い」

 春香があきれはてた。

「……涼子は結婚に向いてないよ」

 向いてる向いてないの話じゃない。結婚は学歴と同じように自身についてまわる付加価値だ。しているかいないかで世間の見方も大きくかわる。どうせしなくちゃならないのなら、いい条件でしたいと思うのはだれだって同じだろう。

「どうしても結婚したいの」

「独身のままで、適当に遊んでたほうが楽しいかもよ」

 どうしてわからないのだろう。

 もし春香が私の立場だったら、きっと同じことを言うに違いないのに。

「そういうことじゃないんだよ。春香たちができていることでしょう。私にできないわけがないと思うんだよね」

「あんたの、その怖いもの知らずの発言が怖いわ」

 もうお手上げだと言わんばかりに、春香が天井をあおいだ。

「……ならさ、マッチングアプリとか出会い系でもやってみれば。まあ、酷い目にあうかもしれないけどね」

 冷やかし半分に言いながら春香が笑う。

「いいかもね。それに、失敗したっていいと思うんだ。なにもしないよりはマシかも」

 打算的な結婚というのも、お互いが納得しているのなら十分アリなんじゃないかと涼子は思っていた。

「ねえ、涼子はさ、結婚になにを求めているわけ?」

 向かい合ったテーブルに身を乗りだして、そうたずねてくる春香の左手薬指には指輪がある。でもノーブランドだ。

 涼子が欲しいのはそんな指輪ではない。

「えーっとね、人にうらやましがられる夫でしょう。それから、私は働きたくないから、お金の心配をしない安定した生活。あと、できれば家が欲しい。おしゃれな一戸建て」

「無理」

 一言、そう吐き捨てて春香はそっぽを向いた。

「春香にはわからないよ」

 その喫茶店で別れたきり、春香とは連絡をとっていない。


 浩行とはSNSで知り合った。

 彼は童顔のイケメンだった。おそらくだれが見てもハズレではない顔立ちだろう。

 涼子は一目で気に入った。三十六歳になるが、大人びた涼子と並ぶと弟に見えなくもない。もちろん身長は涼子よりも高いし、中堅企業の係長で年収もそこそこある。着ているスーツもオーダーメイドだし、彼なら将来性も抜群だ。

「あんまり期待してなかったんですけど、実際に涼子さんに会ってびっくりしましたよ。モデルさんかと思いました」

 はにかんだ笑顔でそう言われて、うれしくないはずがない。

「私もです。三十六ってもっとおじさんぽいのかな、なんて想像してましたけど、浩行さん、すごく若いですね」

 何度か食事に誘われて話すうちに、涼子は早々と浩行との結婚を決意した。もうこれ以上の相手とはめぐりあえないような気がしたし、占い師に見てもらったら相性は抜群によかったのだ。

 涼子は浩行と会うたびにひとりで浮かれていた。

 しかし浩行からは〈結婚を前提におつき合いをしたい〉という言葉がなかなか出てこない。

 じらされるのも時と場合による。

 涼子はいますぐにでも結婚をしたいのだ。

 これ以上待っていたら、涼子のほうが愛想を尽かされてしまうかもしれない。

 春香には口が裂けても言えないが、どういうわけか長くつき合えばつき合うほど、相手から別れを持ちだされる確率が高いのだ。だからなんとしてでも今度こそは、素早くゴールインに持ちこみたい。

 涼子は頃合いを見はからって、自分から切りだすことにした。

「あの、私、思ったことをお腹のなかにためておけない性格なので聞いちゃいますけど……浩行さんは結婚についてどう考えていますか?」

 上目遣いに浩行を見る。

「急にどうしたの」

 慌てて口の周りをナプキンでふくと、浩行は目をまたたいた。

「べつに、急かせているわけではないんです」

 あまり強く押すと逃げていく。

 けっして逃がすまい、とソフトな口調を心がけて話しはじめる。

「私って、遊んでるように見られることが多いんですけど、全然そんなことはなくて。けっこう真面目な性格で、男性とのおつき合いも、遊びで――なんて、とんでもないというか。とにかく、いつも真剣に向き合わないとお相手のかたにも失礼だと思うし」

 浩行がうなずいた。

「こうして何度か涼子さんと会ってみて、きみが真面目な子だってことはよくわかったつもりだ」

「じゃあ」

「うん、そうだね。きみさえよければ、ぼくは結婚を前提につき合いたいと思っている」

 思い通りの言葉を引きだして、涼子は満面の笑みになる。

「……本当に、ぼくなんかでいいの?」

「はい」

 力強くうなずいた。

「でも、結婚となると大変だよ。先に言っておくけど、実はぼくがこの年で結婚してないのには理由があって――」

 いきなりなにを言いだすのかと、涼子は身構えた。

「ぼくの家は三人家族なんだ。ぼくと母と姉。父親がいないもんでね。子どものころは、その……家族のことで、いじめられたりもしたんだよ」

「いじめ、ですか。私も経験がありますよ。そんなに酷くはなかったけど、仲間はずれとかはされましたね」

 涼子は昔からおとなしく、悪目立ちするタイプではなかった。でもクラスの中心にいる女子にはたいがい嫌われた。その理由がわからずに悩んだこともあったが、結局はその人たちとかかわらない道を選んだ。クラス全員で無視されるようなことはなかったので、学校に通えないということもなかった。しかし積極的に友だちをつくろうともしなかったので、親友と呼べる友だちができることもなかった。

「へえ、涼子さんのような人でもそんなことをされるんですね」

「子どもってけっこう残酷ですよね」

「そうかもしれないなあ」

 浩行は水の入ったグラスを片手でもてあそびながら、ひとりごとのように声のトーンを落とした。

「……人間って、二種類いると思うんだよね。目に見えるものしか信じない人と、目に見えないものも目をこらして見ようとする人。ぼくをいじめたのは前者。友人になったのは後者。ぼくは友人たちを尊敬しているよ。だって、もしぼくが友人の立場だったら、きっとぼくなんかとはかかわらないと思うし……」

 涼子は首をかしげた。浩行の話は抽象的でよくわからない。

「……ああ、ごめんね。変なこと言って」

 小さく首をふって笑みを浮かべる。

「えーと、つまり母と姉は苦労してぼくを育ててくれたんだ。とても感謝しているよ。だからぼくは家族を大切にしたいんだ。他人から見ればちょっと変な家族かもしれない。でもいい人たちなんだよ。それはつき合っていくうちにわかると思うんだ。現に友人たちはみんなわかってくれている。だからね……ぼくの妻になる人が母や姉と折り合いが悪いと、ぼくは悲しくなるから。そこは絶対に譲れないんだ」

 涼子は慎重に言葉を選びながら口をひらく。

「とても家族思いなんですね。でも私なら大丈夫だと思います。たぶん……いえ、きっと上手くやっていけると思います。浩行さんのご家族なら、きっといい人たちでしょうから」

 浩行の表情がぱっと明るくなる。

「ありがとう。きみは優しいんだな。ますます好きになってしまうよ……うん。涼子さんなら上手くやってくれるかもしれない。あ、でも心配しないで。結婚したら、母と姉とは同居するつもりはないから。新居にも呼ばないようにするし」

 それを聞いて涼子はほっとした。

 たまに会うくらいなら、彼の家族とは適当につき合えばいい。ほんの数時間、ボランティアのつもりで接すればすむことだ。

 それに、彼は私と新しい家庭をつくるのだから、古い家族とは距離を置いてもらおう。

「あらためて、よろしくお願いします」

 涼子は唇の端に見栄えのよい笑みを浮かべた。


 それからは早かった。

 ひと月も待たずに浩行からプロポーズをされた涼子は、大粒ダイヤの婚約指輪をうっとりとながめていた。

「ところでさ、結婚式と披露宴なんだけど、やっぱりやりたい?」

「えーと、それは一生に一度のことだし、ドレスは着たいなって思っているけど……」

 やるのは当然だと思っていた。人生の一大イベントだし、春香やその他の友だちを披露宴に呼ばないなんてことになったら、結婚する意味が半減してしまう。

「そうか。女性はみんなそう思うんだね。ぼくは男だからかな。面倒なことはやりたくない主義なんだよね」

「でも、浩行さんも披露宴に出席したことはあるでしょう?」

 涼子はやんわりと浩行を説得にかかる。

「うん、何回かはあるけど」

「じゃあお返しに、その人たちを披露宴に招待したほうがいいんじゃないのかしら。面倒でも、そういうおつき合いって大切だと思う」

「うーん。でもいざ呼ぶとなると、出席した披露宴の人たちだけじゃないからね。それこそ友達だけじゃないでしょう、そういうのって」

「何人くらいになりそう?」

「そうだな。仕事関係で絶対に呼ばなくちゃならない人がけっこういるし……。軽く百は超えるかな。涼子はどのくらい呼びたいの?」

「そんなにはいない。家族と親戚、友人でせいぜい二十人くらい」

「ずいぶんつつましいな。でも両家でだいたい同じくらいの人数をそろえないと、バランスが悪くなるからね」

 たしかに浩行の言うとおりだ。

 でも腰かけで働いている涼子には、仕事関係のしがらみなんてない。昔からの友人も少ない。それに、呼ばれたのは春香の披露宴だけ。たった一度きりだ。

「……ねえ、涼子」

 しばらく涼子の様子を黙って見ていた浩行が口をひらく。

「ひとつ提案がある」

「なにかしら?」

「新婚旅行もかねて、二人だけで結婚式をするっていうのはどうかな。披露宴はなしにしてさ」

 そうか。海外で二人きりの挙式という手もある。それならドレスも着られるし、披露宴にこだわる必要もない。

 涼子は素早く考えをめぐらせた。

 春香たちには、結婚式の写真とお土産のひとつも送ればそれですんでしまう。

「それにね、涼子が前に言ってただろう、家が欲しいって。いますぐには無理だけど、いずれはって考えてる。だからなるべく節約を心がけようと思っているんだ。披露宴をやらないなら、その分を家の資金にまわせるよ。どうかな」

 話を聞いて、気持ちが高揚した。

「浩行さん、そこまで考えてくれていたのね」

「そりゃそうだよ。ぼくと結婚してくれる涼子のためだからね」

 当たりを引いた! と確信した。

 すぐにでも春香に電話したい衝動にかられたが、ぐっとこらえて、涼子はとびきりの笑顔を浩行に向けた。



   2


 浩行の実家は、A駅の南口から徒歩二十分ほどの距離にあった。

 そこは古くからあるらしい集落だった。一軒の敷地が広く、隣家との間隔もかなりあいている。そのあいだには畑が点在していた。どちらかというと、畑のなかに家が建っているという感じだ。町場ではなく、農村地帯といったほうがピンとくる。

「のどかなところね」

 涼子は手土産を下げて、浩行と並んで歩いていた。

「うん。このあたりはけっこう田舎なんだよな。ぼくは落ち着くけど……」

「私も田舎は好きよ。野菜とかも新鮮だし」

 彼が欲しそうな答えを口にする。

「よかった。それに、あんまり緊張もしてないようだね」

 浩行が普段通りの涼子を頼もしげに見た。

「大丈夫よ。だって、浩行さんの家族だもん」

「心強いなあ」

 これから会うのが姑と小姑だと思うと少しおっくうだったが、それも数時間の辛抱だから、と涼子は自分に言い聞かせていた。

「あ、見えてきた。あれがそうなんだ」

 涼子の足が止まる。

 浩行が指さしたのは、一軒の古めかしい木造平屋建てだった。

 それは家というよりも、小屋と呼んだほうがしっくりとくる物件だった。隣接している畑の作業小屋といってもおかしくないような建物だ。

 涼子は一瞬で気持ちがしぼんでしまった。

「古くて汚いだろう」

 立ちつくす涼子に、浩行は苦笑いを浮かべた。

「そんなに驚いた?」

「……うん。想像もしてなかった」

 浩行を見ずに答える。

 あまりにも意外だった。

 身なりのきちんとした浩行には似つかわしくない。みすぼらしい感じがどうにも不快だった。

「ぼくは見る目がないのかな。昔、だまされてね。借金をつくったんだ」

「借金?」

 声がうわずった。

「大丈夫だよ、もう完済したから。でも、ここを建て替えようと用意してた金を、すべてなくしてしまったんだ」

「……そうだったのね」

「うん。でも近々ここも建て替える予定なんだ。そうそう、それでね、ぼくたちの新居なんだけど……。実は家を買うお金がたまるまで、マンションを借りようと思っているんだけど、いいかな?」

 借金を背負って、完済して、さらに自宅を立て直す資金をためて、それで新居のこともちゃんと考えている。

 この人は頭もいいし行動力もある。私にふさわしい人だ。

 沈んだ気分が一気に浮上した。

「新婚生活はマンションではじまるのね。なんかうきうきしてきた」

「よかった、喜んでくれるんだね」

 笑顔になった浩行に微笑みかけ、涼子は歩きだした。


 それでもあらためて家の前に立つと、無意識にため息をついていた。

 近くで見るとまた一段と貧相で、強い風で簡単に吹き飛ばされそうなボロ家だった。

 建てつけの悪い玄関の戸を、浩行が力任せにガタガタとあけていく。

「さあ、入って」

「ええ……お邪魔します」

 足を踏み入れると、密度の濃い空気がもわんと顔中にまとわりついてきた。なんともいえない独特の匂いがこもっている。

 お線香のようなカビのような、古いものの匂い。それにまじって、微かにすえた匂いが鼻につく。

 涼子は我知らず顔をしかめていた。

「どうぞ、あがって」

 家のなかに声もかけず、浩行は靴を脱いでさっさと奥にいく。涼子が丁寧に靴をそろえてふりむいたときには、もう姿はなかった。

 家のなかは全体的にどんよりとしている。色彩がなく、くすんだ空間が広がっていた。

 廊下を歩くと床がたわみ、一歩ごとにギシギシと耳障りな音がする。

 思わず眉をひそめた。

「こっちだよ」

 右手にある襖がひらいて、浩行が顔を出した。

 一歩部屋に入るなり、浩行が勝手に涼子の紹介をはじめてしまった。

「これが今度ぼくと結婚することになった涼子さんです」

 いきなりだったので、涼子は目の前にいる人物をじっくりと観察することもなく、頭を下げた。

「はじめまして、涼子と申します」

 だがそれに対する返事はなかった。

 妙な沈黙に耐えかねて、しかたなく顔を上げると、目の前には二人の人物が立っていた。

 五十八歳だと聞いていた母親は、どう見ても七十代のようであり、シミやシワばかりが目立つ浅黒い顔をしている。切りそろえた白髪まじりのおかっぱ頭は艶もなく、ぼさぼさとただ広がるにまかせている。背中を丸めてうつむき加減で、涼子の足元あたりをじっと見つめていた。

 そして浩行と年子だという姉は、面差しも体型も母親と浩行とは似ても似つかない。背は低く、体の幅は涼子のゆうに二倍は超えている。丸い輪郭のなかには、刷毛で描いたような目があった。感情の読めない眼差しで涼子をじっと見据えている。

 同じ遺伝子を持っているとは思えない、三人が三人ともまったく似ていない、なんとも奇妙でちぐはぐな親子だった。

「涼子、紹介するよ。これがぼくの母の鞠絵と、姉の美咲です」

 浩行の声を聞いて、鞠絵がふいに顔を上げた。そのうろんな目を見たとたん、涼子は全身に鳥肌が立った。

 美咲はそれ以上ないほどに目を細めると、ゆっくりした動作で鞠絵の耳元に口を近づけた。ささやくようになにかを告げている。

「ショウネガ……」というのが、かろうじて聞きとれた。あまりいい印象を持たれていないことはすぐにわかった。だからピンときた。「ショウネ」というのは「性根」のことだろう。だとすると、「性根が腐った」とでも言っているんじゃないのか。

 涼子は唇をかむ。

「そうだ。手土産があるんだよ」

 その言葉にはっとしてわれに返り、涼子は慌てて紙袋から包みを取りだし、鞠絵に差し出した。

「お口に合うかどうか――」

 言い終わらないうちに美咲が横から手を伸ばし、ひったくるようにして包みを取り上げて、そのまま部屋を出ていった。

 鞠絵がにやりとした。そしてゆっくりと二人に背中を向け、沈黙したまま部屋をあとにする。

 涼子は口をあけたまま、それを見送った。

「どうかした?」

 不愉快だった。バカにされたような気分だ。その思いが表情に出ていたのかもしれない。

「なんだか難しい顔してるね。体調でも悪いの?」

 涼子はうれしそうな浩行の顔をじっと見つめた。

「……なにか、気にさわったのかしら」

「そんなことはないよ。母さんも姉さんもあんなに喜んでいたじゃないか。わからなかった?」

「うん……」

 喜んでいた? そんなわけがない。いまの態度のどこが喜んでいたというのか。

 口をひらきかけたとたん、浩行が肩に手をおいて言った。

「さあ、帰ろうか」

「え?」

 ぽかんとする。

 家にあがってから数分しかたっていない。まだ座ってもいない。お茶の一杯も飲まずに帰るのか。

 そうは思ったが、実のところこの家から一刻も早く出ていきたかったので、涼子は素直にうなずいた。


「今日はありがとう」

 外に出るとすぐさま浩行がそう言ってくる。

 でも涼子は複雑だった。

 浩行がいじめられたのも、もっともな話だと思った。

 あの二人、いい人なのかもしれないが、あの見かけと態度では子どもたちに敬遠されるのは当然のような気がする。涼子が子どもだったとして、いじめないにしろ、浩行と親しくなろうなどとは絶対に思わないだろう。

 それにしても、あの家とあの二人の存在には現実味がなかった。たった数分間のことだったが、夢のなかの出来事のように感じられる。なにかがおかしい。でも、それよりもなによりも、あの二人とこの先一生つき合っていくというのは考えものかもしれない。

 いまならまだ間に合うかも――。

「涼子」

 浩行が呼びかけてくる。まるで涼子の思考を中断させるかのようなタイミングだ。

「これからきみに見せたいものがあるんだ。ちょっとつき合ってくれないかな」

「べつにいいけど……」

 生返事をする。

 本当は早く帰りたかった。ひとりになって、今後のことを冷静に判断したかった。

 やっぱりこの結婚をやめるべきかを。


 浩行が涼子を連れていったのは、駅の反対側の北口だった。

 どちらも駅前だけは商店街があり栄えているが、北口のほうが商店街の規模も大きく、人通りが多かった。

「ここから徒歩十五分ってところかな」

 気乗りがしない涼子は、黙ったまま浩行のあとについていった。

 南口に比べてこちら側には畑が少なく、商業地域という感じがした。ビルなども多く立ち並んでいる。

 住宅街を抜けたあたりで「もうちょっとで着くよ。この先なんだ」と、浩行が声をかけてくる。

 やがて大きなマンションの前で足を止めると、涼子をふり返った。

「見て。十階のあの角部屋。あそこにしようと思うんだ」

「なんのこと?」

「いやだなあ。ぼくたちの新居だよ」

「新居?」

 涼子はあらためてマンションを見上げる。

 建ててからそう月日が経っていないのか、外観がずいぶんと新しい。

 ちょうど玄関から人が出てくるところだった。

 自動ドアがあくと、おしゃれなエントランスが見えた。品のよい服装の年配の女性がゆっくりと歩いてくる。髪は整えられ、化粧は控えめだ。ブランドのバッグをさりげなく手にしている。

「ぼくはもう部屋のなかを見たんだ。思ったよりもシンプルで、生活しやすそうだったよ。家賃はちょっと高いけど、このあたりでは一番きれいなマンションなんだ」

 いいマンションだと一目でわかった。もし買うとしたら六、七千万といったところか。

「実家と同じ駅だけど、反対側だし、母と姉はここには来ないよ。実家や親戚とはぼくが行き来するから、涼子は気にする必要はまったくない」

 その言葉に気持ちが揺れた。

 涼子が望む安定した生活。それがいまや目の前にぶらさがっている。手を伸ばせばすぐに届く。いま逃したら、もうこれ以上の掘り出し物なんてないかもしれない。

 だけど、彼と一緒になったら、あの二人がもれなくついてくる。どんなにいい人でも、やはり見た目の印象は大切だ。

 ずいぶんと迷ったが、涼子は目の前の現実をどうしても捨てきれなかった。

 失敗したっていい。なにもしないよりはマシ――最終的にはそこに落ち着いた。

「気に入ったわ」

 涼子はマンションを見つめてそう答えた。



   3


 結婚の前に、両家の顔合わせとして食事会をすることになった。

 これは涼子の父親が言いだしたことだ。もちろん涼子は反対した。

 しかし一人娘を嫁に出す父として、これからの親戚づき合いも考えたうえでのことだったようで、何度も説得を試みたものの、涼子がどう頼んでも折れてはくれなかった。

 しぶしぶ浩行に相談すると、彼は二つ返事で引き受けた。

「母と姉をご両親に紹介してくれるなんて、すごくうれしいよ。きみはぼくが思っていた以上にいい人なんだな」

 無邪気に喜ぶ浩行に、涼子は頭を抱えた。

 結局、なんの策も思い浮かばないうちに、当日を迎えてしまった。

 あの母親と姉が来るのかと思うと、涼子は憂うつだった。いっそドタキャンをしようかとも思ったが、浩行に迷惑をかけるわけにはいかない。

 あんな見栄えの悪い二人を両親に会わせたくはない。両親どころか、世間一般の人にも、あんなのが身内だとは思われたくはなかった。

 もうどうにでもなれ! という投げやりな気持ちで涼子はレストランに向かった。

 しかしふたをあけてみるとその心配は杞憂に終わった。

 急に親戚に不幸があったということで、浩行だけがその場に現れたのだ。

 すみません、とひたすら頭を下げる浩行に、涼子の両親はいい印象を持ったようだ。食事会はなごやかなものになり、涼子は胸をなで下ろした。

 ひとつずつ、結婚に向けての準備を整えていく。

 結婚にかかわる忙しい日々は、自分プロデュースの仕事をしているようで、とても充実したものだった。

 私はこれから他のだれよりも幸せになるんだ、と涼子は疑わなかった。

 あっという間に三か月が過ぎ、結婚式と新婚旅行をかねて、涼子はグアムへと旅立った。

 帰ってくると、さっそく写真つきのハガキとお土産を友人たちへ送る。

 何日かして、春香からは「おめでとう」という短いメールが届いたが、他の友人からはなんの反応もなかった。結婚したことで満足していた涼子は、そのことを気にも留めなかった。

 そして、新しいマンションでの新婚生活がはじまった。

 けれど楽しかったのは最初だけだった。

 ひと月もすると浩行は「残業があるから」と平日の帰りが遅くなり、夕食は外ですませると言って、家ではめったに食べなくなった。涼子は一人分の料理を作るのが面倒になり、平日の夕食は駅近くの飲食店ですませるようになっていた。

 そんなある日。

 あの二人に会ったらどうしようと思いつつ、涼子は駅の南口にあるイタリアンの店に足を運んだ。

 窓際の席に座り、見るともなく外をながめていると、見覚えのある姿が目の端にうつった。

 浩行だ。

 とっさに腕時計を見る。七時を過ぎたところだった。

 はじかれたように席を立ち、急いで外に出ると、浩行の後ろ姿を探した。

 道の向こう側に浩行を見つけ、気づかれないようにかなりの距離をとってあとをつけはじめたが、その行き先はどう考えてもひとつしかない。

 案の定、浩行は実家である荒屋あばらやに入っていった。

 それを見届けると、涼子は先ほどの店に戻り、ゆっくりと夕食をすませた。

 食後のコーヒーを飲みながら、携帯電話を手に取る。五回ほどのコールで、浩行が出た。

「どうしたの。なにかあった?」

「べつに、なにもないけど。残業大変だなって思って」

「まあね。でも、早くきみと住む家を買いたいからね、がんばるよ」

「そう。だけど、たまには早く帰ってきてね」

「わかった。じゃあ、忙しいから切るよ」

 電話はあっさり切れた。

 うそつき――とつぶやいて立ちあがる。

 涼子は店を出た。そして浩行の実家へと向かう。


 玄関の横から壁づたいにまわりこみ、涼子はそっと家のなかの様子をうかがった。

 静かと思いきや、なにやら楽しげな声が外にまでもれている。ただし、浩行の声だけだ。あの二人の声は聞こえない。

 涼子はしゃがみこみ、もれ聞こえてくる声に全神経を集中した。

 やはり聞こえるのは浩行の声だけだ。会話の途中に入る「鞠絵ちゃん」「美咲ちゃん」という甘えるような声を聞いて、涼子は身ぶるいをした。

 五分ほどそうしていたが、もう十分だと思い、マンションに戻った。

 その日の夜も、次の日の朝も、涼子はつとめて平静をよそおった。

「今日も遅くなるの?」

「うん。繁忙期だからね。しかたないよ」

「そう」

「じゃあいってくるね」

「いってらっしゃい」

 浩行を送りだし、涼子は夕方になるのをひたすら待った。

 夕食を残りもので簡単にすませると、さっそくマンションを出た。駅を縦断して南口におりる。目的地はもちろん、浩行の実家だ。

 昨夜と同じく、家の裏手にまわりこむ。

 やはり今日も浩行の楽しげな声が聞こえてくる。

 涼子はいったん玄関付近に戻ると、そこから電話をかけた。家のなかから浩行の携帯電話の鳴る音が聞こえてきた。それを確かめるとすぐさま電話を切り、来た道を戻った。

 もう決定的だった。昨日も今日も浩行はたまたま実家に寄ったのではない。

 彼は嘘をついている。

 多少のハプニングはあったものの、ここまでは、ほぼ涼子の描いていたシナリオ通りだった。念願の結婚にこぎつけて、しかもその相手の浩行のこともかなり気に入っている。

 彼はいい人だ。

 愛しているかと聞かれれば、愛してると迷わず答えられる。実感としてはまだ〈愛〉までいってない気もするが、それは年月をかけて育んでいけばいいものだ。やがては浩行をこの世のだれよりも愛することができるだろうという確信が、涼子にはあった。

 だから、嘘をつく浩行が理解できないし、許せなかった。


 電気もつけずに暗いリビングに涼子は座り続けた。

 だれかに相談をしたかった。

 春香の顔が浮かんだが、それはできない。いまさら弱みなんて見せられない。勝ち誇った顔で「ほらね、だから言ったでしょう」なんて言われたらたまらない。

 玄関で物音がした。

 どうやら浩行が帰ってきたようだ。

 電気をつけて時計を見ると、もう十一時をまわっている。

 あっという間のようでもあり、ずいぶん時間が経っているような感覚もあった。

「ただいま」と、ネクタイを緩めながら浩行がリビングに入ってくる。

 涼子はまだ気持ちの整理がついていなかった。だから苛立ちを隠せなくて、口調が強いものになった。

「ねえ、私のこと軽く見てない?」

「え、なに。いきなりどうしたの?」

 浩行が目を見ひらいた。

「なんで嘘なんてついたのよ!」

「なんのこと?」

 本当になにもわからないように首をかしげる浩行に、涼子はいいかげん頭に来た。

「残業なんてしてないじゃない!」

「してるよ」

「嘘つかないで! 実家にいってたくせに」

「なーんだ、ばれちゃったのか」

 あっけらかんと認める浩行に、かっとなる。

「バカにしないで!」

 ヒステリックな声に、浩行が首をすくめた。

「そんなに怒ることじゃないだろう。べつに浮気してたわけじゃないんだし」

「浮気のほうがまだマシよ!」

 浩行がきょとんとした。

「どういう意味?」

「マザコン、シスコンなんて、いい年して気持ち悪い!」

 浩行の顔色がかわったが、涼子は気づかなかった。

「お母さんの手料理を毎日食べにいってたのよね? 嘘をついたのは後ろめたかったからでしょう? しかもこんな時間になるまでいったいなにをしてたのよ! 食べたらさっさと帰ってくればいいじゃない。そんなにあの家がいいの。私といるよりあの二人といたいの? じゃあ私はいったいなんなのよ!」

 いつのまにか浩行の顔からはあらゆる表情が消えていた。

 でも涼子は止まらなかった。

「母親のこと『鞠絵ちゃん』なんて呼ぶの、どう考えてもおかしいでしょう。ありえないよね? しかも三人とも全然似てないし。なんなのよ。あなたたちって本当に親子なの?」

 手近にあったワイングラスを手に取ると、浩行は無言のままいきなり床に叩きつけた。

 はっとして、涼子はわれに返った。

 浩行はゆっくりとした動作で食器棚をあけると大皿を手に取り、床に落とした。割れた皿の破片が足元に散らばっていく。無表情のまま、グラスや皿を次々と床に落とし続けた。

 粉々に砕けた破片が涼子の足元にも飛んでくる。

 涼子は青ざめた。

「……最初に言ったよね」

 やけに低い声が聞こえた。

 見れば、浩行は涙を流していた。

「家族を大切にしたいって。家族の悪口を言われると、ぼくは悲しくなるんだ」

「……じゃあ、私は家族じゃないの? 私だって悲しいよ。私は浩行さんの新しい家族じゃないの? 私のことは大切に思ってないの」

「大切さ。だから、きみの希望をかなえるためにぼくは努力をしているじゃないか。いったいなにが気に入らないんだ」

 簡単なことだ。

 さんざん口にしているのに、どうして彼は理解してくれないのだろう。

「だから――私は、あなたが実家にいくのがいやなの! 私と結婚したんだから、あなたの帰る家はここでしょう。なんであの家にいくのよ。結婚したんだから、あなたの一番は私のはずでしょう? あなたの家族より私を優先してよ! 私が一番でなくちゃダメなのよ!」

 つかの間浩行は呆けたような顔になり、それから「きみもか……」とため息にのせてつぶやいた。

「……どうしたいの」

「どうって」

「ぼくはどうすればいい」

「実家にはいかないで、ちゃんと帰ってきて。私の作った夕食をここで食べて欲しい。ここが、あなたと私の家なんだから」

「……そうか、わかった」

 素直にそう言った浩行に、ほっとして涼子はうなずいた。

「でも、――きみが、ぼくたち家族と一緒に、あの家で夕食を食べるっていう選択もあるんじゃないか」

 続く浩行の発言に、涼子は言葉を詰まらせた。

「毎日とは言わないよ。ときどきでいいんだ。きみだってぼくたちと家族になったんだ。ぼくの母や姉と食事をするのはいやなのか?」

 いやだった。

 たとえ食卓を囲んだところで、あの二人を目の前にしたら食欲がなくなる。それに、あの二人が作った食事だと思うと、きっとのどを通らないだろう。

「それは……ごめんなさい。できないわ」

 涼子の返事を聞くと、浩行はしばらく目を閉じてじっとなにかを考えていた。

「……涼子にはあの人たちの優しさが見えないんだな」

 そうつぶやくと浩行は深く息を吸いこみ、それをゆっくりと吐きだした。肩がさがっていく。

「……もういい。よくわかったよ。……じゃあ、あとひとつだけ聞いていいかな」

「ええ、なにかしら」

「ぼくが別れようと言ったら、別れる?」

 涼子は驚いた。なぜ突然そんなことになるのだ。

「別れないわよ。どうしてこれくらいのことで別れ話が出るの? おかしいわよ」

「おかしいと思うのはきみの勝手だよ。でもぼくからしたら涼子のほうがおかしいんだ。だから、よく考えて。いまならまだ穏便に別れられるから。……ねえ、ぼくと、別れる気はないの」

「ない。絶対に別れない!」

 断言する。

 なにも不自由のないリッチな生活だ。

 鞠絵と美咲。この汚点さえなければ。

「そうか……残念だよ。それじゃしばらく時間をくれないかな。そうだな……一週間くらい」

「一週間?」

「そう。きみの言い分はわかったから、ぼくたち家族で話しあう必要があるんだ。今後のことを」

 浩行は厳しい目を涼子に向けた。

 なぜ時間が必要なのか、どうやって折り合いをつけるのかはわからないが、涼子は黙ってうなずくしかなかった。



   4


 約束の一週間を過ぎても、浩行はマンションに戻ってこなかった。

 もちろんあせる気持ちはあったが、涼子はひたすら待つことにした。

 だいたい、嫁と姑とか夫の実家との確執なんて、どこにでもある普通の家庭の問題だ。それなのに、そんな些細なことで別れ話を持ちだすなんて浩行はどうかしている。しばらく実家に戻って落ち着けば、浩行も正気に戻るだろう。

 中途半端に連絡を入れて彼の機嫌をそこねるのが、涼子はなによりも怖かった。だから浩行に連絡を取るのをためらったのだ。

 それからさらに三日が過ぎた。

 日曜日の朝、いきなりマンションに戻ってきた浩行は、やけにさっぱりした表情をしていた。

 挨拶もそこそこに、浩行は戸惑う涼子を急かして外に連れだした。まるで揉め事など最初からなかったみたいな態度だ。

 涼子は黙って浩行に従った。

「ドライブしよう。きみと一緒にいきたいところがあるんだよ」

 はずんだ声でそう言って、車に乗りこむ。

 会話らしい会話はなかった。

 別れ話もどう考えているのかわからない。浩行は謝りもしなければ、説明をする気もないみたいだ。だからといって、涼子のほうから話を切りだすこともできなかった。

 走行中、涼子は運転をしている浩行の横顔を何度も盗み見た。

 何事もなかったかのように平然としている。なんのわだかまりも感じられない。それどころか、やけに楽しげだ。

 これは浩行の性格だろうか。グラスや皿を割るような激しさも、そういうふうに怒りを一気に爆発させて、すぐに忘れてしまうということだろうか。

 よくわからないが、悪い話をするような雰囲気ではなさそうだ。そう判断すると、ようやく涼子は肩の力を抜いてシートにもたれかかった。


 かなりの距離を走り続け、A駅から九駅先にあるX駅も通りすぎた。このあたりまで来ると、けっこう山が近くに見える。

「ここから車でさらに二十分ってとこかな」

 車は吸いこまれるように、どんどん山のなかを分け入っていく。しまいには、舗装もされていない細い脇道へと入りこんだ。スピードを落として進むこと、約五分。すると不思議なことに、いきなり目の前がひらけて街が現れた。

 のどかな山の景色とそぐわない、モデルルームのようなおしゃれな家が立ち並んでいる。ここだけ外国の街並みのようだ。

 そのうちの一軒の前で、浩行は車を止めた。

「ここだよ」

 車をおりて、二人で家の前に立つ。

 ガレージの横には芝生の庭が広がっている。その奥に二階建ての白い家があった。庭に面している一階は、おそらくリビングだろう。大きなガラス窓から日が差し込み、明るくて快適そうな空間が見えた。

「裏庭もあるんだ。それと暖炉もあるんだよ」

 涼子の肩に手を置いて、浩行が顔をのぞきこんでくる。

「希望通りだろう」

「え?」

「この家だよ。きみへのプレゼントなんだけどなあ」

 驚きのあまり、涼子は声も出なかった。

「……なんで」

 やっとのことで声を絞りだし、浩行の顔をまじまじと見つめた。

「母と姉がね、涼子の欲しがっている家を買いなさいって」

「どうして……」

「涼子のことを考えたからだろう。実家はまだ当分住めるから、急いで建て替える必要はないって」

「そんな……」

「気にする必要はないよ。これはぼくたち家族で出した結論だから」

 見かけによらず、あの二人にもいいところがあるらしい。でもそれよりも、彼が涼子の気持ちを理解してくれたことがなによりうれしかった。あれだけ家族にこだわっていた浩行が、涼子を優先してくれたのだ。

 思いがけない展開に、いまや涼子は幸せの絶頂にいた。

「ここは駅から遠いけど、きみが車でぼくを送り迎えしてくれればいいだろう。そうすれば、ぼくは毎日まっすぐにここに帰ってこられる。どうかな」

 なんでもよかった。浩行が実家と距離を置いてくれるのなら。

「もちろん。喜んで毎日送迎するわ」

 涼子は久しぶりに笑顔を見せた。


「いらっしゃいませ」

 二人の後ろから声がする。

 いつきたのか、パリッとしたスーツを着こなした背の高い男性が笑顔で立っている。

「ああ、大橋さん。こんにちは。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしく。早速ですが、そちらが奥さんですね」

「ええ、そうです」

「はじめまして。私はこちらの管理をしている大橋と申します。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 わけがわからないまま涼子は頭を下げる。

「大橋さんはね、この街の管理会社の人なんだ」

 大橋は涼子にぐっと近づいて話しかけた。

「そうなんです。ここは我々の会社が主体となって街を運営するという、ちょっと実験的な事業を行っているところでして。それも、かなりの年数と費用をかけた一大プロジェクトなんです」

 どう相槌を打てばいいのかわからず、涼子は困ったように浩行を見た。

「つまりね、ここは管理された街なんだ。自治会とか、近所づきあいなんかはやらなくてもいい」

「そうなんです。ねえ奥さん、一戸建てには住みたいけど、近所づきあいとかが面倒くさいなって思ったことはありませんか?」

「ええ、まあ」

「そうですよね。最近はそういう人が非常に多い。家を買うというのは想像以上に大変なことです。ほとんどの人は一生に一度の大きな買い物です。普通は時間と予算を考えてじっくりと選びますよね?」

「そうですね」

「でもこれがなかなか思い通りにいかない。土地を持ってる人はいいです。けれど、それ以外は新しい土地に引っ越すことになります。そうなるともう大変です。どこの土地にもそれぞれ特色があるんですよ。こんな田舎の山のなかなら、なおさらです。昔ながらのしきたりとか、けっこううるさいんです。そういうのに加えて、万が一隣近所に変な人が住んでいたらどうします? もう最悪。出ていけ! って言っても、言われても、みんな一生をその家で過ごすために家を買ったんですからね。簡単に引っ越せるわけがない」

 なるほど、この人の言うことはもっともだ、と涼子はうなずいた。

「だから変な人が住まないようにと、我々はこういう街をつくったんですよ」

「ここはね、選ばれた人しか住めないんだよ」

「選ぶんですか? どうやって」

「それは色々と、面接とかしたり……。でもご主人とは前から縁がありましてね。今回はもう何回か話を聞いています。しかし人となりというのは、やはり直接会って話してみないと、よくわかりませんからね。それで、私は今日はじめて奥さんとこうしてお会いしているわけですが……」

 大橋がすっと目を細めて涼子を見おろした。

 ずる賢い狐のような顔だと、涼子は思った。

「大橋さん、どうですか」

 浩行は真剣な表情で大橋を見つめていた。

 にっこりして、大橋がうなずいた。

「まあいいでしょう。ご希望に沿いましょうか」

 浩行が満面の笑みになる。

「よかった。お金でなんとかなるんなら、それに越したことはないですよ」

 浩行がいままでにないほど喜んでいるのを涼子は不思議に思った。

「奥さん。ここは手つかずの自然が多くてひなびた場所だったんです。世間から隔離された、とても陰気くさいところだったんですよ。因習や迷信が多くてね。よそ者は下手に入りこめないような場所だった。それを我々が、いいところだけを残してつくりかえたんです」

「つくりかえたんですか?」

「ええ、街として機能するように、根本からつくりかえたんです。苦労しましたよ。最初はなかなか上手くいかなかった。何度も頓挫したんです。それでもどうにかこうにかここまでこぎつけました」

 たしかに、山奥にこんな住宅街をつくるなんて、相当お金のかかる事業に違いない。

「どうです、この家。気に入りましたか?」

「はい、とても。でもこの家って、けっこういいお値段じゃないのかしら。浩行さん、大丈夫?」

 心配そうに浩行をふり返る。

 いくら山間の街とはいえ、立派な土地付き一戸建てだ。軽く億は超えるに違いない。

「そう思うだろう。ところがね、大橋さんが安くしてくれたんだ」

「ええ。この土地付き一戸建て。奥さんがいま、ここを買うと即決してくれれば――」

 大橋は涼子の目の前で片手を広げる。

「五千万で売りますよ。破格でしょう」

「信じられない! あ……やだ、まさか事故物件じゃないでしょうね」

 うさんくさそうに見る涼子を、大橋は笑い飛ばした。

「まさか! 保証しますよ。事故物件じゃありません。正真正銘の新築です」

「そうだよ。こんな優良物件なんてないと思うよ」

 あたりをゆっくりと見まわした。

 色とりどりの真新しい家が立ち並んでいる。ただ、往来する人影はなく、昼間だというのに妙に静まり返っていた。

「でも、あまり住んでいる人はいなさそうね」

「たしかに隣近所は空いています。なにしろここは選ばれた人しか住めない街ですから。広告などの宣伝活動は一切していないので、まだ住人は少ないのです」

「そうなのね。それに、もしご近所さんが引っ越してきても、変な人たちじゃないってことですよね。しかも挨拶程度で、つき合いはしなくてもいい?」

「ええ」とうなずいて、大橋が笑みを浮かべる。

「それにあと二か月もすれば夏ですからね。そうすれば、人は集まりますよ。夏休みに越してくる人もいますし」

「夏には人がくるってことね。なにか、お祭りとかイベントでもあるんですか?」

「まあ、祭りみたいなものです。すごくにぎやかですよ。うるさいくらい。ああ、それから近くにショッピングセンターもあるし、小学校もあります。ここは生活に不自由しませんよ。どうなさいますか」

 どうもこうもない。こんなに早く一戸建てが手に入るなんて思いもしなかった。

 目を細めて、涼子はまぶしそうに白い家を見る。

 春香たちをここに呼ぼう。

 彼女たちの驚く顔を想像しただけで、心が浮き立った。

「浩行さん。私、この家に住みたいわ」

 浩行と大橋がうなずいて、固い握手をかわした。

「ご主人、どうぞ明るい未来をつくってください」

「ありがとうございます」


 それから二か月のあいだ、涼子は浩行との結婚生活を楽しんだ。それは思い描いていたとおりの理想の生活だった。

 そして、夏がきた。



   5

 

 浩行は法事があるといい、一週間ばかり家をあけることになった。

「涼子はこなくていいよ。うちの家族と田舎の親戚一同が集まるから、疲れるだろうし」

 それを聞いて涼子はほっとした。

 どういう親戚か知らないが、あの二人みたいなのが大勢いるかと思うと、気がおかしくなりそうだ。

 浩行を駅まで送りとどけ、ガレージに入れた車からおりると、ほっと一息ついた。これから一週間はひとりきりだ。

 思いきり伸びをして、空を見上げる。

 夏空はどこまでも青く澄み、山の向こうまで広がっている。顔にあたる強い日差しがちりちりと頬を焼いていく。

 まだ隣の家にはだれも引っ越してこない。自分たちのように選ばれる人といのは案外少ないのかもしれない――そこまで考えたとき、涼子の耳がセミの声を拾った。

 そういえば、いつから鳴いているんだろう。

 たしか今朝までは、このあたりはとても静かだった。

 日差しの強さに耐えかねて、涼子は慌てて家のなかに入った。

 エアコンを入れるために窓をしめる。窓をしめたのに、まだセミの声が聞こえている。

 ミーンミーンとかカナカナカナという、あののどかな鳴き声ではない。ジージージージーというのと、聞いたことのないザリザリザリという、チューニングが合っていないラジオのノイズのような耳障りな声だ。

 涼子はひとつ頭をふった。少し頭痛がしてきて、その日は早めに寝ることにした。


 翌日のお昼を過ぎたころ、家の前を救急車が通りすぎていった。

 救急車で運ばれるほどの重病人が出たのだろうか。

 気になって玄関のドアをあけると、もわっとした熱気が入ってきた。昨日までの気温とは大違いで、いきなり真夏になってしまったようだ。

 救急車のサイレンが微かに聞こえている。

 突如としてジージージージーザリザリザリという声が頭上に響きわたった。見ると隣の家の壁にセミがとまっていた。クリーム色の壁に、黒いシミがひとつついている。

 汚らしい。昆虫は大嫌いだった。

 涼子は眉間にしわをよせながらドアをしめた。

 だが家のなかに入ってもあのセミの声が耳から離れない。イライラ気分を紛らわせるために、冷蔵庫から冷たいビールを取りだした。食事以外で、昼間からアルコールを飲むなんてことはいままでになかった。でもここに浩行はいない、そう思って涼子は気兼ねなくプルタブをあけた。

 その日の夜、涼子はさかんに寝返りをうっていた。

 眠りかけると頭のなかでセミの声に起こされる。ようやくまどろむと、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。そうこうするうちに、空が白んできた。

 次の日も朝から暑かった。

 寝不足の涼子はぐったりしていた。

 冷房が効いた部屋にいるにもかかわらず、なぜか汗がとまらない。

 あいかわらず、セミの声がうるさかった。昨日よりも確実に増えている。耳元で鳴いているような感じだ。

 また、どこからともなく救急車のサイレンが聞こえてきた。それはどんどん大きくなり、家の前を通過した。やはり気になり、慌てて外に出た。とたんに頭上でセミの大合唱が響きわたった。見れば隣の家の壁に点々とセミがとまって鳴いている。

 涼子は顔をしかめて家に入った。


 夕方になるまで涼子は自分がなにをしていたのかまるで覚えていなかった。ふと時計を見ると、もう五時を過ぎている。

 玄関のチャイムが鳴った。

 宅配便は頼んだ覚えがない。人づき合いもない。いったいだれだろうと、涼子はいぶかしんだ。

 ドアをあけると、スーツ姿の青年が立っていた。

「なにかご用ですか」

 若そうに見えるが、酷く顔色が悪い。

 パンフレットらしきものを握り締めた手がぶるぶると震えている。それを見ると涼子は無言でドアをしめようとした。その瞬間、青年がドアに足を入れてきた。

「なにするのよ!」

 急に怖くなり力ずくでドアをしめようとしたが、力でかなうはずもない。

「お願いします、ちょっとだけ……」

 そう言った小さな声まで震えている。

「なんなのよ」

 相手を刺激しないように涼子も声を落とした。

「……K寺の、墓所」

「ボショって、お墓のこと? やだ、お墓のセールスなの。だったら……」

「聞けよ!」

 青年が怒鳴った。

 涼子は黙る。

「K寺の墓所。一番奥の列。左から三番目の墓石の前でFさんは頭から灯油をかぶって火をつけた。だからあの下にいるHさんは成仏ができない」

 こわばった顔でそうまくし立てると、青年は踵を返した。その後ろ姿はすぐに道の先に消えていった。

 あぜんとした涼子は、しばらくそのまま玄関先で突っ立っていた。

 押し寄せるセミの声の大音量でわれに返ると、慌てて家のなかに入る。

 いまのはなんだったんだろう。

 あきらかに不審人物だった。この街の住人だろうか。いや、あんなおかしい人が選ばれるはずがない。しかもあの人はお墓のセールスにきた。きっと住人ではなく、外から入りこんだに違いない。でもこの街は管理された街のはずだ。セールスなんてやっていいわけがない。

 そう思い至った涼子は、名刺を取りだしてきた。

 名刺を片手に電話をかける。大橋に連絡をして、苦情を言おうと思ったのだ。

 しかし呼び出し音がコールされるばかりで、大橋の出る気配がない。

 しかたがないので会社のほうに電話をかけた。数コールでつながったが、「お盆のためお休みしております」というテープが流れ続けるばかりだった。

 舌打ちをして、今度は浩行に電話をかける。ところがこれもマナーモードになっているようで、いくらかけてもかからない。

 もうお手上げだ、とばかりに電話をほうり投げた。

 ソファにどっかりと座り、クッションを抱きしめる。

 エアコンのリモコンを手に取り、設定温度を下げた。

 冷房が効いているはずなのにどこからか生ぬるい風が入ってくる。

 涼子の頭に〈欠陥住宅〉という言葉が浮かんだ。

 異常に値引きされていたのも家のなかでセミの声がするのも冷房が効かないのも、全部この家のせいだ。この家がおかしいのだ。

 私たちはだまされたのかもしれない。

 そう思うと腹が立ってきた。お盆が終わったらさっそくクレームをつけようと、涼子は意気ごんだ。

 救急車のサイレンが聞こえてきた。それはだんだんと近づいてきて、家の前を通って、どこかにいった。

 夜になったが、暑さがおさまらない。

 エアコンはもう壊れてしまったようだ。

 しかも夜なのに、セミの声がうるさい。セミは夜でも鳴くものなんだなと、涼子は勝手に納得した。無性にのどが渇いてビールを飲み続けた。


 日が昇ると同時に、熱気が部屋のなかに入ってきた。

 涼子は家じゅうの窓をあけはなった。もうこれで外にいるのとかわらない。

 セミの声は昨日以上だ。狂ったように鳴いている。

 見にいくと、隣の家の壁にびっしりとセミが張りついていた。涼子は総毛だった。あんな数のセミがいったいどこからきたのだろうかと考える。

 きっとこの街をつくりかえたときに、掘り起こされた土のなかにたくさんのセミの幼虫がいたに違いない。生き残ったセミは仲間の分も鳴くのだろう。ああして鳴いて、また子孫を残す。

 子孫――。

 そのとき思った。

 浩行とのあいだにもし子どもができたとしたら。

 子どもはあの母親の孫にあたる。

 似ても似つかない家族。

 浩行と私の子どもが、もしも、どちらにもまるで似ていなかったら。いや、似ていないのならまだいい。もし、鞠絵か美咲に生き写しだったら。

 私は子どもを愛せるのか――。

 強い吐き気を感じ、涼子はトイレに駆けこんだ。

 しばらくしてトイレから出てくると、ちょうど家の前を救急車が通りすぎたところだった。

 玄関のチャイムが鳴った。

 おそるおそるドアスコープで確認をする。

 玄関先にはランドセルを背負った小学生が立っていた。子どもなら害はないだろうとドアを少しあけてもう一度確認をしてから、大きくひらいた。

 そういえば大橋さんは小学校があると言っていた。しかし、いまは夏休みのはずだ。

「どうしたの? ランドセルなんて持って」

「……今日、登校日だったから」

 男の子はうつむいたまま、帽子の下から小さな声で答えた。

 小学一年か二年くらいだろう。

「それで、うちになにか用があるのかな」

 少しかがんで、男の子の顔をのぞきこんだ。

「聞いて欲しいことがあるんです」

 深刻そうなので、涼子も真面目な顔つきになる。

「いいよ。聞いてあげる」

 男の子はほっとしたようにため息をつくと、顔を上げた。

 あどけない瞳が涼子をとらえる。

「あの、あのね」

 勢い込んでしゃべろうとする仕草がかわいかったので、涼子は唇の端に笑みを浮かべた。

「ちゃんと聞いてね」

「うん、わかった」

「いまから三年前、S小学校のI先生が、保護者から理不尽な苦情を言われて音楽室で首を吊った。先生は成仏できていない。だから先生は夜中になると音楽室にピアノを弾きに来る。曲目は練習曲第十二番ハ短調、革命」

 興奮したように顔を赤くした男の子は早口でしゃべり終わると「わあーー」と大声をあげながら走って逃げた。

 涼子はあっけにとられた。

 いまどきの小学生はああなのか。この街ではこんなことが流行っているのだろうか。どうやらピンポンダッシュも時代とともに進化しているらしい。

 ため息をついて家に入る。

 相変わらずセミの声がしていたが、もう気にはならなかった。

 冷蔵庫からビールを出してごくごく飲んだ。冷蔵庫も壊れてしまったのか、生ぬるいビールだった。苦みも、炭酸の爽快感もない。

 不審に思い、ビールをコップにあけてみた。泡立ちのまったくない、あざやかなピンク色の液体がコップに注がれていく。見たことのない飲み物だった。しかしのどの渇きにはあらがえず、涼子はのどを鳴らしてピンク色の液体を飲みほした。

 チャイムが鳴る。

 ためらいもなくドアをあけると、金髪の若者がポケットに手を突っ込んだまま、所在なさげに突っ立っていた。

 タンクトップから伸びているむき出しの両腕には、龍のタトゥーが入っている。

「なんか用?」

 酒臭い息を吐きだしながら、つっけんどんに言う。

「ちーっす。用があるからきたんすよ」

「なに?」

 涼子は険のある目つきで男をにらんだ。

 救急車の音が高らかに響いてきた。

「やべえ、俺も早くしないと。お姉さん、ちゃんと聞いてよね」

 金髪はウインクをする。

「聞きたくない」

 そう言ってドアをしめようとしたら、手首を強くつかまれた。

「なにするのよ! はなして!」

「だめっすよ。聞いてもらわないと」

 涼子はすぐにあきらめて、ため息をつきながらドアから手をはなした。

「そうそう、力抜いてね。そんな長い話じゃないからさあ。ちょっとだけ聞いてくれればいいだけだから」

「わかった」

 返事を聞くと、金髪は笑顔を浮かべ、つかんでいた涼子の手首をそっとはなした。

「じゃあ、いくね。えーと、十年前にぃ」

 ガムをくちゃくちゃさせながら、しゃべりだす。

 涼子は相手に聞こえるように大きく舌打ちをしたが、金髪はまったく意に介さなかった。

「ほら、あのDショッピングセンターの土地のはじっこに、昔々はー、魚屋さんがあったんだって。でー、そこの主人のUは、魚を盗んだ野良猫のぉ、首を切り落としたんだと。えーっと、それでぇ、そのUっていうのが最初に殺した人間が――なんだったっけ? あー思い出した、Eってやつでー、その次に殺したのがYでー、だからぁ、EとYはー、Dショッピングセンターの地下駐車場でぇ、自分の首を探して夜な夜な徘徊してる――ってぇことで、じゃあ」

 涼子は急いで去ろうとした金髪の腕を、両手で思いきりつかんで引き止めた。

 腕に絡みついている龍が身をくねらせて涼子に牙をむく。

「なにすんだよぉー」

「こっちのセリフよ! なんなのあんたたち。なにやってんのよ! あんたひとりじゃないでしょう。こんなくだらない遊びが田舎で流行ってるってわけ?」

 金髪はきょとんとした。

「……うそ。ひょっとして、知らねーの?」

「知らないわよ! なんだかわかんないけど」

「ふーん」

 瞬きもせずにじっと見つめてくる。

「あんた、俺よりかわいそうな人なんだね」

 涼子は頭に血が上り、怒鳴った。

「あんたなんかに同情される筋合いなんてない!」

「あー、悪かった悪かった。俺が悪かったよ」

 なだめるように、金髪が猫なで声を出す。

「そーだよね。俺としたことが言うのを忘れてたんだ。ごめんね。あんた知らなかったんだもんね」

「は? なんのことよ」

「だーかーらー、こういうことだよお姉さん。つまり――」

 金髪は涼子に思いきり顔を近づけると、かっと目を見ひらいた。

「この話を二十四時間以内にこの街の人五人に言わないとぉー、あんた、すんげえ不幸な死にかたをしますよ」

 にやにやしながら、ゆっくりとした動作で両手を上げて自分の耳をふさいだ。そして涼子を見据えたまま、金髪はゆっくりとあとずさっていく。

 まわりの景色がゆるやかに回転しはじめる。

 涼子はこのまま倒れるのだと思ったが、二本の足はしっかりと地面を踏みしめていた。なんとかいまの状況を整理しようとしたが、容赦のない怒りがこみ上げてきて冷静になれなかった。

 どうして私がこんなわけのわからない目にあわなくちゃならないのよ!

『酷い目にあうかもしれないけどね』

 高らかに笑う春香の声が聞こえたような気がした。

 ジージージージーザリザリザリ――。

 涼子の頭のなかでこれまでにないほどのセミの大合唱がはじまった。

 ふいに頬がちくりと痛む。ちくり、ちくりと痛みが移動する。見なくても、手で触れなくても、その感触が昆虫の足だというのがわかった。

 悲鳴をあげながらやみくもに手でふりはらう。

 足元に黒いものがぽたりと落ちた。それは不気味にうごめきながら涼子に近づいてくる。

 昆虫ではなかった。

 これ以上ないほどに涼子の目が見ひらかれた。

 足元から震えが一気に駆け上ってくる。想像すらできないとんでもないことが起きているのだと瞬時に理解した。もう、じっとなんてしていられない。足がもつれて転びそうになりながら、涼子は夢中で駆けだした。

 助けて! だれか助けて! 

 叫びを聞くものなどだれもいない。ここは他人とかかわらない街だから。

 涼子が走りだすのと同時に、隣家の壁を埋め尽くしていた黒いものたちもいっせいに動きだした。羽音のような低いブーンという耳障りな音をまき散らしながら。涼子めがけて。

 断末魔の叫びと、ほうぼうから聞こえるチャイムの音をかき消すように、救急車のサイレンがひときわ大きく響きわたる。


   了

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