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ギャラクシー・ヴォイス  作者: BUTAPENN
ギャラクシー・オデュッセイ 木星航行編
34/38

Galaxy Odyssey 8



 【第一次木星調査移民団】の慰霊式が終わって一ヶ月が経った。【ギャラクシー・フロンティア】号は今も、アステロイド・ベルトのただ中を航行し続けている。

 とは言え、小惑星の帯は数億キロにわたってドーナツ状に広く分布しているために、窓外の景色はなんら変わることなく、茫漠たる宇宙である。

 木星までの旅程は、どうにかやっと三分の一を過ぎたところ。

 しかし、ここを通過すれば、いよいよ【アウター】だ。銀河連邦の領域の外であり、人類の探査の目がいまだ十分に行き届かぬ未開のそらが始まるのだ。



 木星までの十か月の航海中、メインブリッジのクルーたちにとって、今はもっとも退屈な時期だ。

 最後の管制ステーションの管轄からも外れて、交信業務もなくなり、通信士は一日一度の地球への定時報告の送信だけが日課となる。

 プラズマセイルも細かい調節を必要としなくなった。慣性航行下とあって、機関室にも居眠り用のハンモックが吊られている有様だ。

 コンピュータに操縦をゆだねているため、四時間おきのシフトを組んでいる航宙士チームのレイ、エーディク、ヨーゼフの三人も、シュミレータで小惑星の軌道を計算するのが、ほとんど唯一の業務だった。

 ところで、この平和な日々に、クルーたちの間でささやかれているのが、キャプテンの怒鳴り声が聞こえないという信じられない噂だ。

「この数日、聞いたか」

「そう言えば、全然」

 どんなに平穏無事な航海でも、業務の一分の遅れも許さず、船具の数センチのズレも見逃さないという、地獄の書記官バールベリトさながらのキャプテンが、このところ、めっきり口数が少なくおとなしいというのだ。

 不審がったロシア人の副操縦士は、定時航行報告をわざと不備なものにして提出した。「あれえ、殴られなかった」と不服そうに首をひねりながらキャプテンルームを出てきたエーディクに、クルーたちは心配げに顔を見合わせるのだった。



 それとは逆に、休眠状態から目覚めたのが、テクノロジストたちだった。

 地球を出発して三ヶ月。宇宙での生活にも慣れ、木星探査という目的にむかって、いよいよ専門家連絡会議を立ち上げ、週に一度、それぞれの分野の代表による意見交換会を持つことになった。

 だが、ここに至るまでの経緯は、決してやさしいものではなかった。

 テクノロジストとひとくちに言っても、専門分野も出身もさまざまだ。

 多くの科学者たちは、あくまでも電波天文学、鉱物学、物理工学といった自分の専門分野を中心に据えて、その研究を進めることで調査に貢献したいというスタンスだ。悪く言えば、移民調査の全体像にはあまり関心がない。

 一方、銀河連邦から派遣された科学者たちは、調査の経済性やプロジェクトの成功ということに重きを置いていた。木星系を銀河連邦の新しい殖民地として整備し、レアメタルやヘリウムといった多くの資源をいかに効率的に発掘し、輸送する体制を作るかが、彼らの主な関心事だった。

 無論、移民たちの健康と安全な生活こそが最優先課題であると信じる、環境学、医学、生物学の専門家も少なくない。

 彼らの意見はしばしば真っ向から対立し、話し合いの場所を作るだけでも、長い下準備が必要だった。

 そうして、ようやく立ち上げられた専門家連絡会議の席で、最初に取り上げられたテーマは、移民団の居住用地の選定だった。

 イオのどこに居住スペースを定めるかは、移民団の現地調査のうえ決定されることになっている。

「環境シュミレーションはどうなっている」

「計測によれば、地下百八十メートルで、平均温度は56℃から-32℃の範囲内。断熱材により、十分生活が可能な状態です」

 環境工学の専門家たちは、木星の衛星を地下三百メートルまで掘り下げ、円筒形のモジュールをいくつかつなげて、百五十二人分の住居、研究施設および農場とすることを提案した。

「第一次移民団がイオに埋めた十台の地熱循環装置のちょうど中心、ここを掘ります」

 テクノロジストたちは、イオの3Dマップを囲みながら説明する。

「着陸して六ヶ月で、ここの地下に大規模な居住用モジュールを設置できる予定です」

「六か月は遅すぎる。そのあいだ【ギャラクシー・フロンティア】号に住み続けるつもりか」

「最大限の安全を期すためには、そうなります」

「スケジュールでは、二ヶ月以内にロキ火山のイオンガスを発電に利用する体制を整え、【フロンティア】を使ってエウロパ、ガニメデとのあいだに氷の輸送網を作り、水と酸素を生成せねばならないんだぞ。ひとつ遅れれば、すべてに途方もない時間がかかってしまう」

「居住用モジュールは、せいぜい五十メートルも掘削すればよいではないか」

「待ってください。地表近くの放射線グラフを見てください。この数値では、地表で暮らすのは危険です」

「この最大値は二十年も前に一度計測したきりではないか。通常の放射線なら十分に遮蔽材でしのげる」

「では、どの深度まで掘れば、放射線に十分耐えうるんだ」

「われわれのチームの試算では、一・五キロメートルです」

「一・五キロ? 話にならん!」

 一同は気まずく沈黙した、深い溜息をつく者もいた。どうやら議論は、のっけから暗礁に乗り上げてしまったらしい。



 宇宙空間に暮らす者にとって、最大の難問のひとつが宇宙放射線だ。

 フレアと呼ばれる太陽の爆発現象が放出する放射線は、地球に住んでいる限りは、分厚い大気と電磁場の層が防いでくれる。だが、シップの乗組員や、火星・コロニーなどの植民惑星の居住者には、その恩恵はない。

 宇宙を航行するシップは分厚い隔壁が備えられており、火星やコロニーでは、人々は放射能遮蔽材でできた居住ドームに暮らし、屋外での防護服の着用を義務づけている。

 さらに、毎日一度の太陽風予報を出し、危険期には地下に退避するなどの措置を取ることによって、住民は健康と安全を保ってきた。

 だが、木星移民団には、それとは比べものにならないほどの放射線との戦いが待ち受けているのだ。

 地球の上空では、太陽からの荷電粒子が地球の磁場に捕らえられ、放射線の帯となってぐるりと地球をドーナツ状に包んでいる。これをヴァン・アレン帯と呼ぶ。

 しかし木星では、地球の一万倍という高放射線帯が広がっている。木星圏の三つの衛星での八年間の移民生活において、この放射線が最大の障害になることは明らかだった。

 討議がこう着状態に陥ったとき、ひとりのテクノロジストが、ぽつりと言った。

「今から三十年以上も前、すでに第一次木星調査移民団はそれらの困難をくぐりぬけ、想像を絶する厳しい環境の中で生き抜いてきたのだな」

 彼らは悪夢の中からぽっかり頭を出したかのように、目をぱちぱち瞬いて、うなずく。

「ときどき信じられない気持ちになるよ。あの頃はまだ宇宙航行技術も、惑星科学の知識も、機材の性能も、今ほどは十分でなかっただろう。それなのに、どうやって彼らは、劣悪な環境下で生き抜く知識と技術を得たのだろう」

「科学の発達する道すじは、右肩上がりの一直線ではないということだよ」

「ときに科学は、数年も数十年も停滞し、ときには加速度的に発展する。たとえば戦争や国家間競争という最も悲惨な時代に、科学技術は飛躍的に進歩を遂げた。人間の欲望と憎悪が、すぐれた発明の推進力となったのは皮肉だな」

「二十世紀の【冷戦】と呼ばれる米ソ競争時代の産物のひとつが、アポロ11号の月面着陸だった。次世紀の人々は、『あれはでっちあげだ。そんな昔に人間が月まで行けたはずはない』と言い交わしたというではないか」

「人類の歴史にはしばしば、志を持った天才たちが偶然にも集結する時代というものがあるようだ。彼らの作り出すうねりが世界を劇的に動かしていく。奇跡の時代、と呼んでいいかもしれん」

 先ほどまで反目し合っていた科学者たちは暖かな感動を共有して、そのことにとまどいながら、ふたたび口を閉じた。

 宗教家や芸術家が雄弁に言葉を紡ぎ始める場所で、科学者は言葉をなくす。それは彼らの領域ではないからだ。

 移民団長のアシェル・ベッテルハイム博士は、今日の議論を締めくくるために立ち上がり、おごそかとも言える声で言った。

「2185年、われわれの先人たちがイオに第一歩を印し、十年間かの地で移民生活を営んだ。数組の勇気ある夫婦たちは、子どもを産み育てることさえ選択した。そのうちのひとりを、わたしたちは今日、目の前にしていることはご存じのとおりだ」

 テクノロジストたちの視線が、会議室の一隅にいたレイ・三神にいっせいに注がれた。

「残念なことに第一次移民団の記録データの多くは、シップとともに消えてしまった。我々の知っていることは、地球に送信された、ごくわずかな報告書の範囲内だ。まさに、我々がこうやって討議していることは、机上の空論だ。だが、われわれは決して恐れることをしてはならない。わたしたちはもうすぐ、先人たちの作った轍の後を進み、同じ苦難と喜びを、この五感で直接味わうことができるのだから」



 会議が終わったあと、レイは何時間も口を利かなかった。

「あなたが無言の行に入った僧侶みたいだと、みんな噂してるわよ」

 心ここにあらずといった風情でキャプテンルームのコンピュータに向かっている夫に、ユナはおどけた調子で声をかけた。

 ほんとうは、心配でたまらない。慰霊式を機に、夫はまた、あの爆発の恐怖をまざまざと思い出してしまったのではないか。

 木星に近づくにつれて、苦悩が増し続けているのではないか。

 だが、こわくて訊くことができない。ことばにして問いかければ、漠然とある不安を形にしてしまいそうで。そして、余計にレイを追いつめてしまいそうで。

 だから、ユナはじっと黙って、彼が自分から話し始めるのを、ひたすら待つ。

「このあいだから、ずっと考えていることがあるんだ」

 モニター画面にときおり現れるタマゴを指先でつつきながら、くぐもった声でレイは答えた。

「不思議なことに、父に抱かれてイオの丘の上に立ったことがある」

「ええ、前に話してくれたわね」

「そのときに、父の顎ひげが頬に当たって、とても痛かったのを覚えている。だが、放射能の高いイオの地表で、防護ヘルメットなしに人間が生きていられるはずはないんだ。なぜそんな、ありえない記憶が残っているんだろう」

 ユナは夫の背後に回り、そっと肩を抱いた。その拍子に画面のタマゴは割れて、ヒヨコがぴいと鳴いた。

「あなたがそう覚えているのなら、それが正しいのよ」

 耳元をくすぐる甘い声で、ユナはささやいた。鼓膜を心地よく震わせる、彼だけのための【ギャラクシー・ヴォイス】。

「そして大切なことは、あなたは確かにお父さまの血を引いているってこと。だって、毎朝あなたの顎ひげが頬に当たって、痛い想いをしている奥さんが、ここにいるんですもの」



 オープンデッキの安楽椅子に座っていた白い制服の軍人の前に立つと、レイは自然と背筋を伸ばした。

 男性にしては細身の体、端正なマスクの持ち主。銀河連邦軍の退役軍人、内海少佐は、キャプテン神楽の後輩にあたる。未開宙域探査の分野では、すでに伝説的な人物だ。華やかな軍歴を退いたあとの数年は航宙大学で教鞭を取っていたが、今回の移民調査団にみずから志願した。

 履歴から逆算すれば、かなりの年齢であるはずなのに、身のこなしにも年を感じさせるものがまったくなく、姿はまるで少年のように若々しい。

「呼びだしてすまなかった」

 少佐は立ち上がり、張りのある声で言った。

「いえ」

「きみのことは神楽大佐から、くれぐれもと頼まれている。そろそろ発破をかける頃合いだろうと思ってね」

「……そうですか」

 第一次調査移民団の慰霊式で、キャプテン神楽からのメッセージを代読したのも、内海少佐だった。神楽は、娘夫婦とその胎内の孫を、この事故で失った遺族のひとりである。そして、レイをただひとりの生き残りと知りながら、内心の葛藤を捨て、一人前の航宙士に育ててくれた恩人でもあった。

「『どうせ、アイツは何度言ってもわからないだろうから、百回でも繰り返してやってくれ』と言われている」

 そのとき、少佐の背後から、サッカーボール大の球がくるりと転がり出るように現れた。

「『レイ。どうせ今でも、うじうじと自分を責めてるんだろう。あれほど、おまえは自分の人生を生きろと言ったのに』」

 明滅するランプとともに発せられた音声は、低い朗々とした声音から息づかいまで神楽のものだ。まるでキャプテン神楽その人が、目の前にいるかのようだった。

「セディ」

 ふたたび背後に隠れてしまった球体を、やんちゃな弟に対するような調子で内海は叱った。

「すまない。どうも機嫌が悪いんだ。この移民団に参加する前に、七回目のボディチェンジをしたんだが、まだしっくりと合わないらしい」

 【SEDI】は、宇宙局のかつての統括コンピュータであり、今は内海少佐専属の補佐型人工知能として、どこにでもつき従う存在だ。

 【ギャラクシー・フロンティア】号の中では、統括コンピュータ【ギー】と連携して、情報を収集することが、【SEDI】に与えられた役割だった。

「覚えておきたまえ。キャプテンのきみの不安は、シップ内全体に伝染する」

 内海は、打って変わったきびしい眼差しで彼を見つめた。「たとえ死刑を宣告されても、最期の瞬間まで笑っていろ。それがキャプテンという責務を負った者の使命だ」

「わかっている――つもりです」

「つもりではダメだ。細胞のひとつひとつに叩きこめ。必要なら、いつでもセディをきみのもとに送りつけて、今のことばを飽きずに繰り返させるぞ――なんなら、ベッドの中にだって」

 【SEDI】は、ふたたび少佐のうしろから現われ、体表のランプを赤く点滅させ、断固として抗議した。「男のベッドにもぐるなんて、絶対にイヤだ!」



 小さな少年がひとりで、所在なげにダイニングルームに座っていた。

 アイスクリーム・サンデーは、半分が食べられずに溶けてしまっている。

「どうしたんだ」

 このごろはキャプテン三神が近づいても、小さな子どもたちは「こわい」と逃げなくなった。三か月におよぶ共同生活の賜物だ。

 少年は四歳で、インド人の両親を持ち、名前をアディティヤという。インドのことばで【太陽】という意味だ。

『この二週間ほど、少し元気がなくなっているようです』とのドクター・ナクラの報告を受けていた。

「シェフ・ジョヴァンナ特製のサンデーは、おいしくなかったかな?」

 アディティヤは必死になって、首を振った。

「おいしいよ。でも、気がついたら、とけちゃってたの」

「そうだな。おいしいものをおいしいままで最後まで食べきるのは努力が必要だ。すごく急がなきゃならない」

 レイは隣の椅子に腰かけ、操縦レバーを握る固く大きな手で、少年の小さくやわらかな手を包みこんだ。

「けれど、それ以外に急がなくてはならないことは、人生にはそう多くない。宇宙は広く、時間はいくらでもある。きみたちのような子どもの未来もだ」

「キャプテン」

 アディティヤは、つぶらな黒い瞳を上げて、訴えかけるように、大きな船長を見つめた。

「ぼく、こわいよ。この船は爆発しないの? 木星についたとたんに、放射線ビームが飛んできて、みんな死んじゃうってホントなの?」

 レイはじっと愛しむように、少年を見つめ返した。

 幼いのに、この子は賢い子だ。

 この年ごろの自分は無邪気で、何も知らなかった。

 自分が生まれたイオが、どれほど地球から遠いのかも――いや、宇宙とはどれほど大きな危険をはらんでいる場所かということも、知らなかったのだ。

 アディティヤは一ヶ月前の慰霊式で、シップとは爆発するものだということを知ったのだろう。それから、テクノロジストである大人たちの会話のはしばしを理解して、木星を取り囲む高放射線帯の存在を学んだのだろう。

 本来ならば、もっと早く子どもたちに教えておくべきだった。――この事故は三十年前の過去のできごとだと。この【フロンティア】号は絶対に爆発はしないと。

 木星系の有害な放射能は、絶対に彼らを害することはないのだと。

 ――いや、絶対ということは、この世にはありえない。そのことを誰よりも知り尽くしているのは、レイ自身だ。

 絶対に安全であったはずの第一次移民団のシップは、無残にも砕け散って宇宙の塵と化した。何千万分の一かの偶然は、起こるべくもないのに起こってしまうのだ。

 だからこそ、レイは宇宙への恐怖に今もさいなまれ、おとなたちの不安は、子どもたちをも巻き込んでいる。

 キャプテン三神は、あのときの自分と同じ四歳の少年の小さな肩を抱きしめた。

「だいじょうぶだよ、アディティヤ」

 確信をこめて、言う。「このシップは絶対に爆発しない。ここは、他のどこよりも安全な場所だ」

「……ホントに?」

 ほんとうではない。

 宇宙には幾多の危険が待ち受けている。それが真実だ。けれど、真実を語ることだけが、必ずしも正しいとは限らない。

 真実を真実たらしめる決意こそが、なによりも大切なことなのだ。

 レイは彼を腕から離し、陽光に似た明るい笑みを浮かべた。

「本当だよ。このシップのクルーが、大勢の科学者たちが――僕たち大人が全員で、きみたちを必ず守るから」


 ――最期の瞬間まで笑っていろ。それがキャプテンという責務を負った者の使命だ。


 嘘にはしない。たとえ体がばらばらになろうとも、血の最後の一滴が残っている限り。

 それは、キャプテン・レイ・三神のひそやかな誓いの儀式だった。



「月を見に行こう」

 銀河標準時の深夜。レイはユナを痛い顎ひげつきのキスで容赦なく起こして、寝室を抜け出した。

 シップ最下層の水耕農場と牧場は、促成栽培のセクションを除けば、人工太陽の照度を落として、夜の景色に塗り替えられている。

 エンジニアの誰かがいたずら心を起こして、月を中空にかけたのは、先月のことだ。

 何の役にも立たないが、きちんと29日周期で満ち欠けもする。人々は大喜びで、月見だんごを作ったり、収穫祭をしたり、それぞれの出身国の文化に合わせて、月を楽しんだ。

 まだ欠伸を噛み殺しているユナの腰に手をかけ、レイはそっと引きよせた。

「いったいどうしたの」

「じっとしていられなくなった。満月の夜に、狼の野生の血が目覚めたというべきか」

「ちゃんと、鈴つきの首輪をしておくべきだったわ」

 ふたりはファームの展望デッキの上に立ち、何度も何度も、糖蜜のように蕩けるキスを交わした。

 至福の時が終わると、体を寄せ合いながら、人工の果樹園の上にかかる銀色の月を仰いだ。

「太陽光が届かないイオでは、ほとんど一日じゅうが夜だった」

 薄茶色の目を細めながら、レイは言った。「空を見上げると地上から吹き上げる粒子がオーロラとなって、とても美しかった」

 イオにいたときの、はるかな記憶。

「エウロパ、ガニメデ、カルスト……月はいくつも空に浮かんで、地上に落ちてきそうなほどに大きく見えた。母の読んでくれた絵本の挿し絵で、地球には月が一個しかないと知ったときは、ほんとうに驚いた……いや、イオに絵本などあったはずはないな。地球に帰ってから読んだことを混同してるんだ」

 幼いころの記憶と、現実との照合は、根気のいる作業だ。ちょうど、四歳の少年が見聞きしたことを話し、それを三十六歳の男が聞いて書き取るのに似ている。

 夫がどれほど、もどかしい状況に身を置いているのかがわかり、ユナは胸が痛んだ。

 恍惚と苦悩の中で、とぎれとぎれに言葉を紡いでいた彼が、突然口をつぐんだ。

「本当はわかってる。俺の記憶が間違いだということは」

「え?」

「子どもというのは、ときには空想と現実を混同し、ときには別々の時期の記憶をいっしょにし、後から想像というハンダでくっつけてしまうものだ」

 あのイオの丘の上での思い出について話していることに気づき、ユナははっと顔を上げる。

 夫が生涯持ち続けた、大切な記憶。彼の人生を決定づけた父ミカミ博士との誓いの記憶。


『おまえが大きくなったら、年老いてしまった父さんの代わりにまたここに戻ってきて、この星が変わっていくのを見届けてくれるか』


 その記憶が後から作り上げた空想だとすれば、レイはどうすればよいのだろう。今までの人生における苦しみと葛藤、宇宙に対して挑んできた血のにじむような戦いは、何の意味があったというのだろうか。

「でも」と言いかけたユナの唇に、レイは人差し指を当てた。

「いいんだ。たとえそれが絵空事だったとしても、かまわない。俺の今までの人生にとって、必要なことだったから」

 ユナは口の中で、もう一度「でも」と呟きかけて、やめた。あせる必要はない。レイがイオにふたたび立つときに、きっと自分で答えを見つけ出すだろう。

 ユナは夫の腕に頭を凭せかけた。

「今日、アディティヤを見かけたわ。太陽のように、にこにこ嬉しそうに笑ってた」

「そうか」

「『このシップのキャプテンがね、この船はだいじょうぶだって約束してくれたんだよ!』――と誰彼なしに叫んでいたわ」

「ああ」

「レイ。キャプテンとして。あなたができる最善のことは、どんなときでも笑顔でいることよ。笑顔でだいじょうぶと言い続けることよ」

「むずかしいことを言う」

 彼はしばらく全身でその言葉の重みを受け止めていたが、「実は」と快活な声で切り出した。

「今日は、内海少佐にも似たようなことを言われたよ。笑っていろと」

「よっぽど、ひどい仏頂面をしていたのね。美しいレディの前で失礼よ」

「……誰がレディだって?」

 ユナは奇妙な表情で、まじまじと夫を見上げた。

 地上ではいつも冷静沈着、宇宙では傲岸不遜なキャプテン三神が、これほど表情を変えてうろたえるのを見るのは初めてだわと内心、愉快に思いながら。

「あなたったら、まさか……内海少佐が女性だって知らなかったの?」



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