桐堂亜衣の回想記録 黄昏編
首に巻かれたチョーカーを、リンと揺らす。
飾り気などほとんど無い、ただただ真っ黒なチョーカーだ。ワンポイントにつけられた鈴がどことなく首輪っぽさを演出している。
否、これは首輪である。まごうこと無く首輪である。
「あれ、亜衣ちゃんがチョーカー巻いてる。アクセサリーとか付ける人だっけ」
「違うよ里子、これは首輪。隷属の証だよ」
「ああ、なるほどー」
納得されてしまった。里子は私をなんだと思ってるんだろう。
時間は朝の7時前。朝も食べずに逃げ出してきたので、いつもより1時間以上早い登校だ。
特に学校に用事があって早く来たわけではない。ただ、あの家には1秒でも長く居たくなかった。それだけだ。
「ところで里子、なんでこんな時間に学校にいるの?」
「そこに亜衣ちゃんがいるからだよ」
「理由になってないよ、里子」
「愛は不可能を可能にするのです。亜衣ちゃんだけに!」
里子の襟首を掴んで引きずり、教室の外にポイする。うん、今日も清々しい朝だ。
「ゆ、友愛だからね……。私は、のーま、る……」
「それだけ言うために戻ってきた里子の根性を評価してあげたい」
「ならご褒美にぱんつちょうだい!」
里子の襟首を掴んで引きずり、窓の外にポイする。うん、今日も気持ちいい朝だ。
始業時刻まではまだまだ時間がある。誰も居なくなった教室、1人机に突っ伏して、私は昨日の放課後からのことを思い返していた。
*****
東雲先輩と隷属契約を結んだ後、普段の数倍虚ろな瞳で教室に戻ると、里子が凄まじい勢いでペンを回していた。
彼女には修業癖があって、突然何かを極めだすことがある。今日はペン回しのようだ。両手の指が竜巻のように回転し、教室につむじ風を巻き起こしている。
扇風機みたいで涼しい。
「まだ帰ってなかったんだ、里子」
「亜衣ちゃんを置いて帰るわけないじゃない」
「その心は」
「担任から伝言。『4時から補修するから残っとけ』だってさ」
ペンを回す指を止めること無く、里子は答える。ケータイを開いて時間を確認すると、時計は午後の6時を示していた。
「……その伝言、いつ頼まれたの」
「昼休み、亜衣ちゃんが保健室に行ってすぐ」
「だめじゃん」
「担任、すっごい怒ってたよー。『ドレッドノートを轟沈させてやる』って何のこと?」
「……」
深く考えるのは止めておこう。なんかもう、今日はふんだり蹴ったりだ。
「私は帰るけど、里子は?」
「んー、もうちょっと」
「そっか」
ギャリリリリリリと硬質な音を立てて里子はペンを回し続ける。あまりの速さに両手にはバチバチと稲妻が走り、ペンは真っ赤に赤熱していた。
試しに教室の床に落ちていた消しゴムを投げてみると、ペン先に触れた瞬間粒子に分解された。
……。
今日の里子には近付かないでおこう。
*****
里子と別れて十数分後、私はローファーを持って中等部への渡り廊下を歩いていた。
理由はひとつ、鬼だ。羅刹と化した担任が、校門前で紅炎を纏って仁王立ちしていた。見つかったが最後、瞬く間に轟沈されてしまうだろう。
幸いなことに、我らが雨城学園は小中高大を内包するマンモス校だ。登下校時の混乱を避けるため、校門は東西南北に設置されている。靴を持って他の校門を通れば担任の目をくぐることはたやすい。
そんなわけで数カ月ぶりに中等部の廊下を踏むと、弟子に抱きつかれた。
「ししょー!」
「おわっ、と。なんだ、萩月ちゃんか」
「この背中、この香り、この抱き心地……。さては師匠はお師匠ですね!」
「意味がわからないよ萩月ちゃん。いいから離れなさい、歩きにくい」
「ああん、もうちょっとぉ」
なおもすがる萩月ちゃんの襟首を掴み、べりっと引き剥がす。
鬼霧萩月。一年下の後輩で、私の弟子だ。
その昔、困っていたところを保護したら懐かれた。面白がって弟子にしたらもっと懐かれた。懐いて懐いて懐きぬいて、今では顔をみるやいなや抱きついてくるほどだ。
ふっくらした頬にぱっちりした瞳。幼さとあどけなさを多分に残す童顔に、二本の尻尾を擁したヘアースタイル。そして何より特筆すべきは、他の追随を許さない140台という中等部屈指の低身長だ。
ツインテ童顔ロリ。これでもかと言わんばかりのド直球ロリだ。変化球というのは直球があるからこそ輝くということを、萩月ちゃんはよく分かっている。
萩月ちゃんの顎をくすぐってから歩を進めると、萩月ちゃんは私の隣にぴったりとついてきた。
「久しぶりだね、萩月ちゃん。今日もロリロリしくて何より」
「はいっ、お久しぶりですししょー! お体の方はもう大丈夫なんですか?」
「体って何のこと?」
「ほら、師匠ここんとこ休んでたじゃないですか。過労でしたっけ?」
「あー、そういえばそんなこともあったね。1日が長すぎて忘れてた」
「何言ってんですか師匠、1日は今日も明日も24時間ですよ」
「10億年後には30時間になってるよ」
「マジですかししょー! やった、10億年したら忙しい朝もゆっくり寝れます!」
「その頃には永眠してるって」
萩月ちゃんは10億年も生きるつもりだったらしい。なんとなくだけど、萩月ちゃんなら不可能ではない気がした。
「それで、ししょーは何の用で中等部に?」
「萩月ちゃんに会いに来たに決まってるじゃないか」
「えへへー、師匠に口説かれちゃいましたー」
「口説く前から口説かれてどうする。萩月ちゃんは仁介待ち?」
「はいっ! 仁くんももう少しすれば来ると思うんですけど」
「萩月ー! 遅くなってごめ――げっ、桐堂先輩」
噂をすればなんとやら、待ち人来たれり。
私の周りをちょろちょろしていた萩月ちゃんは、現れた仁介のもとにたたっと駆け寄っていった。
「久しぶり、仁介」
「何しにきたんすか、桐堂先輩」
「ひ・さ・し・ぶ・り、仁介」
「……お久しぶりです」
「よくできました。ご褒美に飴ちゃんをあげよう」
「いらねーっすよ!」
全力の上投げで放った飴を、仁介は片手でばしっと叩き落とす。地面に落ちる前に萩月ちゃんがスライディングで回収した。食べ物を粗末にするのは良くない。
宮代仁介。萩月のパートナーで、私の二番弟子だ。
その昔、萩月ちゃんを通じて知り合ったら嫌われた。面白がって弟子にしたらもっと嫌われた。嫌って嫌って嫌いぬいて、今では顔をみるやいなや警戒されるほどだ。
仁介は閉じられた目のまま渋面を作り、こころなし白杖を握った。
そう、仁介は目が見えない。いつ頃から目が見えなくなったのかは知らないけれど、私と出会った時には既に白杖を握っていた。
しかし仁介はどういうことか目を開かないままに物を見る。矛盾しているようだけれど事実なのだから仕方がない。おそらく心眼の使い手か、そうじゃなければ妖怪の仲間だ。
「あ、あははは。そうだ、ししょー! 見ましたよー、大活躍でしたね!」
「萩月ちゃん萩月ちゃん、主語と述語しか無いよ」
「ですから、ロシアン・ルーレットですよロシアン・ルーレット! ししょーがガッコンガッコン引き金引くたび、ドッキドキだったんですから!」
「へ、見てたの? どうやって?」
「テロリストの人がテレビ設置してったんすよ。桐堂先輩は気づいてなかったみたいっすけど、ずーっと全校生中継されてましたよ」
「おおう……」
衝撃の事実に、歩きながら天を仰ぎ見る。隠し撮りとは趣味の悪い。変なところ映されてないといいけど。
「それ、何処まで映ってたの」
「それはもう、師匠の鼻血噴出超お宝ドスケベ映像が大流出でした!」
「萩月ちゃん、君本当に平成生まれ?」
「そんなもの映ってなかっただろ、萩月。桐堂先輩が白い服着た覆面の男と廊下歩いてるトコから始まって、生徒会室で虎の面被った女の人に銃突きつける所までっす」
「それですそれ! ししょー、銃を突きつけた後どうしたんですか? 撃ったんですか、決着はどうなったんですか?」
銃を突きつけたところで終わったということは、私が生徒会室の壺を割ったことは全校生徒には知られていないようだ。誰の手回しかは分からないけど、助かるには助かった。
「試合に勝ったけど勝負に負けた、ってとこかな」
「へ、それってどういう――」
「ほら、もう玄関だ。またね、萩月、仁介。あ、そこ段差あるから」
「桐堂先輩に心配されなくても、こけたりしねーっすよ」
「なんかはぐらかされたようなー?」
「気にしない気にしない、じゃあね」
2人を置いて、一足先にローファーを履く。玄関から躍り出ると同時に全速力で駆け抜けた。
校門まで後少しという距離で気炎を纏った担任に見つかったけれど、直角に曲がって腕をくぐり抜ける。そのまま壁に向かって直進し、三角飛びの要領で一足に飛び越えた。
「なんであの人、病み上がりなのにアクロバット繰り広げてんだよ」
「んー……、師匠だから、かな?」
「わけわかんねえよ」
「わけわかんないね」