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放課後。学生寮に戻ったぼくらは、合同授業で意気投合した忍ちゃんと一緒に食堂で夕食をとることにした。
十階建てにもなる巨大な居住施設の一階部分はまるまる大食堂となっており、朝、昼、夜と生徒たちが集中し、賑わっている。
カウンター以外の席がぜんぶ埋まってしまっていたため、ぼくらは座席に四人並んで座った。
ぼくは厨房のおばちゃんに、一日一回は食べないと発狂してしまうぼくの大好物を注文した。《針金》以上の硬さと太さを誇る学食の名物珍味で、読んで字のごとくワイヤーを思わせるような麺類と思えぬその歯ごたえは、食せば食すほど味わいを増す神秘の味である。ごく一部の生徒にしか需要がない(ぼくを含め四人と聞いている。《ワイヤー四天王》などと陰でささやかれているとのこと)ということで廃止になるという噂もあるが、そんなことになればぼくは学内でクーデターを起こすであろう。大衆迎合はマイナー殺しである。ただでは死なぬ。
「おーし、今日は鈴子のおごりだし、特上ステーキ定食の特盛セットでも注文するかなあ」寿は上機嫌そうに笑って言った。
「あ? ナイフ当たってたろ。実戦だったら今ごろお陀仏だぜ」鈴子が反論した。
「試合に負けた方が飯をおごるって話だっただろうが。約束も守れねーの?」
「お、落ちついてください。二人とも。私も半分出しますので……」
「忍ちゃあん」
ぐすんぐすんと鈴子はふざけて嘘泣きし、忍ちゃんに抱きついた。
「あー! なんだよ、おれが悪者みてーじゃねえか。わかったよ、もう。いいよ。チャラにしといてやるよ。しょうがねえから」寿は不満げにそう言った。白虎学園は今日も平和だった。
ぼすっ。どしゃっ。ばららら。
ふいに何かが落下したような音がした。
振り向くと、細身の七三分けの男子生徒が、カウンター席に置いてあったらしい鈴子の鞄を地面に叩き落としたようだった。中に入っていた化粧品やら財布やらが床に派手にぶちまけられていた。
男子生徒には見憶えがあった。たしか、昼休みに下北沢と一緒にぼくを校舎裏で脅迫した東陽夢葉親衛隊のひとりだ。名前は……田代といったか。二年A組の上流階級気取りのいけ好かないやつ。下北沢もそうだが、彼もまた東陽夢葉親衛隊であると同時に、校内最大派閥ともいわれる《帝派》の人間である。鈴子や寿が属する《要組》にとって《帝派》は完全な敵対勢力だ。一触即発。本日の平穏なディナータイムに終止符。
「てめえ」
鈴子が立ちあがり、田代を睨みつけた。
「こんなところに荷物を置くなよ。邪魔だ」
田代は汚物でも見るような眼で鈴子を見下し、吐き捨てるように言った。
鈴子は反論した。
「はあ? 邪魔なら口でそう言やいいだろうが。いいからさっさと片づけろよ。てめーがばらまいたんだから」
「知らないね」
田代は無視して鈴子の隣の席に座ろうとした。混雑しているとはいえ、わざわざ隣の席に座るとは太い野郎である。
ぼこ。
「ぶっ」
鈴子のくり出した裏拳が、田代の鼻を正確にとらえていた。田代は鼻を押さえながら呻いた。
「てめーなめてんのか。こら。誰が座っていいっつったよ。殺すぞ」
鈴子は低い声で田代を威圧した。田代の鼻から真っ赤な鮮血が滴り落ち、床を赤く染めていた。血なまぐさい戦場ならともかく、平時において相手の鼻を殴るというのは有効な攻撃方法だ。半端者なら、これだけで戦意を喪失することもある。
「ちょっとまっ……」
いきなり不意打ちをくらった田代は狼狽えていたが、鈴子に慈悲はなく、さらに追い打ちをかける。田代の頭に上段回し蹴りをくらわせ、昏倒させた。
「むかつくんだよ、てめーら。いつも偉そうに人を見下しやがってよお」
そう言って鈴子は地面に転がった田代のわき腹を蹴とばした。田代が「ぐえっ」と呻いた。
「おら! なんかねーんかよ! なんとか言えや!」
さすがにやりすぎだと思い、ぼくは止めようと思った。田代は個人的に憎たらしいが、このままだと戦争になりかねないので。
「やめてください!」という、女生徒の叫び声がした。ぼくよりも先に動いた者がいた。
「あー? 外野の出る幕はねーぞ? おじょーちゃん」
鈴子は田代を踏みつけながら、ゆっくり女生徒を振りかえった。
「と、東陽……さん……」
田代が蚊とんぼのようにか細い声で言った。
泣く子も黙る《要組》の狂犬・亜蓮鈴子を制止したのは、意外や意外、学園一のお嬢様こと東陽夢葉だった。
「あ、あの……ぼ、暴力はよくない、と、思います」
明らかに夢葉の足は震えていた。
「に、逃げてください……東陽さん。この女は気ちがいです。な、何をするかわかりま」
鈴子がふたたび田代の腹を蹴りあげ、彼は悶絶した。
「やめてください! 痛がってるじゃないですか」
「やめねえっつったら、どうすんだよ。あー?」
鈴子は意地悪そうに笑って夢葉に顔を近づけた。
「おい、鈴子。もういいだろ。その辺に」寿が鈴子に近づいた。
ぼこ。
「ぶっ」
止めに入った寿の鼻に、鈴子の裏拳がめりこんだ。彼は田代と同じく滝のような鼻血を噴射した。
「おい、縁人。なんとかしてください」
手で鼻を必死に押さえながら、寿はぼくに哀願した。
鈴子は完全に頭に血がのぼっている。ああなった鈴子は《狂犬》の異名の通り、敵味方の区別なく暴れだすからたちが悪い。
しかし、夢葉は同じ作家の小説を愛読する友人だし、放ってはおけない。親衛隊連中に貸しを作るチャンスでもある。
「まあ、落ちつけよ。鈴子。ほら、彼女も怯えてるしさ。ぼくも片づけ手伝」
ぐしゃ。
ぼくの股間に、ハンマーで殴られたような、すさまじい衝撃が走った。
空前絶後阿鼻叫喚絶対無比の苦痛。
目の前がまっ白になり、ぼくの時間が静止した。
意識が八割がた途切れ、そのまま床に頽れ、団子虫のように丸くなりながら股間を押さえてのたうち回るぼく。口からなんか変な液が出ていたのがわかった。泡でも吹いていたのかもしれない。こんな苦痛を味わったのは、八木師匠の地獄の特訓以来だろうか。
「てめー! どっちの味方なんだよ!」
鈴子が吼えた。
だめだ。怒りで我を忘れている。鎮めなきゃ……
「だ、大丈夫ですか?」
忍ちゃんの心配そうな声が聞こえていた。どうやらぼくはここまでのようだ……。忍ちゃん。君の力でどうか鈴子を止めてください。
ぼくは朦朧とする意識の中、ぱん、という乾いた音を聴いた。
何が起きたのか。
寿の顔が青くなっている。
忍ちゃんも、田代も眼を見開いている。
夢葉が、鈴子の頬に平手打ちをおみまいしたのだとわかった。
戦を知らない温室育ちのお嬢様と油断していたのか、鈴子は一瞬茫然としていたのだが、すぐに拳を固く握りしめる。
かっと眼を見開き、鈴子のこめかみには血管が浮きだしていた。
まずい。
鈴子は拳を思い切り振りかぶり……
夢葉の顔面に、渾身の右ストレートをおみまいした。
……と思いきや、鈴子の拳は夢葉の顔面数センチ手前で止まっていた。
次の瞬間、鈴子の体は宙を舞った。彼女の拳を止めた何者かが、彼女の脚をひっかけ梃子の要領で顔をはたき、なぎ倒したようだった(むかし伝統空手かなんかで見た転し技に似ていた)。
鈴子はそのままバランスを保てず、ぼくの目の前に倒れ、尻餅をついた。パンティが丸見えだった。
突然の不意打ちに彼女は驚いたようだったが、すぐに襲撃者をきっと睨みつけた。敵を射殺す猛禽類のような、その眼差しで。