日が沈むのは少し遅くなった
「冬が少しだけ遠ざかったのだろう」
――窓の外は明らかに吹雪いていた。ストームは持ち得る機能を発揮することなく、ただ、静かに佇んでいる。先輩はマフラーの隙間から顔を出し、啄むように、カップに口づける。
ずずず、と無遠慮な音を立てた後、そっとマフラーを押し上げる。黒いスカートの丈は、一般の女子高生と変わらず短い――黒いストッキングに包まれた足は、それでも随分と寒そうに見えた。
「春遠からじですか」
「馬鹿にするなよ」
じろり、と睨まれ、肩を竦める。雪は止む気配も見えない。白色の世界の向こう側には、それでも、先輩の言う通り、冬が少し遠ざかった世界が広がっているかもしれない――ほんの少しだけ日は長くなった。けれども、それも、日々それと当たり前に過ごしていれば気づくことは難しいことだ。まして、暖冬と呼ばれた冬が、今になってようやく本領発揮している状況で、冬が遠ざかった、とはとても言えまい。
が、先輩は口にする。口にせざるを得ない。昨晩、彼女はぼんやりと思いついたのだと言う。もう二月も終わる。三月も間もない。冬は終わりだ。だから、口にする。
『冬が少しだけ遠ざかったのだろう』
けれども、冬は追いかけてきた。既に僕らは、冬を置いてけぼりにした、と思い込んでいたのに。とんだ勘違いだったのだ――いや、そもそも、二月は真冬だ。この前、暖かな風が強く吹き抜けていったとしても、春が来たなどと勘違いしてはならない。これは戒めだ。まだ、春は遠いのだ。
「少しだけ遠ざかった冬。冬は、確かに遠ざかった筈だ。けれども、今、雪が降っている。雪――、雪か。雪は冬のものなのか」
「冬のものでしょうね。冬、そのものじゃないですか」
「――いや、雪が冬のものだと誰が決めたんだ?」
「誰が決めたわけでもないでしょうが…。先輩は、雪が冬のものであることに不満ですか?」
「不満は無い」
ずず。
先輩はカップを差し出した。
空になったカップを受け取りながら、僕はコーヒー粉を入れる。
「砂糖少な目で」
「残さないで下さいよ」
「いつもの量が多すぎるんだ」
「先輩は、多目が好きでしょうに」
「少な目だ。今回は、少な目だ」
いつもの半分の量の砂糖を入れる。お湯を入れ、かき混ぜ、ふーふーと息を吹きかけ、冷ます。
差し出す。先輩の手はいつもよりも無遠慮だった。
マフラーをまた引き下げ、唇をつける。
「苦いな」
「でしょうに」
「適当な調整が出来ないものと見える」
「何を仰いますか。我儘な人ですね、本当に」
「私は、我儘ではない!」
ぷくー、と頬を膨らませる。
地団太を踏む。
何歳なんだ、この人は。
「…雪は嫌いだ」
「嫌いですか。意外ですね」
「意外なことは無い。私ほど、雪が嫌いなのが似合う女はいない」
「はあ。そういうイメージは、ありませんね」
「雪は冷たいだろう。私は冷たいのは嫌いだ」
「ああ。冷たさに弱そうですね。先輩は」
「私は嫌い、とは言ったが、弱い、とは言っていない」
すねたように僕を睨んだ後で、先輩は窓の外にまた視線をやった。
「雪は我が物顔で降り注ぐ。雪は冬のものだが、冬は雪のものではない」
「雪が冬のものであることは認めるんですか」
「夏に降る雪は、夏のものだろう。だから、冬のものでもない」
「季節外れの雹なんてのは実際にあったことのようですし、否定出来る話ではありませんが、何だかもどかしくなる話ですね」
「春にも、秋にも降る。早過ぎる雪、遅すぎる雪は、冬のものとは言い難い」
「ええ、まあ。それなら、認めてはいない、と言うことですかね。やっぱり」
「認め難い。やはり、雪は冬のものではない」
ずず。
先輩はまたコーヒーを啜る。
「雪は冬のものではなく、冬もまた雪のものではない」
「では、今、この吹雪は、何なんでしょう」
「この雪はきっと、世界を白く染める」
「このまま降り続けばそうなるでしょうね。今年は、雪が降ってもなかなか積もることはなかったですから、僕は少し嬉しいですよ」
「私は面倒なだけだな。君は子供だ」
「子供は感受性の塊ですから、褒め言葉ととっても良さそうですね」
「良いものか、もう高校生なんだぞ。私たちは――雪は嫌いだ」
カップを差し出される。そこには半ば残ったコーヒーが冷めた顔をして澄ましていた。
「アイスコーヒーになってしまった」
「冬ですねえ」
ぼんやりと眺め、僕はそれに口をつけた。
先輩はお気に召さなかったようだけれど、それでも、随分と甘く感じられた。
「雪は嫌いだ。歩きにくくなるから」
先輩の身長は一メートル四十センチにも満たない。
同年代の人間には窺い知れない不満がある。
「そこまで酷く積もりはしないですよ、きっと」
「どうかな。君は雪を侮り過ぎている」
藪睨みの視線を向ける先輩に、『それなら早く帰りませんか?』と僕が口にすることはない。
多目的室の中に転がる、何の目的も知れないがらくたと同じようなものだ。僕はただ、先輩の言葉が聞きたい。
「そう言えば、『花』は春の季語だと聞いたことがあります」
「小癪な話だ」
「小癪ですか」
「決めつけはいつも腹立たしい」
「先輩は嫌いそうですね、そういうの」
――「そうだ、嫌いだ」
先輩は、じっ、と僕を見つめた。
そして、唇を噛む。
その仕草も、引き上げられたマフラーに隠れて見えなくなった。
「帰るぞ」
「分かりました」
電気ポット、コーヒー粉、ミルク、砂糖をバッグの中に収める。
先輩が鞄を持ち上げるのを確認して、教室の戸をそっと開き、周囲に人がいないのを確認して、二人で出る――針金での施錠は、実は楽しかったりする――左程の時間も掛からず鍵は掛かった。
「憂鬱だ」
校舎の中庭に、うっすらと雪が積もっている。外も同じ程度には積もっているだろう。
先輩の唇から吐息が漏れた。コーヒーと砂糖の甘い香りに、僕はこの時間がいつまでも続けば良い、なんて馬鹿げたことを一瞬考えた。