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ギャラクシー・ヴォイス  作者: BUTAPENN
ギャラクシー・ヴォイス
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Galaxy Frontier 3




 思い出だけで、残りの人生を生きていけるはずだった。

 果てしなく続く暗黒の大海に船をすべらせながら、時に目を閉じるだけでいい。

 耳元を優しくくすぐった柔らかな髪を、目覚める時かすかに震えた長い睫毛を、見つめずにはいられなかった華奢な鎖骨を、何度も熱く口づけたうなじの窪みを。

 きっと何十年経とうと、ありありと思い出すことができる。それだけで生きていこうと、決意したはずだった。

 だが、決してもう会わぬと思い定めた妻が目の前に立っているのを見たとき、それはただの強がりだったことを、レイは認めるしかなかった。

 これだけ離れて立っているのに、指先は無意識に、彼女の唇の輪郭をなぞっている。手のひらは、乳房の柔らかさを感じている。五感のすべてが、彼女の存在を味わおうと震え始める。

 走り出したい。走っていって、あのか細い身体を滅茶苦茶に抱きしめたい。

 だが、足をどうやって前に出すかがわからない。呼吸の仕方さえわからなくなっている。

「レイ」

 ユナは、もう一度夫の名前を呼んだ。その硬さを含む声で、ようやくレイは自分を取り戻した。

 廃墟の残骸をかき集めるようにして、残っている限りの虚勢で自分の回りにバリケードを積み上げる。

「今さら、何の用だ」

 冷ややかに返した言葉に、彼女は目を曇らせた。

「お話がしたいの」

「もう話すことは、何もないと思うが」

 嘲笑の意味をこめて、唇を引き上げる。できるだけ、いやらしい男に見えるように。嫉妬深く、情を知らぬ、最低の男に見えるように。

「もうさっさと、好きな男の家で暮らしているのだろう。きみの望みとおりになったじゃないか」

「違う!」

 人並みの最後尾から上がったランドールの声は、悲鳴に近かった。

「誓って俺は、指一本触れていない。彼女がそうさせてくれなかったんだ」

「ふたりで口裏を合わせて、そこまでして僕の財産が欲しいのか。わかったよ。残らずくれてやる。だから金輪際、僕につきまとわないでくれないか」

「キャプテン」

 タオが懇願するような声を上げた。「後生だから、そんな話し方をせんでくれ。おまえさんらしくない」

「口出しは控えてもらおう」

 レイは冷酷に、威圧的に答えた。「もう僕は、YX35の船長じゃない。きみたちと僕はもう、何の関係もないんだ」

「関係がないと言ったな」

 スギタが、いつもの丁寧な物言いをかなぐり捨てて、怒鳴った。

「それならこっちも、おまえがキャプテンだということを忘れて、容赦はしないぜ。なぜ火星定期便を降りることについて、ひとことの相談も引継ぎもなかった」

「船長業務の引継ぎなら、前回のフライトの前に、おまえとの間で済ませた」

「それですむと思ってるのか。どうして俺たちから、こそこそと逃げるような卑怯な真似をするんだ!」

「こそこそ逃げるだと?」

「ここにいる、全員の顔を見てみろ。おまえが見捨てた23人を!」

 レイは居並ぶクルーたちを、ちらりと見た。

 どの顔も怒っている。泣いている。傷つき、心細さに揺れている。

 レイが木星に行くために捨てていこうとしているものは、ユナだけではないのだ。喜びや困難をともにしてきた仲間。23人の家族を、彼は永遠に失おうとしている。

 目に無関心の薄い膜をかぶせ、喉の奥で笑ってみせる。

「そんなことは、僕の知ったことじゃない」

 スギタが拳を固めて一歩踏み出そうとしたとき、「待って」という声がした。

 ユナが医師と看護師の手を離すと、前に歩みだした。

 一歩。そしてまた一歩。決然と。

「レイ」

 彼は作り物の憎悪をこめて、妻を睨み返す。

「きみの顔など、見たくもない」

 にべもない拒絶を、ユナは微笑みに包み込んで受け入れた。

「話をしたいの」

「話すことなどないと、さっき言ったろう」

「いいえ、たくさんあるわ。私たちが今まで話し合えなかった大事なことが」

「ランドールのところへ行けばいい。あいつなら、きみの話を一晩中だって聞いてくれるさ」

「私は、ここにいたいの。あなたのそばに」

「じゃあ、勝手にいればいいだろう。僕が出て行く」

「ついていくわ」

「無駄だ」

「あなたの行くところ、どこへでもいっしょに行く」

 ユナの指先が、彼の汗ばんだ拳にそっと触れた。すぐに、その指をふりほどいた。

「私も木星調査移民団に志願するわ。たとえあなたが認めてくれなくても」

「月定期便のシップアテンダントにさえなれなかったきみが、どうして調査団に加われるはずがある」

 声にならない笑いが、こみ上げてくる。ユナに対してではない。道化師である自分に対する笑いだ。

「とんだ人生の誤算だ。宇宙にも行けないような女と結婚したのが馬鹿だったよ。きみは僕にとって邪魔なお荷物なんだ」

 ああ、お願いだ、早く出て行ってくれ。なぜ、さっさと僕を見限ってくれないんだ。芝居の幕が下りる前に、舞台に座り込んで無様に泣き出す前に、僕を憎んで、罵って、出て行ってくれ。

「あなたを愛している」

「……僕は、きみを愛してなどいない」

 自分がまだ立ったままでいることが不思議だった。どちらが上でどちらが下だ? 足の裏に何も感じない。どこまでも、墜ちていけそうだ。

 少しの間、沈黙があった。そして、澄み切った声が返ってきた。

「それでも、レイ、私はあなたのそばにいるわ」



 いつくしみを込めた声が、甘く優しく、はるか彼方から心に届く。


『あなたと少しお話がしたいの。いいかしら』

『――』

『まず、名前を教えてくれる?』

『――レイ』

『レイ。お父さんやお母さんはそこにいる?』

『パパもママもいない。ほかのみんなも……』

『どこへ、行ったかわかる?』

『ふねが……もえて、まっしろなひかりになったの』

『レイ。泣かないで。だいじょうぶ。私がここにいるわ。あなたはひとりじゃない』

 あの暗黒の外宇宙で、四歳の少年を絶望の淵から救い出した、ひとすじのか細き声。


 【ギャラクシー・ヴォイス】。

 【あなたは、どこにいても、ひとりではない】と叫び続ける声。



 レイは崩れ落ちた。虚勢を張るためのひとかけらの力さえ、もう残っていない。

 ふたたび椅子に腰を落とすと、荒い息が整うまで、じっと目を閉じていた。

「ユナ、僕を赦してほしい」

「赦しているわ」

「僕はどうしても、あそこに行かなければならないんだ」

「ええ、わかってる」

「そのために142人の命をもらった。約束したんだ。イオに戻って、あの星が変わっていくのを見届けると。僕は彼らの願いを受け継がなければならない」

「ええ」

「きみを――きみを離したくはなかった。だが、僕は自分の夢を選んだ。きみよりも、イオに行くほうを選んだんだ」

「そうではないの、レイ」

 ユナは、彼の背中に手を置いて、答えた。

「これは、私の夢。私たちふたりの夢。だから、私もいっしょについて行きたい」

「十年間、重力発生ドームの中から一歩も出ないとでも言うつもりか」

「それでもいい」

 迷いのない、晴れ晴れとした声だった。「それでも、あなたのそばにいられるなら」

「ドームだって完全じゃない。十年ものあいだ、悪性の貧血に苦しむことになる。きみに耐えられるはずがない」

「耐えられる。あなたと離れて生きるくらいなら、何だって平気」

「僕が耐えられないんだ!」

 レイは両手で顔を覆った。

「僕が、きみの人生を滅茶苦茶にしてしまう。何度も同じことを言わせないでくれ。きみは僕の行くところには行けない」

「行くわ」

「……不可能だ」

「不可能ではないよ。キャプテン」

 医師の豊かなバリトンの声がした。

 レイが顔を上げると、ドクター・リノは芝居じみた咳払いをひとつして、にんまり笑った。「われわれ元YX35便のクルーには、不可能などない」

 それまで遠景に甘んじていた23人が、縄目をほどかれたように生き生きと動き始めた。

「俺もこれまで知らなかったんだが、俺の後輩は、宇宙貧血の治療法についてのヘタクソな博士論文を書いていたらしいんだ――おい、ナクラ」

 仲間たちに促されて進み出た日本人ドクターは、蒼白な、緊張した面持ちで説明した。

「赤血球破壊因子を分解する酵素を、タンパク質操作によって生成した薬があります。元々は腎不全患者のために開発されたものを、俺なりに改良しました。マウスの三百日実験および、短期間の臨床試験では結果が出ているものの、長期間にわたる有意のデータはありません」

 若き医師は、研究の不完全さを恥じ、きゅっと唇を噛みしめた。

「百%の結果は保証できません。だが、十年間あれば、シップ内のラボで薬の開発を続けられます。つきっきりで、体質改善のための訓練プログラムを組むことも。――もし、それでよければ、木星調査団に俺も同行させてください」

「俺も、補佐するよ」

 ドクター・リノが、カンツォーネを歌うような軽い調子で言った。「この二年間、シィニョーラの症状の経過は見てきている。ダメな後輩の尻拭いは俺がするさ」

「待ってください」

 ユナは叫んだ。「私のために、ドクターがふたりもそんな……」

「医学の発展のためですよ、シィニョーラ。これが成功すれば、地球外移民を志願しても体質のために撥ねられてしまう二万とも言われる人々にとって、朗報となる。あなたの治療データが、彼らのために宇宙の扉を開くことになるのですよ」

「扉を開くのは、何も医者の力だけじゃないぜ」

 コウ・スギタがレイに向き直り、すっかりいつもの丁寧な口調に戻って言った。

「メカニックからの提案です。キャプテン。今度の調査移民シップには、新型の慣性制動システムを取り付けましょう。【磁気プラズマセイル計画】で導入したやつを、もっと大幅に改良します。加速中であろうと慣性飛行中であろうと、重力の変動を予測し、最小限に食い止められます。ユナさんの体への負担も格段に軽くなる。――もちろん、まだろくにテストもしていないようなシロモノですが」

 メカニック・チーフは精悍な頬を、笑みにゆるませた。「出発までにまだ間があるし、それでもダメなら、十年の航海中には俺たちがきっとモノにしてみせます。な、おまえら」

「はい」

 バッジオとドミンゴは、一斉にうなずいた。

「なんだって……?」

 レイは信じられないように、呟いた。「まさか、コウ」

「俺たちも木星についていきますよ。ついさっきメカニック三人分の応募書類を、一階の受付で提出してきたばかりです。――あ、そうそう、ついでに、うちの女房の分もね」

 涼しい顔で言ってのける。「忘れたんですか。エヴァは、看護師の資格を持ってるんですよ」

「まったく、そんな新型の制動システムなんぞ、わしは信じぬぞ」

 タオは、きわめて懐疑的に叫んだ。「シップというのはな。システムなんかに頼らず、手動で操作するのが一番だ。なあ、ニザーム」

「はい、研修学校の教授からも、最後は人間の経験と勘だと教わりました」

「そういうこと」

 ハウスキーピングチーフのトシュテンも、同調する。

「これは、ユナさんのためばかりじゃない。人間の快適な生活は結局、僕ら人間の手が汗水垂らして作り出すんだよ」

 そう言ってグイと突き出した彼の手には、ほかのふたりと同様、【木星調査移民団】への応募用紙が握られている。

「……というわけです、キャプテン」

 スギタは、全員を代弁して言った。

「俺たちクルーが、鉄壁のチームを組んで、奥さんの健康を守ります。これで何も心配する必要はありません」

「そんな――冗談じゃない、待ってくれ」

 レイは、ひとりひとりの顔を脅すようににらんだ。

「十年は地球に帰ってこれない。計画以上にもっと延びることも――無事に帰ってこれる保証もない旅なんだぞ!」

「必ず無事に帰ってこれますよ。キャプテンといっしょなら」

 エーディクが、信頼に満ちた眼差しで答えた。

「きみたちの気持はうれしいが、僕たちのために、そんな犠牲を強いるわけにはいかない」

「犠牲なんかじゃありません。自分の意志です。僕たちはみんな、キャプテンといっしょにいたいんです。十年間もいっしょの航海に出られるなんて、なんて素敵なことなんだろう」

「みんな同じ気持ですよ」

 レイは、反論することばがなくなって、助けを求めるようにユナを見た。

 ユナは黙って微笑む。

 レイはゆっくりと立ち上がった。その薄茶色の瞳は戸惑いにまだ揺れている。

 敢えて抗うように、力なく言った。

「こんなにたくさんの人間が調査団に参加したら、YR2便にはいったい誰が乗り組むんだ?」

 元YX35便のクルーたちは一斉に静まり返った。やがて、力強い声が上がった。

「俺が乗る」

 ランドールは、ほんのわずかな間ユナを見たが、きっぱりと視線を逸らせた。そしてレイをまっすぐに見つめ、太陽のような笑みを浮かべた。

「俺が残って、火星航路を守っててやるよ、キャプテン。十年後、木星から戻ってきても、みんなの帰れる場所があるように」

 背後から、太い咳払いが聞こえた。

「ここにも、暇を持て余しとる男がひとりいるぞ」

 存在を忘れられていたことが不服だとでも言いたげに、キャプテン・神楽が胸を張った。

「十二年ぶりの航海だ。老いぼれのリハビリには、ちょうどよかろう」



 深夜になって、ふたりは長く空けていたレジデンスに戻ってきた。

 コンピュータの【アルパード】は、ふたりを見てもさも当然と言ったふうに、儀仗兵のごとくしずしずと扉を開けた。

 一歩入ったユナは、そっけなく最低の家具が整えられた室内を一通り見回すと、外の庭に目をやり、軽く目を見張った。

「すまない」

 入口にまだ立っていたレイが、かすれた声で謝った。

「きみの庭を、めちゃめちゃにしてしまった」

 ユナは、かすかに首を振った。

「いいの。旅立ってしまったら、この庭はどうせ見られなくなるのだもの」

「本当に――行くつもりなのか」

 レイはまだ、目の前の運命の流れに飛び込むことをためらい、駄々っ子のように言った。

「まるで、博打のような話だ。もし、治療が失敗して、きみが重症の貧血にさいなまれるようなら、僕はどんなことがあっても、途中できみを降ろすからな」

「そんなことにはならないわ」

 ユナはゆったりと微笑みながら振り向き、夫の両腕をそっとつかんだ。

「私は、クルーの技術を信じているもの」

「それに、僕たちは自分の幸せのために、あいつらの人生を狂わせてしまおうとしている。考えてもみてくれ。トシュテンやエーディクやバッジオのような若者たちが、女っ気もなしに十年間も辺境の地で過ごすことになるんだ」

「そうね、みんなには言葉にならないほど感謝している――でも」

 ユナは確信に満ちた笑みを浮かべた。「エーディクも言っていたでしょう、これは自分の意志だって。私たちが心配する必要はない。心配なんて、彼らに対して失礼よ。クルーたちの人生は、彼ら自身が切り拓いていくわ」

 ユナの瞼には、決然としたランドールの後姿が焼きついている。

『さよなら。幸せに』

 彼はたったひとことをユナに残して、レイの謝罪を微笑で受け取ると、一度も後ろを振り返らずに去っていった。

 そして、そのすぐあとをハヌルが付き従う。涙で真っ赤になった目で、一途に彼の背中を見つめながら。たぶん彼女はランドールを追って、YR2便に乗り組むつもりだろう。

 幸せになってほしい。たとえわずかにせよ想いを寄せた男性の幸せを、今は穏やかに祈ることができる。

 すべてが終着点に着いた安堵に、ユナの睫毛が温かな露をたたえた。

 レイは、おずおずとユナの身体を抱き寄せた。

 その大きな手は、まるで割れ物を扱うようにそっと彼女のうなじと肩に触れ、それがもたらす甘美な感覚に戸惑いながら動いた。

「ほんとうに、いいのか」

「ええ。あなたといっしょに行く」

「僕は、あれほどきみを傷つけたのに」

「木は傷つけたところから、根を出して増えていくのよ」

 ユナは、彼の強張った首筋に柔らかい唇を当てて、それから嬉しそうにささやいた。

「そうだわ。木よ。今度はここの庭一面に、木を植えましょう」

「今から?」

「そう。すくすくと大きくなって、豊かな実をつける木がいいわ。桜桃や杏や林檎、ブラックベリーも」

 ユナは、天井を振り仰いだ。

「ねえ、【アルパード】。私たちがいなくなっても、ずっと木の水やりを頼めるかしら」

【はい。奥さま。喜んで】

 ハンガリー人のコンピュータ・クルーは、待ってましたと答えた。

【毎日欠かさず、スプリンクラーを作動させます。冬は雪よけを。肥料や剪定が必要なときは、ガーデニングロボットを手配します】

「十年間、留守をお願いね」

【なあに。コンピュータにとって、十年などあっという間です。またすぐにお会いできますよ】

 ふたりは肩を寄せ合ったまま、庭を見晴らす窓辺に立った。

「十年後に戻ってきたとき、木はびっくりするくらい大きくなっているわ。子どもたちが背伸びをして、実をもいで食べられるくらい」

「――子ども?」

「ええ。イオで私たちの子どもをたくさん育てたいの」

 レイが大きく身震いするのがわかった。「僕たちの子どもを――」

「そして、見晴らしのいい高台に家族全員で立って、こう語り合うの。ここはお父さんが生まれた地。ここで、あなたたちも生まれたのよって」

 レイは長い間、絶句していた。

「家族……。こんな僕が自分の家族を持てるなんて」

 伝う涙を隠そうともせず、流れるにまかせる。

「これからの一生、ずっとひとりで生きていくと覚悟していた。僕は、もう人の優しさも好意も受ける資格がない人間だと。二度と、誰も近づけるまい、誰にも心を許すまいと」

「あなた……」

「だが――怖かった。自分がどちらを向いているのかもわからない。毎日が、暗黒の宇宙を漂っているようだった。きみとクルーたちの声が僕を救い出してくれなかったら、今ごろ――」

 レイは、再び彼女を腕の中にすっぽりと抱き寄せた。

「愛している、ユナ」

 その抱擁の暖かさと力強さに、ユナの膝の力が抜けていく。目眩に似た幸福感。

 どれほど、この感触を待ちわびていたことだろう。夫の腕の中は、まるで木陰に身をまかせて憩うような安らかさだ。

 ユナは甘い果実を味わうように、彼の落とす口づけを幾度も味わった。

 そのとき、痺れ始めた頭の隅で、はっきりと悟った。

 レイは間違っていた。

 宇宙を故郷とするがゆえに、自分のことを地球になじめない異端者だと思い込んで生きてきた。だが、そうではなかったのだ。

 彼こそが、大地に根をおろす林檎の木だ。宇宙の果てのどんな場所でも、そこを豊かな実りの楽園として、回りにいる者たちを憩わせてくれる。

 レイ・三神こそが、大地そのものだ。

 たとえ不毛な灼熱の星であろうと、彼のいるところが、ユナの、そしてクルーたちの約束の地なのだ。

「苦労ばかりの航海だと思う。だが、ついてきてほしい。少しでも苦痛が減るように、細心の注意を払って操縦する。たとえどんな危険が待っていても、僕がきみを守る」

「はい。命のあるかぎり、あなたについていきます」

 ふたりは、月明かりに照らされた窓辺の床に、ひとつの影となって身を横たえた。

「病めるときも健やかなるときも、シップにいるときも、地上にいるときも」

 彼らは、渇ききった獣が湧き水で喉を潤すときの激しさで、お互いを求めた。

 心に長いあいだこびりついていた空虚さともどかしさが、跡形もなく消えてゆく。体の奥で爆発する歓喜に打ちふるえながらも、絶えず相手を指先で探り、相手の息づかいに耳をひそめる。

 それは、ふたつの連星が引き合いながら軌道を定め、明滅するさまに似ていた。

 虚空の中に、星たちを引き離す力は何もなかった。





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