第二話 直前
天気は時間が経つにつれて回復していった。窓際一番後ろの俺の席からは、重苦しい雲が流れていく様がばっちり確認できる。昼休みになる頃には快晴と呼んでも差支えないくらいの空模様になっていた。それが何なんだって話だが、曇ってるよりはずっといい。
「どーしたのヒロ、アンニュイに外なんか眺めちゃって。思春期?」
「いや思春期関係ないから。空見てただけ。どうでもいいじゃん、弁当食べようぜ」
「むぅ、私は元々そのお誘いに来てたんだけど? まーいいか」
少しだけ不満そうにしながらも、話しかけてきた少女は俺の一つ前の席に座ってこっちを振り返った。ショートの黒髪が風に吹かれて軽く舞い上がる。
教室で堂々とこんなことやってたら好奇の視線が集まりそうなもんだけど、みんなもう慣れたのか特
にざわめきとかは起こらない。ちゃんと知ってるんだ。
俺とこの少女――榎本紗希はただの腐れ縁、小中高でことごとく同じクラスだから仲が良いだけだと。別に付き合ってなんかいないし、未来にそうなる予定なんかあるはずもない、お涙頂戴な悲しい奴らなのだと。
「……何か悪意を感じるんだけど?」
「気のせいだ」
榎本はいわゆるクラスの中心で、顔もスタイルも頭も運動能力も学年トップレベルという完璧さを誇る。……誇る、とは言ったがそれは言葉のあやってやつで、彼女の自慢を決してしないさばさばした性格が周りから好かれる理由の一つなのは疑いようもないだろう。地球が太陽の周りをぐるぐる回ってる、ってのと同じぐらいの確実性だ。
お互い同性の友達だっているのに自然と集まるのは、もう体に染み付いた行動だからなのかも知れないな。腐れ縁――吸引力の変わらないただ一つの人間関係。逆らおうと思っても逃れられないから腐れ縁なんだ。
榎本は机の上に購買印の菓子パンを次々と展開していく。いつもはギリギリに来てるはずなのに、朝イチで並ばなきゃ買えないと噂の栄名自家製焼きそばパンまであった。無駄に良い具材を使っているそのパンは十円割り引くと赤字になるらしい。脅威の原価率九十パーセント越えはおばちゃん渾身の一作だ。
「いいでしょ? 伝説のパンだって聞いてて、卒業するまでに一回食べてみたかったんだ。校門が開く前からずっと待ってたんだから。……あ、あげないよ?」
「いや、そんなに物欲しそうな目してたか? 見てたのは認めるけどさ。ていうか榎本、そんなに食べて大丈夫なのか?」
パンを全て吐き出した紙袋には五九〇円と乱雑な字で書かれている。購買のって一つ百円ぐらいだと記憶していたんだが。育ち盛りな野球部男子か。夢にときめくのか榎本。
「……そういうの、あんまり私以外の人には言わない方がいいと思うよ? それに私だって一応は――」
「マジでっ? ひょー、すっげーなお前。どうやって手に入れたんだよこのスキル!」
微妙に複雑な表情の榎本が何か言おうとするのを遮り、教室内でひときわ大きな声が木霊した。みんなの視線を一瞬独り占めした男どもはそれに気付いたようだが、ちょっとトーンを落としただけで性懲りも無く続ける。
「それがさあ、分っかんねえんだよ。でも自然発生とかもあるんだろ? 多分そんな感じなんじゃねえの。ハッハッハ、これからは余の時代じゃ!」
「うわ、いいなー。俺なんて最初から入ってるスキルしか持ってねえもん」
「それは逆に運悪すぎるだろ? 普通に使ってりゃレベルアップくらいはするよ、うん。全然珍しくないし。ホントに」
「……マジ?」
黒板の近く、つまり俺たちからは大分離れた所で三人の男子生徒がやたらと盛り上がっていた。得意気な奴と、羨ましそうにそいつを見てる奴と、本当は興味あるのに〝普通だろ〟みたいな反応してる奴の三人は教卓に並べたケータイを囲んで話をしているらしい。……うるせえ、と思わないこともない。何が悲しくて野郎の声をBGMに食事をせにゃならんのだ。
「最近の機種って全部スキルに対応してるよね。私は今のところ〝索敵〟くらいしか使えてないけど、新しいのが開発されればもっと便利になるかも、とか」
榎本はあまり関心のない様子でハンドメイド焼きそばパンにかじりつき、頬をほころばせている。ほぼ同感だ、昼めし優先。
スキル――それは、三年ほど前からじわじわと広がり始め、今や日本中(世界中だったかも知れない)に認知されている、ケータイを使用した〝便利ツール〟だ。写真なんかと同じように手に入れたものを溜めることができ、選択することによって発動する。
どういう仕組みなのかは公表されていないが、肌に触れているときしか使えないっていう制約があるから、きっと電気がどうとか脳波がどうとかいう話になってくるんだろう。その辺は全くもって管轄外、専門家に訊いてくれ。
「なあこれ使ってみてよ! フォルダの文字だけ眺めてたってつまんねえじゃんか! トライしようぜっ」
「OK。じゃあちょっと後ろ向いてろよ。発動したときにこっちを見てた奴には効果ないみたいだからさ」
今では携帯電話のデータフォルダ内にある〝ピクチャー〟や〝ミュージック〟みたいな項目の次くらいに、〝スキル〟が当たり前に並んでいるのだ。最近流行りのスマートフォンでもそれは同じで、一種のアプリのようにして使用できる。
「〝雲隠れ〟発動」
ちなみに声を出す必要性は一切ない、と言い添えておこう。
でもしょうがないからそれは置いておくとして。律儀にも瞑っていた目を開いた俺は、彼がどうして自慢したがっていたのかを強制的に思い知らされることになる。
「え、おいどこ行ったんだよ? ってまさかこれがスキルの力なのかっ! ヒュー! 良く分っかんないけどヒュー! 何それ全然俺らよりレベル高いんですけど!」
「いや、だからお前と一緒にすんなって。ふ、普通だろこんなん」
いないのだ、どこにも。
まるで存在そのものがかき消えてしまったかのように。
俺が知らなかっただけで、スキルはここまで進化していたのか――?
「いや、まあちょっとの間だけなんだけどさ」
――ちょっと、いや大分がっかり。十秒にも満たない、およそ長いとは呼べない時間が過ぎただけで彼は姿を現してしまった。元々消えていたわけではなく、他の人の意識を発動者から逸らしていただけらしい。そう、
三年前と比べれば確かにスキルの性能は上がったが、まだ実用段階に至っているものはほとんどないのだ。〝逃げ足〟とか〝反・高所恐怖症〟なんて、あったところで社会が変わることは多分ない。利用価値のありそうなモノなんて、それこそ榎本の言っていた〝索敵〟くらいだ。あれはしっかりストーカーの激減に効果を上げている。今でもストーキング中な強者はほとんど電波妨害ができる大型の装置を持ち歩いていて、だからあっさりと捕まっちまう。きっと馬鹿なんだろう。
ま、要はそんな簡単に男の夢は実現できないってわけだ。透明人間になったらやってみたいことナンバーワンのあれとか、それとか。到底無理な願望はさっさと諦めて、夜に見る夢の中だけで楽しめって話さ。なあフロイト先生?
「でもやっぱり、だんだん進んではいるみたいね。私が学生の内にもっと面白いスキルができたら楽しいんだけど」
「たとえば?」
「……何かその、気化するとかそういう感じの」
「……一応訊くけど、気化の意味分かってる? ……したいの? 気化」
「スルーして欲しかった……」
恥ずかしいときに少し耳たぶの辺りが赤くなるのは榎本の癖――体質?――で、今はまさにそんな感じだ。そのまま勢い良く散らばったパンの袋の上に突っ伏してしまう。いつの間に食べ終わってたんだこのお方は。他クラスメイトたちのスピードを逸脱してる。
――男子三人組は未だに興奮冷めやらぬ様子で喋りまくっているが、スキルってのは所詮その程度のものでしかない。暇な中高生の遊び道具。開発チームの面々は壮大な野望を抱いていても、実現されてないんだからそうとしか言いようがない。冷淡な評価に聞こえるがな。
そう、実際のスキルは俺たちの期待を遥かに下回ってたんだ。
期待が大きすぎた、というのはある。まだ開発段階だから、というのもある。だけどそれにしたって使えない。
少なくとも、俺はそう思っていた。
ありがとうございます