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ギャラクシー・ヴォイス  作者: BUTAPENN
ギャラクシー・ヴォイス
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Galaxy Scrambles 2



「ウソだろ……」

 YX35便のボーディングウェイで思わずつぶやいたそのセリフを、ランドール・メレディスは悪夢のような火星航路の途中で何度つぶやいただろう。

 航宙局の登録課で彼を待っていたときのレイ・三神は、すべてにおいてパーフェクトだった。その理知的で穏やかな微笑は、心の底から彼を歓迎しているように見えた。妻に言い寄る男をよく思っているはずがないことは、頭ではわかっていたのに。

 ランドールがYX35便の新しいクルーとして乗り組むためのフォームはすでに、指紋認証するばかりに整えられていた。膨大で煩雑な事務を片っ端から処理するキャプテン・三神の手並みに、担当の女性職員はため息をつきっぱなし。第一級航宙士のプルシアンブルーの制服は、その日航宙局に居合わせたすべての人々の感嘆の視線の的となっていた。

 声を大にして叫びたい。みんな、だまされていやがるんだ。

 YX35便のゲートに一歩足を踏み入れたとたんに、キャプテン・三神は豹変した。

「だから、何度言ったらわかるんだっ! このクソヤロー!」

 ランドールをまるで、もの覚えの悪い牧羊犬かなんかみたいに怒鳴りつけ、少しでも返答が気に入らないと小突き回した。

「キャプテン、あとは僕がいろいろと教えておきますから」

 そばにいた金髪の人のよさそうな青年が助け舟を出してくれ、ランドールの身体をブリッジから押し出して、にっこりした。

「僕は、二級航宙士のエーディクといいます。YX35便にようこそ、ランドールさん」

 ドアが閉まるやいなや、ランドールは堰を切ったようにまくしたてた。

「ほんとにこのシップは、火星貨物定期便か? 悪魔が看守をしてる監獄船の間違いじゃないのか?」

「ははあ、キャプテンのことを知らなかったんですね」

 エーディクは、いつものことという仕草で肩をすくめた。「最初は誰でも驚くけど、慣れますよ」

「慣れる? おまえらはいつも、あんなふうに日常的に張り倒されてるのか」

「まあ、「張り倒される」というのも主観の相違で、キャプテンは親愛の情のつもりなんです」

「あれがっ?」

「だって、もしキャプテンが本気で誰かを張り倒したら、そいつは三日は起き上がれませんからね」

 こともなげに言うと、エーディク操縦士は「じゃあ、船内見学コースと行きましょうか」と歩き始めた。

「こっちがブリーフィングルーム、このポールを降りると機関セクション。突き当りのドアが居住セクションへの入り口です」

 と、長いかまぼこ型の廊下のあちこちを指差して説明してくれるが、予想もしなかった状況に混乱しっぱなしのランドールの耳には、ほとんど入ってこなかった。

「……悪いが、先に俺の部屋に案内してくれないか。荷物を置きたいんだ」

「はあ、そうですか」

 エーディクは決まり悪い表情を浮かべて振り向いた。

「そういう意味では、ここがちょうどランドールさんの部屋なんですけど」

「ここが……?」

 ひゅうんと音を立てて開いたドアの向こうにあったのは、予想したよりもずっと広々とした空間だった。すわり心地のよさそうなソファにいくつものテーブル。まるでラウンジのような――。

「ラウンジじゃねえか!」

「や、やっぱりそう見えますよね」

 エーディクは、ランドールの剣幕から身を護るように、両手を顔の前に広げた。

「怒らないで聞いてください。YX35便には22名分のスタッフルームしかありません」

「……」

「つまり、ランドールさんの寝る場所は、このラウンジってことに……」

 皆まで聞かぬうちに、ランドールは部屋を飛び出した。ビームライフルのような速さで廊下を駆け抜けると、ブリッジに飛び込み、主操縦席についているキャプテン・三神につかつかと近寄り、怒鳴った。

「いったい、どういうつもりだ。ラウンジに寝ろだと? 専用の個室もないなんて、俺は軒先の捨て猫か」

「ふん、人の話をちゃんと聞いてなかったのか?」

 レイはコンソールに両足を乗せると、邪悪な笑みを見せた。

「最初に言っておいただろ? 『ラウンジ・クルー』として雇うと。ラウンジに寝泊まりするから『ラウンジ・クルー』という名がついてるんだ」

「善人づらして雇ってやるだなんて、よくも騙しやがったな。人間以下の扱いでこけにされるくらいなら、こんな仕事こっちから願い下げだ!」

「ふうん、じゃあ降りろ」

 レイは威圧的に立ち上がった。

 そしていきなりランドールの胸倉をぐいとつかみ、日本の仏教寺院の不動明王さながらに凄みのある顔を近づけて、ささやいた。

「てめえのような役立たずに、1グラムだって俺のシップの貴重な酸素を吸わせてやる義理はない。俺のやり方に承知できねえんなら、今すぐ非常ゲートから叩き出してやる。まだ出航したばかりだから、地球へはほんの百万キロだ。ここからなら泳いで帰れるだろ」

「じ、冗……」

 冗談ではないことは目を見ればわかる。この男なら本気でやりかねない。彼の背後の特大のスクリーンには、豆粒のような地球の映像が映る。ランドールの全身を、金属のような冷たい恐怖が貫いた。

「……わかった。手を離してくれ」

「船長に対する言葉遣いが、まだわかっていねえようだな」

 レイがぱっと手を離すと、ランドールはその反動で思わず床に片膝をついた。ものすごい力だ。体格のよい彼がまるで小学生のように扱われている。

「わかりました。キャプテン。以後気をつけます」

 みじめさに震えそうになる声を抑えこみながら、答えた。

 少なくとも宇宙にいる間、この男に服従しなくては生きていけない。

 YX35便では、この凶悪な専制君主、キャプテン・レイ・三神が法律そのものなのだ。



 その場でランドールは、キッチンに行くように命じられた。

 初老のイタリア人の女性シェフ・ジョヴァンナが、ぴかぴかに磨かれた厨房で待っていた。

「はじめまして。ランドール。YX35便へようこそ」

 彼女は体を揺らして彼に手を差し出した。彼女がこのシップを降りたら二人分のシェフを雇えるだろうという巨体だ。だが、彼女ひとりでふたり以上の働きをしていることは、やがてランドールも認めるところとなる。なにしろ常人の三倍は食うというクルー24人の胃袋を、常に満足させるだけの仕事をひとりでこなしているのだ。

 それも、とびきり美味いときている。

「あんたは、アメリカ人ね。何か好き嫌いはある?」

「いや、蟻とゴキブリ以外なら何でも食う」

「よろしい。このシップにはけっこう好き嫌いの多い人間が多くて大変なのよ。おまけに、豚がダメなイスラム教徒がふたり、牛がダメなヒンズー教徒がひとり、非宗教的ベジタリアンが三人」

 彼女は頭を振った。

「毎日てんてこまいで、なかなか掃除の手が届かないから、あんたが来てくれて助かるわ」

「ここのクルーはすぐ辞めていくんじゃないか。キャプテンがあんなだと」

「とんでもない。死んでもこのシップから降りたくないって長年居ついてるクルーばかりよ」

 と言いながら、シェフは特大のレンジの上のフードを指差した。

「まず手始めに、この換気口の中の油汚れをきれいにしてほしいの。できる?」

「ああ」

「それが終わったら、じゃがいも20キロの皮むきをお願いね。調理マシーンは皮を厚く剥きすぎて勿体ないから、使うの嫌なのよ」

 換気口のダクトを覗き込みながら、ランドールはふと訊ねた。

「なあ。俺は厨房に配属されたってことなのか?」

「あら、違うと思うわ。だって、ここでの予定は2時間だもの」

「2時間?」

「ほら、あんたの予定表」

 彼女は、材料やら調味料のメモやらを書き散らした空中の透明スクリーンに手をかざした。びっしりと細かい文字で埋め尽くされた表が浮かび上がる。

「これが今朝キャプテンから発表されたあんたのスケジュール表。2時間おきに各セクションに回ることになってるみたいね」

「あ、朝4時から夜の10時まで……?」

「『東空の白みては 夜の姿かき失せぬ』……知ってる? シューマンの『流浪の民』。いい歌よ、大好きなのよね。『ねぐら離れ鳥鳴けば いづこ往くか流浪の民』」

「……ウ」

「あんたって、まさに『流浪の民』だわ」

「ウソだろーっ」



 次の2時間は、保安セクションだった。

「まあ、保安と言っても、普段やっていることと言えば、シップ内を見回って、傷んだ箇所を見つけることくらいですかね。……あれ、なんだかここ、いつもより音が高いぞ」

 髭づらの保安主任・ニザームは腰に下げていた工具を取り出すと、壁をとんとんと叩いた。

「遭難時の対処なんかも僕の役目になるんですけど。それに海賊が襲ってきたときなんか……。でも、根が臆病なもんですから、きっとそんなことになったら、一番に腰を抜かしちゃうでしょうね。わはは」

「……」

「心配しなくても、大丈夫ですよ。いざというときは、キャプテンはじめ血の気の多い人がいっぱいいますから、僕の出る幕なんかありません」

 そう言いながら、ニザームはシップ内のあちこちを叩いたり、耳を押し当てたりしながら、時間をかけて点検していく。

「キャプテン三神のことを、クルーたちはどう思ってるんだ?」

 ランドールは彼の作業を見つめながら、問いかけた。

「優秀な、いいキャプテンですよ。YX35便に乗り組んでいるというと、仲間たちにうらやましがられます」

「怖くないのか」

「そりゃあ最初は怖かったですよ。でも、クルー思いの優しい人だとすぐわかりますから」

(ウソだ。そんなはずはない。みんな怖がって本当のことが言えないだけだ)

 ランドールは心の中でつぶやいている。

(誰も彼もが口をつぐむというのは、シップのあちこちに盗聴器でも仕掛けてあるのか。少しでも悪口を言ったヤツはいつのまにか、宇宙の藻屑と消えている……。絶対あり得る、あいつなら)

 そのあいだにニザームは、パネルを開けて内部を点検していたが、

「パイプの圧力が下がってる。エアー漏れ点検の必要ありですね。悪いけど、ランドールくん、ここから上がって天井裏を見てきてくれませんか。僕よりも君のほうがずっと身軽そうです」

「いいけど、何をするんだ?」

「メインパイプの電磁弁センサーの数字を読むだけでいいです。あとは下から指示しますから」

 そう言ってニザームは肩車でランドールを押し上げた。天井裏は狭く、ようやく這って進める程度だった。ランドールはパイプの接続部を探し当てると、メーターの数字を読んだ。

「0.43MPaだぞ……おい、聞いてるのか?」

 返事がない。

 心配になって下をのぞくと、ニザームはマットを広げ、その上でコーランを手に、船尾に向かって額づいていた。宇宙にいる限りは何処にいても、メッカとはすなわち地球の方角である。

「……お祈りの時間かよ」

 この男ならば、たとえ海賊が襲ってきても、お祈りの時間は死守しそうだ。



「わしが、ここのチーフをしとるタオだ。いやあ、なかなか鍛えとる体だな。感心感心」

 機関長はYX35便のユニフォームを脱ぎ、自身も歳の割りには屈強な上半身を汗に光らせていた。

「機関室は重労働だ。メインエンジンの開閉レバーはめちゃくちゃ重いからな。わしはコンピュータの大雑把な操作を信用しとらん。ブリッジの要求に対して、すべて手動で操作する。ここに配属されるとたいてい最初のフライトの2ヶ月間で5キロは痩せて、ふらふらになって、女にぶちこむアソコも立たなくなるもんだが」

 彼はあごひげをしごきながら、にやりと笑った。「さて、おまえさんの場合は、どうなるかな」

「ひええ……」



「ではこれから、キャプテンルームとクルー用22部屋のルームメンテナンスをします」

 中学生みたいに童顔の北欧の青年、ハウスキーピング班のトシュテンはさわやかに笑った。

「いつもフライト初日は夜中まで作業するんだけど、あなたが来てくれて助かるよ。今日から、日付が変わるまえには晩飯にありつけそうだ」

「……もう、どうにでもしてくれ……」



「ドクターは……?」

 ランドールは足をひきずるようにして医務室へ入ると、入り口のカウンターに倒れこんだ。

「あら、いらっしゃい、新米クルーさん」

 コリアンの若い女性看護師、ハヌルがにこやかな笑顔で奥の部屋から出てきた。

「ドクター・リノは会議中なの。どうしたの」

「なにか、疲れの取れる薬をくれないか……」

「じゃあ、とりあえず栄養剤の点滴しましょうか。ここに寝て」

 指し示されたベッドに倒れこむように横たわると、ランドールはつぶやいた。

「慣れし故郷を放たれて……夢に楽土求めたり」

「あら、何それ?」

 てきぱきと点滴の準備をしながら、看護師は背中越しにたずねた。

「『流浪の民』っていうらしい。ジョヴァンナが料理しながらキッチンで大声で歌ってる」

「ああ、あの歌ねー」

「俺もせめて夢に楽土を求めたいところだが、あいにくこの一週間というもの、ろくに寝かしてももらえない……。ライト煌々と灯り、野郎どもが四六時中たむろしてるラウンジで、毛布にくるまるだけだ」

 小さな箱型のキットを彼のたくましい腕に巻きつけながら、彼女はくすくすと笑った。

「キャプテンにすごく可愛がられてるって聞いていますわ」

「あいつは鬼畜だ。どうせ俺をくたばるまで、こき使うつもりに決まってる」

「まあ、そういう被害妄想はストレスのもとよ」

「あんたは、よくあのキャプテンのもとで我慢して働いてるな」

「我慢なんて。でも、このごろは比較的楽だわ。油断してても、お尻を触られなくなったから」

「ユナは……、亭主が本当はこんな男だと知ったら、どんな気持ちがするだろう」

「あら、キャプテンの奥さんなら……」

 ハヌルは彼の顔をのぞきこむと、くすりと笑った。疲れきった患者はとっくに寝息を立てている。

 底のない眠りにゆっくりと落ちていくあいだ、ランドールの目の前を、ガラスのかけらにも似た無数の断片が通り過ぎていった。

 そのひとつひとつに万華鏡のように、黒髪のたおやかな女性の微笑むさまが映っている。しかしその微笑は決して彼のものではない。そのかたわらにいる悪魔、レイ・三神に向けられているのだ。

 夢の中でランドールは、楽土とはほど遠い、甘い苦痛に似た泡沫うたかたの中を漂った。



 火星の上空に空中都市のように浮かぶクリュス航宙ポート。一ヶ月弱のフライトを終え、ドッキングを終えたYX35便の中は、気だるげなため息に次いで、短い休暇への期待に満ちた喧騒が充満した。

 クルーたちが忙しく動き回っている中で、ランドールはひとりこっそりと貨物室に忍び込んで、搬入出用ハッチをうかがった。

 彼が待っていたのは、昔の密輸仲間たちだった。偽造した船積み書類を使って委託業者のふりをした彼らを手引きして、正規の業者より一足先に、YX35便の積荷をそっくり奪ってしまおうという魂胆だ。

 一ヶ月のあいだ、ランドールは激務のあいだを縫って、船内を探索して必要な情報を盗み、極秘のうちに彼らに指令を与えていた。

 使い走り以下の屈辱的な扱いに黙って耐えてこられたのは、この計画があればこそ。

「レイ・三神。俺を敵に回したことを、死ぬほど悔やませてやる」

 ごっそり積荷を売りさばいたら、こんなシップから、とっととおさらばするのだ。そして自分のシップを手に入れ、キャプテンとして堂々とユナの前に立つ。こみあげてくる笑みと戦いながら、ランドールは仲間たちを待った。

 待った。待ったのだが――来ない。

 さすがにいぶかしく思い始めた頃、ハッチが開き、搬送ロボットたちが入ってきた。もちろん正規の業者のものである。

「あれ、きみ、まだ下船してなかったの?」

 中国出身の通信士・チェンが通りかかって、ぽかんとしているランドールにたずねた。

「ほかの奴らはとっくに街に繰り出しちまったぜ」

「そ、それが積荷が心配で……」

 下手な言い訳をしていると、チェンは笑った。

「きみって、意外とまじめな性格なんだな。見直したよ。うちの積荷はだいじょうぶさ。キャプテンが搬入口に張りついてチェックしてるし」

「あ、ああ……」

「なんでも、YX35便がドッキングする少し前に、ポートで大捕り物があったみたいだね。クリュスの管制官が言ってた。正規の業者を装ったニセものが、警察に逮捕されたんだってさ」

「……」

「そういえば、キャプテンもそんな噂があるから気をつけろって火星との通信で言ってたし。やっこさんたち、警戒の真っ只中に押し入ったんだろうな。馬鹿な奴らだよ」

 ランドールはよろよろと貨物室を出ると、洗いざらしのジーンズのような火星の薄青い空を見上げた。

 やられた。すべては最初からバレていた。俺はただヤツの水槽の中で泳がされていただけの、大間抜けの金魚だった。

「くそう」

 こうなったら、なんとしてでもレイ・三神の正体を白日のもとにさらしてやる。ヤツがどんなに邪悪で不実な男かを証明するものを、ユナの目の前に突きつけてやる。

 その日から、ランドールはレイの宿泊しているファーストグレードのホテルを探し当て、部屋を四六時中見張った。

 火星にいるあいだ、大の男が一度も女を抱かないなんて、そんなことありえない。必ず浮気の証拠をつかんで、夫の貞操を頑なに信じているユナに見せるのだ。

 しかし、レイはホテルからほとんど出なかった。たまに出かけると思えば、整備工場との往復のみ。

「まさか……ほんとに?」

 ありえない。俺のわずかな隙をついて、女を呼び入れたのか。それとも、このホテルには秘密のトンネルでもあるのか?

 張り込みで徹夜続き。ふらふらの頭を抱えながらカレンダーを見ると、もう火星の滞在期間の5日間は終わろうとしていた。

 そして、ランドール自身もその間、一度も女を抱いていないことに気づいたときは、もう遅かった。



「点滴を……打ってくれ」

 ランドールはほとんど夢遊病者のように、医務室のカウンターに崩れこんだ。

「あらあ。このところ毎日ね。ドクターから皆勤賞の表彰状もらわなきゃ」

 ハヌルが一重の愛らしい目を見開いて、奥から出迎える。

「悪いが、せっかくのジョークも笑う気力がねえ……」

「ほんとうに疲れているのね。今日のお仕事は何だったの?」

「ゴミ処理装置の清掃作業。……作業中に装置が動き出して、もう少しで俺自身が宇宙のゴミと化すところだった」

「うふふ、ご苦労さま」

 点滴よりも何よりも、鼻腔をくすぐる若い女性の匂いが、ランドールの体を高揚させる。

 我ながら、飢えたオオカミだと思う。シップの男性クルーたちが火星でフリーセックスを謳歌することを黙認されているのは、女性クルーの安全のためでもあるのだ。

 とろんと重くなった瞼の隙間から、医務室のライトの七色のスペクトルとともに、ユナの神々しいまでの笑顔の幻が見えてくる。

 かわいそうなユナ。亭主の偽りの紳士づらにだまされ、今も彼を愛し続けているのだ。

「キャプテンの奥さんは……あいつの本当の姿を夢にも知らないんだろうな……」

「そうかなあ。とっくにご存じだと思うけど」

「え?」

 恋愛話をするときの女性の常で、ハヌルは饒舌になった。

「だって、そもそものなれそめが、奥さまの管制中にキャプテンがいつも「へたくそ」って怒鳴りまくったことなんですもん。奥さま、最初は半泣きだったそうよ。そして偶然バーでめぐり合って。……運命って感じよね」

「それじゃ……」

 ランドールは呆然と虚空を見つめた。

「ユナはあの男の本性を知っていて……、それでなお耐えているってことか」

「ああ、でも、地上にいるときのキャプテンは今とは全然別人……あ、これは言っちゃいけないんだっけ」

 ハヌルの最後のことばを聞く前に、ランドールは点滴キットをもぎとると、医務室を飛び出した。

 廊下を進みながら、奥歯を砕けるほどにギリギリと噛みしめる。

 今の今まで、ユナは夫の見せかけの虚像しか知らないものと思い込んでいた。だが、実際は知っていたのだ。知っていながら、おそらくは恐怖のあまり、彼から逃げられないのだ。

 ユナが、凶悪な夫の手の中で辱められ、その美しい顔を哀しみとあきらめに曇らせている姿が脳裏に浮かぶ。

(なぜ、俺は今まで気づかなかったんだ)

 自分を呪いたい気持ちでいっぱいだった。

『でも、あなたはレイ・三神のことを知らないわ』

 あのとき『ポンチセ』で彼女はそう言った。そのことばの裏に隠されていた真の意味を、もっと早く悟るべきだった。そうすれば俺は命を懸けても、ユナを彼のもとから救い出したのに。

 後悔に苦悶しながらシップ内を歩いていたとき、二の腕を後ろからつかまれた。

「ランドール。探してたんだぞ」

 ベテランメカニックのスギタだ。白髪だが、長身の体は精悍で引き締まっている。

「緊急事態だ。シップの側面に隕石の小さな欠片が当たったらしい。外壁パネルが一部剥がれ落ちている。至急、外に出て点検の上、必要なら補修をしてほしい」

「外に出て?」

 ランドールは思わず、外を見ようとした。当然ながらYX35便には、前方と後方のブリッジ以外に窓はない。

「今は慣性飛行中だ。外に出ても危険はほとんどないはずだ。俺たちもサポートする」

「俺が……やるのか」

「絶対にきみにやらせろという、キャプテンの命令だ」

「……あいつの」

 ランドールは弾かれたように、急にきびすを返して走り出した。

 ブリッジへのドアが開いたとたん、彼の目に飛び込んできたのは、正面スクリーンに映る、果てしなく暗黒の宇宙だった。

 そして、その宇宙を背にしてゆっくりとコンソールの前から立ち上がる、あの男。

 キャプテン・レイ・三神。

 そのとたんランドールの頭の中で、抑えていた何かがはじけた。

「てめえ……」

 引きつった口の奥、からからに渇いた喉から、かろうじて言葉をしぼりだす。「……ぶっ殺してやる!」

 いきなり殴りかかった。

 一発入れたことだけは覚えている。その代償に数発お見舞いされたことも。

 そのあと、何人かの周囲のクルーたちに無理やり押さえ込まれた。そして、――暗転。



「しばらく、倉庫にでも閉じ込めておけ」

 三神船長は静かに命じた。

 気を失った金髪の男は、ふたりのクルーに両脇と足を抱えられ、運ばれて行った。

「キャプテン。やりすぎじゃないかね」

 一部始終を見ていた機関長のタオが、顎ひげをしごきながら言った。

「ああ……、だが、ヤツの今の様子を見ると、俺の最悪の予想は当たっていたよ」

「ならば、なおさら慎重にことを進めねばならん。自分自身が身にしみておるだろうが。――せめておまえさんの変化の理由だけでも、説明しておいたほうがいいのじゃないか。絶対に言うなと、みなに口止めしたそうだが」

「それだけは、断る」

 レイは殴られた頬を痛そうに押さえて、にやりと笑った。

「いいパンチだった。こんな拳を持ってるヤツに弱みを見せるのは、俺のプライドが許さんよ」

「まったく、意地を張りおって」

 老人はやれやれと肩をすくめた。「似たもの同士……ということかのう」



 クシロはその日、朝から篠突く雨だった。

 航宙管制ステーションの玄関で、バッグから無重力パラソルを取り出して頭上に浮かべたユナは、通りの向こうにずぶぬれになって立っているひとりの男の姿に気づいた。

 今日は、YX35便が地球に戻ってくる日。もしやレイだろうかと心を躍らせたユナは、雫のカーテンの奥に目をこらして、はっと立ち止まった。

「ランドール?」

 彼はまっすぐ、ユナに向かって近づいてきた。

 この前会ったときの彼ではない。からかうような笑みも、不敵なまなざしも持たず、まるで今にも泣き出しそうな子どものように、じっとユナのことを見ている。

 いや、違う。雨にまぎれて、彼は本当に泣いているのだ。

「ユナ」

 濡れそぼった手で、ランドールはそっと包み込むように彼女の華奢な身体を抱きしめた。

「かわいそうなユナ。待っていてくれ。必ず、俺がおまえを助けてやる。おまえをあの卑劣な男から――」

「な、なんのこと?」

 腕から逃れようとしてもがいていた彼女は、彼の青い瞳に射すくめられて動けなくなった。

「愛している。ユナ」

 そして、それが運命ででもあるかのように、ふたりの唇は重なった。

           





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