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ギャラクシー・ヴォイス  作者: BUTAPENN
ギャラクシー・ヴォイス
18/38

Galaxy Vacances 1



 目を覚ましたとき、自分の手の上に、夫の手が乗っているのを感じた。

 操縦レバーに当たる部分が鋼のように固くなっている、大きな手――世界中でユナの夫、レイ・三神以外にこの手を持つ者はいない。

 この手で彼はシップを自在に操り、大草原の巧みな騎手のように一億キロ彼方の宇宙を駆けてくる。そして地球に帰ったあとは同じ手が、ベッドの上でユナを自在に翻弄する。

 優れたバイオリニストでもある彼は、妻のどの弦に触れれば、どんな音が出るのか知り尽くしている。ユナはときどき悔しくてたまらなくなって、余裕を見せようと決意するのだが、その努力はいつも徒労に終わる。もちろん昨晩も。

 今も続く甘い疼きとともにユナは、なすすべなく彼の捕虜になった喜びを噛みしめていた。

 彼女のちょっとした身じろぎを感じ取ったのだろう。レイの手が、少し重みを増した。

 でも、それだけだった。いつもなら、せっかくの休暇を一秒でも無駄にすまいと、目覚めたとたん動き始めるレイが、いっこうに起き上がる気配がない。

 なぜなら、今日は四ヶ月の休暇の第一日。急ぐ必要も、焦る必要もないのだ。

 火星定期航路パイロットと結婚したユナは、新婚時代からこのかた一度も、二週間以上夫と過ごしたことがない。

 二週間の休暇の最初の一週間は、平凡な夫婦が味わったことのないほど濃密な日々が、夢のように過ぎていく。

 十日を過ぎたころから徐々に気持が沈み始め、出発の前日はこの世の終わりが明日来てほしいと願うほどの痛みと哀しみ。当日の朝は、もうすでにいない人を見つめるようにして別れのことばを交わす。そして次の二ヶ月間は、ひたすら彼の帰りを待つ。

 その繰り返しを、もう三年近く続けてきたのだ。そんなユナにとって、火星航路の一時閉鎖によってもたらされた四ヶ月の日々は、永遠と同義語だった。

――どうしよう。幸せで死んでしまうかも。

 口元がだらしなく緩みそうになるのを抑えて、ユナはあわてて目を開いた。

 すぐ間近で、レイが片肘をついた格好で微笑みながら、彼女の顔をじっと見つめていた。

「お、起きてたの」

「おはよう」

 彼はいかにも愉快そうに、答えた。「見事な百面相だった。思わず見惚れてしまったよ」

「い、いじわる。それなら声をかけて……」

 レイは妻の抗議の声を指で堰き止めた。そして、耳元で低く言う。

「見ていたかったんだ。ずっと」

 鼓膜が彼のささやきで震えただけで、ユナは、またあの広い大空に誘われそうな快感に襲われた。

 朝の光の中で、レイの身体がゆっくりと彼女の上に覆いかぶさろうとしたとき、どこからか子ネズミが鳴くような小さな音が聞こえてきた。

「くっ、身体というのは、貪欲で正直だ」

 レイは笑い出した。「僕の腹の虫が、きみを食べようか、朝食を食べようかと迷ってる」

「健康を心がける人間なら、後者を選ぶべきだと思うわ」

 ユナは、なかば失望し、なかばホッとした心地で答える。

「仰せのとおりに。それじゃ、料理は引き受けるから、きみは美味いコーヒーだけ用意しておいてくれないか。僕は先にシャワーを浴びてくる」

「わかったわ」

「まかせたユー ハヴ」

「了解アイ ハヴ」

 パイロットの常套句で短いブリーフィングを終えると、レイはバスルームに向かい、ユナはキッチンに向かった。

 コーヒーマシンをセットしていると、ドアベルが鳴った。

 玄関の外に配達ロボットを認めると、ユナは受領コードを入力して、配達物を受け取った。

「あらっ。また」

 着替え終えたレイが出てくると、ユナは困ったような顔で、両手いっぱいの電磁レターを抱えていた。

「レイ。これ全部あなたに」

「なんだって」

「昨日からひっきりなしなの。こっちは昨日の夕方到着した分――国立科学アカデミーから表彰式への招待状と、五つの大学と七つの企業から講演の依頼」

「やれやれ、そんなに?」

「本当は、ゆうべのうちに渡そうとしたのよ。でもあなたが私の言うことを全然聞いてくれなくて、一直線にベッドに……」

 口ごもるユナからレターを受け取ると、レイは居間を横切って、全てをゴミ処理装置に放り込んだ。

「レイ!」

 ユナはあわてた。「見もしないで捨てるなんて!」

「見なくても、中身はわかってる。磁気プラズマセイル計画の総責任者としての労を讃えて、あるいは、その功績を記念して――ってやつだ。どの招待も受けるつもりはない」

「だって、今受け取った招待状の中には、トーキョーの大統領府のマークが……」

「きみと過ごす時間を削ってまで、行く値打ちがある場所は、この地球上には存在しない」

 すずしい顔で言ってのけると、レイは「アルパード」と呼んだ。

【はい、なんでしょう】

「今、処理装置に捨てた書類を読み取って、全部に丁重な断りの返事を送ってくれ。それから、『代わりに、本計画の実務担当者でもある第一級メカニックのコウ・スギタ氏を推薦いたします』と追記してくれ」

【イエッサー、キャプテン】

 【アルパード】とは、家全体を管理するコンピュータだ。【総務担当の生真面目なハンガリー人クルー】という性格づけがされていて、この家をシップと呼び、キャプテン・三神夫妻の命令に忠実に従い、すべての雑事を完璧にこなしてくれる。

「これでよしと。さて」

 レイは振り向いた。

「気が変わった。朝食は外で食べよう。家にいると、延々と無粋なメールに悩まされそうだからね」



 クシロ航宙ポート東に広がる二万ヘクタールに及ぶ釧路湿原。その周辺の丘陵地には、大小の牧場が点在している。

 エアカーで広大な湿地帯を走りぬけ、レイとユナは、牧場のひとつが直営しているレストランを、朝食の場所に選んだ。

 テラスから、蛇行する川や、風に揺れるヨシやハンノキの森を眺めながら、搾りたての牛乳や新鮮な卵、釜から出したばかりの香ばしいパンを味わう。

「火星では、どんなに財布をはたいても、あと五十年はこのベーコンは食べられないだろうね」

 レイは満足そうに、油のしたたる肉片を頬張った。

「野菜や穀物の自給率が百パーセントに達したとは言え、大型の家畜を飼育するほどの余裕はない。これだけテラ・フォーミング(環境改造)が進んでも、まだ酸素マスクなしでドームの外を歩けるほどには至っていないんだ」

「でも、火星のアルカディア平原は、極冠の氷が溶けて、徐々に緑の苔やシダで覆われ始めたと聞いたわ」

「ようやくね」

「行ってみたい」

 ユナはうっとりと青空を見上げたが、じっと彼女を見つめている夫の視線に気づいて、恥ずかしそうに微笑んだ。

「でも、私には無理ね」

 レイは何か言いたげにしたが、ちょうどそのとき通信が入った。

『おい、レイ!』

 激昂したスギタの声が、小さな通信機をびりびりと揺らした。

『いったい何をしてくれた。さっきから俺のところに何十通もの招待状が舞い込みっぱなしだ』

「ああ、うちに来たメール全部に、きみを推薦するという返事を書いておいたからね」

『冗談じゃない! 俺ひとりで全部行けるわけないだろう。せめて半分は自分で行けよ』

「ごめんだね。四ヶ月の輝かしい休暇を、表彰式と講演回りに過ごすつもりはない」

 レイよりも20歳年上のYX35便のメカニック・チーフ、コウ・スギタは、同じ日系人ということもあって、古くからの良き友人だ。

「地上にいるときはいつもこんな感じだが、乗船中は上下関係を配慮して、他人行儀なくらい丁寧な物言いをする男でね」

 スギタの抗議をどうにかなだめて通信を切ると、レイはいかにも可笑しそうに言った。

「あなたと正反対ね。そうやって釣り合いを取っているんじゃないかしら」

「確かに、シップ内で僕と今の調子でやり合ったら、大変なことになるな」

「ふたりとも無傷ではすまないわね」

 そんな会話を交わしながら食後のコーヒーを飲んでいると、またレイのもとに通信が入った。

『キャプテン、せっかくの休暇を邪魔して申し訳ありませんが、どうしても相談に乗っていただきたいんです』

 YX35便で、もうひとり丁寧な物言いをする男、第二級航宙士のエーディク・スタリコフだった。

「いったい何だ」

『僕、YX35便を降りたいんです』

 レイは思わず、ユナと顔を見合わせた。

「今どこにいる」

 眉をひそめて、エーディクの声に耳をすます。

「わかった。【航宙局】の登録課だな。すぐ行く」



 航宙局のロビーで、エーディクは思いつめたように唇を真一文字に結んで、レイに訴えた。

「僕も、航宙大学に入って、第一級ライセンスを取りたいんです」

「急な話だな」

「そうです。今回ランドール・メレディスといっしょにYX35便に乗り組んで、急に決めました」

 エーディクは、ぐいと身を前に乗り出した。

「一年前キャプテンと僕が負傷して、ランドールが臨時に操縦したときがありましたが、あのときとは、まるで別人でした。これが一級航宙士と二級航宙士の差なのか、正直ひどいショックでした。でも、シップを降りるとき、もう心は固まっていました――僕も、こうなりたいと」

「だが、きみはあと二年火星定期航路に乗り組めば、無条件で一級の受験資格が得られるんだぞ」

「それまで待てません。もし、この休暇を利用して今すぐ航宙大学に入学すれば、四ヶ月も早く受験資格を得られます。そして、もしランドールと同じく一年で全過程を終えれば、一年四ヶ月だ。僕は必ずそうしてみせます」

 興奮して生き生きと話す金髪の青年に、ユナは感動を覚えた。性急で、未熟で、それだけひたむきに、未来を自分の手につかみとろうとしている。

 常にパーフェクトで、落ち着きはらって、すべてのものを自分の掌中に収めたレイとは、あらゆる意味で対照的だ。

 知らず知らずのうちに、ランドールのことを思い起こす。彼も最初に出会ったとき、こんな紅潮した顔をしていた。雨の中、泣きそうな表情で彼女を抱きしめ唇を奪った。卒業舞踏会では、まじめくさった仕草でダンスに誘った。

 熱に浮かされたような目で彼女を見つめながら、「愛している」と言った。

 ユナはそこまで考えて、あわてて頭の中から回想を追い払った。レイの間近でランドールのことを考えるのは、ひどい裏切りだと思えた。

 夫の背中は、重大な決断をしようとする緊張をまとっていた。ラフなセーター姿なのに、まるでプルシアン・ブルーのユニフォームに身を包んでいるがごとく見える。

「わかった。今すぐに、航宙大学の入学手続きをしよう」

「ほんとですか!」

 エーディクは、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。

「そのかわり、必ず戻ってきてくれよ。YX35便がスクラップになる前にね」

「もちろんです、キャプテン。ダメと言われても、必ず帰ってきます」

「ここからでも、すべての手続きが可能なはずだ。まず受付に理由を話して、コンピュータブースを借りよう」

 レイの頭の中は、なすべき手順のすべてを組み立てるために、すでにフル回転しているはずだった。妻のほうに振り返りもしない。

 ユナは彼の邪魔をすまいと、そっとロビーを後じさりして、観葉植物の陰のソファに腰を落ち着けた。

 まだ今日という一日は、たっぷりある。苛立った素振りをして、せっかくの休暇の初日を台無しにしたくはない。

 ユナは、ほうっと背もたれに身を預けて、目を閉じた。



 いつのまにか眠ってしまったらしい。

 はっきりと頭が覚めたとき、ユナはレイに手を引かれて立ち上がるところだった。彼らはロビー奥のエスカレータに向かった。

「エーディクが恐縮していたよ。奥様を待たせてすみませんと」

「入学の手続きは無事に終わったの」

「ああ、さっそく明日、寮に入って、そこから大学に通うと言っていたよ」

「そう、よかった」

 ユナは夢見心地のままエスカレータで上の階に運ばれながら、ドーム状の天井に次々と現われるホログラフィーを眺めた。

 宇宙史を描いた、有名な画家の手になるホログラフィー。航宙局の名物のひとつだ。

 二十世紀半ばに打ち上げられた最初の人工衛星スプートニク一号から始まり、アポロ11号の月面着陸、十二カ国共同国際宇宙ステーションの建設。マルス2014の火星着陸と百年にわたる火星移民開始。有人木星探査。木星調査移民団の悲劇――。

「私たち、今どこへ向かってるの?」

「ああ。ついでに受付に頼んで、ブリーフィングルームを借りたんだ」

「ブリーフィングルーム? どうして?」

 「見ていれば、わかる」と言いながら、レイは広い会議室に入り、座席の真ん中にユナを座らせると、自分は高い講壇に立ち、正面の発光パネルのスイッチを次々と入れた。画面には鮮やかに青い地球の3D映像が投影された。

「さあ、どこにする?」

「どこって?」

「決まってるじゃないか。僕たちの旅行の行き先だよ」

「ええっ」

 ユナは席でのけぞりそうになった。

「さっき、エーディクと入学手続きをしていたあいだにも、タオを皮切りに、ひっきりなしにYX35便の連中たちから通信が入ったんだ」

 レイは憤懣やるかたないといった調子で、講壇のコンソールに触れていく。

「四ヶ月も家にくすぶっていたんじゃ、邪悪なクルーたちの与太話の餌食になるばかりだ。さっさとクシロを逃げ出すに限る」

 彼のことばのあいだにも、正面パネルは世界中の観光地の景色を次々と映し出した。

「さあ、奥様はどこがお好みだい。タージ・マハルもいいが、アンコール・ワットも捨てがたい」

「ま、待って。レイ」

 ユナは、悲鳴をあげた。

「旅行の行き先を決めるために、航宙局の特大ブリーフィングルームを借り切ったというの?」

「そうだよ。どこが悪い?」

 レイは、平然と答えた。「これほど周到な準備が必要なプランはないだろう。なにしろ、レイ・三神夫妻の記念すべき初めてのバカンスなんだから」

「あきれた」

「そうだ。いっそのこと二ヶ月くらいかけて、世界中回ってしまうという手もあるな」

「まさか! 二ヶ月も休んだら私、管制官を首になってしまうわ」

「親戚が全員死んだことにしても、無理だろうな」

 ふたりは、何がそんなに可笑しいのだろうと自分たちも訝るくらい、笑った。

「ねえ。ユナ」

 講壇を降りてきた夫は、隣の席に座り、彼女をすっぽりと抱きしめた。

「今どれだけ僕が幸せか、わかるかい。一瞬一瞬が宝物みたいで、ホログラフィーにして飾っておきたいくらいだ」

「私もよ、レイ」

 ユナは、レイの胸で何度も何度も彼の香りを吸い込んだ。「このまま、こうやって一生あなたのそばにいられたら、ほかに何もいらない」

「同感だ」

「休暇が終わったら、私も火星へのフライトに、ついていけたらいいのに――」

 そう言いかけて、口をつぐむ。四ヶ月の休暇の最初の日に、それが終わるときを恐れて震えるなんて、馬鹿だ。

 レイはくすりと笑って、ユナの背中をあやすように叩いた。

「きみがYX35便に乗り組んでしまったら、どこのギャラクシー・ヴォイスの持ち主が『ボン・ボヤージュ』と言って送り出してくれるんだい? いつも北橋管制官のダミ声を聞かされて宇宙に飛び出すのは、ごめんだな」

「ふふっ」

 不安を癒すようなレイの明るい調子に、ユナもつられて笑顔を浮かべていた。

「そう言えば私、いつかあなたと行ってみたいと思っていたところがあるの」

「どこ?」

「ハンガリー。あなたが育った村よ」

「あそこかい?」

 レイはすっとんきょうな声を挙げた。「掛け値なしに、何にもないところだぜ」

「そこがいいんじゃない。都会の喧騒を離れて、田舎でのんびりと何もせずに過ごすなんて、最高のバカンスの過ごし方だわ」

「きみは都会育ちだから、あんな十九世紀に取り残されたような村には二日といられないよ」

 レイが露骨な反対口調なので、ユナはますます乗り気になってしまった。

「キャプテン・三神が幼少期を過ごした場所を、妻として見ておきたいの。どんな伝説が聞けるかしら。ガキ大将で、いつも近所の家のガラスを割って怒られていたなんて、ありそうな話だわ」

「初恋が小学校の美人教師で、彼女が辞めたあとに恋しさ募って、三マイル離れた家までバラの花を持って歩いていったとかね」

「それ、本当のことなの?」

「まさか。僕の小学校の先生は、七十歳のおばあちゃんだったよ」

 レイは大袈裟なため息をついた。

「なんだか、きみに思わぬ弱みを握られそうで、あまり気はすすまないけどね……オーケイ。次の週末は、ハンガリーに行こう」

「うれしい」

 妻を助けて座席から立ち上がろうとしたとき、また通信機が鳴った。

「まただ。今度は……YX35便の誇る優秀な通信士からだ」

 うんざりした調子で機械を耳に当てると、レイの表情が瞬時に硬いものへと変化した。

「チェン、落ち着け。……彼女がどうしたって?」

 通信機を下ろしたとき、彼の眉根に刻まれた皺は消えないままだった。ユナは、何か不吉な突発事が起きたことを感じ取った。

「すまない。今からチェンのところに行ってくる。――ロロが病院に担ぎ込まれたそうだ」





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