第一話 日常
田舎とも都会ともとれるような、発展度が微妙な土地。それがここ、栄名市だ。
東京都心へのアクセスは電車で一時間ないくらいで、ベッドタウンとしてはギリギリ機能する距離だろう。上手く乗り継げばもっと早く到着できるそうだが、そんな魔法みたいなルートは徒歩通学の高校生に理解できるはずもなく、だからいつまで経っても東京は遠い存在である。
俺、柴田浩明は曇天の空の下、そんな街にある学校への通学路を全速力で突っ走っていた。
理由は単純明快で、今朝リビングに下りてくるまでに色々と無駄な時間を使ったせいか遅刻しそうだから。陰気な担任が唇をつり上げて嫌味を吐き続ける様が目に浮かぶようだ。……皆勤賞なんていう紙切れに未練はないが、あれは断固拒否したいね。敬虔なクリスチャンでも殴りたくなるに違いない。
快調に流れてゆく景色の中には住宅からコンビニ、喫茶店やどこかの企業のビルなんかも無秩序に点在している。いわばカオス。ガキでも計画性のなさを感じ取るぐらいだから相当なもんだ。ただ住み慣れてしまえば意外と便利だったりもするのが不思議なところで、今ではこんなしょぼい街なのに愛着すら感じる。住めば都ってやつか。
走っているうちにどんどん気分が高揚する。それにつれて速度も上がっていく。
だから、少し周りが見えなくなっていたのかも知れない。
「ねえキミ。ちょっとお願いがあるんだけど、止まってくれないかな?」
――そいつは。短距離走者並みのスピードを出している俺に平然とした顔で歩調を合わせながら、そんなことを言ってきた。
驚きつつも足を止め、軽く汗を拭ってから横を窺う。
簡単に言えば、アヤシイ人間だった。
年齢的には俺とそう変わらないくらいで、多分男……だと思う。だが割合に中性的な顔立ちだし、ぶかぶかのキャップを深く被ってるから瞳が隠れていて、女子だと紹介されれば普通に信じられるだろう。何故かどこにも接続されてないヘッドフォンが首から下がっている。
「ありがとう。ねえ、その制服着てるってことはキミ、そこの高校の生徒さん?」
「へ? ……ああ、うん。そうだけど」
「良かった。多少の誤差はあるけどそれなら推定範囲内だ。向こうも誤解してくれるだろうし、これで逃げ切れる」
「……?」
その少年(多分)は頬を緩めると、呆ける俺に構わずいきなり意味不明なことを喋り始めた。何を言ってるのかは分からないものの、とりあえず俺の脳みそからは延々と危険信号が送られてくる。
――電波系? 常人は関わらない方が良いっていう、あの?
その生態を詳しく知っているわけではないにしろ、とりあえず厄介ごとに巻き込まれるのだけはごめんだ。面倒臭い。すぐにでもこの場から立ち去りたい。
そう思っているのに、何故か俺はこの場所から離れられなかった。
「ああ、ごめんごめんこっちの話。それで、そう、キミにお願いがあるんだ。簡単なんだけど、ボクにとってはすごく大事なこと。
今日だけでいいから、ずっとこの辺りにいてくれない? 学校に行くのも遊びに行くのも全然構わないから、遠くには行かないで欲しいんだ。例えばこの市の外とかは」
彼はそこで言葉を切って、両手の人差し指を唇の前でクロスさせる。俺の返事を待って小首を傾げながら。そんな仕種までいちいち女子っぽい気も――いや、だからと言って魅力を感じるとかじゃないからな。そこまで飢えちゃいない。
で、本題だ。
やっと落ち着いて頭もそこそこ回るようになったが、それでも少年の意図は掴めない。
言う通りにするのは確かに簡単である。要は放課後とっとと家に帰ればいいってだけだ。だが何でそんなことをする必要がある? どうして初対面の俺にそれを頼む?
その辺の説明が抜け落ちてやしないか。
――でも、どうしたって俺は〝お願い〟って言葉に弱い。
「分かった。ここにいるだけでいいんだよな?」
少年の顔に小さく安堵の表情が浮かんだ。心の底からほっとしたような溜め息。
「うん。感謝する。いつか必ず借りは返すから。
じゃあ……頼んだよ?」
そして俺の肩を軽く叩くと彼は、さっきとは逆の方向に歩いていった。
何だったんだ、今のは? 急激な脱力感に襲われる。都会だとああいうのが流行ってるんだろうか。……あんまり理解できない、と言うかしたくない。
今確実に分かっているのは、残念ながら俺が始業時間に間に合うことは絶対に有り得ないということくらいだった。
*
「この学校で誰よりも偉くなったようだな柴田。十五分遅れとは随分と重役出勤じゃないか。でも先生の構成物質は基本的に優しさだから、弁解とかあれば聞くよ? 何か言ってみたら」
案の定捕まった。
市立栄名高等学校――全校生徒二千人弱、街で唯一の高校だったりするこの学校だが、金持ちお爺さんの屋敷と廃工場と消防署に囲まれるという呆れた立地を有している。どんな街づくり計画をしたらこうなるのかむしろ疑問なくらいだ。……ちなみに裏の工場はすでにタイマン専用の空間に成り果てている。そして怪我したら隣から救急車が飛んできて、入院費はいつも〝漢〟を語りたがるお爺ちゃんが出してくれるわけだ。
異常な配列であろうDNAを受け継ぐ市長の家系が生み出した奇跡のアフターケア体制だが、まあ今のところその用途で使われたことはないらしい。平和バンザイ。だからこの状況も平和裏に切り抜けたいんだが、
「……えっと、朝起きたら熱があって、医者に寄ってきたりしてたんで」
「ああそうそう。言い忘れてたけど、遅刻したのに面白い言い訳で先生を楽しませようとする努力すらしなかった生徒には極刑を与える場合があるから気をつけて。警告は今したよ。で、何?」
「俺の話聞く気ねえだろっ!? 今すっげえつまんないこと言っちゃったよ? てか何の牽制だよアンタ本当に教師か……」
「ん? 自主退学を希望するなら手続きは済ませてあげるけど?」
授業の始まる少し前、一年二組の教室ではサディスティックな笑みを浮かべた教師が机に寄りかかるようにして俺の到着を心待ちにしていた。すぐさまほとんど一方通行な言葉の応酬。朝だっていうのに、俺の精神力ゲージはきっと赤ゾーンに突入しかけている。
「……いや、このクラスから退学者が出ても面倒だな。やっぱやーめた。じゃあ、今から極刑の内容を説明するからよく聞けよ?」
「おう、そっちはマジなのか……? 極刑、て。これが〝死刑〟とかならアンタの頭小学生レベルだぞ」
「〝死んでもウチの墓には入れてやらねえ〟」
「……鬼か」
人をメンタル面でいたぶるのが趣味なこの先生は里崎智則という。〝とものり〟じゃなくて〝ちそく〟なところがポイントだ。実家がこの近辺にある結構でかい寺で、そこのしきたりとして名前は音読みするんだと。定年になったら親の跡を継いで住職さんをやるらしく、一小市民として大変不安だ。政教のトップがともに変人じゃしょうがない。マジで俺の埋葬がなされなかったときには霊魂になって祟ってやる。
そんな風に理解不能な内面なのに対し、見た目は栄養状態悪いだけの中年って雰囲気だから入学当初の俺は完全に騙されていたわけだ。
「ふっ、これはこの世を上手く生きていくための仮の姿なんだ……」
……そう、里崎は決まった相手にしか嫌味を発動しない。だから、ほとんどの教師、生徒は彼を〝穏やかな良い人〟だと認識してるらしい。女子からの人気も高いとか。なんて不条理なんだセバスチャン。
ふと、頭上で定番のチャイムが鳴り響いた。
「ほら柴田、さっさと授業の準備をしたらどうなんだ? 担当の先生サマが早く授業を始めたがっていらっしゃるぞ。英語だ」
「……引き止めてたのも一時間目の授業担当もアンタだろ」
お寺さんの息子はどういう因果かバリバリの国際派で、八年間の海外滞在経験のある英語教師なのだった。
ありがとうございました