帰ったらご飯があるという幸せ
自分には生きる価値がない。
誰もいない家に帰ってきて、父親が朝置いて行った千円札で買った冷たいコンビニ弁当を一口食べる度にそう思う。
もし神様がいるのなら何故ボクを異世界に連れて行ってくれないのだろうか。最近流行っているネット小説ではボクみたいな冴えない人間を異世界で活躍させているというのに。
ボクと彼らは何が違うのか。
「……ちくしょう」
端で白米を口に運びながらも、悔しさが言葉として溢れた。
分かっている。小説と現実は違うのだ。
現実は厳しいし、生きることは辛い。
白米はごま塩がきき過ぎていたのかしょっぱかった。
「ねぇ、芦谷くん。ここから飛び降りたら行けるんじゃない?」
染井 佳乃という少女は、相変わらず焦点が少しずれている目で僕の方を見てそんなことを僕に言った。
ソメイヨシノ。それが彼女のフルネームだ。
どうせなら桜が良かったというのが彼女の口癖のようになっていた。そこからも伺えるように、彼女の両親は有名な桜の種を意識して子どもに名前をつけたらしい。
「行けるって、どこに?」
聞き返すと彼女は微笑んでみせた。その目はやはり僕の方を見ているようでみていない。
屋上のフェンスに背を預けた彼女はポケットから煙草の箱を取り出して、一本を口にくわえて、それと同時に取り出していた百均のライターで火をつける。
「決まっているじゃない。あなたのだぁい好きな異世界によ」
「行けるわけないだろう。行く前にミンチになるのがオチだ。あと煙草はやめろよ」
彼女の方から漂ってくる煙を手で払って抗議すると、彼女は自身の端整な顔を歪めて口から煙を僕に吹きかけてくれた。
「嫌よ」
「僕達はまだ高校生だ。子どもは煙草を吸ってはいけないって小学校の先生に教わっただろう」
「年齢で大人か子どもか判断するのは馬鹿らしいことだと思わない? 思考を停止してただ歳をくってきただけの奴を私は大人だとは思えないわね」
「それは……」
僕が言葉に詰まると染井は満足げに鼻を鳴らし、美味そうに煙草を吸うことを再開した。
仄かにバニラの香りがする煙が僕の鼻をくすぐる。
言い訳のように聞こえるかもしれないが、僕が彼女に対して意見を言わなかったのは何も反論の言葉が思いつかなかったからではない。何を言っても無駄だと思ったからだ。
「あぁ、今日も空が綺麗だ。本当に死にたいね」
そんな脈絡がつながっていないことを言う彼女の姿をマジマジと見つめる。
高校二年生の女子にしては小柄な体。小さな顔に大きな瞳。ここまでだったら可愛らしい小動物系の見た目を想像するだろうが、それにしては少しばかり彼女は痩せていた。それに合わせるかのように大きな瞳も少し攻撃的に吊り上っている。腰まで届く長い黒髪は自分で切ったのか所々長さがバラバラで、それが少しもったいなかった。
「何? 見つめないでくれる、気持ち悪い」
「ああ、悪い」
不機嫌な表情をしている彼女に謝る。
僕と彼女が一緒にいる理由は一つだ。
このクソつまらない現実からの脱却という目的が一緒だった。ただそれだけ。
染井は現実から消えるという形での脱却を望んでいた。だから彼女は頻繁に死にたいと言う。理由なんて適当だ。空が青いから死にたい。人が多いから死にたい。飯がまずいから死にたい。お茶がこぼれたから死にたい。宝くじが当たったから死にたい。次の授業が地理だから死にたい。死にたいから死にたい。
彼女は様々な出来事を理由に変えてしまう。
反対に僕は自分自身がヒーローになることで現実から脱却したがっていた。染井に最初に近づいた理由もそれに関係がある。僕の近くに存在した最も非日常的存在。僕でも救えるかもしれない、分かり易い救済対象。彼女をそう認識したから僕は彼女に近づいた。
もっとも、今は僕も彼女に汚染されて、異世界に逃げ込みたいなんて口にしてしまっているが。
「ああ、むごいなぁ」
もちろん分かっている。
この世界ですら満足に生きることができない人間が、異世界に行ったところで何の役にも立つことはないってことぐらい。むしろ異世界も迷惑だろう。もし異世界に感情があるならこう思うはずだ。「ああ、またゴミが来た」と。
だから僕は、僕達は、この世界を生きるしかない。
これは、ベターやベストな選択などではない、マストなのだ。
そう思っていた。思っていたのだ。
世界曰く、あんな奴うちに要らない。
僕は学校という空間にいるといつもそんなことを言われている気分になる。教室では特にそうだ。
なんとなく疎外感を感じてしまうのだ。別にクラスで無視されているとか、そんなことじゃない。
クラスメート達は悪い奴じゃない。彼らはきっといいやつだ。でも彼らは僕を見ているわけじゃない。彼らにとって大切なのは自分とそのすぐ周りの世界だけだ。自分の世界を構築したらそれ以上加えようとしない。必要に応じてたまに補充するくらいだ。当然僕がそこに入ることはない。
以前、染井にこのことを言ったら「相変わらず痛々しいわね、あなた。中学二年生からやり直して来たら」なんて言われたものだ。
「ちょっと、芦谷君。聞いてる? 私、今君に話しかけてるんだけどな~?」
目の前で二三度手が振られ、視界が遮られる。それによって僕の思考は再び今に戻ってきた。
「ああ、聞いているよ」
前を見るのに邪魔だった手がどけられると、代わりにその手の主の顔がよく見れた。
亜麻色に染められた髪をボブにした少女がそこにはいた。よく見ると頭頂部付近は地毛の黒髪が見え始めている。
彼女の名を北山 恵という。僕のクラスメートだ。
「嘘」
北山は口の先を尖らせてそう言った。あざとい、五点減点。
「おいおい、ひどいな。そう決めつけないでくれよ」
「じゃあ、質問です。私はさっきまで何の話をしていたでしょう? 芦谷君が私の話を聞いてくれていたのならわかるよね~」
彼女はにやにやと口元を緩ませながら僕を見る。さもお見通しといった顔だ。僕の嫌いな顔だ。
「まいったな、降参だ。分からない。教えてくれないか、北山さん」
「よろしい、教えてあげましょう~」
彼女はニカッといたずらっ子のような顔をした。この無邪気な笑顔にノックアウトされる世の男子諸君は多いのだと思う。染井は決してしない表情だ。
そこから続けられたのは他愛のない話だった。中身のない雑談。
そして彼女はいつも最後に僕に言う。
「芦谷君、もう染井さんに会いに行くのやめた方がいいよ」
僕もお決まりの台詞を彼女に返すのだ。
「忠告、痛み入るよ」
だけど結局、僕は放課後も染井に会いに行くのだった。
「さて、ここまでを回想した訳ですけれど」
銀髪の幼女が言う。
「何か分からないことはあるかちら?」
幼女が噛んだ。だが、そんなことはどうでもいい。
「まず誰だお前は?」
分からないことだらけだった。
ここは誰私はどこ状態だ。唐突な場面転換に頭がついていかない。
真っ白な空間に僕と幼女が二人きり。通報されそうな空間だ。
これは明晰夢とかいうやつだろうか。
「夢ではないでしゅよ」
また噛んだ。涙目になりながら幼女は続ける。
「あなたなら分かるのではないですか。これは所謂異世界転生前の儀式でしゅ。あなたはさっきの回想の後あたちの手違いという恩恵で唐突に死にまちた。それはもう階段から転げ落ちて情けなく。隣の女の子もびっくりするほどに」
異世界転生。もし僕の耳がバグったのでなければ目の前の幼女はそう言った。
瞬間僕の中で感情が爆発する。困惑、怒り、憎しみ、後ろめたさ。
「……けんな」
「ふふん、神である私に感謝してくれてもいいのでちよ。お前の望んだ異世界行きです」
「ふっざけんな!!」
僕は叫んだ。目の幼女を睨みつける。
神である幼女は困惑しているようで、あたふたと手を無意味に動かしている。
「えぇっ!? ひょっとしてこれはあれですか? ふざけんなとか言って殴られて、お詫びとか言ってチート能力奪われる奴ですか?」
焦っているのに噛まないなんてさっきまで噛みまくっていたのはキャラ作りだったのか。まあ、そんなことはどうでもいい。僕は今怒っているのだ。
「僕を見ろ」
「へ?」
「いいから見やがれ! 何が見える?」
「えぇ?」
「どっからどうみてもイケメンだろうが!」
「は、はぁ」
「おまけにうちは裕福で僕は成績もいい。友達はいないが、女にはもてる。確かに居場所がないと思ったこともあるが、僕にはもっと大切なことがある」
「はぁ」
「もう分かるだろ?」
「何がでしょうか?」
「異世界に行きたいなんて言うのは嘘だ」
「えぇっ!?」
幼女が口をあんぐりと開けている。顎がはずれそうだ。
「僕はな、染井佳乃という女の子に興味があったんだ。端的に言えば好きだったんだ!」
「はぁ」
「あの子を救うまで僕はあの世界から退場するわけにはいかない。だから帰せ、僕を! 元の世界にさあ!」
幼女の襟元を掴んで僕は揺さぶる。
そして――
自分には生きる価値がない。今さらになくなった。
神様ってやつは残酷だ。ボクを異世界に連れて行ってくれるどころか、ボクの唯一の理解者を、大切な人を、連れて行ってしまうんだから。
彼を連れ戻したくて心臓マッサージに人工呼吸をする。この状況でこれをするのが正しいかどうかなんて分からない。でも、彼を他の人間には触らせたくなかった。
僕と彼の周りを野次馬が囲んでいる。
消えろ。そんな目で見るな。これは無駄なことじゃない。彼は帰ってくる。じゃないとボクも世界から消えてやる。
「お願いだよ、煙草もやめる。もう死にたいなんて言わない。だから帰ってきてよ、芦谷君!」
「言ったな約束だぞ、佳乃」
「え?」
私の視界の中で彼が目を覚ました。
「実はボクっ娘だったんだなお前、それもなかなか新鮮で可愛いじゃん」
「えぇ!?」
彼は言った。
「お前のために大好きな異世界を捨ててきたぜ。毎日味噌汁を作らせてくれ」
ボクは言った。
「」
次の日から彼は本当にご飯を作りに来た。
もともとは全然違う話になる予定でしたが日をあけすぎたら、こんな無茶苦茶なお話になりました。